top > 私たちにとって「食」と「農」とは > 第十一 農業経営の問題

第十一 農業経営の問題



**この項の目次**


一 農業経営の特質

農業経営は他産業の経営といくつかの違いがある。それは単に規模というだけにとどまらない。同じ経営という言葉を用いながらもその違いは極めて大きいと言わざるを得ない。

その第一にあげられるのが、自然を相手とするものであるということである。既に「第二 農業の特質」において農業とは自然と人為による「業」であり、自然に大きく依存するものであることを述べた。このことは農業経営の視点からしても同じことが言え、ここに起因する問題もある。

鉱工業や商業は経済の動向に左右される。しかし地震や洪水等といった突発的な災害を除けば、気候等の自然条件に直接左右されることはない。間接的には気候により消費が左右されるものもあるが、これにしても生産そのものが物理的に影響されるわけではない。これらの産業は全てを人が築き上げた技術、機械、エネルギーを利用し、人為的なコントロールの下で管理することができる。

農業は一部には人工光と温湿度管理、水耕栽培という全くの人為的な管理による農業も無いわけではないが、これは例外的な存在であり、ほとんどの農業は多かれ少なかれ自然を相手として成立している。日照、温度、降雨等はビニールハウスや潅水などにより補正はできるにしても多くを自然に頼っていることに変わりはない。自然というものはある程度の予測と前記のような多少の制御は可能であるが、全てを人為で管理できるものではなく、温度や日照等の自然条件に大きく左右されることは言うまでもない。

また、1年を周期とする気候の変動サイクルに沿った生産が余儀なくされるということも農業経営の特質といえる。この点で特に第二次産業のような基本的に気候に左右されない産業とは大きく異なる。このため季節毎の特徴(温度、日長等)と作物のこれらに対する反応とを見極めながら作付けを行い、栽培管理を行う必要がある。

第二には農業は土地を必要とする産業ということである。同じ収益をあげるのに稲作等ではより広く、施設園芸等では比較的面積は少ないとはいうものの相応の土地面積が必要である。もちろん工業や商業でも施設・建物用地としての土地は必要ではあるが、土地そのものが利益を得る源泉ではない。一方で工業や商業では高い収益があるため、土地面積当たりの収益は農業に比べて桁違いに大きい。このため、より高い地価であっても耐えうる。経済的には第二、三次産業が農地を購入して施設を建設して営業することは可能であるが、第二、三次産業が進出したことにより高価になってしまった土地を農業サイドで購入して、ここで営農することは経営的にはほとんど困難である。現在は「農振地域の指定」といった行政的な措置により安易に農地が農地以外の用途に転用されないようになってはいるが、一方では既にこの措置は緩められてきており、今後の経済状況の推移によっては農地が他産業により蚕食される可能性がないとはいえない。

第三には作物の栽培管理から収穫まで多様な技術が複合しており、高い生産性を期そうとすれば、それら多くの技術について高い水準を身につけなければならないことである。他産業であれば要素技術に分解し、社内での分業により対応することも可能であるが、農家ではそれらをほとんど経営主一人ないし家族を含めても数人で対応しなければならない。しかもそれらの技術は地域(気候、土壌、習慣)、作物等により異なる部分が多い。

第四には農業においては他産業ほどに規模のメリットが発揮できないことがあげられる。もちろん規模のメリットが全くないわけではないが、規模を十倍、百倍すればコストはどんどん下がるというものではない。基本的に農産物は土地から得られるものであり、技術向上により単収向上や作業の効率化があるとはいえ、おおざっぱにいえば土地に比例したコストがかかり、土地に比例して収益があがるということになる。

その土地にしても、規模拡大のために土地を入手しようとしても1カ所にまとまった土地は入手しがたい。結果として分散錯圃ということになり、経営効率の向上にはそれほど貢献しない。

また、労働力の面からいっても規模拡大は問題無しとはしない。人間の労力には限りがある。規模拡大により増える労働需要は機械化によってなされる。即ち単に土地だけではなく、多額の機械設備への投資無くしては規模拡大はできない。

酪農等の施設型の経営では施設を全く新しくすることにより、規模を飛躍的に拡大できるものもある。しかしそのためには多額の投資が必要であり、このことによる負債が経営を圧迫している事例は多い。

第五には、多くの生産単位(農家)が分散していることである。これはこれまで述べたこととも関連するが、個々の生産単位を大きくしにくい、また大きくすることにより別の問題も生ずる。歴史的な経緯もあるが、それだけではなく生産単位の分散ということは農業の本質に根ざしている。分散は一つの地域(市町村、集落)レベルで見ても、その中に多くの農家があり、更に同じ作目であっても国内の多くのところで生産が行われている。

農産物の流通に関しても、多くの生産単位から集めて流通に乗せなければならないことから、流通そのものが複雑、かつ長い経路にならざるを得ず、流通コストが嵩むことにもつながってくる。

これらのことから、経済合理主義の考え方からすれば「経営を統合して大規模にすれば良い」との発想につながりやすい。しかし無理な経営の統合・大規模化は別項でも触れるが農業の本質に反することにもなる。

第六には、他産業に比べて資本の回転が遅く、しかも資本額に対する利潤が少ないことがあげられる。また利潤の割合が生産量や生産物価格によって大きく左右される特徴もある。このような低収益・不安定ということは、それまでの農業経営にもまとわりついてきたものであった。戦後は食糧確保の観点から米価も比較的高めに推移することとなった。加えて1961年に制定された農業基本法は規模拡大、選択的拡大により農家収益の増大を期するものであったが、それでも他産業の成長には追いつかず、農家は兼業化へ進まざるをえず、またこのようなことから経営の将来に展望が持てないことから後継者が育たないということに直結した。

第七に、これは農業経営というよりも農業部門で生産された後の流通に関わる問題ではあるが、消費者が食料費として支払う金額のうちの農業の取り分は5分の1以下であるということである。残りは流通、加工、販売に要する経費とそれら部門の利益ということになる。これは工業製品に比べればはるかに低い(流通コストの割合が高い)といわざるをえない。

その理由としては、生産の場と消費の場が離れているということにある。農産物が広い場所(多くは消費地から離れた場所)で生産され、加えて(既に記したように)生産拠点(農家)が多いということである。また農産物はその特質から地域性がある。いつでも、全国どこでもできるものではない。そのため、長距離輸送は必要不可欠になっている。今は、かつてのようにその土地で生産される産物を食べるという状況ではない。また流通経路もかなり複雑なものとなっている。消費者の要望に応えて各種加工もなされる。それらの多くは元来家庭の台所で行われたものである。

これらの要素が複合し、食品のコストを引き上げている。論者の一部には日本における食品価格の高さを農業部門にのみ押しつけようとする向きもあるが、食品価格の8割以上は第2次、第3次産業の取り分であり、価格を下げようとするならば8割はそれら部門で削減すべきであろう。たとえ農業部門において農産物を無料で提供しても、マクロで見た食品価格は2割も下がらないのである。

以上に述べたような特質もさることながら、農業は人間の生命を維持するのに最も不可欠な産業であるということも言っておかなければならない。農業を失ったり、農業が一時的にせよ危機的な状況になることは国民を飢えさせ、国の存立条件を危うくすることになる。

農業に批判的な人々は、このような農業の特質を理解せず、あるいは作為的に無視して論を進める。彼らにとっての農業とは、彼ら流の極端な商工業優先主義、経済における極端な自由主義(一種の原理主義といって差し支えない)の正当性を主張するための一種のスケープゴートなのである。

農業内部においても更なる工夫をこらすことにより、コストの低下を図ることは必要であるが、一方でこのような「農業経営の特質」にも配慮しなければならない。

二 畜産経営の特質

農業全体の特質を前項でとりあげたので、ここでは畜産経営と他の作物経営との一般的な経営体質の違いをあげておきたい。第一に取り上げたいのは、畜産においては畜舎や機械類、家畜といった資本装備が大きいということである。このため、新規入植等で新たに経営を始めようとする場合には水田や畑作以上に莫大な資金を必要とする。また経営を拡大しようとする時や施設を建て替え、機械を更新しようとする時に多額の資本を要するという問題があり、経営の安定的な維持を図る上や、畜産農家以外からの新規参入しようとする時等にこれが障害となっている。また、経営を運営する上で飼料代やもと畜購入費に多額の費用を要するという点である。このため自己資金に乏しい場合には、農協等からの借り入れに依存し、その利払いが経営を圧迫することもある。そしてこのように施設等の資本装備が多額となり、更に経営費にも多くの費用を要するにもかかわらず利益率が低いことである。またこのため、経営が畜産物価格の変動に左右されやすいという弱みがある。このようなことから、経営の安定を図るためには農家自身が経営体質の強化や経営管理能力の向上を図るとともに、これを支援する体制(市町村や農協等)がしっかりしていくことが必要となる。

以上、費用と収益の上での特徴をあげてきたが、このほかに家畜は作物とは異なり、毎日の管理が必要であるということもあげておかなければならない。酪農においては毎日の搾乳が欠かせないし、乳牛も含め他の家畜においても毎日の飼料給与が必要である。畑作や稲作、特に稲作においては年間の繁閑がはっきりしており、田植えと稲刈り以外は除草と追肥、水管理程度であり、毎日つきっきりでなければならないというものでもない。

次に飼料に関してであるが、欧米の畜産は基本的には農家において生産された穀物等のうち余剰分を給与することにより行われ、いわば余剰穀物の「家畜」という形態での「貯蔵」と、これにより付加価値を付けるという性格を有している。(ちなみに家畜のことを英語ではlivestockといい、これは生きている貯蔵物の意味である。)従って欧米の畜産においては飼料は自給するの本来的なありかたである。しかしながらわが国においては北海道等の一部を除いて土地資源に恵まれなかったこと、穀物(米)価格が相対的に高く、かつ米を神聖視する気風があったこと。また濃厚飼料の主原料である輸入穀物が比較的安価に入手できたこと等により、わが国の畜産は飼料の多くを外部に依存するという形態で発達してきた。特に濃厚飼料についてはそのほとんどを輸入穀物に頼っている。このことは飼料価格が安定的に安く購入できれば良いが、世界的な気候変動の影響を受けやすく、常に不安定要因を内に孕んでいることにもなる。土地に結び付いた畜産をどのようにして発展させるかは、わが国畜産に課せられた課題の一つである。

また、畜産において避けて通れないのが畜産環境問題、即ち家畜ふん尿の問題である。家畜を飼うことにより、必然的にふんや尿が排出されることになる。かつてのわが国においては貴重な肥料資源としてこれを利用していた。また、本来的にはこれを土地に還元し、土−草−家畜の中で物質が循環していく形が望ましいが、近年におけるわが国畜産においては酪農経営、肉用牛経営の中でも土地資源を基盤とし、飼料を十分に自給している場合(飼料基盤は即ちふん尿の還元用地でもある)を除いては、河川や地下水の水質汚濁等の問題を発生することがある。また、集落内等においてはこれに加え、臭いや家畜の声が問題となる場合もある。このようなことから畜産経営においてもふん尿処理に抜本的な対策を講ずることが求められたり、あるいは立ち退きせざるをえない事態が生ずることもある。大家畜(乳用牛、肉用牛)においては飼料基盤の確保も含めて、土地との結び付きを強めるとともに、地域の耕種農家との連携を強め堆肥の供給を行う等の方法を検討することが重要である。

三 農山村の問題

農業は地域特に中山間地域の存立の基礎となっているということがあげられる。しかし中山間地農業は平地農業に比べて制約が多い。これは山がちなところに入れば入るほど制約要因は大きくなる。ここでは平坦な地形が求めにくく、また消費地にも遠い。地域振興を図ろうにも中山間地では第二次、第三次産業の立地が困難である。

特に山がちなところでは農業と林業の複合経営が多く行われてきた。林業はいわば長期定期預金である。植樹をし、下草刈りや枝打ちをし、長い年月をかけて手入れをして、木材として売れるようになるのは50年あるいはそれ以上の年月を要する。いわば親が植えた木を子が手入れをして孫が伐採するのである。よほどの大規模林業経営で毎年一定規模の面積を伐採できるほどでなければ林業のみでは経営を維持することはできない。そのため多くの林業経営は農業経営との複合により成り立っていた。

日本の山地は森林に覆われている。かつては日本の木材需要の多くは国内の森林とそこに立地する林業によりまかなわれてきた。第二次世界大戦後、木材需要の伸びに基づき、多くの山林ではそれまでの広葉樹林、広葉樹と針葉樹の混じった林地を杉や檜といった需要の見込める(と当時は思っていた)木の林に替えていった。これを拡大造林といった。

しかしそれらの木が伸びる頃には高度経済成長の時期となり、第2、第3次産業の発展著しく、農山村の人手はより直接的に収入の得られる都市に向かうことになった。そして山林は手入れを十分にされることなく荒れていった。

山村における農業も、経営効率が求められる中では平地農業に太刀打ちできるはずもなく、行政におけるわずかな補助施策があったものの、山村農業を支援するには十分なものではなかった。そしてその農林業でも生活が成り立つ程の収入をあげられるものではなくなった。このようなことを背景にる農山村、特に条件不利地域である山村は農林業共に経営を支えるに十分な収益を得られる条件が失われ、離農、過疎が進行している。放棄された田畑は荒れるにまかされ、それまで管理していることにより保たれていた国土保全能力が次第に低下してきている。また集落が一つなくなることは、そこに維持されてきた村の文化が消滅することでもある。

近年、農林業特に山村地域の環境保全における水田や林地の役割が大きくクローズアップされるようになってきた。しかしこれら機能が十分に発揮されるためにはここにおける農業経営、林業経営が安定的に維持できる条件が不可欠である。

農山村の、特に条件の厳しいところ程その経営を維持するためには大きな努力が払われている。そしてその努力は直接的には自らの経営や生活を維持するために行われているが、その結果は多くの公益的機能(水土保全機能等)を発生させている。直接的にその経営から十分な収益をえられなければ最終的にはそこから発生する公益的機能も無くなってしまう。

また、このような環境保全の観点から農山村をとらえるのはいわば都市の論理でもある。人間はどこにいても、どのような職業についていても、それが社会のためになるのであれば、その努力に見合った収益を得られなければならない。条件不利で直接的な収益が経営を維持するのに不足するのであれば、公益的機能を受益する側は受けるメリットに相当する利益をその機能を発生させる側に供与する責任がある。公益的機能を受益する者が特定されないというならば、行政がそれを行うべきであろう。

都市の人たちはえてして自分の受けているメリットがだれの努力によりなされたかということを認識していない。水は第一には自然の恵みであるが、それを効率的に受け止め水道の蛇口に持ってくるのには主に農山村の人たちの農林業の営みにより維持された林地や農地が重要な役割を担っている。さらには河川の維持、ダム等の取水施設の建設や維持、取水から吸水に至る水道事業という多くの人たちの努力がそこにある。

「かけ声」としての農山村の重要性は都市住民の間にも聞かれるが、真に国民の意識となり、実際に実効的な施策として現れるには至っていない。また、ともすれば環境保全のかけ声は強いものの、そのためには具体的にここにおける農林業の経営の安定をどのようにして確保するのかという具体策が欠けているように思われてならない。単にばらまき的な補助金を出せば済むという問題ではない。第一には山村地域で農業、林業経営が安定的に成り立つための諸条件がなければならない。十分な収益がそこから得られるか、もし得られないとすれば何らかの所得補償がなされなければならない。また地域の社会的条件がきちんと整備されていなければならない。

都市の人たちの中には農山村の重要性を口にしても、自らそこに住もうという人はほとんどいない。即ち、都市の人たちでさえそこに住もうという気を起こさせる状況になることが農山村、特に条件不利地の課題である。

四 都市農業の問題

ここでいう都市農業とは都市住民の生活空間に隣接し、日常的に都市住民の目に触れる状況にある農業である。それは時に一種の緑の安らぎを与え、野菜等が身近に生産されているという安心感を与える。しかし人によっては「農地をつぶして住宅やビルを建てれば農業よりも儲かる」と考える。

そこには農業者側の問題と、都市住民側の問題がある。農業者側でも十分に都市住民の理解をえるようにしてはいない。また必ずしも農業者が思っているように都市住民は農業を理解しているとはいえない。都市住民の考える農業と現実の農業の差もそこにはある。

都市住民の中には有機農法等に関心を寄せている人も多い。これらの人々は今後の農業の応援者でもある。しかし、それらの人々の多くは農業の実体を知らず、性急に有機農法、無農薬栽培を求める場合が少なくない。作物は人間にとって美味であれば害虫にとっても美味であるのだ。

@(以下未執筆)


「第十二 農業の健全な発展を」へ

(目次へ)