top > 私たちにとって「食」と「農」とは > 第七 有機農業について考える


**この項の目次**


現代の農業を考える時、その効率的な生産、多収ということは経営的には最も重要な事柄であり、そのためには肥料というものを無視することはできない。農作物を収穫するということは、それ相応の物質を農地から収奪することである。そこから永続的に収穫を得ようとするならば、少なくとも収穫物として収奪される成分は何らかの形で農地に戻してやらなければならない。そうしなければ作物が育とうとしても、土壌中からは必要な成分が枯渇してしまい、そこから十分な収穫を得ることはできない。

農地以外の自然の大地ではどうであろうか。植物は窒素や燐、カリウムやカルシウム等の成分を土壌から吸収する。そして植物が枯れたりしたもの、あるいは落葉や枯死した古い根等、さらにはその植物を食べた動物の糞や死骸は大地に還元される。そして大地に還元された物質により次の世代の植物や動物が育つ。ひとつの物質循環システムができている。日本のように降水量の多い条件では、雨水による溶脱、流亡もあり、また窒素成分の二酸化窒素やアンモニア等としての揮散もあろう。しかし、他方土壌鉱物の分解による供給や、微量ではあるが雨水による供給もある。マメ科植物と共生する根粒菌のように、空気中に豊富にある窒素を固定して植物に供給してくれるものもある。これらは「天然供給量」と呼ばれている。これは当然ながら農地にも部分的にはあてはまることである。また日本の農地の多くを占める水田においては、流入する用水に含まれる成分も無視しうる量ではない。これらのような外部からの供給が、溶脱や流亡等による系外への流出を補っている。

しかしながら、農業はこの循環系から農作物として多量の成分を持ち去る。当然ながら、持ち出される成分は補わなければならない。天然供給量だけで間に合うものではない。今日一般的となった化学肥料が発明される以前は、何によってまかなわれていたのであろうか。まずそれは「刈り敷き」と称する農地周辺の山林や原野から供給される落葉や刈り草であった。しかしそれらも換言すれば、より広い面積から供給される天然供給量にほかならない。堆厩肥についても刈り草や、農産物の収穫に付随して農地から搬出された農場副産物(日本では稲わらがその代表的なものである)が形を変えたものである。これらは自然の体系の中で形作られたものであり、自然の世界にも不偏的に存在するもの、あるいはそれに極めて近似したものであるだけに、自然な形で土壌に受け入れられる。

農業も一方で大地に人為を加えて行う営みではあるが、他方自然の大きな力に依存しなければ行いえないものでもある。人為を加えるということを拡大解釈すれば、生産物を得るためならば、どのようなことも行い得る。自然の土壌の植物育成力では物足りない、全てを人為的にコントロールしたいとばかりに、本来植物を物理的、化学的に支える土に依存することをやめた水耕栽培等さえも行われる。農地に依存する普通の農業にあっても、収量を高めるために、人為的に合成された化学肥料をふんだんに使い、病気や害虫を防ぐために農薬がふりまかれる。これが現代の農業の一般的な姿である。農業は自然の力を借りながらも、そこから本来自然が有していた以上の恵みを得ようというのであるから、収穫を増加させるための、人為による何らかの働きかけは不可欠ではあろう。しかし、その人為が度を過ごした時、「自然」は次第に不愉快になっていくのではなかろうか。いくら農薬を撒いても絶えることはない病害虫、連作障害、ハウス等における塩類集積、農産物中の残留農薬や硝酸塩…。自然は何ゆえに不愉快になるのであろうか。それは農薬や化学肥料等本来自然にはないものを、自然と人間との共働の場である農地に、そして農作物に加え始めたからではなかろうか。もちろん、自然物であっても度を過ごせば問題となる。自然物でないものでも、それがごくわずかであり、自然のメカニズムの中で採集的に分解・処理できる範囲である時には、「自然」の感ずる不愉快感はさほどではなかったであろう。しかし、収量を高め、品質(見かけ上の)を良くしようと、人間は肥料を、農薬をどんどん使うようになった。こうなれば、たとえその場における収穫は期待どおりの量、品質であったにせよ、残留農薬や土壌の物理化学性の悪化等、目に見えない所に問題は発生してきている。即ち自然に対する負債が積み重なっていく。農業は本来的には将来に向けて持続することを前提とした営みでなけれならないはずである。単にその時点での最大収益だけではならない。この点で現在の農業のありようを見る時、そこに問題なしとはいえない。

農業も本来は今でいう有機無農薬栽培だったはずである。農業において工業の論理が導入され、生産効率が声高にいわれるようになり、化学肥料や農薬が使われるようになってから、農業サイドにおける「農業は自然との共働」という考え方が失われていった。そのしっぺがえしが農産物や水系の農薬汚染、あるいはアトピー性疾患といったところにでてきている。

このような現代農業に対する反省から、化学肥料や農薬を使わずに、堆肥等の有機質肥料を使い、伝統的な農法を現代に蘇らせようとする試みがなされ、農業全体の中ではまだ主要な地位を占めるまでには至っていないものの、無視しえない存在となっている。食べ物に安全を求める消費者の底固い支持もあり、今後ますます伸びていくことが期待される。

ここまで、化学肥料を使わない農法と、農薬を使わない農法の双方について一緒に述べてきた。しかし用語上では両者は別の言い方をされる。前者は「有機農法」、あるいはこのような農法による農業を「有機農業」といわれている。後者は「無農薬栽培」である。従って「有機」だけれども農薬を使う方法や、逆に化学肥料は使うけれども農薬は使わないという方法もありうる。化学肥料も農薬も使わない農法を特に「有機無農薬栽培」という。

今日における農作物の栽培は、化学肥料や農薬の使用を前提として発達してきた。品種改良にしても、収量やみかけの良さ、時期外れの生産等に重点をおいてなされ、病害虫抵抗性については、この一部を農薬に依存することを前提としていることも多い。虫食いや病斑のあるものは、消費者は買わないし、それ以前に流通段階で買い叩かれる。このため、農薬にしても、全く使わずに病害虫の被害を全くなくするのは難しい。農薬にしても、できるだけ使用量、回数を少なくした「減農薬栽培」というものもある。肥料においても、できるだけ堆肥等を多く使いながらも、補助的に化学肥料を使う例も見られる。農薬や化学肥料の使用量を減らし、あるいは全く使用しない農業というものがもっと一般化することが望まれる。そのためには低〜無農薬や有機栽培を考慮した品種改良や栽培技術の改善を図り、有機栽培、無農薬栽培が安定的に行えるような栽培技術体系が確立されることが必要である。また別項にも触れたように、私たちの排泄物が肥料として農地に還元されるシステムが構築されることも必要である。このようなことを通じて農業における自然との共働を再度望ましい姿に再構築することが重要であると考える。


有機農業、無農薬栽培における最も大きな技術的課題は肥料、そして病害虫と雑草の問題であろう。

日本の農業における最初の肥料は山林や原野から刈り取ってきた草を肥料とする「刈り敷き」であった。後には直接田畑に施用するのでなく、一旦堆肥として発酵させたものを施用することになる。家畜がいればそのふん尿と敷藁を堆積し発酵させた厩肥とする。鎌倉時代頃からは一層の生産性向上の必要性からそれまでけがれたものとして田畑には入れられなかった人糞尿も肥料として使われるようになった。後には大都市江戸の屎尿や灰(当時の燃料は薪や炭であったからその灰は有効なカリ肥料になった)、あるいは藁縄の切れ端に至るまで肥料となりうる資源はそれぞれを集め、農村に供給する専門の人々がいた。しかし最も多く使われたのが堆肥や厩肥である。これは稲藁や野草、あるいはこれらを家畜の敷料としたもの(家畜の尿がしみこみ、糞が混じっている)等を堆積し発酵させたものである。よい発酵をさせるためにはある程度大きく積み上げる必要がある。その作業も大変である。しかも積み上げただけではだめである。一旦発酵したものでも上と下、周囲と内部では発酵の程度が異なる。全体を十分に発酵させるためには堆積したものを切り崩し、再度積み上げる作業を数回繰り返す必要がある。水分を含んだ堆肥やその材料は重い。そして調製過程では強烈な臭いもあるし、人や家畜のふんや尿を材料とするものは汚物感もある。大変な作業である。今日ではトラクターに装着した装置や堆肥取り扱い専用の農機具もある。しかしそれでも手間がかかり、きつい仕事であることには変わりはない。若い人達が農業を嫌う原因の一つであり、堆肥が製造されなくなった理由の一つがこのような作業の手間と悪臭である。化学肥料の使用が一般化し、堆肥が使われなくなったのにも一理ある。有機栽培を行おうというのは、このような堆肥の調製からして大変なことである。

もう一つの問題である病虫害について考えてみよう。日本の気候を考えた時、それは高温多雨という植物の生育にとって誠に好都合な条件なのである。このことは人が栽培しようとする農作物だけではなく、他の植物にもあてはまる。人間が栽培する作物と同じ場所で、他の植物が旺盛な生育をしようとすれば、太陽エネルギーや土壌中の栄養成分に関して競合してしまうことになる。人間が栽培しようとする作物の方が雑草との競合に負けてしまうことの方が多い。

作物とは人間が人間の都合の良いように変えられてしまった植物である。人間にとって都合の良い特質を付与された経過の中で、他の植物との競争力といった植物が本来有すべき特質が弱められてしまった。作物栽培における他の植物とは即ち雑草である。除草剤を散布せず、雑草も取らないでおくと、雑草の方が作物よりも旺盛な発育をしてしまうこともしばしばである。このような条件で作物を栽培し、収穫を得ようとするならば除草を行わなければならない。トラクターに装着する中耕除草機もあるが、すべての作物に適応できるわけではない。軟弱蔬菜等人手にたよらなければならないものもある。

秋に発芽し、冬から春に生育する冬型雑草の場合は寒さに耐えるために冬の間は背も低く、作物に及ぼす影響は相対的に小さいが、春の気温上昇とともに一気に大きくなる。夏型雑草の場合は冬型雑草以上に生育も旺勢ですぐに栽培している作物よりも大きくなってしまうものも多い。このため春から夏にかけての暑い時期における除草作業が重要であるが、これはつらい仕事でもある。しかも一度取ってしまえば良いというのではない。雑草の種子は数限りなく土の中にある。そして次から次へと芽を出してくる。何度も除草を行わなければならない場合が多い。わが国の農業が雑草との戦いであるといわれるのも道理である。

高温多湿の条件で発生する病気や害虫も多い。作物は野生植物から作物化の過程の中で病虫害抵抗性をかなりの程度犠牲にしてきた。植物というものは本来、苦みや渋み、そして植物によっては有毒物質を含み害虫に食べられないようにしてきた。また外皮を固くし、クチクラ層を発達させる等して病原微生物の侵入を防いできた。野生植物を作物とすることは品種改良の中で収量の増加とともに苦みや渋みを除き、有毒物質をなくすることであり、柔らかく食べやすくすることでもあった。すなわち作物は、そのもととなった野生植物よりも病気や害虫の被害を受けやすいのは当然のことである。特に近年は消費者うけをねらって味のよいものを作ることに拍車がかけられてきた。これは殺虫剤や殺菌剤の発達を背景として、これをふんだんに使うことが前提となっている。このことにより害虫や病気にわずらわされることなく品質のよい農産物が生産されることとなった。除草にしても除草剤により、その手間が激減することとなった。しかし農薬にはこのような光の部分だけではない。残留農薬の問題がクローズアップされるようになってきた。農薬を含む多くの化学物質が自然の食物連鎖の中で濃縮されることがわかってきた。明らかな中毒症状を引き起こす程の量ではなくとも微量の化学物質が遺伝子を傷つけ、あるいは精緻な生体メカニズムに微妙に影響することがわかってきた。農薬の害を受けるのは食品中に含まれる農薬を摂取する消費者以上にこれを散布する農家である。毎年農家の農薬による事故が後を絶たない。

このようなことを背景として農薬を使用しない無農薬栽培が注目されるようになった。しかし前述したように、病害虫や雑草との戦いが大きなウエイトを占める日本の農業にあって農薬を使わない農法は極めて難しいことでもある。消費者は自らの健康のために無農薬や有機農産物を求めるが、これを栽培する側は多くの努力を重ね、時に病気や害虫による被害も覚悟しなければならないという生産サイドの実情も理解してもらいたいものである。


農業は農業技術の進歩に裏うちされて進歩してきたが、農業技術の進歩の一つは前項でもとりあげた雑草や病気、害虫対策だといってよいだろう。雑草については最も初歩的な技術としては人手で除草することである。しかしこれは非常に手間がかかるものである。特に高温多雨で作物の生産力も高いが、他方雑草の生育もこれに劣らず盛んな地域(東アジアから東南アジアのモンスーン地帯が代表的であり、日本もこれに含まれる)では除草作業が栽培管理の大宗を占めるといってよいであろう。草取り用に鎌や鍬等が使われるようになっても、人手に頼ることには変わりはなかった。「上農は草を見ずして草を取り、中農は草を見て草を取り、下農は草を見て草を取らず」という言葉にあらわされるような日本人の潔癖症的な「一草たりとも残さず」という考え方がこのことに拍車をかけた。高温多雨の条件は病気や害虫の発生を促すことにもなる。稲をとってみてもイモチ病やウンカ、ヨコバイの類を始めとした病虫害にどれだけ悩まされてきただろうか。

このような東アジアの農業と対象的なのが西アジアから西欧、そして新大陸における乾燥地帯において発達した農業である。ここでは生産性は低いが雑草・病虫害も少ない。多くの面積を少ない労力で管理し、生産することが合理的である。これに対してこのような生産力は高いが、雑草や病虫害の発生も多い条件の下では必然的に手間をかけ、多くの労力を投下しなければ十分な生産をあげることはできなかった。まさに労力と手間によって維持されてきた農業なのである。除草に関しては耕耘機やトラクターに装着された中耕除草機が現れたが、この除草作業が一挙に軽減されたのは何よりも「除草剤」の利用によるものである。この除草剤はもとより、殺虫剤や殺菌剤等の農薬という救世主が現れることにより、ほとんどの農民がこれに飛びつくことにもなる。近年の農業は生産の合理化、生産コストの低減を図るなかで、このような病害虫や雑草との戦いを農薬に委ねてしまった。しかし農薬は救世主ではあったが、同時に目に見える形であれ、はっきりとは認識されないけれどもじわじわとあらわれるような形をとるものであれ副作用として非常に多くの問題を生ずることにもなる。

更には日本経済の発展が第二、三次産業中心になされ、その中で農業の生産性が相対的に低下していく中にあって、他産業並、都会並の豊かな暮らしを求める中から兼業化が進み、多くの農家にあってはむしろ主たる収入源は兼業部門から得るようになってしまった。そのようになれば必然的に農業に割く時間も少なくなり、綿密な栽培管理は難しくなっていく。病気や害虫の発生具合を見ながら、必要に応じて農薬を撒くのではなく、農業改良普及所や農協があらかじめ栽培暦を作成し、病害虫の発生の有無にかかわらず、あらかじめ決めたスケジュールに従って農薬を散布することになる。栽培暦に従って農薬を撒いたのに病気や害虫が発生したとなれば普及所や農協の責任が問われることになる。栽培暦を作る側からすれば安全を期してより多くの農薬をまくようになる。それが農協であれば農薬の販売の増加にもつながる。このようにして多くの農家はほとんど土を見ず、作物を見ず、病気や害虫を見ずに栽培できる。しかしその反面、農薬の被害(目に見える被害や、じわじわと自然界の動植物や人間の体内に蓄積されているものを含めて)が発生することにもなる。

このような中から無農薬栽培、有機栽培をめざす人があらわれてきた。そのさきがけとなったのは昭和四十年代半ば頃であった。しかも極めて一部の人達であり、周囲からは奇異の目で見られたという。周囲に賛同者はほとんどいない。行政や農協の支援も全くない。多くの努力が重ねられたであろう。現在ではこの潮流はより大きなものとなっているが、それでもまだ国内の農業生産の一部でしかない。

有機農産物は単に農薬を使っていないので安全であるということにとどまらない。肥料や農薬、農業機械の使用等多くの石油エネルギーを投入し、しかもそこから得られるエネルギーは投入石油エネルギーの数分の一という現代の農業の新たな展開方向を示していると思われる。この点からも期待したい。

しかし有機栽培、無農薬栽培の農産物がより高く売れるとなると、普通に農薬や化学肥料を使って栽培したものに有機農産物等と偽った表示をする不心得者が出てくる。儲けのためには手段を選ばない今の世相をあらわしているといえよう。嘆かわしい限りである。


農林水産省も近年における有機栽培、無農薬栽培の動きが盛んになり、反面これに悪乗りする者もでてきたのに対応して「有機農産物等に係わる青果物等特別表示ガイドライン」を策定した。ここにおいては①有機農産物、②転換期間中有機農産物、③無農薬栽培農産物、④無化学肥料栽培農産物、⑤減農薬栽培農産物、⑥減化学肥料栽培農産物に区分して表示することとなっている。このことは、有機栽培による農産物であることを適正に表示し、流通の促進・適正化を促すものであることにはなるが、一方このような六種類もの区分をすることにより消費者において一層の混乱を招く恐れが多分にある。「有機農産物」はよいとしても「無農薬栽培農産物」や「無化学肥料栽培農産物」を有機農産物と勘違いすることはないのだろうか。減農薬あるいは減化学肥料といってもどれ程減らしたのか消費者には伝わってこない。本来それらの使用量の多いところではそれを減らすことにより「減農薬」や「減化学肥料」と表示できたにしても、元々それらの施用量の少ない所よりは多いかもしれない。「転換期間中」とはどういうことなのか知らない人が多いし、十分には知らされていない。どのような有機質肥料をどれだけ使ったら有機農産物といえるのか、農薬の使用はどうなのか等について消費者にはよくわからない部分が多い。

一方で農薬や食品添加物の問題がいわれており、消費者における安全な食料品を求める動きも活発になってきている。消費者の要望とこれに応える農家の取り組みにより有機栽培もかなり見られるようになってきたが、一方でこれに悪乗りし、有機栽培でもないのに、あるいは堆肥や有機質肥料を少々入れたからとして有機栽培農産物として表示して売りこもうとする動きも見られる。

このような悪乗りを許す背景のひとつに有機栽培ということで付加価値がつき、高く売れる一方、その「有機栽培」や「有機農産物」というものの定義に十分な明確さがないことである。農林水産省におけるこのような基準がだされる以前は、少々の堆肥を入れただけで有機栽培を名乗ることもできた。このことに限らず日本という国の産業は規制があれば何とかへりくつでくぐりぬけ、そこで利益を得ようとする。そこで規制する側は規制をより精緻なものとし、規制を遵守させようとする。産業のサイドはこれをいかにしてくぐりぬけようかと更なる知恵をめぐらす。行政は規制により本来の目的を達成することよりも規制を遵守させることに心をくだくこととなる。ここに本来の目的が見失われることになる。有機農産物についても下手をするとこの道を歩きかねない気がする。


稲や野菜等の農作物の品種は多収、高品質をめざして品種改良が進められてきた。ある病気に対する抵抗性を有する品種もあるが、一般には耐病性については農薬に多くを依存してきたといえよう。高品質ということは例えば甘みが強い、軟らかい等一般に病虫害に弱いという側面を持つ。多収ということに関しては化学肥料の施用ということが前提となっている。栽培技術面からも作物の生育と各段階における最適施肥必要量を解析し、これに基づく施肥設計をしてきた。必要な時期に必要なだけの肥料成分を吸収させるためには緩やかな効き目の有機質肥料ではなく速効性の化学肥料ということになる。例えていえば私たちが栄養をとるのに食物からではなく、これらから精製・抽出し、あるいは合成した栄養剤を服用するようなものである。そうすれば計算したとおりの栄養が摂取できるというわけである。

化学肥料や農薬の施用を前提として育種改良された品種を使って肥料だけを有機質肥料とし、農薬を使わずに栽培すれば生育が十分でなく、加えて病虫害の発生もあり収量や品質の低下はまぬがれないであろう。もちろん堆肥等の土壌改良効果を有する有機質肥料の連用により土壌の性質が改善されてくれば根の活力も増し、加えて病害虫防除のための適切な栽培管理がなされれば遜色ない収量や品質を得られる可能性もある。有機栽培の野菜や果物は味が濃いとして高く評価されるということもある。今後は有機栽培のための品種も育成されるであろう。しかし、マクロ的には収量のある程度の低下は避けられない。米については、有機栽培によりマクロ的に減収する分は一層の減反緩和により対応可能であるように思われる。近年の不作により減反が緩和されたとはいえまだまだ水田に復する可能性のある面積は残されている。また、有機栽培稲作では一般の水田よりも冷害等の影響が少ないともいわれており、豊作年のピーク値や平均値はやや低いものの不作の程度も少なく、全体的な不足分が面積増でカバーされるならば、安定性が求められる主要食糧としてはむしろ好ましいともいえよう。

ヨーロッパにおいては有機農業を奨励し、これに奨励金を交付している国もあるという。日本においてもこれにならい一定の奨励制度を設ければ有機農業の振興となり生産量確保もより容易になるものと思われる。 特に主要食糧である米についてこのことが望まれる。

また野菜等の集約的栽培がなされる作物では有機栽培による付加価値は高く、より多くの農家の参入により全体生産量の確保は可能なのではないか。もちろん早期の普及を図るために何らかの奨励制度が実施されれば更に望ましいことはいうまでもない。

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えてして有機農業というとその良い面ばかりを見がちである。特に消費者側はそうである。特にわがままな消費者に限って、それを生産するのにどれだけ苦労するかについての洞察もなしに、自分さえよければよいとの考えから有機栽培による農産物を求めることになる。しかし有機農産物は一般の農産物に比べても苦労がある。通常の化学肥料や農薬を使った栽培から急に有機農業に切り換えられるものでもない。特に切り換えた数年間は土壌も有機栽培向きに改善の途中であり、病害虫や雑草には特に悩まされることになる。土壌や農家における栽培技術が安定した段階に入っても病害虫や雑草の問題はついてまわっている。消費者はこのことを知らない。一挙に無農薬・有機栽培に行くことが難しい場合も多い。そのような場合は農薬を減らした減農薬栽培等の段階を経ることとなる。状況によっては当面この段階で生産を続けざるをえない場合も多い。有機栽培に移行したとしてもそこで生産した農産物も当初は「転換期間中有機農産物」となる。

生産現場を知らない消費者は「減農薬とはいっても農薬を使っていることに変わりはない。無農薬よりも一段レベルの低いものだ。」等と思いがちである。減農薬の農産物を作っている農家においても、最大限の努力をしている。このような努力を見ることなしに、自らの都合やわがままで無理難題を農業サイドに押しつけがちである。消費者はもっと大きな気持ちで農業を見守ることが必要に思われる。たとえ農薬や化学肥料を使って作った農産物であろうとも、自然の恵みであることに変わりはない。残留農薬の問題にしても普通に食物を摂っている限りほとんど問題はないといってよい。普通の米や野菜等(化学肥料や農薬が使われている)も美味しく食べ、しかし今後の食糧・農業のために有機栽培を支援していくという態度が求められるように思う。わがままやエゴイズムではなく、優しくおおらかな態度で接することが必要に思う。


有機農業の実践者はかつては周囲から奇異の目で見られた。中には独自の哲学を振りかざす人もいた。同じ有機農法とはいえ、人によりその内容は様々であった。家畜のふん尿を材料とした堆肥を使う、あるいは植物の茎葉を材料とする堆肥しか使わない。何か独自なものを使わなければならない、あるいは使ってはならない、独自の微生物を使わなければならない等々。しかし、化学肥料万能の農業の有様が問題とされ、将来は有機肥料をもっと有効に利用し、化学肥料の使用を抑えていく必要がある中で、余りに独自の手法等に固執するのも問題なしとはしない。やはり普遍的に、誰でもが調製・利用できるものを基本とし、独自の手法はそれを一層改善するための一手段としてとらえることはできないだろうか。そのようにしてこそ有機農業は一層裾野の広いものとなるように思われる。

現在の農業は化学肥料や合成樹脂を利用した被覆資材、更には高性能な農機具等高位生産性をめざす技術により成り立っている。しかしそれは石油エネルギーを大量に消費するものとなっている。既にマクロ的には、日本の農業は農産物に含まれるエネルギー以上のエネルギーを人為的に投入することにより成立している。化石燃料の有限性を考えれば、何とかしなければならないのは当然である。しかし全世界において今すぐに農業における化石燃料の使用を削減すれば、全人口を養いえないのも事実である。施肥面だけをとってみても、有機農業で相当の高い生産量を確保できるのは日本のような高い農業技術と、そして何よりも飼料として輸入される窒素や燐のような肥料成分が大きな要素となる。家畜ふん尿を「産業廃棄物」としてではなく、最大の肥料資源としてとらえ、一層の有効利用を図らなければならない。しかし今でこそ農地に十分に還元されず環境を汚染しているとされる家畜ふん尿でさえも、輸入飼料が全くなくなってしまえば(それは世界の人口と食糧資源、そして米国における農業生産基盤が緩やかに劣化していることを考えると、長期的には荒唐無稽な話ではない)、国内における物質循環だけで畜産を維持しつつ、耕種農業においても高い生産性を確保するのは困難なように思われる。とはいえ、このことが表立って問題となるのは今後五十年ないし百年であろうし、それに至る今後数十年ということで考えれば、畜産サイドで処理に窮しているふん尿を耕種部門で有効に活用することこそ望ましいことであると考える。そのためにも有機農業の一層の展開が期待される。また、将来的に家畜の飼料も含め、農産物の輸入に支障をきたすようなことになれば、国内農業で、しかも輸入される肥料や燃料なしで国民を養わなければならない。その場合は現在の人口すべてを養うことは不可能であろう。しかしその時行い得るのも有機農業しかない。限られた国内資源を活用して、いかに多くの農産物を生産するかがそのときまでに課せられた課題である。

また、現在のような化学肥料や農薬に依存した農業が、今すぐ全面的に有機農業に移行するのは困難であろう。しかし周囲から奇異の目で見られていた有機農業が今では立派に存在意義を認められるようになってきている。これが量的にも農業全体の中で無視し難い位置付けになるのも、消費者や行政、そして何よりも農業に携わる人々の努力次第では十分可能であるように思われる。そのような段階を踏まえ、有機農業が着実に進展していくことを切に期待する。


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