top > 私たちにとって「食」と「農」とは > 第六 畜産について

**この項の目次**


私たちは体を維持し、活動するために食物を摂取している。食品の中では穀類や芋類等のような澱粉質食品、野菜や果物、砂糖や油脂、等々とともに動物性蛋白質の給源としての魚介類や畜産物(肉類、乳、卵)は重要な地位を占めている。

かっての我が国は温暖・湿潤な気候風土の中で穀類、芋類等豊富な植物質食糧資源が得られたことを背景として、またインドに興り中国を経て伝来した仏教の影響もあり、肉食は忌避されていた。一部では薬喰いと称して食べられたりもしてはいたが、一般庶民には縁遠いものであった。

明治以降においても、それまでの食習慣や生活水準等もあり畜産物の消費は微々たるものであった。一般の人々にとっては高価な畜産物を食べるよりも先ずエネルギー源となり、また相対的に価格の安い米等の澱粉質食品を摂取する方が優先された。

畜産物の消費が飛躍的に伸びたのは第二次世界大戦後である。これは敗戦による米軍の駐留等を契機とした急激な欧米文化の流入と、昭和三十年代以降における高度経済成長による所得水準の大幅な上昇を背景としている。

しかしながら、このような中で我が国の食生活、食文化は完全に西欧化してしまったわけではない。現在においても「日本型食生活」といわれるように、米を主体とする穀類の消費は多く、肉類の摂取量は欧米にはるかに及ばない。

これは我々日本人が元来農耕民族であり、長い間米食に慣れ親しんだ民族の記憶もある。また、米そのものが美味であり、かつ栄養的にも優れていることもあげられよう。栄養的には小麦に含まれるたんぱく質を構成するアミノ酸はバランスが悪く、健康を維持するためには動物性たんぱく質の摂取が不可避であるのに対し、米においては含有アミノ酸のバランスが比較的優れており、動物性たんぱく質の摂取必要性が比較的小さいということがいえよう。

さらに我が国は海岸線が長く、海も比較的穏やかなために魚介類が得やすかったことや、優れたたんぱく源である大豆を食生活に活用していたこともあげられよう。

このような背景のもとに明治以降、特に戦後に消費が拡大した畜産物についても、わが国における食生活の中では副食の中のいわゆる「ごちそう」としての位置づけにとどまり、欧米におけるごとく大量に肉を食べるということには少なくともここしばらくはならないだろうと思われる。

このように穀類を主体とする食事に畜産物が組み合わされ、先にも述べた現代における「日本型食生活」が形づくられてきたわけであるが、これが栄養のバランス、いわゆるpfcバランス(p:たんぱく質、f:脂肪、c:炭水化物)においてもわが国の「食」が極めて優れていると評価されている。

畜産物は「ごちそう」であり、所得水準=消費水準が上昇すればおいしいものを食べたいということから、最近においてはわが国においても(欧米には及ばないが)脂肪の取り過ぎがいわれるようになってきている。しかし、畜産物は良質な蛋白質を含んでいる。食べ過ぎにならないよう気をつけながら賢く畜産物と接したいものである。


江戸時代まではわが国では一般には肉食の習慣はなく、このことから日本の歴史においては畜産は縁のなかったもののように思われるが、平安時代あるいはそれ以前においては一般の人達が日常的に口にするものではなかったにせよ、畜産が行われており、肉も食べられ乳も搾られていたという。

日本にも大昔は野生の牛がいたと推定されている。しかしわが国においてこれを家畜化した形跡は見られない。家畜化された牛馬が古来中国大陸よりもたらされたと推定されている。そしてこれは初めは支配階級の所有であり、一般庶民の手の届くものではなかった。考徳天皇(在位六四五〜六五四年)の時代に中国からの渡来人である福常(善那ともいう)が天皇に牛の乳を搾って献上し、福常の子孫は代々乳搾りの役職についたといわれている。また家畜を飼養のためには「馬飼部」、「牛飼部」、「猪飼部」、「鳥養部」といった専門集団がおり、各地に「牧(まき)」という今でいえば公設の牧場がおかれ、既にかなりの範囲で牛や馬等が飼われていた。牛馬は食用というよりは役用であったが、天皇や貴族等高貴な人達の食用とするために乳が搾られ、「蘇」(乳を濃縮した練乳のようなものであるといわれている)等に加工して納められていた。ちなみに酪農の「酪」も当時の乳製品の一つであり、また今日「醍醐味」という言葉で知られる「醍醐」とは粉乳、バター様のものあるいはヨーグルトのようなものと諸説あるが蘇をさらに精製加工したものといわれている。非常な美味であったろう。この他に干し肉、肉醤等も加工され、食べられていた。

このように家畜が飼われるようになると、庶民も時にこれを食するようになったであろう。六七五年「牛馬犬猿之宍(しし=肉)を食うこと莫(なか)れ」という天武天皇の詔勅が出された。同様な殺生の禁令はこの他に何回となくだされており、このことは逆にいえば一般の人々がこれらの肉を食べていたということにもなる。当時の牛馬の主要な用途は食用ではなく軍用、交通用、運搬用、農耕用であり、これを食用に供することは、生産用具が食べられ、なくなってしまうことを意味する。また当時広まりつつあった仏教では殺生禁断の思想があり、この影響もみられる。

平安時代も末期になると中央の貴族の勢力が衰え、代わりに各地では武士が台頭してくる。貴族や寺院のものだった荘園も、次第に武士の勢力下におかれるようになる。貴族階層しか食べることのできなかった畜産物は貴族の没落とともに、日本における「食」から姿を消すことになる。これには仏教の殺生禁断の思想が、時代を経るにしたがって人々の心の中により強く浸透したこと。そして魚や豆といった蛋白質資源に恵まれた風土が背景となっている。このようにして食品としての畜産物とはほとんど無縁な時代が明治維新までつづく。

日本において畜産物が食べられ、畜産物を生産する産業たる畜産が行われるようになったのは明治になってからである。明治維新の後、西欧の文明が急速な勢いで流れ込んできた。西欧の食事、あるいは味付けには伝統的な醤油や味噌を用いなながらも、それまでほとんど食されたことのなかった牛肉を材料とした牛鍋等が流行することになる。牛乳も飲まれるようになる。しかし、それらはまず東京をはじめとする都市部から始まった。農村部にはまだそのような洋食、肉食が根付くことはなかった。都市部が経済的にもより高い水準にあったことに加えて、都市住民の先取の気性、革新性、新奇なものを好むという性格と、農村の全てにわたる保守性といった違いによるものであろう。そして消費のほとんどが都市部でなされたこと、そして当時は冷蔵庫もなく畜産物の長期保存が困難であったこと等から、家畜を飼い、生産された畜産物を加工・販売する畜産業は都市の内部やその周辺に立地し、野草や稲わらといった飼料資源に恵まれた農村部には畜産物生産のための畜産は成立しなかった。近代における畜産の成り立ちから見ても、飼料は自給ではなく、外部から購入するものという体質があった。


第二次世界対戦後、特に高度経済成長を契機とする国民所得水準の上昇は、畜産物の需要の増をもたらした。そしてそれは牛肉、豚肉、鶏肉、牛乳、鶏卵といった畜産物の生産拡大を後押しすることとなった。これらのうち鶏は ① 粗飼料に依存せず、輸入穀物等を原料とする濃厚飼料のみを給与すればよいため土地基盤を必要としない、 ② 世代交代が早いことから育種改良技術が進み、多くの形質の揃った個体を揃えられるといったことにより、他の家畜に比べて早くから大規模な工業的畜産といった様相を呈することとなる。

「物価の優等生」とまで言われた鶏卵はその最たるものである。かつての鶏卵は農家の庭先で飼われていた鶏の産んだものであった。今は本格的に育種改良が進められ、数万羽の鶏がケージで飼われ、目の前に運ばれてくるエサを食べて産んだものがパックされ、スーパー等に並べられる。ここでの育種改良の目標は「美味しい卵」ではない。いかに少ないエサで卵を産むかであり、コストをいかに安くするかである。

育種改良の手法については、いくつかの親系統を交配してその子ないしは孫を利用するという雑種強勢を利用した技術が植物であるとうもろこしにおいて発達したが、この技術を一番先に応用した家畜が鶏である。孫を利用するものであるならば、その二代遡った祖父母にあたる四系統は門外不出とし、その子(最終的に生産に利用するものの親)のみ供給するのである。最終生産者たる農家は、その優れた品種特性によるメリットを享受しようとすれば、永遠に親を購入しなければならない。孫同志をかけ合わせた曾孫はけっしてその親と同一にはならない。個体により様々な形質が現れ、本来期待された優れた特性は極めて一部にしか現れないであろう。このような育種方法を開発し、駆使したのが米国の企業である。このようにして日本の養鶏(採卵鶏及びブロイラー)は、そのほとんどを米国からの種鶏に依存することとなる。

このような濃厚飼料依存、種鶏の供給が不可欠であるという鶏の特性から、養鶏の多くは商業資本の傘下に入ることとなる。いわゆるインテグレーションである。農家は企業と契約し、契約の下で生産することとなる。濃厚飼料原料の輸入と加工は商業資本の得意とするところである。加えて種鶏を押さえておけば、生産要因の主要な部分は商業資本がすべてを握ることになる。また農家は資本力に乏しく、生産施設等の改善や規模拡大、更には飼料や素雛といった運転資金についても十分な余裕のない場合が多く、商業資本側ではこれら資金の供給をも行うのである。もちろん生産計画は商業資本サイドで決められ、それに沿った生産を行う。出荷も商業資本の有する加工施設であり、当該商業資本系列の流通経路を通じて消費者に届くことになる。資材や資金のすべてが供給され、農家としては労働力を提供するだけである。生産技術についても与えられたマニュアルに沿って行うことが求められる。農家は実質的には商業資本の子会社、下請け企業という位置付けになる。

鶏卵、鶏肉は需要を超える生産力があり、過当競争ともいえる中で生き残りをかけたコスト削減が図られてきた。そのためにスケールメリットを最大限に活用せねばならず、数万羽規模ないし十万羽以上の規模の養鶏でないと勝ち残れないということになり規模拡大は進められてきた。鶏卵については生産調整が行われてきたが、商業資本とすれば少しでもシェアを確保することが至上命題であり、このような生産調整は十分な効果を発揮できなかったことが多い。物価の優等生とまでいわれる鶏卵、食肉の中で最も安い鶏肉、その理由は商業資本を背景とした生産の拡大とこれにより必然的に生ずる激しい競争、そしてそれに勝ち抜くための技術開発によるものである。しかしその技術開発が真に食物としての鶏卵、鶏肉に十分配慮したものであるものとは言い難いことも事実であろう。

このようにして養鶏は大規模化を邁進するのであるが、そこでは既に農業の論理ではなく工業の論理により経営が行われることとなる。個々の鶏は生物であるというよりも鶏卵や鶏肉生産機械である。育種技術の進歩により遺伝的形質も均質なものとなり、どのような飼料をどれだけ給与し、どのように管理すればいつからどれだけ卵を産むか、あるいは肉をとるために太ってくれるかが計算できる。またそのようになるために育種が進められたといってよいであろう。まだ実用化はされていないとはいえ、余分な栄養を消費しないように羽毛のない鶏もできているという。

土地に依存しないということも工業に類似している。必要とするのは施設用地だけである。既に飼料はその全てを輸入原料に依存している。原料となる鉱物資源等を輸入し、これを原料とすることで成立している工業と全く同じ構図である。

養豚は養鶏の様な企業によるインテグレーションは多くはないが、飼料の全てが輸入に依存していること、即ち養豚とは自給しない購入飼料を豚肉に変換する業であるという点で工業的であるといえる。

一方、牛肉や牛乳を生産する家畜である牛は粗飼料の給与が不可欠であるがゆえに土地との結びつきが不可欠である(もっとも肉牛の肥育は粗飼料給与割合が低いために飼料の自給はほとんどなされえていないが…)。また世代交代の期間が長く家畜の改良が一挙には進まず、形質の揃った家畜個体を揃えることができない。すなわち企業的な飼養には向かないということになる。このようなことから、土地に依存した農業としての色彩が強いが、このうち肥育もと牛を購入し、これに飼料を給与して太らせる肉用牛肥育経営は、粗飼料を含めて必要とする飼料の多くを購入に依存しているため、養豚に類似した性質を有している。

また酪農にあっても都市近郊酪農は飼料基盤を有しているにせよ、粗飼料のかなりの部分は購入に依存している。むしろ経営内の飼料基盤はふん尿の捨て場と割り切っている農家もある。草地酪農地帯である北海道においても自前では飼料は生産せず、飼料は濃厚飼料のみならず粗飼料も全て購入し、搾りに徹するという経営もあらわれてきた。昨今の円高は粗飼料でさえも輸入した方が安いという状況をうみだしていることが背景にある。

そして最も工業的でないのが肉用牛(和牛)の繁殖経営である。平均的な飼養規模は拡大しているとはいえ、まだ耕種部門である水田や畑作との複合経営が主流となっている。しかし牛肉の輸入自由化の波にもまれ、またこの多くが立地している中山間地農業が危機に瀕している状況では、畜産の各部門の中で今後どのようになるのか最も心配されているのがこの肉用牛繁殖経営なのである。


欧米の畜産は基本的には農家において生産された穀物等のうち余剰分を給与することにより行われ、いわば余剰穀物の「家畜」という形態での「貯蔵」と、これにより付加価値を付けるという性格を有している。(ちなみに家畜のことを英語ではlivestockといい、これは生きている貯蔵物の意味である。)従って欧米の畜産においては飼料は自給するの本来的なありかたである。

しかしながらわが国においては北海道等の一部を除いて土地資源に恵まれなかったこと、穀物(米)価格が相対的に高く、かつ米を神聖視する気風があったこと。また濃厚飼料の主原料である輸入穀物が比較的安価に入手できたこと等により、わが国の畜産は飼料の多くを外部に依存するという形態で発達してきた。特に濃厚飼料についてはそのほとんどを輸入穀物に頼っている。このことは飼料価格が安定的に安く購入できれば良いが、世界的な気候変動の影響を受けやすく、常に不安定要因を内に孕んでいることにもなる。

また次項でもとりあげる家畜ふん尿を還元し、物質の循環を図るべき農地とのつながりが断ち切られた形となることも大きな問題点である。

土地に結び付いた畜産をどのようにして発展させるかは、わが国に課せられた大きな課題の一つである。


家畜を飼うことにより、必然的にふんや尿が排出されることになる。かつてのわが国においては貴重な肥料資源としてこれを利用していた。また、本来的にはこれを土地に還元し、土−草−家畜の中で物質が循環していく形が望ましいが、近年におけるわが国畜産においては酪農経営、肉用牛経営の中でも土地資源を基盤とし、飼料を十分に自給している場合(飼料基盤は即ちふん尿の還元用地でもある)を除いては、河川や地下水の水質汚濁等の問題を発生することがある。特に土地との結びつきの弱い養豚や養鶏では、堆肥等として農地への還元がなされず、浄化・放流せざるをえない場合もある。本来土地への還元が基本となるべき酪農等においてもふん尿処理のための経費と労力の問題から十分な処理と利用がなされない場合がある。このような場合は悪臭が発生するとともに、ふん尿中の窒素や燐が地下水や河川・湖沼を汚染することとなる。窒素分は、それがアンモニア性のものでも酸化され硝酸態のものになる。これが地下水に入り、その地下水が人間の飲用に用いられた場合には、問題を生じることとなる。成人では胃内の微生物の働きにより硝酸は還元され問題となることは少ないが、幼児は胃内におけるこのような働きが十分ではないため、還元される途中の段階である亜硝酸として吸収されてしまう。亜硝酸は赤血球に含まれ、酸素の運搬を担うヘモグロビンと結びつき、メトヘモグロビンとしてしまう。これは酸素運搬能力がないため、重篤となれば死に至ることもある。家畜においては硝酸塩を含む飼料を給与した時に発生する症状であるが、おなじような症状が地下水を通じて人間の、しかも幼児に発生する危険性がある。現段階ではまだ明らかにこれが原因と見られる症状が頻発するには至っていないが、現在のような家畜飼養形態、ふん尿の処理・利用形態が続けば、今後の発生の危険性を否定することはできない。

このようなふん尿における問題とともに、集落内等においてはこれに加え、臭いや家畜の声が問題となる場合もある。このようなことから畜産経営においてもふん尿処理に抜本的な対策を講ずることが求められたり、あるいは立ち退きせざるをえない事態が生ずることもある。

畜産環境問題の中核をなす家畜ふん尿は適切な処理を行い、土地に還元すれば有用な肥料となりうる。中小家畜においては(できれば飼料用穀物の低コスト生産でもできればよいのだが)その飼料の国内自給が当面は困難であり、ふん尿を自らの飼料生産に活用することはできない。となれば、飼料原料として海外からもたらされ、ふんや尿となった窒素や燐等は堆肥として農地に還元することが望ましい。すなわち畜産経営内において堆肥に調製して販売し、あるいは農協の堆肥センター等を通じて耕種農家に供給されることになる。このことにより輸入飼料としてわが国にもたらされた大量の窒素や燐は農地に還元される。農地における化学肥料施用量がそれだけ減少すれば肥料過剰ということにはならない。地域によってはマクロ的には農地に施用する肥料成分をこえる量の窒素、燐が飼料としてもたらされる所も無いわけではないが、これら地域においてさえふん尿が肥料として十分に有効に利用されているわけではない。ふん尿の肥料としての利用が進めば、環境への負荷がそれだけ少なくなる。もちろん受容可能量を超える部分は何らかの方法で処理し、無害な形で環境に排出しなければならないことはいうまでもない。また、わが国の耕地土壌の多くは火山灰土壌である。この土壌の最大の欠点は燐酸吸収係数が高いことである。家畜のふんには飼料である穀類や糠類に含有されるものに由来する燐が多く含まれている。これを長期間(施用量は窒素が過剰にならないよう注意しながら)施用しつづけることにより燐酸の土壌への蓄積が大となり、燐酸吸収係数が大=有効態燐酸の欠乏=作物の生育不良といった問題が軽減されることになる。

一方、大家畜(牛)の飼料として粗飼料が用いられるが、これには自給、購入を問わず雑草の種子の混入がある。輸入穀物を主原料とする濃厚飼料においても雑草種子の混入があり、これらを食べさせた家畜のふんを材料とした堆肥には雑草種子が混入していることを覚悟しなければならない。雑草種子は家畜が食べても消化されずにふん中に排せつされる。これを堆肥として調製した場合、十分な高温発酵がなされない場合は死滅することなく堆肥中に存在することとなる。この堆肥を草地や農地に施用することにより、単に既存の雑草の蔓延を助長するのみならず、外国からもたらされた雑草(帰化雑草という)がはびこる危険性がある。これは自らの経営内の草地や農地の生産性を低めるだけでなく、日本全体における植物生態系に影響を及ぼしかねない問題である。雑草種子を枯死させるためにも高温で発酵させる必要がある。そのためには飼養方法等の改善により発酵させるふんには尿や汚水などができるだけ混入しないようにし、水分の多すぎない状態で発酵させる等について考慮しなければならない。

牛ふんはこのように発酵には難があるが、堆肥として見た場合には粗飼料に含まれるリグニンは消化吸収されずふんを構成する成分として排せつされ、これが発酵過程で腐植物質となり土壌の性質を長期にわたって改善する効果がある。粗飼料は自給し、その粗飼料の生産性を高めるためにも牛ふん堆肥と尿を有効に使いたいものである。

大家畜経営においてはこのように自給肥料としてのふん尿を有効に利用して自給飼料を効率的に生産することにより購入飼料を減らすことが重要である。このことによりわが国全体として飼料の海外依存を減らし、国内畜産の安定度を増すとともに、「地力の輸出、汚染の輸入」を減らすことである。


自給飼料の意義については、その生産と利用に関する技術面や、直接的に経営に及ぼす影響について論ずることは多いが、より大きな視点、すなわち世界的な食糧問題あるいは地球環境問題といった観点から自給飼料を論じることはそれ程多くないのではなかろうか。

自給飼料の経営面における有利性については購入飼料とのコスト差等があげられていた、これにしてもその差は昨今の1ドル100円を切るような円高基調の下では、このような価格の差はないかあるいは逆転してしまっているかもしれない。また、大規模畜産経営にあっても土地や農機具、サイロや乾草舎といった飼料の生産・貯蔵のための生産基盤が既にあり新規投資が必要ない場合はともかく、生産基盤を拡大しようとした場合等は一時的には大きな経費負担となり、単に平均的なコスト試算だけでは論じられない問題も多い。現に本来土地基盤に立脚した酪農が展開すべき地域においてさえ乾草は購入するといった酪農経営も見られる。

さらには自給飼料=粗飼料といった観点から大家畜の消化生理面からの必要性がいわれることもあるが、これにしても上記酪農経営に見られるように近年は粗飼料必ずしも自給飼料ではない。乾草の輸入量も近年増加傾向にある。

自給飼料について論ずる時、このような技術や経営に密着した見方も一方では必要であるが、他方で個々の経営レベルを超えた視点から見た自給飼料の重要性を論ずるることも重要ではないだろうか。そしてマクロな視点からの必要性、重要性を踏まえた上で、実際の経営において取り組む際の問題点とのギャップを解消するために行政や関係機関が各種の対応策を講ずることが重要と考える。

自給飼料について語る時、その対極におかれるのが購入飼料である。かっては購入飼料=濃厚飼料であったが、上述したように粗飼料でさえもが輸入されている。これらの輸入される飼料の多くは穀物(とうもろこし、麦類、マイロ等)や油粕類、牧草類等作物として栽培された農産物である。このような農産物を輸入するということは即ち施肥し、あるいは土壌鉱物の分解等により得られた窒素、燐、カリ等の成分が地球レベルで移動することになり、後述するように輸出国での地力維持の問題のみならず、輸入する側においても問題を発生することになる。

また米国等の飼料穀物輸出国における農業では企業的なマインドによる経営で、大面積による低コスト生産による短期的利益を志向しており、将来にわたる永続的な生産を確保するための地力培養という観点に欠ける点も否めない。飼料穀物の中心となるとうもろこしにおいては、その根の土壌保持力は小さく、また生育初期に長期間土壌が露出していることから、風や雨による侵食が進んでいることが指摘されている。「…トウモロコシや大豆を1トン余分に取るために、2トンの土を失っている…」(「日本の条件6 食糧① 穀物争奪の時代」日本放送出版協会)といわれており、また表土が1インチ(2.5p)失われるととうもろこしの収量は約6%減少するともいわれている(「ワールドウォッチ地球白書'90−'91」ダイヤモンド社)。いわばわが国は飼料を輸入することによりその生産国から将来にわたる作物生産力をも輸入していることになる。

一方、多くの飼料を輸入しているわが国においては、これら飼料に含まれる窒素や燐等の肥料成分を同時に輸入していることにもなる。既に輸入飼料に含まれるこれら肥料成分は日本の耕地における肥料必要量をかなりの程度まかなえる量となっている。これらのうち一部は乳や肉、卵といった畜産物に形を変えて系外に持ち去られるが、その多くはふん尿として排出される。このふん尿が堆肥等に形を変え、肥料として草地・飼料畑といった飼料基盤や水田・畑に還元され、化学肥料の施用が大幅に節減される…換言すれば作物生産力として輸入したものが日本の耕地における作物生産力=地力として生かされるならば国内における環境問題は発生しない。

しかしながら日本農業の発展の中で、選択的拡大が経営レベルにおいても進められ、耕・畜分離がなされるとともに、耕種農家、畜産農家の連携が十分になされていないことから、耕種農家においては地力減退等から堆厩肥を入れたくとも良質な堆肥の入手ができないことが多い。一方畜産農家においてはふん尿の処理がうまくゆかず、諸々の問題を誘起することになる。本来作物生産力として輸入されたものが、わが国農業における作物生産力として活かされずに、局所的には臭気等の問題、あるいはより広域的には河川や湖沼等の水質汚染といった環境問題の原因となることになる。

このような物質の地球的規模での移動に伴う諸々の問題に対応するためには、農産物=食糧については基本的には地場生産、地場消費、そして将来は人間の排泄物についても浄化の上、農地還元を志向することが必要である。飼料についても、今後は輸入を極力抑制し、経営内あるいは地域内での飼料生産と家畜ふん尿の還元により窒素、燐等の物質が循環するシステムとなる必要がある。自給飼料の生産と利用の重要性はこの点からも論ぜられる必要がある。

先進諸国の畜産は中小家畜にとどまらず、本来は草食性家畜であり、ほとんど草のみを栄養摂取源としていた家畜(その代表が牛である)に対してさえも生産の効率を求め、生産物の「高品質化」を求めて濃厚飼料を給与することとなった。その濃厚飼料でさえも糠やふすまあるいは各種粕類のような副産物の類にとどまらず、現在では人間の食糧と直接競合する穀類そのものを主要な原料としている。

ヨーロッパ農業においてなぜ畜産の存在が必然であったかは、そこが寡雨低温といった食糧資源たる作物の生産効率が低い所だったからである。安定して生育するのは人間の食えない草しかなかった。ヨーロッパの農業史の中では三圃式農法は極めて重要な位置付けがなされている。そこでは小麦、大麦、休閑が繰り返された。小麦はもちろん食糧となるが、しかし連作ができない。そこで翌年は大麦を栽培する。大麦は小麦が不作の時は人間の食糧にもまわされるが、通常は家畜の飼料である。冬期舎飼期間の飼料であり、畑を耕す時に家畜に頑張ってもらうための飼料であった。また冬期舎飼期間におけるふん尿は主要作物である小麦の生産性を高めるための貴重な肥料であった。またこの農地の周辺には広大な野草地があり、家畜は夏期にはここに放牧されるとともに、冬季舎飼期間における貯蔵粗飼料もここから調達された。広い野草地において天然供給された窒素や燐等の肥料成分が貯蔵粗飼料、ふん尿を経て耕作地に集められることとなる。

このようにヨーロッパ農業の歴史の中では家畜は今日におけるトラクターであり、また肥料製造工場であった。一部の穀物を消費はするものの穀物全体の生産量を向上させるのに大きく貢献した。

しかし今日の農業においては耕作のための力は石油エネルギーを使うトラクターにとって代わり、穀物生産のための肥料も化学肥料が主体となっている。家畜の役割は畜産物生産のみとなってしまった。しかもその生産効率を高めるために多くの穀物を消費することとなった。家畜は穀物の生産者から消費者に転向してしまった。そして欧米文明の発展とともに、畜産物の消費は飛躍的に増大した。これは先進国のみならず、発展途上国においても発展が進むに従って食生活が向上し、上層階級の人達は美味な畜産物を求め、国内全体としては不足基調の穀物を家畜に給与し食糧の不足を一層促進することにもなる。

世界的に見ても先進国等においては多くの穀物が家畜に給与されている。このようなことは①穀物が潤沢に生産され、②それが安定的でかつ将来的にも約束され、③さらにそれが公平に分配された上での余剰であるならば問題はない。現在全世界レベルでの穀物需給は農産物輸出大国である米国での過剰生産基調もありマクロ的には余裕のある状況にある。しかしながら貿易に仕向けられる農産物の生産地が一部の国(特に米国)に偏っていることに問題がある。米国における不作が即ち世界的な食糧需給問題ともなってしまう。またその貿易が穀物メジャーといわれる一部の者の手に委ねられている。穀物メジャーは根本的に彼らは自らの利のために取引を行うのであり、世界各国における食糧の公平分配のために取引をしているのではない。米国政府自体食糧を戦略的位置付けとしてとらえており、経済や技術におけるパックス・アメリカーナが揺らぎ始めている現在、米国は食糧を覇権を維持する手段として用いるようになることも十分に考えられる。政策意思による貿易操作も十分に考えられる。かつての「大豆」の輸出禁止措置という前例もある。

さらにはそのような政治的なものだけではなく、米国農業自身が抱えている問題もある。米国はヨーロッパやわが国等と違い歴史的にも浅い国である。土地に結びついた農業の歴史は極めて短く、農民の土地に対する意識も日本やヨーロッパ程には強くない。子々孫々まで伝えようとする意識は乏しい。このことは農地の生産力を自らの世代だけではなく、将来も維持することを考えた耕作をしようとする意識は働かない。自ら行う農業経営でいかに生産性を高めるかが最大の関心事であり長期的な視点から地力を涵養することはほとんど考えないこととなる。また、米国の農業地帯は乾燥地帯であり、降雨に必要水量の全てを依存するわけにはいかない地域も多く、このような所では河川水のみならず地下水にも多くを依存している。この地下水はわが国と違い過去に地下に貯溜した化石水であり、使えばなくなってしまうも。既に地下水面の低下が見られるところもあり、地下水が枯渇して放棄された農地もある。またこのような乾燥地帯では灌漑することにより灌漑水中に含まれる塩分が地表に蓄積され、しだいに農耕に適さなくなる。このことはチグリス・ユーフラテス川からの灌漑による農業を基盤とした古代メソポタミア文明が、その灌漑ゆえに土壌への塩類集積が農業生産力を衰えさせ、このことが文明が衰亡する大きな要因となったことにも注目したい。加えて将来地球温暖化が現実のものとなればこの地帯の乾燥気候に一層の拍車がかかり、今日におけるような生産量を確保することはより一層困難となるであろう。飼料穀物は将来にわたって必ずしも安定して確保できないかもしれない。

またマクロ的には食糧過剰の中、その一方で世界の人口の多くは飢えていることもまた事実である。そのような状況の中で先進国だけが経済的余裕があるからといって、食糧資源を飼料にまわすことが将来とも人道的に許されるであろうかという懸念も拭い去ることはできない。

かつてのオイルショックでわが国の経済は「油上の楼閣」と称された。同様にわが国の畜産は輸入穀物の上に築かれた楼閣である。この基盤は今すぐに崩れることはないであろう。しかし長期的には必ずしも安定しているわけではない。既に所々で脆くなっていることも懸念される。

それではわが国畜産はどうすればよいのだろうか。既に国民の生活水準からして畜産物の需要を押さえることは困難である。しかし将来にわたって安定した飼料の確保はできないかもしれない。より現実的な問題としてはふん尿等に起因する環境問題等もある。このままではわが国畜産業はじり貧に陥らざるをえないのであろうか。実は問題解決の糸口となるのが自給飼料であるように思われる。

また、わが国には畜産的には未利用の土地がまだまだ多い。これらの中にはかつては家畜の放牧飼養がされていた所もかなりあるが、近代的畜産の進展の中で次第に利用されなくなってしまった。このため多くの野草資源が生育しては枯れるにまかせている。人工林においては育林のために多くの人手をもって下草やつる性植物を刈り取っている。このような所の多くはその野草を家畜によって食させることができる。しかし林業経営と畜産経営が分離し、林業においては家畜により林木が傷つけられることを嫌い、一方畜産側としては家畜自体が相対的に高価なものとなってしまい、放牧による事故の危険が多いことや放牧監視が困難である等により、放牧飼養を嫌うようになってしまった。

国有林等を含む林業サイドにおいても放牧による林業面でのメリットをもっと認識してもらえないだろうか。また、放牧監視等については例えば人工衛星を用いて走行中の車の位置を求めるシステムがあるが、このような技術を応用して家畜の位置を把握するとともに、人手をかけない家畜誘導方法などについても研究が進められることが望まれる。以前テレビでヨーロッパの農村風景を取材した番組があったが、そこではそれぞれの農家の牛(乳牛)が朝の搾乳後共同の放牧地に自ら行き、草を食み夕方にはそれぞれの牛舎に自分で戻るというものであった。これは搾乳を行なう乳牛であるということであるからかもしれないが、家畜の習性を利用すれば今よりももっと省力的に家畜を管理することができるのではなかろうか。わが国の畜産の歴史が浅いということは、例えば表面的には酪農経営がヨーロッパ並みに大規模化し機械化が大きく進んだとはいえ、一方で家畜の習性をうまく活用した飼養技術が発展していないという問題となってあらわれているのではなかろうか。これが放牧等目の前の飼料資源が有効に活用されていないという遠因ともなっている。

育種により粗飼料利用性に優れた家畜が作り出され、経営技術も飼料の自給を基盤としたものとなれば、ふん尿の土壌還元を通じた物質の循環が形成される。このことにより畜産環境問題やさらには地球レベルでの物質の移動に伴う問題も解決される方向に向かうものと期待される。輸入穀物を原料とする飼料も全く否定はしない。経営内あるいは地域内での物質循環を図ろうとしても、そこには流亡や揮散あるいは土壌中での難利用性形態への変化等によるロスがある。このロス分を補うのは系外からもたらされる肥料や濃厚飼料であるからである。耕種農家への堆肥供給という系外への持ち去りがあれば、加えてその分も補わなければならない。これに充当するものの一部として購入飼料が位置付けられよう。しかし経営内や地域内での物質循環は崩すことのできない基本原則としてとらえたい。

高能力の家畜を多く飼養するのとは逆に、そこそこの能力の家畜を少頭数飼養し、しかし経営コストを極限まで切り下げることにより収益率の高い経営を行っている例もある。しかし多くの経営では大規模化、家畜の高能力化を志向している。行政としては上記の経営事例のような、未来型の畜産を進めるための方策を講ずることが必要であろう。しかし一般には早急な普及は難しいであろう。そのために補助金という手段もあるが、それは固定化、画一化されがちであるというるような問題もある。地球に優しい方法で生産された畜産物をその「優しさ」に応じた価格で取引されるようにするという手法もあるのではないだろうか。また消費者教育により目先の安さだけではなく、今何を買うかが地球環境問題や将来の日本農業の動向に極めてわずかではあるが関係し、消費者の日常行動の積み重ねが大きな影響を及ぼすということを認識してもらうようにすることが重要であるように思われる。

行政は「猫の目行政」と言われないためにもしっかりとした長期的な理念を基本とし、これに基づく中期的、短期的な方策をもって対応する必要がある。その長期的な理念の一つが経営レベル・地域レベルから地球レベルに至る環境に配慮し、環境を保全する農業であろう。そしてこの線に沿った畜産のあり方が自給飼料重視の畜産経営であると確信する。


しかしそのためには大きな問題がある。現在のわが国の大家畜畜産は高能力、大規模化を志向していることである。家畜の胃袋には一定容量があり、能力を高めたからといってそれに比例して多くの量の飼料を食べさせるわけにはいかない。そのためには栄養含有率の低い粗飼料給与を減らし、より栄養価の高い濃厚飼料主体の飼料給与形態をとる必要がある。これまでのわが国の家畜改良もこのことを言わずもがなの前提条件としてきた。家畜の改良により粗飼料利用性の良い家畜ができたわけではない。むしろ泌乳あるいは産肉能力を高めるためにより多くの濃厚飼料の給与、即ち少ない粗飼料給与に耐えられる形質が望まれていたともいえる。しかし濃厚飼料多給による飼養が経営レベルでは合理的、効率的ではあろうが、経営外的な場面においては上述したような多くの問題が生ずる。

現在の家畜改良が高栄養飼料(即ち輸入飼料)の給与を前提とした高能力家畜の作出であるならば、次の段階では粗飼料の利用性の良い家畜、放牧に適した能力を有する家畜が求められるようになるかもしれない。現在の家畜飼養形態をすぐには変えられない以上、すぐに家畜改良の方向も変えられないかもしれない。しかし他方で次の時代のために粗飼料利用性の高い遺伝資源を集積し、次の段階に向けた家畜改良の芽も育てる必要があろう。

また大家畜経営も低コスト化のためには大規模をもってよしとする傾向があるが、上記の粗飼料利用性の高い家畜を飼い、生産コストを極力引き下げることにより高収益を図る技術について調査検討され、経営方式として定着するようになることが望ましい。


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