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第十 農業を巡る社会情勢


**この項の目次**


一 現代における「食」

日本の農業をめぐる問題は、私たちの生活に占める食料品の比重がかってない程に小さくなったことと無縁ではない。それは、単に日本経済に占める農業の比率が少なくなってきたことだけではない。消費者の食や農に対する意識にも大きな影響を及ぼしてきている。消費者の意識の変化は農業にも大きく影響する。

戦後の日本は、かってない程の経済水準、生活水準の向上を経験してきた。生活水準が向上したところで、人間が食する量はそんなに増えるものではない。それまで十分ではなかったものが、十分に食べられるようになっただけである。しかし量的にはそれ程増えなくても、質的には大きな変化を示した。栄養面を見ても、かってのでんぷん偏重から脂肪、蛋白質も十分にというようになった。畜産物の消費も多くなった。

また、我々が食に求めるものも大きく変わってきた。食事には栄養摂取の面以外にも、精神的にも活力を奮い起こす場や日々のやすらぎの場という役割もある。朝食の中から、その日一日の生活や仕事等に対する意欲がわき、夕食においては疲れた心や体を癒す。「同じ釜の飯」という言葉からもわかるように、他の人……家族や知人、仕事の関係等々……とのコミュニケーションの役割もある。また、美味しい料理や、新奇な料理を食べたい、あるいは雰囲気のよい所で食事をしたいという娯楽に近い要素もある。さらには高価な食事をとることにより、自らの地位や財力を自己確認して満足感を得るとともに、他人に誇示するステイタスシンボルとなることもある。

かっての日常の食事は、栄養摂取に加えて家族のコミュニケーション及び精神的な活力奮起や癒しの場というのが主たる役割であった。しかし今日においては、これらの基本的な要素も当然あるが、場合によってはこのこと以上に娯楽として、自己満足やステイタスシンボルとしての要素が大きいこともある。

このように食事の意義の変化は、多方面にわたって影響を及ぼすこととなる。食事が娯楽であるならば、高価な料理、シェフや板前の腕の冴え、その場の雰囲気が大事になってくる。食事がこれまで持ってきた基本的な要素は相対的に小さいものとなり、そのことに対する関心も薄らいでしまう。料理の材料についても、それが高級なもの、珍奇なものであればそれなりに興味を引こうが、基本的にそれが自然の恵みであり、農の恵みであることについて気づくことは少ないであろう。

高級な、あるいは新奇な食事はそれを作る材料なり技術を要する。これは、プロフェッショナルとしての職人のいない家庭には、なかなか求められないことである。場の雰囲気にしても然りである。非日常性を楽しむ場を、日常性のただよう家庭に求めることはできない。ましてやステイタスシンボルとしてならば、高級で、いかに金がかかっている食事であるかということを、自分で、さらには他人に認知してもらうことが必要となり、その場としての高級料亭・レストランが必要となる。

このような多くの理由から、食の高級化は必然的に外部化を伴う。都市においては、かなり高級な料亭なりレストランなりが繁盛している。超高級とまでいかずとも、これに準ずるレベルの店もけっこう若者でにぎわっている。

食の外部化には、もう一つのものがある。それは、食の高級化に伴う外部化ではなく、日常の食における外部化である。近年は女性でも多くの人が職業を持つようになった。結婚しても、専業主婦とはならずキャリアウーマンの道を進む人も多い。このことは、女性の自立や、社会における男女の差を縮めていく上で重要なことではあるが、他方で家庭における食に多くの影響を与えることとなった。職業と家庭を完全に両立させることは難しい。夫がその分家事に時間を割くということにもならなかった。これまで家事に専念していた時間が職業に振り向けられる。調理等の食に関する時間も影響を受けざるをえない。全部が全部自分で作るということではなくなった。自分で作らなくなった分を誰が作るのか。夫や子供も従来以上に手伝うようになった。しかし、それ以上に下ごしらえしたり、さらには調理済みの食品を購入する割合が高くなる。多くの家電製品等により、生活が便利になった反面、人間がものぐさになってしまったということもいえるだろう。外食に対して内食(家庭内での食事)という言葉が用いられることもあるが、調理済み食品については、この両者の中間という意味で「中食」ともいわれるようになった。内食は家庭内で調理し、家庭内で食する。外食は家庭外で調理され、家庭外で食される。中食とは家庭外で調理されたものを買い、家庭に持ち帰り、家庭内で食する。近年は中食に関わる業界も繁盛しているという。

一方、外食も増えることとなる。家庭にいれば昼食は家庭でとることが多いであろう。職業を持てば昼食は社員食堂や近くの食堂においてとることとなる。夕食が作れなくなれば家族そろって外食することとなる。ここにおける外食は、食の高級化に伴うものとは異なり、一般の家庭人が気軽に行け、単価的にも安いものである。日常における家庭内での食の代替的な要素が大きいからである。その代表的なものとしてはファミリーレストランがあげられよう。

このような食の外部化は、人が料理の材料たる農水産物を直接見ることから遠ざかることにもなる。家庭内調理であれば、材料を買うところから台所で調理するところまで、野菜や肉、魚の調理加工前の姿を身近に見ることができる。外部化された食の場合にあっては、調理された結果としての料理しか目にすることはできない。高度に加工されたものであれば、原料の姿は想像もつかないものさえある。消費者とすれば、目の前にある料理の味や調理法についての興味はあっても、その向こうにある原材料たる農水産物に対する意識は希薄なものとならざるをえない。農に対する関心も低下せざるをえない。

また、我々日本人の所得水準、生活水準の向上は、エンゲル係数をかってない程に低下させた。食の高級化による費用の増加以上に収入も増加した。これは同時に日常生活における食以外の支出も増加することでもある。日常の関心事の中心は、趣味やファッションに移らざるをえない。相対的に食そのものに対する関心は低くなる。

一見、食の高級化とは逆であるようにも見えるが、インスタントラーメン等で簡便に食事を済ませてしまおうとする事も日常的なものとなった。しかしこれも調理するだけの時間がとれなかったり、調理そのものを面倒と思う意識が働くからであり、食に対する関心が低くなっているからでもある。


二 農業を知る人が少ない

このように一般の人たちが食やその背景としての農に対する関心を失ってきたこととともに、社会リーダーたる人々においても問題なしとはいえない。経済人や経済評論家等の人々の中には、以前から農業に対して批判的な言動をとる者が少なくなかった。日本は工業立国であり、農業はそのgnp比率で見てもそのわずかな部分を占めるに過ぎない。工業の振興は日本にとって最重要事項である。工業としてはいかに売り上げを伸ばすかが重要であり、そのためには輸出も大事である。農産物の輸入が自由化され、米についてもかなり輸入されるとなれば、その分日本の貿易黒字も減り、輸出もしやすくなる。そうすれば日本もさらに発展するであろう…。企業のトップやこれに同調する評論家の言い分はこういったところであろうか。さらに企業とすれば、それにより自社製品の輸出が増えて儲かるというのが偽らざる本音かもしれない。ここにはこれまでにも述べたような、農業が工業とは違った産業であるということは全く話題に上ってこない。農業も工業も産業として全くイコールであるということが前提となっている。このような人々の多くは農業の経験もないであろうし、農業の何たるかを知ろうとしたこともないであろう。即ち批判する対象の本質を知った上で批判しているのではない。

経済評論家の言うことや書いたものを見聞して感ずるのは、経済一般に関する事柄については、それなりに筋道の通った内容、言い方であるのに対して、農業批判の部分になるとなぜか説得力ある説明もなしに、ただ通り一遍の「完全自由化しなければならない。自由化しなければ日本は世界の中の孤児になってしまう。」と言うばかりのことが多い。私とすればその意見の理由なり背景を述べてもらいたいと思うのだが、肩透かしを食ってしまう。当方が思っている農業の重要性、特殊性についてどのように反論するかが聞きたい。思うに経済評論家の人達には、批判すべき対象である農業とは何ぞやということについての的確な知識がないのである。

一般の多くの人々も第二次、第三次産業に勤務するサラリーマンあるいはその家族であり、農業とは全く縁のない仕事をしている。また、前項で記したように、食物を見てもその向こうに生産者たる農家を意識したことのない人がほとんどである。このような人々はどちらかといえば農業サイドに立った考えよりも、農業批判の側にくみし易い。若者の多くはその論争の意味するところを知らず、無関心である。

また、我々のいる社会というものは工業や商業だけで成りたっているわけではない。もちろん農業だけでもない。多くの産業がその役割分担により、互いに連係して成りたっている。人間関係でもそうであるが、互いに関連し合ったもの同志が十分な理解なしに批判しあってよいものであろうか。もちろん相手の改善を促すような良い意味での批判はありえよう。しかし、農業批判の多くにはそのような良い批判は少ない。また、かって一時見られた激烈な農業批判にはそのようなものは全くないといってよい。

このような農業批判の根底には多くの人の心の中に、本人のはっきりした自覚はないかもしれないが、農業蔑視、農民蔑視の意識があるのではなかろうか。昔より農は国の礎とまでいわれてきたにもかかわらず、その国の礎たる農にたずさわる農民、百姓はさげすまれてきた。当時とすれば生産物たる米は食糧である以上に一種の「財」であったが、それを生産する農の営みや、それにたずさわる農民は卑しいものという意識で見られていた。また、江戸時代には「士農工商」として、武士の次に位置づけられていたが、それは「財」としての米の重要性に根ざすものではあったが、農民自身は手に技のある職人や物資の交易を行う商人以上に過酷な扱いを受けてきた。徳川家康の「百姓と油は搾れば搾る程多く取れる」という言葉にそれがよく表されているといえよう。農業や農民に対する、農民以外の者のこのような意識というものは、今日まで連綿として続いている。

また、現代社会は都市を機軸としており、農業とは縁遠いものとなってしまった。農業の現場を知っている人は農業者以外では数少ない。身近に農の営みを見れば食糧がどのようにして作られ、またそれが大地の恵みであることを肌で感じることができる。緑の大切さもわかる。しかし、既に日本における社会の主体が農村から都市に移って久しい。多くの日本人の心から食糧やそれを生産する「緑」の重要性についての認識は極めて乏しいものとなってしまった。

農を尊び、あるいは少なくとも他の産業と同等に重要であると考えるならば、今日見られるような批判はずっと少ないものになるであろう。またその批判の性質も、単に近視眼的な農業攻撃ではなくして、農業をより良くしようとする内容のものであるはずである。

もっと国民全般における農業に関する知識水準を高め、できれば加えて農の体験を通じることにより農業の本質を垣間見ることで農業の重要性を認識してもらうことが必要なのではなかろうか。


三 経済万能の考え方−経済学の問題点

また、農業批判の背景の一つには、現代社会における経済の位置づけが、かってなかった程に高くなったことであろう。社会の安定や技術の飛躍的な進歩により日本は経済大国にまでのし上がった。このようになれば全てにおいて経済の視点から物を見、判断を下すということになる。例えば、現代において国のランク付けはgnpによってなされる。社会保障が完備し、人々がゆとりある暮らしをしていても、あるいは文化的に高いものを持っていたとしても、総体的なgnpの値が低ければ国力が小さいと判断されてしまう。経済的な視点から見て価値が低いものは存在意義さえもが軽視される。従って伝統技術や歴史的にも意義ある建造物が、経済的にも割りにあわないからという理由で、あるいはより経済的に見て価値のあるものに置き換えるために破壊され、失われていってしまう。そこには経済だけでは論じられない社会的、文化的な意義があるはずである。農業についても、これを農産物を生産する産業としてしか見ることができず、その農産物も他の工業製品と同じにしか見ることができない。安易な経済合理性の追求は経済以外の要素を見えなくしてしまい、結果として後に悔いを残すことになってしまう。

更には、現実の経済が経済学、経済理論により完全に論じることができ、またこれにより運営されうるといった思い込みがあるのではなかろうか。現実の経済は経済以外の何物にも影響されず、経済だけの環境の下で動いているわけではない。そこには生身の人間がおり、多くの人間により形成される社会がある。社会のあり様も様々である。国によっては人種や宗教といったものが極めて重要な事柄となっている場合もある。複雑な社会の中で運営されている経済活動を純粋経済理論だけで説明することは困難と言わざるをえない。経済理論は現実の経済を完璧に説明しうる程には成熟していない。

ソ連を始めとする社会主義の国々が経済的にも破綻し、崩壊したことにより、自由主義経済こそ万能であり、これに何らかの制約を加えようとすることは悪であるというような考えが人々の心の中にインプリントされてしまったようである。社会主義諸国において、経済は少数の者の手による「計画」によって運営される計画経済であった。しかし、人は万能ではない。神ならぬ人が人々の暮らしから国全体の産業全てにわたって目配りすることは不可能である。また未来というものは、それがたとえ明日であってさえ人が完全に予測することも不可能である。このようなことを忘れてすべてにわたって物事を把握し得、完全な予測ができることを前提とした計画経済は破綻せざるをえなかった。

計画経済は人を幸せにはできなかったが、これによって自由主義経済が絶対的善であることが証明されたわけではない。自由主義経済においてはアダム・スミスが言ったように人々が自らの利益のために自由に活動しても、自由市場における「見えざる手」が生産や取引といった経済活動を正しく導き、不当な利益を得ることができないことを前提としている。しかし現代の社会はアダム・スミスの時代よりもはるかに複雑になり、消費者の意向が生産者にすぐには伝わらなくなってしまった。また、経済以外の要素が経済にも大きく影響を及ぼすこととなり、「見えざる手」の及ばない場合も多くなってきている。特に近年の経済社会においては、生産・流通サイドが巨大化しすぎて、消費者の意向が伝わらず、生産・流通サイドの意のままにされてしまうという問題もある。このようなことから、日本では自由競争の良い面が発揮されないこととなってしまった。また、一方では力のあるものが圧倒的な優位に立ち、結果的に他の追随を阻むということになる。そのような中で巨大化した企業は益々肥え太り、法律をかいくぐり不正、あるいは不正ぎりぎりの事を日常的に行うようになる。すでに自由競争の前提となるべきモラルはここには見られない。証券会社や土建会社等多くの企業や企業人の不正、不祥事はこのことを物語っている。

自由主義経済の国々の多くは、厳密には完全なる自由主義をとっているわけではない。一方の雄であった社会主義からもいろいろと学び、低所得者に対する各種の配慮や社会福祉等を充実させてきた。また企業活動は全くの野放しではない。社会規範に外れるようなことは規制され、できないようになっている。このように変革を重ねてきたことが自由主義経済を今日にまで生き長らえさせた。このような対応が出来なかったことが一方の社会主義を崩壊させた。社会主義体制の中国においては遅まきながら、自由主義経済の良いところを導入しようとしているが、これができなかった、あるいはやろうとしても既に遅すぎ、政治・社会体制に対する国民の反感が爆発してしまった国の方が圧倒的に多かった。社会主義においても現在の体制をそのまま維持しようとするのではなく、常に改善を図るべきであったし、また自由主義諸国の多くにおいてはそのようにしてきた。自由主義はこのように変容しえたからこそ生き長らえたといえるのではなかろうか。

このように自由主義経済そのものが変容しているにもかかわらず、ガットの場で、あるいは国の内外において全くの自由主義こそが善であるとして、自由な貿易、自由な取引を妨げるものをすべて排除すべきであるという意見が出され、この意見が主流となっている。これはキリスト教における聖書、あるいはイスラム教におけるコーランの教えを全く間違いのないものとして、それをそのまま実践せねばならぬという原理主義にも匹敵する、いわば自由経済主義における原理主義である。このような意見を述べる人々は、特に日本における「自由」が成立すべき基盤の脆弱さを認識しているのであろうか。また日本や西欧諸国の多く等においては自由主義経済における現実の問題を解決しつつ、また社会主義にも学びつつ成長してきたという経済の歴史を学んだことがないのであろうか。経済以外のものが見えず、また経済についても純粋培養の理論しか理解できずにそれを現実の経済に採用するようになれば、日本の社会にとりかえしのつかない禍根を残しかねない。

経済学は宗教ではない。経済学自身もその中に多くの主義主張、流儀・流派がある。学問としても完全無欠なものではない。経済の実体の観察から理論を構築していくといった経験科学的な要素もあり、ある時代背景のもとに構築された理論が別の社会情勢の下でそのまま適用しえない場合も多い。自由主義経済が当初成立した背景と、現在の世界の情勢とは大きく異なっている。貧富の格差や環境問題等自由主義経済の膿が吹き出してきているのである。この点からも新たな経済の枠組みが組み立てられなければならない時代となっているように思う。


四 目先の効率優先

経済優先の考えは、一般の人々でさえ目先の経済活動、あるいはその結果として生産された商品や、景気動向そして指標としてのgnpといった事柄にしか関心を示さないという状況に陥らせている。現在問題となっている地球環境問題や社会の荒廃等の多くは、元をたどれば経済活動により発生し、かつ通常認識することが容易でないマイナス要素がもたらすといってよいだろう。即ち経済活動が不可避的に発生する外部不経済である。目先の効率を優先した経済活動は、一方において多大な外部不経済をもたらす。プラスチック等の合成品は商品を保護し、また目立たせることによって売れ行きを促進する。経済的には多大な貢献をしている。しかし一方において、それを作る時には限りある資源である石油を消費し、有害な廃水や産業廃棄物を生ずる。また、それが廃棄されれば永遠にゴミとして残り、燃やせば有毒なガスを発生する。目先の経済効果とはうらはらに、多くの外部不経済をもたらす。

農産物貿易においても、経済的には輸出国、輸入国双方にとってプラスになるかもしれない。しかし、このことによるマイナス面(これまでにも述べたように多々ある)、即ち外部不経済について的確に認識している人は多くない。

先に農業さえもが効率性を求め、工業に学んだと記した。この結果として化学肥料や農薬を使い、本来の時期以外の方が高く売れるとばかりに石油を燃やし、化学合成した品々等を使うことになり、工業と同様に多くの外部不経済をも発生させるようになった。

現代の経済学においてはこのような外部不経済を全く無視している。かってケインズは不況時において、民間経済だけでは完全雇用を達成しえず、政府支出によって経済を刺激しなければならないとし、経済における政府の役割を述べた。社会が複雑になることにより、野放しの自由主義経済では極端な好、不況が現れるようになり、経済だけではなく社会にも大きな影響を及ぼすこととなる。このような自由主義経済の限界と問題点を認識し、改善を加えた。もちろん神ならぬ人のことである。完全な対策を講ずることはできないし、その限界も知るべきである。しかし現実の社会経済をより良いものとするためには必要最小限の政治的行政的配慮は必要ではなかろうか。

現代においては、再度自由主義経済を志向する動きが米国を中心とし、また国内においても大きな潮流となっている。しかし経済活動はかつてのものより一層巨大なものとなってしまった。過去の経済規模においては地域レベルでは公害等の問題を生じたりもしたが、地球レベルの自然に大きな影響を及ぼすには至らなかった。しかし近代〜現代に至る経済の発展は、その経済活動が地球環境に極めて大きな影響を及ぼすに至るまでになってしまった。経済活動は他の自然的、社会的要因と無関係に存在することはできない。しかし今日見るように巨大化した経済活動がこれらの経済自らが成立する土台を蝕みつつあることも直視しなければならない。しかし現在の経済学においては経済活動において発生する副次的な効果(プラス面としては例えば農業における国土保全等、マイナス面としてはここにおいて述べた外部不経済)に十分な配慮を払ってはいない。このことが一方的な自由主義経済(ある意味では単純で多くの人にはわかりやすい)とこれによる農業の過小評価をもたらすことになる。今日の経済学において外部経済・不経済とされているものや経済のありようが社会や自然に及ぼす影響をも取り込んだ新しい経済学が体系化されることが望まれる。そのような経済学でなければ農業の正しい評価はなされず、目先の非効率性のみが誹謗中傷の的となるだけである。前項からの繰り返しにはなるが、今日における野放しの自由経済主義に的確な批判を加える、新たな時代の経済学が体系化されることが望まれるのである。


五 日本の産業発展の問題点

日本の農業に向けられる厳しい視線は、日本の脅威的な経済発展と無縁ではない。日本の経済発展が国民所得の増加をもたらし、所得の増加が需要を喚起し、経済の発展を更に加速する。特に第二次、第三次産業はこのようにして発達してきた。輸出による工業の発展という要素に加えて、このような国内的な要因も見逃せない。驚異的なまでの産業の発達は、諸外国において見られた産業の発達とは異なったものであり、その結果として形成された産業自体の性格も似て非なるもののように思われる。

自由主義経済の理論的な先駆者であるアダム・スミスも、企業倫理を自由な競争の前提に位置付けている。しかし現代の日本や米国の企業の多くにはそのような企業倫理に欠けるものがある。いわゆる「共生」、「共感」ということが企業のトップからも聞かれるようになったが、日本の産業の体質はどのようなことをしてもとにかく儲かればよしとするところがある。実態は共感なき競争が繰り広げられている。ここでいう「共生」とは一部の人が批判したような「談合体質」では決してない。いわゆる企業モラルにつながるものである。企業のモラルなき競争は労働者に長時間労働を強い過労死を招き、産業廃棄物をきちんと処理せずに環境を汚染し、相手国のことを十分に考慮せずにとにかく売れればよしとして集中豪雨的に輸出し、相手国の産業やこれに連なる社会を破滅に導く。その一方で本来自由競争的であるべきところに「談合」で市場の分割を図る。

企業、特に製造業や流通・販売業における競争は、それこそハードな弱肉強食である。製造業に関していうならば、日本の企業はその分野のものについてはすべて生産し、お互いが同じようなコンセプトの製品をぶつけて激烈な競争を行う。家電製品であれば、すべでのメーカーが冷蔵庫も洗濯機も掃除機もほとんど総ての製品を製造、販売している。また冷蔵庫であれば大型から小型のものまで各社共々豊富な品揃えである。自動車メーカーにおいても、どこも同じような品揃えである。従って、日本の企業において先ず第一に考えるのはシェアである。

近年において、米国は知的所有権の保護をいうようになってきた。このことの背景には、日本の産業界には、誰が発見、開発したものであろうと先に商品化し、あるいはその技術なりを使って売れるものを作った者が勝ちである。そのためにはその製品に関する基本的な構想を誰が、あるいはどこの企業が先に考えだしたかは関係ない。誰かが新たな開拓をした途端、そこには多くの企業がそこに殺到し、ひしめき合うことになる。誰か(それは自らである必要はない)が見つけたあるニーズに対して多くの企業が殺到し、その企業同志がそのニーズのぶんどり合戦にしのぎを削る。このことを企業同志の競争と認識しているのが日本である。欧米には先に開発した企業には、暗黙のうちに新たな技術に対する先優権のようなものを認めるというマインドがある(近年の米国においては、必ずしもそうではないようだが)。即ち、新たなコンセプトを見つけ出し、これによりいかにして新たなニーズを開拓するかが競争である。

日本の企業が欧米に進出したとなれば、そこにおいて当地の企業が見いだしていない分野を開拓するのではなく、すでにその地において誰かが開拓して実績のある分野で製品を販売し、競争することの方が多い。国内において、このような競争に慣れている企業にとってみれば、外国において競争することも苦はないであろう。しかし、当地の企業としてみればルールを無視したやり方である。他の国にとってみれば、日本におけるようなむき出しの弱肉強食(陰でルール違反をしても、とにかく相手をやっつける)はむしろ異質であり、競争はあるにせよ、むしろ「棲み分け」の要素もかなりあるのではなかろうか。

このような工業(第二次産業)、そしてそれを売り込む商業(第三次産業)のあり方は直接的、間接的に多くの点で農業を苦しめることとなる。いわゆる工業製品の集中豪雨的輸出により大きな貿易黒字を生み出し、国の内外にこれを穴埋めするために農産物の輸入を増やそうとする動きを誘発する。このような輸出ドライブはまた円高の原因となり、農産物のみかけの内外価格差を大きくしてしまう。工業製品においてこのような攻撃にさらされた国は、逆に日本が工業製品で行ったと同じように、農産物において、日本の事情を無視して売り込みを図ろうとするであろう。

国内における円高を背景とした内外価格差論は(それを言っている人が意識するしないにかかわらず)農産物自由化を推進する内在的な力となる。そしてむきだしの弱肉強食のマインドに慣れた産業界は日本の農業にもむき出しの弱肉強食を強い、「輸入農産物に負けるような農業は、なくてもよい」ということにもなる。


六 踊らされる消費者

かってのわが国における産業活動において、消費者の意向を重視するという考えは今程ではなかったように思う。物流を川に例え、生産者を川上、消費者を川下に位置づける言い方がよくされる。昔は川上優先主義だった。川下たる消費者はそれを有り難く思って生産物を購入するしかなかった。これは物資の乏しい時の考えである。現在のように豊富な物資が満ちあふれているような状況では、川上たる企業としても川下たる消費者の意向をくみ取らなければ作っても売れないということになってしまう。

しかし、尊重されるべき消費者が本当に尊重されているかといえば、必ずしもそうではない。消費者は企業のようにしっかりとした組織を形成していない。個々の消費者は弱い存在である。風評に踊らされてしまう存在でもある。地球環境問題のように将来にわたって重要な事柄についても関心が薄く、売らんかなの企業の口先に乗せられてしまうのも消費者の姿でもある。

企業とすれば口先ではお客様大事と言いつつ、実のところ消費者ニーズを操作している。食品について見ても、目先を変えるために包装を変え、味付けを少々変えた新商品を出し、大々的にコマーシャルをする。企業はそれまで家庭内で行われていた調理でさえも奪い取り、本来的には家庭内調理すべきものの多くが、調理済み食品として売られている。これにより主婦の家事労働が軽減され、働きにも出られるようになったのは良いことではあるが、一方において食事の基本的な部分は家庭で調理するという、本来あるべき食文化が失われてきていることは憂うべきことでもある。このことは原料生産産業である農業にも影響を及ぼさずにはいられない。消費者のニーズではなく、食品加工産業のニーズに基づいて生産しなければならなくなる。農業と消費者との関係が疎遠になる危険性をはらんでいる。

一方、農産物に対する消費者意識の問題もある。お米の新品種ブームであるが、消費者がそんなに騒ぐほどに味に差があるものであろうか。炊き方による差の方が大きいのに…と思わざるをえない。これは、味がどうのこうのという前に、日本人の新し物好きという性質から来るものではなかろうか。新品種ブーム(新品種狂いといってよいかもしれない)は、江戸時代における初鰹に象徴される日本人の初物好きそのものなのだ。大々的に宣伝され、当初はもてはやされた米の新品種にしても本格的に生産され、ありふれたものとなれば、消費者も高い評価を与えることはなくなるであろう。そして次の新しい品種を追い求めることとなる。野菜や果物でもハウス栽培の時期外れのものが売れ、本来の生産時期(味もよく、栄養もたっぷり)となる頃には食べ飽きてしまって売れ行きが鈍るというおかしな現象をも見せている。一番出盛りの時期のものを食べるのが健康にも一番よいし、地球にもやさしいのである。

また、きゅうりはまっすぐでなくても味に変わりはないと頭の中では思っていても、実際にはまっすぐなきゅうりを選んでしまう。そのためにどれだけ生産者が苦労するか考えたことのある人は少ないであろう。まっすぐなきゅうりが実は消費者のためではなく、流通(先の川に例えれば中流になる)の都合によるところが大である。見た目のためだけに改良された濃緑色のきゅうり(皮が固くて味もよくない)を選んでしまうのも極めて普通の消費者でもある。しかし、あえて言いたい。消費者よもっと勉強し、もっと考えてください…と。


七 わが国の品格が問われる

日本の経済が目先の繁栄とは裏腹に、生産、消費共々その本質がおかしくなってしまった背景には、経済学の不備もあろう。しかし日本人そのもののあり方が変になってきたことが、その中心にあるのではなかろうか。私たちの中の社会全体を視野に入れ、国民全体のためを思う心が欠如してきている。自分や自分が属している組織や会社、業界さえよければよいのだという考えが心の中に蔓延し、他を思いやる心配りが無くなってきているのではなかろうか。目先の経済第一主義、収益があがれば何をやっても良いとする考え方。シェアの拡大にやっきになる企業。国内での経済戦争により力をつけた企業の、世界を巻き込んでの大経済戦争。「見えざる手」もすっかり疲れてしまったようである。

一方的な農業批判も、日本人がこのようなおかしな心を持ってしまったことが原因ではなかろうか。たとえ自国の農業が大きな打撃を受けようとも、それによって自分の業界や会社が儲かれば良いとするような考えは、どうもいただけない。

最近、政界の人々の口から外国の人々を中傷し、その国の人の心を逆なでするような言葉が相次いででている。日本もこれだけ大国になった。そうなれば今まで以上にその国なり人の品格が問われる。現在の日本の状況ではお寒い限りである。


八 農業施策の硬直化

農業を巡る社会情勢の事項として、農業施策についても触れないわけにはいかない。今日見られるような食糧・農業の姿というものは、一方において社会情勢の影響を強く受けた結果として形成されたものでもあるが、他方これまでの国なり都道府県、あるいは市町村段階における行政施策をも反映している。

戦後においては、それまでの地主と小作の関係により成り立っていた農業形態を自作農という形態に改めた「農地解放」が行われた。これは財閥の解体とともに、進駐軍における戦争を推進したかっての支配階級の解体、弱体化の意味もあった。一方で当時とすれば、戦勝国である米国における、日本に比べてはるかにリベラルな思考形式を現実化するための、壮大な実験の一つであったとも言えよう。

また当時としては不足する食糧を増産することが急務であり、そのための農業振興施策が積極的に行われた。このような背景もあり農業生産は拡大したが、一方急激に発展する工業からすれば、その生産性の向上は遅々たるものがあった。その違いは既に記したように、産業の成り立つ基盤が違うことによるが、国策として工業の発展のために大がかりな国家レベルでの投資を行ったことにもよる。しかし、このような工業と農業の間における生産性向上度合いの違い(それは必然的なものでもある)は、国内的には農産物における価格保証を必要とし、対外的には輸入制限とならざるをえなくなった。このような農業保護の一方で、既に戦前からあった米穀法に端を発し、第二次世界大戦の最中に食糧徴発のために制定された食糧管理法により、その生産、販売に大きなタガがはめられていた(農業攻撃の側からすれば食管法は農業保護のシンボルであろうが、本来は消費者保護のための法律だったのだ。この法律の性格が変質したのは米の生産力が需要を上回るようになってからである。)。農家は所得確保の面では保護を受けるとともに、その農業活動の面においては大きな束縛の中にあった。

また、国の補助金による農業基盤整備等についてもその性格上画一的なものとならざるをえず、地域の実態や個々の受益農家の実情にまで細かく配慮することはなかった。食糧が不足基調の下、生産の拡大が急務であった昭和30年代頃まではそれでもその方向に大きな間違いはなかった。しかしながら農業生産力も高まり、また高度経済成長を経て国民の食物に対する需要も多様化する中で、何もかも一律な行政施策は弊害が目立つようになってきた。需要が多様化すれば、それに対応して生産も多様化する必要がある。農協や普及組織の指導に従って誰でも同じように生産をしていたのでは消費者における需要の多様性に適応することは不可能である。農業基盤整備等も大掛かりで、しかし画一的な開発よりも、個々の農家の実情に適合し、農家それぞれのアイデアが活かせ、また時代の動きに即したフレキシブルな対応が求められる。実際にはごく最近まで農業生産の拡大が至上命題であった時の行政の思考回路が基本的には変更されずにきた。また大がかりな事業になればなるほど、計画から事業の実施、そして完了まで長い期間がかかる。その間にその事業を実施する背景となる社会情勢、農業情勢も変化することとなる。しかし行政のメンツのためにそれに対応した計画の変更は極めて困難なのが実態である。

また、特に大がかりな施策になればなるほど、それを担当する部局の権限を拡大する。行政組織にとって権限は麻薬であり、それを失うことに対して大きな抵抗を示す。このため、時代に即応しなくなった古めかしい制度が長い間生き残ったりして、行政が硬直化する原因の一つにもなる。これは即ち農業のための施策というよりも、それを司る行政組織のための施策である。行政には真に農業のためを思う心と柔軟な姿勢が求められる。


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