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第四 「米」について


**この項の目次**


一 日本文化と米

拙文の中において、これまで米を日本における食糧の、そして農業の基本として取り扱ってきた。これは、米が小麦等他の穀物や他作物に比べて絶対的に優れていると思っているからなのではない。西アジアからヨーロッパ、そして新大陸の多くの地域においては小麦を主とする麦類が穀類の代表とされている。これはこの地域の乾燥、寒冷な気候によるものであり、このような自然条件が麦を選択させたのであり、麦(そして畜産物)を食べる文化を育てていった。世界的には米も麦も等しく重要であろうし、むしろ量的には麦類の方が絶対的に多い。西欧文明は米ではなく麦や畜産物の上に成立している。

米を重視しなければならないと思うのは、日本の置かれた自然条件とそこに育まれた文化が前提となっている。日本が南方育ちの稲=米を選択し、これを栽培し主食とすることにより、その文化のありようにも少なからぬ影響をあたえた。

稲は日本原産の植物ではない。長江(揚子江)流域を原産(以前はアッサム・雲南地方が原産とされていたが、近年の研究により長江下流域が有力視されてきている)とし、アジア各地に広まっていった。そして遠く日本にまで伝わった。

米が日本に入る前、ここでは何が食べられていたのであろうか。狩猟、採集だけに頼る時代はすでに過ぎ去っていた。人々は狩猟や採集に加え、林地を切り開いては焼畑を行っていた。そしてアワ等の雑穀類や里芋の様な芋類を栽培していた(佐々木高明「稲作以前」NHKブックス)。米を主食とするようになってからも、「団子」はかって「芋」が主要な食糧であった頃の名残(米を材料としながら、芋を模したもの)ともいわれている。団子を供える十五夜とは本来は芋の収穫祭だったのかもしれない。

このように雑穀や芋を食べていた人々の中に、稲を栽培し米を食する技術や文化が導入された。近年これは縄文後期のこととされている。当時稲を栽培していたのは現在の稲作の中心となっている平野部ではなく、谷あいの湿地だったとされている。

最初は米もそれら雑穀の一種としての位置付けにとどまっていたであろう。特に陸稲(おかぼ)は栽培方法は他の雑穀とかわらない。焼畑で栽培することができる。しかし稲作は技術を投入すれば他の雑穀類よりも収量を向上させることができる。水田で栽培すれば連作もできるから一所に定住できる。しかし非常に多くの労力を要する。米という字を分解すると「八十八」という字になるが、それ程に手間がかかるとまで言われている(今は機械化が進み、以前ほど労力を要さなくなったが…)。芋のように開墾して種芋を植えておけば、さほどの手入れをしなくてもそこそこの収量があがるというのとは大違いである。芋を栽培していた人達も、最初は泥田に入り手間のかかる米作りはいやいやながらやっていたのであろう。しかし次第に生産力の高い稲作を積極的に評価するようにもなったであろう。そして稲作は定着して、栽培される範囲を広げていった。

しかし、稲作はそれを作る人たちの自給的作物とはならなかった。多収であり、保存もしやすい。ということは支配者にとっては多くの田と農民を支配下に置けば多くの富が得られるということになる。米は支配者による搾取の主な対象でもあった。

そして農民は米を作っても米を食べられず、自給用としては主に里山等の傾斜地等を耕作し、そこで芋類や雑穀等を栽培した。農民は米の作り手であったにもかかわらず、自らは米を食べることはできなかった。収穫された米を供出した後に残った屑米を時に食べられるということが実態であったであろう。明治になって徴兵制となった。徴用された兵士の多くは農民であった。兵士となった農民の喜びは白い米を食べられるということであったという。

このように米は支配者のために作り、自らはほとんど雑穀や芋類しか食べられない状況であったとはいえ、稲作は日本における最も重要な作物となり、稲作を行うことが日本の文化の基礎部分を作ったということはできる。

話を稲作が広まり、定着した時期に戻そう。稲作が定着するということは、人々の考え方や人間関係、文化と呼ばれるものにまでも大きな影響を与えることとなった。一例をあげれば、手間をかけなければ収穫が見込めないということは人々を勤勉にした。また田植えや稲刈りのように、大勢が揃って仕事をするということは、村の人々の、さらには今日における会社等の組織内においても見られる共同体意識、仲間意識を育んだ。しかしこのことは、外部に対しての区別意識、排他性というものを伴っていることにも注意しなければならない。また、時として台風や旱魃等により被害を受けるとしても、比較的安定した収穫を得られるということは、変化を好まない保守的な気風を育てていった。新しい技術を導入すれば、時には不慣れゆえにうまくいかず収穫が見込めないこともある。それよりは従来の技術、従来の方法でやっていった方がよいということなのである。

もちろん現在につながる日本文化も、単純に稲作だけを背景とするものではない。湿潤な気候風土に直接由来するものもある。また、山がちな地形とそこを流れる川、豊富な地下水は、水はどこからも安価に、あるいはただで手に入れることができるという意識を生みだした。「湯水のように使う」という言葉もそれを背景としている。またこのことは日本文化の水を豊富に使い、水に依存する部分を形成した。今は少なくなったが、精米や製粉を行う水車から酒造や染色に至るまで日本文化の多くのものが水に係わっている。

また、稲作以前の雑穀・芋食文化もその根底に横たわっているに違いない。しかし、それでもなお今日、日本文化や日本人の特質と呼ばれているもののかなりの部分が、稲作と深く係わっていることは否めない。

近年、日本はめざましい経済発展を遂げた。この原動力には直接的には江戸時代まで培われた手工業や明治以降導入された西欧の工業技術によるものがバックとなっている。戦後における連合国側の対日政策もあるだろうし、また戦後間もなく起こった朝鮮動乱による特需のような幸運に恵まれたということもあろう。しかし、その大きな背景として、日本人の勤労観や組織への帰属意識も、大きな要因にあげられるのではなかろうか。そしてこのような意識こそ農業文化特にその中核ともいえる稲作文化と密接に結びついている。

農業といっても、近年は稲作よりも施設園芸、さらにその中でも花卉が脚光を浴びているが、これらだけで農業全体を支えられるわけではない。やはり根幹は稲作であり、これに野菜や果樹、畜産が加わっているのである。日本の文化や習俗、風習、習慣を形成した根底は農業文化であり、さらにその中核となるのは稲作に由来するものなのである。稲あるいは米とは単に食糧としての意義だけではない。我々のくらしの中に満ちあふれている日本文化の源であり、象徴なのである。ふだん人々の暮らしや仕事等を見ても、一見西欧文明に圧倒され、古来の日本らしさ、日本文明というものは表立って明白なものとして認識されないかもしれない。それでもなお、日本人の行動様式や考え方には日本本来のものがあり、今日見られる日本の発展を支えてきている。

稲作を主体とする農業により築かれてきた日本文化や日本人の意識。それは農業人口が相対的に少なくなった今も、すぐにはなくなるものではないだろう。しかし、人々の多くが都市に住み、日本文化の礎たる農業とは何かを知らず、その生産物である食物としてしか農業との結び付きを持てなくなってきている。さらにその食物=農産物そのものは食べ、そして目で見ることはあっても、それがどのように生産されるかを見たこともない人が多くなっている。このように日本人の意識の中に農業というものがなくなってしまえば、先にも記した日本人の特徴である勤労観や帰属意識というものも次第に薄れていくことであろう。現に若い人達の間にはそのような傾向が見え始めている。


二 日本の気候風土

食糧を考える場合に、気候風土を考慮に入れないわけにはいかない。それはもちろん食糧たる農産物の生産に深く係わっているばかりではなく、その消費の場面である食とその背景となっている食文化とも密接な関係がある。食と気候風土との関連は次項に譲るとして、ここでは米の生産と気候風土について述べてみたい。

日本の気候は、冬期はかなり寒冷ではあるが、夏期はかなりの高温になる。ほぼ亜熱帯並みといってよいだろう。北海道から九州まで、同緯度でヨーロッパまで移動してみると、北海道はほぼフランス南部ないしイタリア北部といったところであるし、関東以西は何とアフリカの地中海沿岸地方になる。もちろん気候というものは緯度だけで論じることはできない。大陸を形成する国々と海洋国とは違うし、ユーラシア大陸の西にあるか、東にあるかでも違う。植物のエネルギー源たる日差しの強さにおいて違う。冬は大陸からの冷たい気流により、かなりの低温となる。しかし、夏は太平洋高気圧に覆われ、暑く、湿度の高い気候となる。これは人間にとっては過ごしにくい気候であるかもしれないが、南方系の植物である稲には非常に好都合な気候なのである。

熱帯、亜熱帯植物の多くは、光合成のやり方が温帯の植物とは少々異なる。光合成の最適温度は温帯の植物よりも高いところにある。温度が低い条件では温帯植物にはかなわない。しかし、日本の夏のような高温条件においてはその能力をおおいに発揮する。夏期の光の強さともあいまって温帯植物の最高能力を超える光合成能力を示す。このようなこともあって、一般に稲の面積当たり収量ないし増殖倍率(一粒の種子から幾粒の穀粒ができるか)は麦をはるかに超える。

また日本は降水量にも恵まれている。稲は水を好む。特にその生育初期から中期にかけては多くの水が必要である。都合の良いことに生育初期の5月は比較的晴天に恵まれ雨が少ないが、しかし冬に積もった雪が次第に融けて川に流れてくる。日本の川は勾配が急で、すぐに海に流れ去ってしまうといわれるが、雪は一時に融け出ることはない。また、上流にある豊富な森林も大きな貯水能力を有しており、かなりの長期にわたって川水を増やしてくれる。この雪解けの水とこれに続く梅雨が水を好む稲に好都合だった。

しかし、このような夏期の高温多湿と梅雨、そして冬に雪が多いことは、稲には誠に好都合ではあるが、西欧文明を食の面で支えた麦には不適なのである。麦は秋に播き、越冬の後春に旺盛な生育をさせて初夏に収穫するが、何よりもまず日本の気温は麦にとっては寒暖の差が大き過ぎる。冬は寒過ぎ、生育後期は暑過ぎる。また冬期にはある程度の降水が必要であるが、それは雨であって雪ではない。雪に覆われては困るのである。また収穫時期には乾燥した気候が適しているが、ちょうどその頃の日本は梅雨である。近年においては日本の気候、特に寒冷条件下やあるいは積雪下における越冬特性に優れた品種も開発され、北海道等で盛んに栽培されている。また従来麺類程度にしか使い途のなかった国産小麦も、最近では製パン用にも用いることのできる品種も開発された。しかしそれでも日本における麦の栽培には大きな制約があり、米に取ってかわるまでの力は麦にはない。やはり日本全体からすれば米が主であり、麦は従とならざるをえない。

これまで、稲の栽培条件としての気候を論じてきた。一方、稲を栽培することにより、気候が我々に及ぼす影響が緩和されるという点も考慮にいれなければならない。稲の生育条件の所で水を好むということを記した。この水を供給する源、即ち雨は、時として災いをももたらす。雨も過ぎれば水害を引き起こす。日本の川が急であることもこれに拍車をかけている。森林はその保水力によってこれを緩和する。水田も貯水池としての機能により水害を起きにくくしている。貯水池としての水田は、水を貯める深さ、即ち現在の水面と畦の高さとの差は大きくない。しかし圧倒的な面積により非常に多くの貯水能力を有している。

しかし、多過ぎる降水は時として森林の、そして水田の貯水能力を越えてしまうこともある。そうなれば水田そのものも大きな被害を被ることとなる。できるだけそうならないようにしなければならない。人々は昔から森の重要さを認識してきた。その重要さの一部としてこのような貯水能力もある。従って人々はむやみに乱伐するようなことはなかった。水田を守るためにも森を大事にした。今、森も水田も危機に瀕している。

日本の風土に最も適した作物である稲、そしてその生産物たる米を大事にせずに、輸入食糧や石油資源を浪費する時期外れのものを有り難がるのはどんなものであろうか。昔からできるだけ近くで採れたものを食べるのが体にも良いといわれている。またその気候風土の中で生産されたものが良いともいわれる。主要なエネルギー源であるでんぷん質食品についても、このことがいえるのではないだろうか。日本においてはそれが米なのである。そして日本の気候風土に適した多くの作物や水産物等が加わり、食生活を支え、食文化を形成する。そのことが最も望ましく思える。


三 食物、食糧としての米

ここで米の特質を、食べ物として科学的な視点でとりあげてみたいと思う。米はいうまでもなくでんぷんを主体とするものである。しかし、量的には少量ながら、かなり質の良い蛋白質やb群ビタミンを含んでいる。また生で食べられるものではなく、水を加え、十分に吸水させた後、加熱、炊飯する。粉にひいて団子や煎餅等にもするが、一般には粒のまま前記のように炊飯する。貯蔵はいわゆる米粒の形で行われる。おおまかにいってしまえば以上のようなものであろうか。ここで米について化学的な側面からアプローチしてみたいと思う。

米のでんぷんは大きく分けると、アミロースとアミロペクチンになる。いずれもぶとう糖が多数結合したものであるが、前者は一本の紐状であるのに対し、後者は複雑な枝岐れした形状をしている。うるち米はアミロペクチンを主体として、これにアミロースが加わったものであるが、もち米になるとほとんどがアミロペクチンである。以上は日本で食べている米、いわゆるジャポニカ種である。ジャポニカ種は次に述べるインディカ種に比べて粘り気が多い。これは複雑な構造をとっているアミロペクチンが絡みあうことにより生ずる性質である。一方南アジアではアミロースが主体のインディカが好まれている。日本のいわゆるジャポニカ種と比べると粘りがなく、いわゆる「御飯」には全く向いていない。しかしカレーのように水分の多いものと和えて食べたり、ピラフにしたりするとなかなかいける。しかしインディカ種は日本では広まらなかった。インディカ種は日本には伝来しなかったのかもしれないし、伝わったにしても日本の気候風土に適さなかったのかもしれない。結果として、日本にはジャポニカ種が定着した。このことにより、粘りのある御飯をよしとする日本人の好みが生じたのであろう。しかし近年米の食べかたも多様化してきている。ピラフやドリア等のようにむしろインディカ種が適する米料理も広まってきている。インディカ種も今後はかなりの需要が見込めよう。

でんぷんの話を続けるとしよう。炊飯する前の米粒……米粒に限らず多くの穀類、芋類等も同様であるが……のでんぷんは消化が悪い。これはでんぷんの分子がぎっしりと詰まった形になっており、消化酵素が働きにくいからである。このような状態のでんぷんをベータでんぷんという。これに水を加えて加熱すると、でんぷんの分子がほぐれてアルファでんぷんとな。こうなれば消化酵素も個々のでんぷんの分子にアタックしやすくなる。しかし、アルファでんぷんも冷えて時間が経てば次第にベータでんぷんに逆戻りしてしまう。

米は一般的には炊飯して御飯として食べる。これは水分が十分ある環境の下で加熱することにより、ベータでんぷんのアルファ化を図るためのものであるが、消化のことを考えれば、炊飯後できるだけ間を置かずに、即ちアルファでんぷんがベータでんぷんに戻ってしまう前に食べるのがよい。御飯そのものが水分を多く含み、日本の気候を考えれば腐敗しやすいということもある。このように米そのものはかなりの長期間の保存に耐えるが、炊飯した後の御飯となれば極めて保存性が悪い。この点、パンは御飯に比べれば保存性がある。中世ヨーロッパではパンを焼くのは週に一度というのが一般的だったようで、極端な例ではフランスの一地方の話であるが、パンを焼くのは年に二回だったというところもあったようである。このような御飯の性質を考えれば、できれば毎回の食事毎に、少なくとも一日に一回は炊飯しなければならない。パンに比べれば食事に多くの労力と時間を要する。またこのためにはきれいな水と燃料が安定的に供給される必要がある。幸いにも日本には森林が多く、燃料となる薪や炭には事欠かなかった。またこの森林が育む川水や地下水も豊富である。「御飯」にとって日本は恵まれた環境だった。

また米は粒のまま炊飯し、食べるという点で他の多くの穀類、特に小麦をはじめとする麦類とは異なる。麦は表層の麸の一部が穀粒内部に巻き込まれた形態をしている。これを除くためには粉にひかなければならない。粉にひくことによって、穀粒が破壊され、消化される際に消化液と接触する面積が極めて大きくなる。しかも麦類のでんぷんの主成分が加熱されても糊状になりにくいアミロースであり、後述する米と比べて消化は速やかに行われる。たとえそれがパン等に調理加工したものであっても、それが消化される際の分解され糖を生ずるスピードは、御飯のように穀粒そのものを調理したものに比べて速い。消化が急速に進めば、吸収も速やかに行われる、血液中の糖濃度が急上昇する。血液中の糖を処理、利用するためにはインスリンというホルモンを必要とする。大量の糖を利用するためにインスリンが大量に生産される。このインスリンは当面、体が必要とするエネルギー源としての量を超える糖がある場合には、その分を脂肪として体に蓄える働きをする。一方御飯のような粒食の場合は、口中で噛み砕かれたとはいえ粒状の形態を残している。このため消化即ちでんぷんが分解され、糖に変化するのは穀粒の表面から徐々に行われる。特に日本で栽培される米の場合はでんぷんの主成分がアミロペクチンであり、加水し加熱する(炊飯する)と糊状になり、消化酵素が飯粒の内部に浸透するのを妨げている。麦と異なりでんぷん全体が一気に消化されることはない。消化は緩やかに進む。このため血糖値は極端に高くなることはない。しかし長時間維持される。そうなれば脂肪として蓄積されにくくなり、体の維持、活動のためのエネルギーとして有効に使われる。血液中の糖が比較的長時間とぎれることがないということにもなり、いわゆる「御飯は腹持ちがよい」ということにもなる。このことは同じエネルギー摂取の場合でも、御飯は太りにくいということにもなる。さらには、インスリンを生産する膵蔵のランゲルハンス島の細胞にかかる負担は粉食の場合に比べて小さなものとなる。もちろん粉食を常とする人達の体は粉食における消化特性に適応した栄養生理のメカニズムを備えるようになるだろう。しかし、消化の本質的な所でやはり粒食は優れているようにも想われる。

次に蛋白質について触れてみたい。米に含まれる蛋白質の量は小麦に比べて少ない。四訂日本食品標準成分表によれば、百グラム中の蛋白質含量は薄力粉(小麦粉の中でも比較的蛋白質が少ない)で八グラムから八.八グラム。対する米(水稲精白米)で六.八グラムである。量的には小麦の方が多い。しかし、蛋白質を論ずる場合に忘れてはならないのはアミノ酸組成、特に必須アミノ酸のそれぞれの含有割合である。人の体が必要としているアミノ酸組成に近ければ、その蛋白質は有効に利用される。しかし、特定のアミノ酸がずば抜けて多く、他のアミノ酸が少ない場合、あるいは特定のアミノ酸に欠けている場合等は、いくらアミノ酸の量が多くとも有効に利用されない。必須アミノ酸のバランスと比較して、最も低い水準を示しているアミノ酸、それが制限因子として働く。米は蛋白質の含量でこそ小麦には負けるが、アミノ酸のバランスが比較的良い。麦はアミノ酸バランスということからすれば米以上に畜産物のような蛋白質食品を併せて摂る必要がある。小麦を食するところでは同時に肉食も行われてきた。これは栄養的に見ても理にかなったものであるといえる。またここでは今日食べられている精白米を比較の対象としたが、一昔前迄の田舎においては精白度は低かったと思われる。糠の部分には米本体の部分よりも蛋白質、ビタミン共に多く含まれている。味はまずかったかもしれないが、栄養的には今日食べられている白米よりは優れているはずである。また、米で比較的少ないアミノ酸はリジンであるが、これは魚や大豆に多く含まれている。米と魚あるいは納豆や豆腐等の大豆製品との組み合わせは栄養的にも好ましい組み合わせである。現実的には、米ばかりを食べている人はいない。副食物として肉や魚、大豆から作られる豆腐や納豆等も食べられており、このような食事を摂っていればアミノ酸のどれかが不足するということは無いものと思われる。

精白度が高い白米にはB群ビタミンに欠けるところがあるが、玄米やあるいは精白度が低いものであれば、十分な量が含まれている。また現代の食生活であれば、精白米を常食しているにしても、肉や魚を含む食事をしていれば、副食物からもB群ビタミンは十分に得られるものである。脂肪やその脂肪に溶けるビタミンEも米糠や胚芽部分に多い。精米した際に副産物として得られる米糠にしても糠味噌漬けに利用し、これを通じて米糠に含まれるB群ビタミンを摂取した。ビタミンAとCについても畑でとれる野菜から摂取することができる。このように米と大豆、野菜の組み合わせで栄養のかなりの部分が充足される。

このように米が栄養的にも優れていることもあり、米を生産するのに適した気候であった日本では米を主体とする食生活、食文化というものが形成された。かつては経済的にも貧しく、十分な副食物が摂れないため、蛋白質にやや欠ける点もあったが、第二次世界大戦後の日本の経済成長に伴う所得水準の向上もあり、畜産物の消費も増大し、栄養的にも望ましいものとなった。いわゆる「日本型食生活」として評価されるようにもなった。これは米が栄養的のも優れており、これを食の基幹としたことが大きく寄与している。

これに対し、欧米では炭水化物源として主に小麦を主とした麦を食べた。麦は米に比べて収量は少ない。また栄養的にはB群ビタミンに関しては米より優れているが、前にも記したように蛋白質の点で問題があり、畜産物の摂取は必然となった。所得が向上すれば麦よりも、より美味な畜産物の摂取を多くすることになる。蛋白質や脂肪の多い食事の後には、当然のことながら身体は炭水化物を欲する。すぐに吸収される炭水化物として砂糖を要求するのである。脂肪と蛋白質、そして砂糖をたっぷりとる西欧型食生活は肥満や血管障害をひきおこす。このようなことから、米国では構造性炭水化物としてのでんぷんに重きをおく日本食に注目するようになった。

先に米の特長として粒食であるということをとりあげ、その優れた点を書きしるしたが、米の食べかたとしては、粒食に限られたものではなく、粉として団子や煎餅等としても利用できることはいうまでもない。一例としては一般の製粉技術によるよりもさらに微粉末とすることにより、これまでにない特性を付加し、新たな用途を開発しようとする動きさえ見られる。


四 日本人の米に対する思い入れ

農産物、食糧としての米は、単にその本来的性質、機能としての意味を有しているだけではない。江戸時代までの日本では各藩のランク付けは石高、即ち米の生産量で表された。当時とすれば、まだ産業の中心は農業であったし、農業の中心は今以上に米におかれていたからである。しかしながら、それでもなお米を生産する人々は十分に米を食べることはできなかった。不足を補うために雑穀や芋や野菜を食べた。むしろ雑穀等の方が多かったであろう。日常の「ケ」の食事では、米といってもかなりの部分が精選した際にでる低品質の部分やくず米であったし、御飯にしても大根葉等を大量に混ぜた「かて飯」であった。

農村において日常の食事に米を、しかも精白した白米を食べられることは、それなりの地位があるか、あるいは裕福でなければできないことであった。かって農民にとっては、白い御飯を食べられるのは正月や祭り等のいわゆる「ハレ」の日位であった。米を腹いっぱい食べられるということは、この上もない幸せだった。むしろ江戸をはじめとする町の人の方が白い御飯をたべていた。いわゆる「江戸わずらい」というものは、精白米に偏重した食事による脚気のことであるが、精白度の低い米、あるいは麦のような雑穀類を主食としていればおこりえなかったものである。

このようなこともあり、日本人は米に対しては並々ならぬ思い入れを持っている。日本人は米食民族といわれるが、本当のところは、つい最近までは「米食願望民族」であったとまでいわれている。

日本以外の国々においては、「主食」という概念がない場合が多い。拙文においては、これまでも米と麦を対比させて論じてきた部分もあるが、西欧諸国においては麦は主食ではない。肉類や乳製品、馬鈴薯等の多くの食品と並列的にある食品の一つにしかすぎない。経済的に貧しく、麦や薯のようなでんぷん質食品に多くを依存している場合にあっても、それを「主食」という観念ではとらえていない。たとえそれが経済的な理由から、現在における最も重要な食品であったにしても、それは彼等にとっての主食ではない。彼等とすれば、願望の意も込めて、肉こそ最も重要な食品と思っているだろう。中国語においても「主食」という言葉はあっても、日本でいう主食の意味ではない。日本において米に対していだいている「主食」という観念は、単に主要なエネルギー源としての食糧であるというばかりでなく、長い歴史の中で培われてきた、日本人の米に対する思い入れによるものがあるのではなかろうか。近年ガットの場で農産物貿易の自由化が大きな議論となっている。日本側は「米は主食」であるから自由化できない…といっているが、「主食」の概念のない国の人々に対してこのようにいっても、理解してもらえるのだろうか。

しかし食糧総体として考えた場合には、その主要な部分は安定的に供給されなければならない。欧米の国々にあっては「主食」として位置付けられるものがあるわけではないにしても、肉や麦を含む組み合わせとしての食糧の根幹部分は食糧安全保障の観点からも安定供給されなければならないことは自明のことであるように思われる。日本においては量的な面からの重要性に加えて、その生産に適した風土、優れた栄養的価値(緩やかに消化されるでんぷん、アミノ酸バランス、ビタミン)そしてなによりも国民の長年にわたる食文化の中心としての米は食糧の中心に位置付けられる必要があるように思われる。


五 平成の凶作と米騒動

平成5年は冷夏に襲われ、未曾有の凶作となった。国内の米生産量は平年の四分の三にとどまった。果たしてこれは異常な気象のみに起因する天災として位置付けてよいものであろうか。もちろん第一義的には冷夏、長雨という天候不順があげられるが、わが国における稲作を含む農業全体の体質が弱体化し、不順な気候に十分対応できなかったことも大きな要因となっているように思われる。悪天候であろうとも、それに対応する栽培管理をできるだけの技術と、その技術を具現化する条件が備わっていれば、減収は最小限に抑えることができたはずである。その背景としてのなぜそれができなかったかについて考えなければならない。

その一つはわが国が飛躍的に経済発展をした中で、自然に制約される農業は相対的に収益性が低くならざるをえず、農家は収入を得るために兼業化せざるをえなくなったことがあげられる。そして、次第により多くの収入を得ることができる兼業の方が主体となり、農業についてはできるだけ手をかけないようにすることが一般化することとなる。休日が続く五月のゴールデンウィークに田植えをし、日常の管理も日曜日に行うというのが兼業農家の一般的な営農風景である。本来そうせねばならないが、しかし手間がかかるようなことはできるだけやらないようになった。何事もない年であればそれでも十分な生産が確保できるものの、異常気象等の時等においては周到な管理をしたかしなかったかが大きく左右することになる。低温時には深水管理が有効であるが、そのためには畦を高くしておかなければならない。畦を高くすることは相当の手間がかかることとなり、多くの兼業農家ではそのようにはしていなかった。また気温や生育状況に応じた水管理のためには日常的に水田を見て稲の姿や田の状況を把握し、過去の経験と有する技術や知識にもとづいてどのようにしなければならないか判断し、実行しなければならないが、平日は兼業部門に精を出さなければならない農家ではなかなかそうもいかない。またそれだけの高い技術や深い知識も失われてきている。そのようにしなければならないという知識はあっても日々の収入を得るための兼業の方が優先されてしまうこともあろう。日本が高度経済成長を経て豊かになり収入も増えた。しかし農産物価格がそれに見合って上昇せず、一方で資材価格は上昇し続けた。このようなことから多くの農家が農業だけでは生活できないという状況に追い込まれた。平成の凶作はもちろん最大の要因は気象的要因であるが、このような人為的要因も見逃すことはできない。

稲の品種についても、その土地の微妙な自然条件とそれぞれの品種の特性から、どのような品種はその土地ではどのような特性を示すか、そしてどのような品種を選択すべきかを農家が自らの意志で判断しなければならないはずである。しかし、今や自主流通米として高価で売れる品種とそうでない品種が明確となっている中で、どうしても高く売れる高食味品種を選択するようになる。「稲の品種の山登り現象」といって、特に高い価格で売れる品種については本来の栽培適地から次第に北へ、あるいは高標高地へとより気温の低い所へと栽培範囲を広げていくことが知られている。このことは米の食味、品質とともに収量についても大きく影響を及ぼす。平年であれば高標高地等でもそれなりの収量は得られる。しかし、気温が低い年にはその影響を強くうけ、収量の低下がより大きくなるということにもなる。農業は自然に依存する部分が多く、冷害にあっても全く減収しないということはないであろうが、このような品質に偏った品種選択をせざるをえなかったことが冷害の被害を大きくした要因の一つにもなっている。

一般に作物の単位面積あたりの収量は技術の向上を背景として上昇すると考えるのが普通である。もちろん気候の影響を多く受けることから単年度だけの数値だけで判断はできない。特殊な状況であった年を除き、全体的な傾向として見る必要がある。このようにして見た場合には、近年の稲作の単収はむしろ減少している傾向にあることを梶井功氏は指摘している。技術の向上以上に農業内部の荒廃が進んでいることを示しているものといえよう。このような問題が平成の凶作の大きな要因ともなっている。

また平成の凶作をより大きな社会問題にしたのは、このような生産サイドの問題に加えてわが国稲作の問題点や十分な備蓄を怠ってきた食糧政策のまずさにも大きな責任があるようにも思われる。国としても財政負担の軽減の観点から備蓄量を極力圧縮していたこともこの問題を大きくした。さらにその背景を探っていけばこのような農業の実態を無視した農政のありかたに加えて、これまでの農業いじめといってよいほどのマスコミの言動も、農家のやる気を喪失させ、農村を荒廃させてこのような状況に至らしめた元凶の一つとしてあげられよう。

かくして中国やタイ、アメリカ等から二百万トンもの米を輸入することとなった。しかしそれらの中には私たちになじみのあるジャポニカ種だけではなく、インディカ種も含まれていた。タイ米である。インディカ種の米はジャポニカ種の米とはかなり性格が異なる。単に粘りがないというだけでなく、香りや食味においても大きく異なる。食べ方も異なるのである。食糧庁はこのようなインディカ種をジャポニカ種と同じように食べるように国民に迫った。具体的にはインディカ種とジャポニカ種の米を混ぜて売ることとしたのである。本来性質の異なる米を混ぜて、それを従来の国産米の代替とし、国産米と同じような食べ方をするようにしたのである。これには国民の反発を買うこととなった。そしてセット販売やインディカ種であるタイ米だけの販売もされるようになったが、タイ米は不評で売れ残りが目立ち、二キログラム袋入りで百円といった価格で店頭に並ぶこととなる。

しかしこのような食糧庁の強引なやり方を批判した消費者は、果たして国産米と輸入米を別々に、しかも種類別に販売したならばそれを平均して購入し、うまく使い分けたであろうか。タイ米が売れ残ったことからもわかるように、多分国産米が先ずなくなり、端境期には輸入米、しかもタイ米しか残らないということも十分ありえたことである。

しかも平成の凶作は自由米の存在をクローズアップし、食管法をなくし、あるいは骨抜きにして米を単なる儲けの手段にしようとする企業や自由貿易主義者に格好の口実を与えたことになる。またタイミングの悪いことにガット・ウルグアイラウンド最終局面とも重なり、米の部分開放についてもこれを止むなしとする国民世論の形成に力を貸した形となってしまった。

また現在の稲作がいかに問題を多く含んでいるかを人々の前にさらけだしてしまった。そのことは人々がもっと国内の農業を大事にしなければならないと思う方向にではなく、このような問題のある農業であれば国内農業に大事にするのではなく、輸入農産物に依存するのも止むなしとする方向に働いてしまったように思われる。農民の中にもこれを一つの反省材料として農業のありかたを見直し、改善しようとするというのではなく、むしろ農業に見切りをつけるという方向に動く傾向が見られる。農業を巡る状況があまりにも厳しすぎることがその理由ともなっている。今後の国内農業について考える時、憂慮すべきことである。

また、いろいろな問題を有しつつも安定的な米の供給という役割を果たしてきた食管法であったが、平成の米飢饉という局面に際して、安定的な米の供給さえもできないという大きな問題を孕んでいることが露呈した。


六 食管法とその問題点

日本における米の生産と流通は平成7年10月までは食糧管理制度(略称食管制度)の下に行われてきた(現在は平成7年11月に施行された「新食糧法」)。食管制度は元をたどれば戦前・戦中に食糧を確保し、適切に消費者に配分するために制度化されたものがもとになっている。戦争遂行のための一環であったとはいえ、それは農業者のための制度ではなく消費者のための制度であったことに注目すべきである。

戦後においても食糧が不足する状態は長く続いたから制度本来の主旨は生かされた。一方で不足する食糧(その主体は米である)の増産に努めたため、生産力は需要をオーバーするまでになった。ここから米の生産調整が行われるようになったわけであるが、この時点で制度の抜本的な見直しがなされるべきであった。即ち生産面では一層の自由化を図る一方で、凶作等の不時に備えるというものである。またこれと組み合わせて条件不利地に対する助成措置もなされてしかるべきであった。しかし現実的にはそうはならなかった。自主流通米、特別栽培米等部分的な手直しはなされたが、国家統制的な部分はそのまま残されてしまった。その一方で強権的な一律減反がなされた。緊急かつ一時的な措置であればやむをえないかもしれないが、できるだけ初期の段階から減反の選択制や農家や地域間での減反割り当てについての取引がなされる等、地域や農家自身の裁量に任せる要素を大きくとることのできるような柔軟な制度が確立され、政策が実行されていれば昨今のような混乱は多少とも軽減されたであろう。また食管制度は全体の量を確保するために、余りにも農家の行動の細部に口をはさみすぎたことが大きな過ちであった。

この背景としては戦後の永きにわたり農村を自民党の票田ととらえ、画一的、平等的な取り扱いをすることにより農民の保守的なムラ意識(特別なことをして仲間外れになりたくない、全体のなかに埋没していれば安全)を崩すことなく、一方で補助金をばらまくことによりまとまった票を確保しようとするものであったことがあげられる。この点で行政と当時の政権党である自民党は結託していたといえよう。また、食管やこの他の農業諸制度により大きな権限を有することになった農政当局の、権限を縮小したくないという組織の論理、行政の論理が働いたことがあげられる。このような「行政の、行政による、行政・自民党のための」農政が食管・農業基本法を中心として行われ、諸制度については小手先の改善にとどめ、必要な抜本的改善を行わないで今日に至ったのではなかろうか。また農政当局が根本的には農民を信用できなかったことも民主的な方向での制度の改善がなされなかった理由のひとつであろう。

このような中で減反、米価の抑制が長期に続けば、八郎潟干拓の減反拒否農民のように、力のある農民を中心に食管の枠から飛びだす者が続出するのはある意味で当然のことでもあった。政府としても食管法の枠組みの中で「自主流通米」を認める等の手直しをしてきたが、米の生産・流通に関する事態の変化には十分には対応できなかった。このようにして自由米が横行し、制度が形骸化することにより、平時はともかくも緊急時には政府による食糧のコントロールが効かなくなってしまう。財政当局(大蔵省)の強い圧力もあり、米の保管コストをケチって備蓄を最小限にまで少なくしていたことも平成の凶作がこれほどまでに大きな問題となった理由である。「平成の凶作」の問題は半ばは自然災害であるが、半ばは人為的な災害であるといえる。農業に関してはこのようなリゴリスティックな規制が長期にわたって継続して行われ、農業の弱体化を誘い、食糧問題をかくも大きなものとしたのである。


七 新食糧法

平成7年11月には従来の食管法に代わって新たに「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律(新食糧法)」が制定された。新食糧法がそれまでの食管法と大きく異なるのは、生産と流通の両面にわたる自由化である。生産農家においては、これまでのような政府への売り渡し義務が廃され、自由な売買ができるようになった。即ちこれまでの「政府米」が主役から脇役に交代し、「自主流通米」及び「計画外流通米(それまでの自由米)」が量的には多数を占めることとなった。また流通面においても、米販売に関する認可制が届け出制に変更された。このことは、これまでのようながんじがらめの制度によっていろいろと規制されてきたことからすれば大きな前進であるといえる。しかししかしそれは建前であって、現実的には後述するように米の過剰基調の中にあって国の強い指導の下、厳しい強制方式となっている現実がある。一方で不作時においても現状のままでは政府の備蓄が有効に機能しないのではないかという懸念は残される。また、後述するように新法の制定により従来の食管法が抱えていた問題点が全て解消されたわけではない。

まず生産の自由化であるが、新食糧法においては、米の生産は「選択制」の導入により、「作る自由」と「価格保証」のどちらかを選べるようになった。「作る自由」を選択した場合は、生産調整は受け入れなくともよいが、一方で「政府買い入れ」という価格保証の安全弁を失うことになる。一方で生産調整を受け入れれば「政府買い入れ」により価格が保証されることになる。しかし過剰基調下における現実の農政にあっては、このような二本立ての制度はうまく運用できるはずもなかった。法律制定前から既に「生産調整やむなし」の声が聞かれ、現実にも従来とほぼ変わらない強制的な生産調整が行われたのである。

新食糧法の目的の一つである米の流通量及び米価の安定については、一見すれば流通量の調整のための生産調整、政府による備蓄及び農協による調整保管、及び価格面における自主流通米の価格形成と政府米の価格設定という何重もの機能が働いているように思われる。しかしながらこれについても十分な機能を発揮し得なかった。

このような生産及び流通・価格形成における機能不全はなぜ生じたのであろうか。その生産面における理由の一つとしては、「生産調整」のメリット(価格保証、各種助成)がデメリット(生産量の制限)を埋め合わせる程には大きくなかったことがあげられる。米の余剰基調の中では現状では政府買い上げもそれ程多くはできず、法律の上でも政府米の買い入れ数量制限が導入され、また財政面においても「財政構造改革」を背景とする食糧管理経費削減傾向の中で、政府買い上げによる価格保証の機能は極めて限定的なものとなってしまった。そのような中で生産量の制限を受け入れれば、生産減によるデメリットを埋め合わせるだけのメリットはなく、結果的に収入が減少してしまうからである。真に「選択制」の機能を発揮させようとするならば、生産調整を受け入れた際のメリット(即ち最終的な所得の確保)が十分なものとなるようにしなければならない。しかしこのためには財政的な裏付けが無ければならず、今の日本においてはほとんど可能性は無いといってよい。現実には行政と農協による強制的な生産調整という食管法時代の姿に逆戻りしてしまったのである。

農家の政府への売り渡し義務が無くなったということは、計画外流通米(従前の「ヤミ米」)も公認されたということになる。計画外流通米に対しては、計画流通(政府米及び自主流通米)に対する助成金が支払われないため、多くは発生しないとの見方もあったが、自主流通米の価格形成が硬直的であり、必ずしも需給実態を反映していないことから、本来は自主流通米であるべきものが計画外流通米へかなりの量が洩れだしている。

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八 あるべき食糧制度

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