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第九 農産物貿易について


**この項の目次**


一 農産物貿易を論ずる前提

農産物貿易をどうするかということが問題となっているが、このことは即ち日本国民は自らの食糧をどうするか(どのようなものをどのようにして確保し、消費するのか)ということが問われているということである。農産物について多くの国民は自分にはあまり関係ない、それは農業の問題だという意識にある。しかし、けっして他人事としてとらえるべき性質のものではない。山下惣一氏の言うように、農業問題は基本的には都市住民の問題なのである(農民はどのようになろうとも自らの食べる分位は生産できる)。

昨今は食糧問題を食糧の有する特質を踏まえずに(あえて無視して)単なる経済問題としてとらえる風潮が特に都市住民等直接農業に縁のない人を中心に一般的となっている。今の経済(経済理論や一般の人の有する経済観)においては、あれば便利で生活を豊かにしてくれるが、しかしなくてもかまわないものと、それがなければ生きていくことが困難なものとを同一視している。そこには現代人の刹那主義的な考え方がうかがうことができる。また現代における経済の矛盾と限界を見ることができる。

経済は人間の営みの中に成立する。人間の営みは自然をベースに成立しており、経済は自然や人間と無関係に成立しているわけではない。目先の経済的発展のために自然をいためつければ経済そのものの成立基盤を失う。世界各地に見られる森林破壊はその最たるものである。またかつてチャップリンが「モダンタイムス」で風刺したように一方的な経済(工業生産)優先は人間をも疎外する。

食糧問題、農業問題は経済的問題、社会的問題であることに加えて、人間(個人として、また国民として、さらには人類全体として)がどのようにして生きるかということについての哲学的問題でもある。そして将来はどうあろうとも現在が豊かであればよいとするか、将来のためのコストを負担していくかということの価値観の違いでもある。

人間は自然を破壊しながら文明を築き、そしてその自然が文明を支えきれなくなった時に、その文明は滅びていった。メソポタミアやギリシャ、ローマへそしてこれら以外の数多くの文明が同じ道をたどった。しかしこれまでは一つの文明が滅びてもそれらの影響を受けつつも別の文明が新たに興る余地は十分にあった。一つの文明はまだ地球レベルで見れば一部の地域での出来事でしかなく、別の地に新たな文明が展開する所が用意されていたのである。しかし現代文明、そしてその文明により蚕食される自然は地球全体に及んでしまった。そのうちに自然(地球全体としての)は現代文明を支えきれなくなるであろう。そして現代文明が滅んだ後には新たな、そしてより一層高い文明を支える基盤は地球のどこにも残されていない可能性がある。

現代において、地球を傷める文明活動としては脆い環境における食糧生産による自然破壊(土砂流亡、砂漠化等)、森林破壊、二酸化炭素やフロン、あるいは産業廃棄物といった汚染物質の排出である。

幸いなことに東アジアを中心とする水田稲作を中心とする農業は、これよりも乾燥条件で栽培される麦類、とうもろこし等と比べても自然破壊は少ない。水田そのものが一つの環境(人手により作られた水田という二次的環境であるが)を維持保全する優れた装置でもあるからである。しかし東アジアの水田稲作を中心とする農業は多くの人手を要するという特質を有している。わが国や韓国等といった農機具の利用が可能な先進的な国以外では人力に多くを依存しており、しかもこれらの国々ではわが国よりもはるかに低い米価水準、賃金水準で農業者や農業労働者は酷使されている。

これよりも乾燥した気候の下で栽培される他の作物では、連作障害・土壌侵食等の問題を内包している。米国等の多くの地で行われている乾燥地における灌漑農業では土壌への塩類集積が長期的な農業の永続性を損なうという問題もある。灌漑に地下水を利用しているところでは、その多くの地下水がいわゆる化石水であり、他からの供給がないため、有限であるということも将来における生産の継続に懸念を抱かせる。米国における大規模稲作では水の確保のために河川や地下水を利用している。河川の水にしてもふんだんに利用できるというわけではなく、都市等における生活用水や工業用水とも競合し、しかも農業用水は優先順位が下位となっているため、干ばつ等で水量の少ない時には十分な水が確保できない。地下水についてはその多くが化石水であるという問題がここでも生ずることになる。

世界の国々における食糧生産を鑑みるに、わが国は温暖な気候、豊富な雨量という恵まれた条件が備わっており、水田を中心とする永続的な農業が営める最も優れた条件にあるといってよいであろう。生命の維持に不可欠という食糧の本質と、世界における農業生産の問題点からすれば基礎的な食糧は可能な限り自国で生産するのが基本であるように思われる。

自国の、それもできれば「生産者の顔が見える」形で生産した農産物であれば、食糧の特質とすべき点の一つである安全性も確保しやすい。しかし、輸出するための農産物であれば、最終消費者の間に多くの人や機関が介在することになり、生産者と消費者のつながりは極めて希薄になる。生産者とすれば農産物の生産は食糧の生産ではなく、自ら儲けるための商品の生産でしかなくなる。生産者や流通・加工に関与する者はできるだけ規制を撤廃して農薬や添加物を加え、見た目によいものを売りたくなるのは当然であろう。輸出入にかかる長期の輸送に耐えるためには薬剤の使用も不可避となる。これが経済原則に貫かれた農業生産である。

一方、このようなことから自国内での食糧生産を可能な限り貫こうとした場合に、わが国農業において問題となるのは、a.東アジア農業の本質に由来する小規模性、b.わが国が先進国となったことによる高賃金水準、c.同様な理由による高地価水準、d.輸出主導の工業の奇形児的な発展による円高、e.商工業を中心とした経済の中で発展せざるをえなかったことによるわが国農業が内包する課題(自然に反しても、ともかく「売れる」ものをつくらなければならない等)、f.江戸時代より続く伝統的ともいえる農民蔑視観等である。また消費者においても、一部ではまっとうで安全な食品を求める動きがある一方で、安ければよいとする人や食品産業等の宣伝に振り回される人が圧倒的に多い。多くの人は頭の中では安全性や食品添加物等の知識はあってもそれが実際の行動には現れないのである。また農民は保護されている、多くの補助金をもらっている等と怨嗟の念にとらわれているのも都市を中心とする人々である。

食糧問題、農業問題に対応するためには、多くの国民、消費者の食糧・農業に対する正確な理解と、これに基づく理解がその背景に必要である。その上で前記のような問題にどのように対応していくか国(国家としての国ではなく、国民全体としての国)を挙げての論議がなされなければならない。このような過程を経た上で国内農業の正当な評価がなされることが望ましい。その上で一旦はガットの場で国際的には決まったことではあるが、今後農産物貿易に関しては再見直しがなされるように希望する。


二 食糧をどのように確保するか

人類が食糧を狩猟・採取により得ていた時代、共同生活者間での分配はあったにせよ、ほぼ全ての人々は自給自足の生活であった。この時点では「食糧をどのように確保するか」は、全ての人にとって共通の問題であり、より食用となる動植物が多い所を探したりしたが、次第に実を食用にできる樹木を居住地の近くに植える等も行われるようになり、これが次の段階の農耕の芽生えとなっていく。

日本でば弥生時代、農耕が行われるようになると、最も主要な食物即ち農産物は長期に貯蔵が可能な穀類となった。貯蔵された穀類を得るために、また食糧を生産する農民を多くその支配下に置こうとして争いがおこり、支配・被支配の関係が生じた。この時期における「食糧をどのように確保するか」は、実際に農業生産を行う人々にとっては自らの食糧確保に加えて、支配者に供出する分も生産しなければならないということになる。一方で支配者にとっては、支配下に置いた農民や土地からどれだけ多く搾取しうるかということに加えて、より多くの農民と土地を支配下に置けるかということが大きな課題であり、飽くなき支配地の拡大が繰り広げられることになる。基本的にこの構造は日本では戦国時代まで続くことになる。

日本に中央政権ができたのは飛鳥時代である。当初は政権及び都たる奈良や京の都に住む人の数もそれほど多くはなかった。従ってそれら人々が必要とする食糧は国内から都に運ばれたが、その量は後の時代に比べればさほど多いものではなかった。当時は遠国から大量の食糧を運ぶのは困難である。穀物等の食糧の主たる部分は近くから供出させたであろうし、遠くからは価値の割にはかさばらず運びやすい副食品やいわば珍味に類するものが多かったであろう。延喜式等の記録にも当時の貴族の食べ物として乾物類が多く登場する。

時代が下り都も大きくなり、また都に住む人々の口も奢ってくる。都において必要な食糧も多くなってくる。しかし同時に開墾が進み、農地が拡大されると共に農業技術も次第に向上し、生産性も高まってきた。道路も整備され遠方からの物資も次第に運びやすくなっていった。

室町から戦国時代は農業技術の向上により食糧生産のみならず、木綿や絹をはじめとする産物の生産も拡大し、これに伴って農産物や海産物等を中心とする物資の国内における交易も盛んになっていった。また、明(今の中国)とも交易が行われるようになる。平安時代の遣唐使が唐からの文化の導入が主目的だったのとは異なり、これは純然たる貿易の色彩が強い(これによる文化の導入が無かったわけではないが)。日本からは硫黄・刀剣・扇等が輸出され、銅銭と生糸等が輸入された。この交易では食糧品はわずかであり、日本全体の食糧事情に大きく変化を与えるものではなかった。

安土桃山時代を経て江戸時代になると、開発に容易なところは既に開発され、干拓やそれまで手がつけられなかった暴れ川を手なずけていく等も行われたが、開発が進んだ結果として、面的な拡大は次第に難しくなっていく。幕藩体制の中で、幕府は各藩の勢力を弱めるために参勤交代や各種賦役を課す等のことを行った。また江戸藩邸を維持するのにも多大な経費を要し、これらの負担は最終的には農民に対する過大な年貢の取り立てにつながっていった。面的な拡大が難しい中で生産をあげようとすれば、品種の改良や栽培技術の改善を進めることが必要となる。これには村長(むらおさ)、庄屋といった農村の中でも富裕な者が積極的に取り組むことが多かった。その後明治期から太平洋戦争に至る時期、多くの農村では地主・小作関係が見られたが、ここにおいても地主階層が主体となって技術の改善を推し進める例が多かった。

しかしそのような積極的な技術の向上が図られたにもかかわらず、日本国内における食糧は不足気味であり、不足分は中国や当時日本の支配下にあった台湾から輸入した米(当時は「外米」と呼ばれていた)等に依存していた。ただ、当時は純然たる食糧輸入という状況ではなく、他方で量は多くはないものの国内産の米の輸出もしていた。

太平洋戦争に敗戦した後は、疲弊した農村、大陸等からの多くの引き揚げ者等という状況の中で、食糧の不足は深刻な問題となった。農地解放は農村における封建的体制を民主的な体制に改めることが主眼であったが、加えて小作農民を自作農とすることにより、農作物の生産を増やす意欲を農業者に持ってもらうという意味合いもあった。また当面の措置として、米国からの小麦等の食糧援助も行われた。米国からの食糧援助は食糧危機に対する緊急の措置としては必要なものであり、当時とすれば米国の寛容さの現れでもあった。しかし同時にそれは、当時の米国における生産過剰基調にあった小麦の「はけ口」という意味合いもあったことは事実であり、これを機に日本に対して恒常的に農産物を輸出していこうという長期的なもくろみがあったことも忘れてはならない。

米国のもくろみは、当時彼らが思っていた以上の成功をなしとげたといえよう。日本は農地開発、ほ場整備等により米をはじめとする農産物の増産を行った。これにより米や牛乳の生産は高まったが、一方で食の欧米化・米離れが進み、需要の高まった小麦や牛肉の多くを輸入に依存するということになった。このため、食糧を外国に依存する割合は高まっていった。国産畜産物においてもその飼料の多くは輸入穀物を主原料とするため、オリジナルカロリーベースでは海外依存度は更に高いものになる。

戦前も外米の輸入等はあったとはいえ、食糧の多くを海外に依存するようになったのは戦後から、しかも高度経済成長による食肉や小麦粉を使った食品(パン等)の需要が爆発的に増えたことによるものであり、長い食文化の歴史の中では極めて最近のことと言わなければならない。

戦後、積極的に増産を図った米は、皮肉なことに需要は減少し、生産調整せざるをえなくなった。牛乳にしても需要の伸び以上の生産能力の増から需要以上の生産能力を有するに至ってしまった。一方で国内での生産をあきらめたと

@(以下未執筆)

三 食糧、農業の独自性に対する無配慮

これまでにも食糧及び農業の特質を書き連ねてきた。振り返って見れば次のようになるだろう。まず食糧とは我々の生きていく上で不可欠な基礎物資であり、また食べることによって消耗してしまうものでもある。これらの理由から、食糧は安定して供給されることが不可欠となる。過去において食糧の生産をおろそかにしたために滅びた国家や文明からもわかるように、農業とこれによる食糧の供給は国の自立に関わる問題である。また食糧とは自然の恵みであり、自然の営みと人の努力が結び付いて実るものでもある。またそれゆえに工業におけるような急激な生産性向上は不可能でもある。多神教を信じた東アジアにおいてはこのことを知らず知らずのうちに認識してきたが、一神教を信じた西アジアからヨーロッパ、そして新大陸においては、自然を酷使して無理な生産を行うことにより、結局は農業生産基盤が崩壊するという道をたどっている。農業、特に自然と共存する形をとっている農業は環境を保全するが、そうでない農業は環境を破壊してしまう。また農業は本来的には自然循環的であるが、近代農法はこの循環を破壊してしまった。農業は食糧生産という意味合いだけではなく、他産業の発展を後から支えたり、文化の醸成や地域社会の維持を図るという社会的側面も有している……というところであろうか。

このような特徴を逆に工業あるいは工業製品について論じてみるともっとはっきりするかもしれない。工業製品においては我々が生きるのに不可欠なものはほとんどない。極限の状態では食糧は不可欠だが、車やテレビやコンピューターは必ずしも必要ではない。また、工業製品の多くは繰り返しの使用に耐え、一度だけの使用で消耗してしまうものではない。供給が途絶えても、それまで使用しているものを大事に使うことにより、当面はさほどの不便は感じない。工業は原料として自然の物質を使用するが、人知の要素が極めて大きい。このため、技術革新を背景とした性能向上、生産性の向上は日常茶飯事である。一方、物質の流れは一方通行的であり、また有害なガスや廃棄物が必然的に発生し、自然環境を汚し、破壊する。

食糧は、これを必要不可欠なものであるとすれば、安易に他の国の生産に頼ることに不安を覚えないのだろうか。食糧を国内(生産者とすれば消費者と一体感を有しうる)の消費のためにではなく、一体感を有し得ない外国向けに輸出するために生産となればそこでは利潤をあげるために、無理な生産もしよう。土壌や自然環境への配慮も希薄となる。自らが食するものではないから収穫した食糧にポストハーベストアプリケーションとして農薬をも振りまいてしまうことにもなる。食糧は単なる商品という感覚で扱ってもらっては困るのだ。少なくとも主要な食糧については、国民の目の届く自国内で生産したいも。そうすれば消費する側と生産者との間に意見の交流を持ち、互いの信頼の上に生産、流通、消費の健全なあり様というものを構築することも可能になってくる。


四 貿易自由化は輸出国優先の考えである

食糧の重要性と安定的な確保の必要性はわかるが、それならば安定した輸入を確保すればよく、そのためには、貿易秩序を守ることこそが大事であり、そのためには自由貿易こそ重要であり、貿易制限的な行いはこれを阻害するという意見も知識人を中心として広く信じられている。経済学における理論の上からはそうであるかもしれない。しかし世の中は経済だけで動いているわけではない。各国の政治や思想、あるいは他国に対する国民感情等が複雑に絡み合った中に経済も置かれているのであり、これらの影響を受けずに全くの理論どおりに経済が運営されるわけではない。

また自由貿易とは聞こえはよいが、それは強者の論理でもある。強者即ち安いコストで良いものを作ることのできる国は、結果的にそうでない国の産業を駆逐し多くのシェアーを占有することができる。各国が公平な条件のもとで、公正な競争が行われるのであればよい。弱者も努力により強者になりうる。しかし、実際には各国の置かれた条件は公平でもなければ、また公正な競争が約束されているわけでもない。自然環境や多くのハード面、ソフト面における社会資本整備の状況等が国によって大きく違う。余程の活力のある新興国でもない限り、強者を押しのけて優位に立つことは困難である。農業生産においても大規模な農地を使い、次世代以降のために地力を維持するようなことを考慮することなしに土地生産力を収奪することによって低コスト生産している国に対して、零細規模で永続性を考慮しながら生産している日本農業が、容易にたちうちできるとは思われない。もちろん「さくらんぼ」のように自由化されても国産のものが優位を占め続けたものもあるが、これは品質較差が大きく、かつ収穫に多くの労働を必要とする作物であり、むしろ日本が得意とする性格のものである。米のように条件さえ整い、かつ永続性を無視すれば粗放的で低コストな栽培が可能な作物はさくらんぼとは違う。またさくらんぼのような嗜好品的な農産物は品質が良ければ価格が数倍しようとも需要があるが、米のような食を構成する基本的な食糧は品質がよいからといって価格を数倍に上げて売れるようなものではない。

また、現在の国際貿易体制の中では、またかってのように武力により他国を実質的に支配することができない以上は、輸入国は輸出国の意に反して強引に輸出させることはできない。一方、輸出国は自分の気に入らない国に対しては輸出しない自由を有している(現に過去において米国はソ連に対し、穀物の禁輸措置をとったことがある)。さらに自国内における生産量が低下した場合は自国における需要に対して先ず応じ、余裕があれば輸出に回すのが生産国としての常識であろう。米国は困窮すれば飢餓輸出さえしかねない開発途上国ではない。自国の窮乏を尻目に外国に輸出することがあるだろうか。輸入国は相手国に無理にでも輸出させるというカードは持っていないのに対し、輸出国は場合によっては輸出しないというカードを持っている。

前にも米国は「食糧は戦略物資」という考えを有していると記した。主要な食糧を握られてしまい、その国に頼ることなしに食糧の供給を受けることができないとなれば実質的にはその国の属国になるのも同じことである。

国の自立のためには主要な食糧は安定的に確保されなければならない。不特定多数の国から十分な量の供給を受けるということが不可能である以上、最低限の必要量、即ち有事(政治的な衝突だけではない)の際に国民を養っていけるだけの食糧は自国において生産する権利を有するべきであると思う。


五 貿易自由化は企業優先の考えである

現在の日本の産業全般を見回しても、その足腰を支えるのは中小企業だとしても、こと対外貿易に関していうならば、表舞台に立っているのは大手の自動車産業や商社といった大企業である。日本における主要な輸入農産物である小麦、とうもろこし等穀類については、米国の穀物メジャーを初めとするアグリビジネスが農産物貿易を牛耳っている。日本サイドにおいては大手商社が輸入し、以下それら輸入農産物が我々の口に入るまで食品メーカーから流通産業といった企業が関連している。それを生産した農業者(大農場経営者という意味でなく、自らの汗により生産にたずさわる者)の姿は見えてこない。

今、消費者が食料を購入するために支払うお金のうち、実際に生産者たる農民に渡るのは、平均的にはそのうちの3割にも満たない金額である。もちろん加工や輸送等に必要なものも含め、7割以上が食品メーカーやスーパー、小売店をはじめとする中間段階での経費や利潤となっている。多くの食品メーカーが新製品を出し、活発に宣伝活動をしているのも、そこから多くの利潤が見込まれるからである。消費者とすればインスタントラーメンにはそれを製造した食品メーカーは見えても、その原料たる小麦を生産した米国の農業者の姿をイメージすることは極めて困難であろう。このことは多くの食品に敷衍して言うことができよう。また実際に「食」と「農」に関して多くの企業が介入しているのが現実である。そして実際に食糧を生産している農民は大きな力を持つ企業に押し潰されそうになっている。その姿は米国においてさえも見ることができる。

米国は農業国でもある。その米国においても農民の経営は厳しい状況にあるという。高金利に耐えかねて破産する農業経営もあるが、これを買い取るのは別の農民というよりも、企業なり金持ち(時折趣味として農業をやるのであり、普通は雇い人に任している。)である。米国において日本に対して米の輸入自由化をせよと強硬に主張しているのは個々の米作農家というよりも精米業界である。

一方東南アジアの国々においても、日本において戦後に行われたような本格的な農地改革が行われた国はなく、いまだに大土地所有とその下で働く小作という関係が広く見られる。また、貧しい農民に高い金利で金を貸し、農民は収穫時に収穫物で返すという形も多く見られている。このような国々(日本に対して米を輸出しうる国としては先ずタイがあげられるが…)においては、日本において米の輸入自由化をしたとしても地主なり、米商人らは大いに儲けるかも知れないが、実際に生産している農民はその恩恵に浴することは少ない。

輸入自由化により輸出国、輸入国それぞれにおいて利するのは企業であって、決して実際に農産物を生産している農民ではなく、またそれを口にする消費者においても利するところは決して多くはない。前述した安全性や安定した確保のことを考慮に入れれば長期的にはむしろマイナスさえも考えなければならないであろう。


六 他の国々に対する配慮

前項で自由貿易が生産国においてさえ、必ずしも生産者の利するところにはならないことを述べた。今後、自由貿易が更に徹底するならば、発展途上国における土地所有者は、それがより多くの儲けを得ることができるとなれば、その国の国民を養う基本的な食糧を生産するよりも、輸出用の作物(食糧に限らない。その土地で栽培、生産するもの)を栽培することとなるであろう。国も外貨獲得のためにはそれを奨励するであろう。食糧が国内で生産されないとなれば、国民は企業が輸入した食糧に頼らざるをえなくなる。二重に地主や企業経営者といった高所得者層を利することとなり、貧富の差を拡大しかねない。加えてその国において培われてきた食文化を破壊しかねず、長期的に見て国民の健康を害することとなる可能性が大きいと考えられる。

また、地主は多くの利潤を得ようとし、長期的な農業の継続を配慮することが少なくなるであろうし、一方小作農や雇われて働く者にとっても自ら食するものを栽培するのではないため、生産意欲の低下することは免れないのではなかろうか。一九世紀から今世紀全般、植民地において、宗主国は直接に、次いで民間資本により、その国の広大な土地を支配し、儲けの大きい輸出向け作物(コーヒーやゴム、綿等)を強制的に作らせた。このようなプランテーション農業はその国の農業に大きな打撃を与えたが、これと同じようなことが再度行われる(行わせるのが宗主国ではなく、その国の地主であるという違いはあるが)のではなかろうか。

農産物に限らず、工業製品についても発展途上国からの輸入が増えている。それらの多くは国内企業が安い賃金労働を目的に進出して、生産したものである。ここで賃金に焦点をあてて考察してみたい。日本は経済的な発展を遂げ、先進国の仲間入りをしている。先進国と発展途上国の賃金水準の違いは極めて大きい。発展途上国における一般庶民の賃金水準は先進国の一〇%にも満たない場合も稀ではない。先進国と発展途上国の間の貿易を考えてみた場合、発展途上国から先進国へは低労賃で生産されたものが輸出され、反対に先進国から発展途上国へは高い労賃で生産されたものが輸出される。発展途上国の人々は自らは低労賃に甘んじながら、高労賃で生産された品々を買わされるのである。他方、先進国(その中でも上流階層の人々)は自らは高い収入を得ながら、低労賃で生産された日用品や食料品を買うことができる。

ここに自由貿易の名において先進国と発展途上国の間に不公正な取引が行われているように思われてならない。そしてわが国内においては安い価格の輸入農産物を理由に国内生産された農産物価格が安く抑えられるということになる。

また、視点を変えて世界における食糧貿易を考えてみても、小麦は比較的多く貿易にまわっているのに対して、米はそれからすればはるかに国内自給的であり、貿易量は相対的に少ない割合でしかない。日本が米についても自由化したとなればこの少ない量に対する需要は増大し、価格は上昇するであろう。上昇しても日本においてはそれでも国内産に比較しても安価であるため、輸入の障害にはならない。しかし、従来国際貿易にまわっていた米に頼ってきた国々、その中には発展途上国もあり、価格が上昇し、かつ確保しうる絶体量も少なくなるとなれば、その国の国民にとっては非常に大きな打撃となるであろう。もちろん長期的には需要が増大し、価格が上昇するとなれば生産を刺激することにはなろうが、それにしても、日本における需要の相当部分を供給するに足る量を生産することはなかなか困難なことではなかろうか。

発展途上国に対して先進国が行うべきは、輸出作物を作らせることによってその国の農業や食文化に打撃を与え、あるいは国際的に流通している食糧を買いあさり、従来の輸入国に迷惑を与えることではなく、先ずその国において国民の食糧を自給できるような自助努力を応援し、協力する配慮……大々的なプロジェクトではなく、草の根の技術協力こそ望まれる……ではなかろうか。


七 地球環境に対する配慮

農業とは一種の自然破壊であり、自然環境の厳しい所では特にそうであることは前にも記したとおりである。自給自足を前提とし、あるいは歴史的にも自給自足につながっている農業(自給自足時代の精神がまだ残っている)においては、それでも二次的な自然である農地を保全しつつ営農を継続することがあたりまえのことであった。農産物の貿易が自由化されれば、このような自給自足は国レベルでは否定されるとともに、農業者レベルにおいてさえもが、輸入される安価な農産物に対抗するために、売れるものは今まで以上に低コストで作らなければならないということで、従前以上に農地に負担を強いることになりはしないだろうか。既に化学肥料や農薬の使用が進み、自然との共存関係が弱いものとなってきたものを、決定的に断ち切ってしまう可能性があるようにも思われる。

食糧の輸出国は大きく分けて先進国(欧米、オーストラリア等)と発展途上国に二分される。欧米先進国においては大規模経営でコストを極力低くおさえ、競争力を得ている。一方の発展途上国においては地主−小作の関係の中で貧しい小作農民の搾取の上に輸出産業としての農業が成り立っている。

米国の大規模農業においては、土壌の保全というようなコストはかかるが目先の収益に直接結びつかないようなことはなかなかなされない。その一方でとうもろこしのような穀物では穀物としての収穫量の数倍ともいわれる土壌の流失が見られている。地下水を灌漑用水としているところもあるが、米国での地下水の多くはわが国とは異なり過去において地中に蓄積されたいわば化石水であり、降雨や河川等からの補給はなく使えばその分減ってしまうものである。このため将来における地下水の枯渇とこれによる農業生産の壊滅といったことも懸念されている。土壌への塩類集積も大きな課題である。

一方発展途上国においては国民のごく一部の富裕な地主階層が農地の大部分を有し、ここにおいて貧しい小作民や農業労働者を酷使して農業生産をあげている。さらには平地等の条件のよい所はこのような地主階層に買い占められてしまい、多くの農民・少数民族はここから締め出され、山林を切り開いて焼き畑農業を行っているところもある。焼き畑農業は広い林地をバックとして休閑を十分にとれば、喧伝されているような環境破壊的なものではない。しかしこのように生産力の高いところから追い出されて限られた山林で休閑を十分にとれないような状態で土地を酷使すれば土地は荒廃し、環境が破壊されることとなる。このように農産物の輸出はそれが先進国であれ、発展途上国であれ環境に大きな影響を与えることになる。

また、食糧を含む物資が経済の論理により地球規模で移動することは、大量の化石燃料を消費し、このことが大気中の二酸化炭素濃度の上昇に拍車をかけ、地球温暖化を促進するとともに、有限なエネルギー資源の浪費につながるということも指摘されている。

農産物輸出国は他の輸出国との競争に勝つためには長期的な農業生産力の維持ではなく、目先の効率や生産拡大のために無理な開発や、無謀な土地利用がなされるであろう。そのことによって自然が破壊され、結果として農業そのものさえもが継続できなくなるようになるであろう。このことは単にそこにおける農業ができなくなるだけではなく、土地の侵食、河川への土砂の流入、洪水が発生しやすくなる、気候への影響等地域レベルやさらには地球レベルでの環境問題に直結することになる。農産物自由化は輸出国にとって光だけではなく長期的にはこのような影の部分が大きい事を認識しなくてはならない。

また、大量の農産物が世界的に移動するとなれば、そのことはまた多量の窒素や燐等が海を越えて移動するということにもなる。生産国においてそれは肥料として施用したもの以外にも土壌鉱物の分解等によって得られたものもある。それらは物質循環の考えからすれば本来的にはその土地に帰っていくべきものである。微量要素のように化学肥料の施用でまかなえないものもある。食糧の輸出は地力の輸出でもある。それは本来その国において還元されるべきものを無理して輸出しているという意味で、発展途上国における飢餓輸出の姿に似ていなくもない。

一方、輸入国側としてはそれを地力として輸入しているであろうか。輸入・国産を問わず農産物の最終の姿が我々の排泄する糞尿である。これが適切に日本の田畑に還元されるならば、食糧として入ってくる肥料成分は国内で必要とされる肥料成分の量をはるかに上回る。しかし、これら外国から入ってくる窒素や燐の多くは田畑に還元されることはない。飼料穀物等として輸入され、家畜の飼料となったものの一部が堆厩肥として還元されているに過ぎない。食品工業における廃水や家庭廃水としても、また最終的には我々の糞尿という形でその多くは下水処理場等で浄化処理され、河川に放流される。しかしそこに含まれる窒素は燐の多くは回収されることなく、最終的には河川や湖沼の汚染となる。輸出国において地力として輸出したものを、輸入国では最終的には汚染として輸入しているのである。

このように物質の移動ということだけを考えてみても、農産物貿易は輸出国、輸入国双方において環境に大きな影響……しかも悪い影響……を及ぼしている。地球環境の観点からしても、必然的に農産物の世界的な移動が今以上に増えることとなる貿易の完全自由化は望ましいことではない。(以上三輪睿太郎氏の諸著作にもとづく)


八 自由貿易は絶対善か

かつてリカードは自由貿易を唱え、イギリスの産業(工業)の発展の理論的基礎を与えた。しかしこの裏側にはイギリス国内における農業の衰退や、インド等のイギリスの植民地における織物工業の壊滅的打撃というマイナス面があったことも事実である。自由貿易となればイギリス本国には当時の植民地であった新大陸から穀物が安値でもたらされる。植民地インド国内の綿織物産業は合理化されたイギリスの綿織物に太刀打ちが不可能となり、あるいはイギリス側が力ずくでインドの織物産業を壊滅させたのである。パックス・ブリタニカの時代にはイギリス一国がそのメリットを得、植民地や発展途上国は必ずしもリカードの唱えたような利益を得ておらず、むしろ多くの犠牲を強いられてきた。

米国も世界の超大国となった今日でこそ自由貿易を主張しているが、歴史的には保護貿易政策をとった時代もある。自由貿易を唱えるのは自国が世界の超大国となったからである。しかも自国における競争力の弱い産業分野については輸出相手国に輸出の自主規制を求め、あるいは制裁措置をちらつかせる等自由貿易主義とは相矛盾する政策をもとるのである。

地球レベルでの交易が盛んになっている今日において、これと相反する保護貿易主義は世界を混乱に陥れることとなる。基本的には貿易の障壁は低いことが望ましい。しかし、ガットの場で主張され、また米国を中心とする世界中を席巻している極端な自由貿易主義というのも関係各国の健全な社会、経済の維持発展や環境問題への対応といった観点からは問題なしとはしない。日本や米国等先進各国における企業活動において、商道徳や経済活動に関するモラルが極度に低下しているのが実態である。輸出相手国においてその産業が重要である、あるいはその産業が衰微することにより失業等の大きな社会・経済問題を誘起する等の事情もかえりみることなしに、売れればよいとばかりに集中豪雨的な輸出を行う。このような形での経済活動は問題はないのであろうか。一国における産業のあり方については国それぞれのポリシーがあるはずである。しかし、モラルなき産業活動、なかんずく貿易活動が地球レベルで更に放縦に行われることには危惧の念を覚える。


九 輸出国・強国の論理

ガットの場における交易の考え方は、あまりに輸出国にとって有利に過ぎはしないだろうか。そこには輸入国の事情や考え方はほとんど考慮されない。あまりに自由放縦な交易が輸入国にもたらす国内産業の撹乱を単に国内市場をめぐる内外企業の競争ということで片付けてよいものであろうか。

ガットの場における米国とecの農産物の輸出補助金に関する協議は、即ち農産物輸出サイドの世界市場の分捕り合戦であり、そこには輸入国のことは全く考慮に入れられていない。

ガットの場では、牛肉や今回の米において見られるように、自由化しないことが何とか認められた場合でもその代償としてミニマムアクセスとして一定量の無関税での輸入が求められる。しかし逆に自由化した場合において、生産国において不作の時も一定量の輸出を保証するような逆ミニマムアクセスというものは考えられていない。

現在における世界貿易の枠組み、そしてガットの場における交渉の内容はあまりに欧米中心であり、わが国や特にアジア、アフリカそして発展途上国のことはほとんど考慮の外である。自由貿易とはいいながら発展途上国からの貿易要求には欧米は門戸を十分に開放しているとはいえない。

そして米国は自由貿易を他国に強要しながら、自らは牛肉等の輸入制限を行っている。またわが国からの自動車の輸入等においてみられるように、自らの不利な部門では相手国に自主規制を求め、制裁措置をちらつかせる。米の自由化をしても、米国自身は日本の輸出力の強い工業製品に対しては輸出自主規制を求めるであろう。世界中の各国における自由な貿易を唱えつつ、一方ではnaftaのようにブロック化を図ろうとする。

日本はガット・imf体制の下、工業製品においては輸出国としてその有利性を享受してきた。これにより工業製品の輸出力が強大なものとなり、黒字をためこむこととなった。これはガット体制が輸出国有利の原則に貫かれているからである。ガット体制の下で日本の工業の発展があったのだからコメも同じように自由化すべきだというのは、ガットの輸出国が圧倒的に有利であるという偏った枠組みにあるという認識に欠ける発言である。


十 不毛な国内政治

ガット・ウルグアイラウンドに関連して、あるいはそれ以外においても、これまでの政府や各党の言動を見ると、コメの自由化問題を含めた食糧・農業問題やその他の重要問題について的確かつ正しい対応をしているとは言い難い。国民のための議論の前に党利党略があり、さらにその前に自らの「票」の問題がある。ガット受け入れを容認した当時の与党のうち新生党、日本新党、公明党、民社党は既に票の基盤を農村ではなく都会においている。社会党ですらその基盤の中心は都市労働者である。早々にガットにおけるコメに関するミニマムアクセス受入れを容認したのは当然のことであろう。当時野党であった自民党ですら既に票の基盤は農村よりも都市部である。当時自民党は政府が下したミニマムアクセス受け入れを批判し、コメを守るように言っているが、もしその時自民党政権であったならば現政権が下したであろうものと同じ判断をくだしたであろう。野党であればこそ「自由化反対」と言っていられるわけである。

与党、野党を問わず、多くの政治家(屋)の心の中は何は国・国民にとって重要かではなく、どうすれば政権が維持できるか、票になるかだけしかないのである。一部には心ある政治家もいないではないが、志の低い政治屋の中で埋没してしまっているように思われる。社会党に一縷の望みを託すのみである(社会党内にも本音では自由化賛成の人はいるようだが)。


十一 あるべき農産物貿易

しかし、私としては農産物貿易を全く否定しているわけではない。貿易を含む経済活動において、それが恣意的な規制の下にある時、健全な活動が阻害され人々の生活や社会のありようを大きく歪めてしまう。日本においてはこれまで国内産業育成の観点から多くの規制があった。新規参入を制限することにより既存の企業を保護し、過当競争を避けてきた。現在において規制緩和を唱え続ける第二、三次産業もこれら規制により守られ、現在におけるような繁栄を見るようになったのも事実である。また、規制をすることにより関係する省庁の権威を維持してきたのである。現在でも表にはあらわれない数多くの規制が輸入障壁となっていることも事実である。公正に見て必要のない規制は改善されるべきである。

しかしだからといって総ての規制を悪いものだと決めつけ、それを撤廃しようとするのもこれまた極論である。競争阻害的な規制は撤廃すべきであるが、経済活動の公正さを保ったり環境破壊を防いだり、国民の生活の安定的な継続を確保するための規制は必要である。食糧に関する規制もこの観点から見る必要がある。

また、現在の日本を含む先進国における食に対する要求が多様化し、自国内で生産されるものだけでよしとすることはできない状況にある(しかし、本来的にはその時期に近くで生産されたものを食べるのが、一番良いということをもっと多くの人にわかってもらいたい気持ちもある。)。コーヒーや熱帯果実等の嗜好品的なもの、食生活の上で重要度の小さいものは輸入してもさして大きな影響はないだろう。それがなくても国民の生活や食文化の上では支障ないものは自由化してもかまわないし、これらは既に自由化されている。輸出国側としても自国内における食糧の供給を満たし、かつ生産余力があれば外貨獲得のために輸出作物も作って差し支えないであろう。

しかし、国民の生命の維持に関するものについては、その重要度に応じた国内生産の権利を有してもよいのではないかと思う。食糧、特にその国における主要な食糧(多くの場合、米や小麦等の穀物)はその最たるものである。食糧については、国民の食糧需要と生産量のバランスから食糧の主要部分を占める穀物についても輸入せざるをえない国もあり、そのような国においては一方で国内生産の基盤作りを進めることは必要ではあるが、一方当面の輸入は不可避ではあろう。また、自給している国においても適正な貯蔵により、作柄の変動による食糧供給への影響を回避するが、それでも対応できない場合には緊急避難的な輸入は認められよう。

しかし、それが置かれた背景も重要性の違いもわからずに、工業の産物である品々と農産物を同列に並べ、工業製品は自由化しているのだから米を含む農産物も自由化しないのはおかしいとするのはどこか違っているように思われる。

もちろん現在における食管制度等の保護措置が全てにおいて優れているとは言い切れない状態であることも事実である。あちこちに矛盾やほころびが生じてきている。国民の食糧の安定的な確保と生産・流通の自由という場合によっては相反する問題について、どのように折り合いをつけるかは極めて困難な課題でもある。しかし経済界や自由主義的考えの経済学者の主張するような極端な自由化は、国民の生命を維持するための食糧の確保という観点からは肯定できない。コメの貿易が自由化されれば商社等はこれまで以上にコメを儲けるための商品として位置づけるであろう。そこには「安全な農産物」、「安定した供給」、「安定した価格」という食糧に求められる特質は隅に追いやられてしまうであろう。食品の安全性に関する基準をより緩やかにしようとしているのは内外の商社や食品産業であることを忘れてはならない。


十二 農産物貿易自由化後の農業・食糧

ガット・ウルグアイラウンドの場においては、結果として日本は米の部分自由化を受け入れざるをえなかった。これは将来における米輸入の完全自由化への第一歩であるととらえるべきであろう。

自由化すれば当初は高い関税に守られるであろうが次第に関税は引き下げられ、国内の米はとうてい対抗できない。自由化すれば国内農業の競争力がつくとの論理もあろうが、大規模で極度に合理化された米国の農業とは格差がありすぎる。国内でどれ程がんばってみたところでコスト面で米国にはかなわないことは明白なことである。

自由化しても食糧の安全性等に関心がありかつ経済的に余裕のある人、あるいは経済力にものをいわせて高いものを買いあさる成金的な人以外は問題意識なしに、あるいは問題意識はあったにせよ、やむをえず安い外国産の米を買い求めるであろう。消費者も今でこそタイ米はまずいとしているが、次第に外食等で慣らされ、家庭でも使うようになるであろう。このように米が輸入されて時間がたてば、酒や味噌等現在では使いづらいと言っている所でも加工技術を工夫して使うようになるであろう。輸入した米が国産の米より安いとなれば、収益のためには原料価格を抑制したい外食産業や食品産業では真っ先にこれを利用し、消費者は知らず知らずのうちに輸入米を食べさせられることになる。

このように国内消費においても輸入米が定着すれば、その分だけ量的にも国内生産が圧迫されることになる。加えて輸入米との競争にさらされる結果、価格的にも下げることが求められ、小規模農家のみならず大規模専業農家や企業的稲作経営でさえも存立が困難となってくることが予想される。麦や大豆がたどった道を米もたどることになる。その時のわが国の食糧や農業に及ぼす影響は麦・大豆とは比べものにならない位に大きなものになるであろう。一旦このようになれば農業の再生は非常に困難で、ほとんど不可能であろう。そうなれば単に食糧のみならず水田により守られた環境・自然に大きな影響を及ぼすことになろうし長期的には勤勉・ねばり強いといった日本人の特質や文化にもそれが及んでくることとなろう。

食糧に求められるのは安定供給、安定した価格、安全性の3つの「安」である(あえて安価の安は採らない)。食糧の中でも嗜好品的なものを除いた主要なものについてはこれは特に重要である。

米が将来完全自由化すれば、そのかなりの部分が輸入されることとなり、かつその大部分が米国とタイ等の東南アジアの両方、あるいはその一方に依存することとなる。灌漑用水に依存し干ばつ等の影響を受けやすく、また企業的大規模農業化が進み儲からないとなればいつでも撤退することも辞さない合理的な米国。気候の変動による豊凶の差も大きい東南アジアの稲作。これらに全面的に頼ることは食糧の重要性を鑑みれば極めて危険であることは明白なことである。日本の稲作にしても豊凶の差はあるにせよ(本年を除いては)他の国々から比較すれば、品種改良や整備された生産基盤を土台として安定した生産をあげることができる。基本的に自給しているとなれば、本年の様な最悪の場合には一部を輸入に頼ることにより対応することができるが、国内の生産基盤がダメージを受け、ほぼ全面的に輸入するような事態となれば、米国やタイ等生産国の豊凶の影響をまともに受けることとなる。生産国にしても、不作の場合は輸出よりも自国の需要を優先するために輸出を制限することはめにみえている。

穀物のうち米は生産に占める国際流通量の割合は比較的少ない。小麦に比べても国内自給的な農産物である。従って一部の国の不作が国際的な米価格に大きく影響する。基本的な食糧がこのような不安定な価格であるのは好ましいことではない。このような中で需要量が大きく、かく購入力(経済力)の大きいわが国が購入サイドとして国際市場に参入することは日本以外の米輸入国においては更に深刻な問題となる。国際的に供給される米の量が変動する中で、日本がある数量を確保するとなればそれ以外の米輸入国に対する供給量の変動率はより大きなものとなり、同時に国際価格の変動もより大きなものとなる。このようになれば経済力の弱い発展途上国においては高騰した食糧の輸入が困難になり、飢餓の発生することも考えられる。このようにわが国におけるコメの輸入自由化はわが国のみならず、他の国々にも食糧確保に関して悪い影響を及ぼすこととなる。

3番目の安全についていえば、国内で生産するに際しては残留農薬等について規制し、監視することができる。しかしながら外国における生産に対しては打つ手がない。東南アジアに至っては農薬に対する十分な規制がなされていない。米国では日本では使用することができない農薬のいくつかが使われている。作物に米国における一人当たり米の消費量は日本よりははるかに少ない。このため、米に対する残留農薬基準は日本よりも緩いものとなっている。貯蔵中の虫害を防ぐために収穫後の農作物に殺虫剤を振りかけることもする。輸出するとなれば長時間の輸送の間の傷み(害虫による食害)を防ぐためにより多くのポストハーベスト農薬が使われる事は必然である。

主要な食糧を輸入に頼ることとなればこのような3つの「安」が崩されることになる。食は生命維持のための不可欠要素である。このような不可欠要素に「不安定(供給量、価格)」「有害」がもたらされることになる。

いずれにせよコメについてはミニマムアクセスを受け入れることとなった。当面の完全自由化はなくなったにせよ、これは問題が先送りされたにすぎない。次の段階としては自由化は必至であろう。私自身としてはコメをも含む主要な食糧については極力自給すべきものと考えているが、当面のミニマムアクセス及び将来の自由化がなされた時にはそれ相応の国内対策がとられなければならないとも思っている。コメの自由化に反対する勢力は、自由化された(あるいはミニマムアクセスを受け入れた)場合の国内対策を検討することは自由化(あるいはミニマムアクセスを受け入れること)を容認することにつながるからということで事前の検討を回避してきた。しかしそれではいざ自由化(ミニマムアクセス受け入れ)という時には十分な国内対策が行えないこととなる。やはり一方で反対しつつも、他方ではそれが叶わなかった場合の対策も事前に十分に検討することが必要である。

国内対策の一つとして、いかにして国内生産を減少させないようにするかが重要である。自由化後にいかに農家対策、保護政策をとろうともそれが生産の維持、健全な農業活動の育成といった本質につながるものでなければ真の農業施策とはいえない。そのためにかつては麦、大豆ともに自由化を契機として生産が激減した。コメについてもそうなる可能性が極めて大きい。

まずミニマムアクセス段階では、輸入米は作柄の変動による需給の不安定を調整するための備蓄として用い、しかも回転備蓄とし一定の期間を経過したものについては飼料用等の人間の口にするものではない用途に仕向けることである。また備蓄に必要な数量を超えるものについては直接に飼料用等とし、やむをえず醸造や米菓等の加工用に仕向ける場合でも国産米に見合う価格で払い下げることが必要である。

国内生産については上記の措置により輸入数量分がそのまま減反強化されるようなことがないようにしたい。基本的には国内産米は食用を満たし、かつ加工用もできるだけ国産米が使われるようにその分も含めて生産がなされることが望ましい。

地域別では、平地等の生産の大規模化、低コスト化が図りやすいところにおいては、農家個人や地域としての取り組みにおいてそれが推進されるような措置がとられることが必要である。そのためには農地の流動化の促進や、経営の拡大・合理化のための有利な資金措置(極めて低利な融資等)とともに農地法等による各種規制を見直しすることが必要である。農家がその知恵を働かせ、やりたいことをやるには現在の法律・規則や行政指導は制約が多すぎる。ただし企業(前にも記したように今の企業の多くは企業モラルに欠けている)が農業に進出することは避けたい。需要を超える生産力がある現在、一定の生産調整はやむをえないかもしれないが、これについても杓子定規的なところがあり、むしろ能力のある農家のやる気を削ぐようなところがある。土地の条件、農家の意欲に見合った生産を保証しつつ、条件不利地では米に代わる有利な作物の生産が将来とも継続して行えるようにしたい。間違ってもみかんのように生産を奨励して新植を促し、これが結実する頃には生産調整し、無理やり木を伐らせるようなことは繰り返してはならない。

一方中山間地等の大規模化、低コスト化が困難ないし不可能ではあるが、災害防止や環境保全の観点から水田の維持が重要な意味を持つところにおいては、これに加えてスイスにおいて実施している標高別乳価のような条件別米価設定や農家(水田)への直接補助等により稲作を維持することが必要であろう。

米の流通に関しては、ミニマムアクセスにせよ自由化にせよ外国からのコメが国内市場に流れ込んできた場合には、それが国産の米と偽って、あるいは国産か輸入物かわからないままに利用されることはないようにする必要がある。商道徳に欠ける日本の企業は必ずや国産米と偽る等して不正な利益を手にしようとするであろう。

また食糧の安全性の観点からは、残留農薬等の基準を米国等の要求に負けて安易に緩和するようなことがあってはならない。米国におけるコメは、多くの食物の一部を占めるにすぎない。そのような食物に対する残留農薬の基準を、日本において食事の重要な要素であるコメに適用することが間違っている。残留農薬については厳しくすることはあっても緩和してはならない。

またどのような国内での米生産に関する保護政策をとろうとも、国民が国内農業を支持しなくては長期的に日本農業は成り立ってはいかない。消費者のかなりの部分は食糧・農業の重要性については十分な知識・認識がない。このような中で経済評論家等の多くの人(それらの人々の多くもが食糧・農業の重要性についてよくわかっていない)がテレビ等において自由化は絶対善であり、競争により国内農業も強くなる、食糧の輸入も何等問題はない等の発言をすれば国民の多くはそのように思ってしまう。より豊かな生活のための経済活動と、人間生存の根源に関係する食糧・農業とどちらが大切かということについて国民全てが正しい認識をすることが必要であり、これを国民に対して適切に伝えることが国や関係団体そしてマスコミにも求められる。


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