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第三 農業と文明の歴史


**この項の目次**


一 文明の源となった農業の発達

前章において農業の特質について記したが、ここで現代の農業が形成された歴史的側面についても触れてみたい。

人類の歴史は約二百万年といわれている。二百万年かけて猿人、原人、旧人と発達してきた。そしておよそ四〜五万年前、熱帯地方(アフリカあるいはオーストラリア等とする説がある)に私たちの直系祖先であるクロマニヨン人……現生人類と同じく分類上、ホモ・サピエンス・サピエンスとされる……があらわれる。そして約三万年前、気候の温暖化に伴い、それまで主流を占めていたネアンデルタール人(旧人)に代って人類の主流となった。

クロマニヨン人はネアンデルタール人よりも更に進んだ「道具」を用いていた。そして弓矢を用いて狩りをし、木の実や食べられる草の類等を採集した。自然に依存しつつも、積極的にそこからより多くの獲物を効率よく得ようとした。

そして「第一の波」農耕が始まる。食糧である草の実を播くと、そこから同じ草が芽生える。あちこち探し歩いて採集するよりも、多少手間はかかるが身近な所に種を播いておけば確実に食糧が得られることになる。そして栽培することにより、より望ましい形質のものが選抜され、利用されるようになる。それは、単に収量の面だけではなく、成熟しても脱粒しないといった野生植物においては稀な形質が集積され、野生植物とは違った「作物」が生まれることになる。作物は次第にそれを利用する人間にとって好ましい形質をより多く集積することになる。そのことは一方で、もう野生には戻れない、人間の栽培に依存しなければ子孫を残せない植物へとなっていった。

初期の農耕においては、まだ生産性もそれ程高くはなかったかもしれない。しかし、当然ながらそこからはより多収な系統が選抜され、更には栽培技術も向上してこよう。そうなれば、収量も大幅に向上するようになり、余剰食糧が発生するようになる。即ち単位面積当たりの養える人口も飛躍的に向上する。マクロ的に見て一人の食物獲得労力は、それまでの自分自身プラスアルファー(家族のうち、まだ労働に参加しえない幼児分)を養うのが精一杯であったものから、それ以上の複数の人の需要を満たし得るようになる。このことは食糧生産以外の仕事にも従事しうるようになることでもあり、更に社会全体では食糧生産に直接従事しない人が出てくることをも意味する。道具を作る専門の人がより優れた道具を作り、これにより農業生産は一層加速される。道をつくり、耕地を拡大する。更には頭脳労働の産物である文字や暦といったものが生まれてくる。急速な文明の進歩が見られるのである。農耕が始まってからわずかに四千年程度……人類の長い歴史の中ではほんの一瞬のことである……でいわゆる四大文明が花開く。農耕こそが文明の母である。

しかし農耕は辛い労働でもある。働くことを厭う気持ちも出てこよう。旧訳聖書においては、アダムとイブは神との約束を破り、禁断の木の実を食べたことにより楽園を追われ、罰として自らの糧を得るために地を耕さなければならなくなった。このことは西アジア、そしてその流れを汲むヨーロッパ文明においては、労働を本来はやりたくないが、原罪をつぐなうものとして、あるいは現実的には生活のためにしかたなくやるもの、ないしは他から強制されてやるものという意識を持っていることを物語っている。

また、農業の発展は部族や国の間の戦争を引き起こすこととなった。狩猟・採集段階でも食糧確保のための縄張り争いはあった。しかしそれは他の部族、集団がそこから立ち退けばそれ以上の争いに発展することはなかった。別の部族を支配したとしても、被支配部族も自らの食糧確保で精一杯で、支配部族としてもそこから余剰食糧を搾取することはできないからである。しかし、農業により余剰食糧が発生するとなれば、他部族や近隣の国を争いの末に支配し、自らは働かなくともそこから食糧を調達することができるようになる。

そして、力のある者は他の者を支配する。一つの部族や国の内部においても支配者と被支配者、奴隷といった身分関係が生じ、あるいは部族や国の間でも支配、被支配の関係が生じることとなり、被支配者や奴隷が農耕も含めた肉体労働に従事することになる。

ついでながら、米国の企業においてホワイトカラーとブルーカラーがはっきりと峻別されるのも、このようなオリエント〜ヨーロッパ文明における労働感、歴史的背景があるのではなかろうか。

わが国の農業においても、それは辛いものであったであろう。また、同じ様な背景から身分の違いも生じたであろう。しかし、農耕を含め、労働というものを厭うというよりも、そこに精神的な価値を見出しているようにも思える。勤勉さという日本人の特徴もそこに根差すものであろう。またそのことは、国民の象徴たる天皇陛下が毎年稲を御手植えされ、その実りを手ずから刈り取られることにも表れているようにも思われる。


二 食物と食文化

ともあれ、農業の発展を背景にチグリス・ユーフラテス川沿いのメソポタミアを始めとしてインダス、黄河、エジプトと各地に文明が花開いた。これら文明を築いた人々は、他国との争いに破れ、あるいは土地条件の劣化により滅んでいったが、築き上げられた文明そのものは他の人々に受け継がれ、新たな文明の母体となり、今日につながっている。またこれらとは別にアメリカ大陸にはマヤ文明も花開いた。これら文明発祥の地には文明を支える農業が、それぞれ独自に発展した。いわば食糧が大量に、安定的に確保できたからこそ、文明の発展が見られた。これら文明発祥の地は、今日我々が食糧としている主要な作物……エネルギー源となるもの……の起源となったところであるか、あるいはその近くで比較的早い時期にそれら作物が伝えられ栽培が盛んになった所である。

メソポタミア文明の興った近東は、小麦、大麦、ライムギ、えん麦といった麦類の故郷であり、インダス文明、黄河文明の興ったアジアはイネ、アワ、ソバ、キビ、ヒエ、等の穀類、タロイモ(里芋の類)、ヤムイモ(長芋の類)といった芋類、更には大豆、小豆、バナナといったものが作物化された。遡れば人類発祥の地でもあるアフリカもシコクビエ、モロコシ、ゴマの起源となり、中南米もトウモロコシ、サツマイモ、ジャガイモ、キャッサバ、落花生、かぼちゃ等豊富な作物を擁している。

これら作物の多くは起源地のみならず、世界的に栽培が行われている。むしろ故郷の地を離れて育種、改良が行われたからこそ世界的に栽培される作物となりえた。

一方、四大文明の後に最も輝かしい文明を展開させたヨーロッパはどうであろうか。ヨーロッパを起源とする作物としては、エンドウマメやソラマメ程度しかない。最も最近に超大国の輩出を見た北米にしても、ヒマワリ、キクイモ程度しかなく、エネルギー源作物としては空白地帯となっている。ヨーロッパや北米では、栽培して食用作物としうるような植物資源に恵まれなかったゆえに、人類最初の文明を生みだすことができなかった。後に現代に連なる文明を築き上げたヨーロッパにしても、最初はメソポタミア文明、エジプト文明の影響を受け、これを取り入れることから始まった。

このようにしてヨーロッパに文明がもたらされた。最初はメソポタミアやエジプトに距離的にも近い地中海東部のギリシャからローマ、そしてアルプスを越えて中部ヨーロッパ、北欧へ…。地中海沿岸は乾燥気候である。雨は冬に降るが、しかし日本を含む東南アジアよりはるかに少ない雨量である。チグリス・ユーフラテス川のような灌漑に用いることのできる大きな河川に恵まれているわけではない。このような所で食糧を得るためには、人の食べられない草を食糧に変えてくれる家畜に頼らざるをえなかった。アルプスを越えれば乾燥については和らぐものの、温度が低くなる。更にイギリスやデンマークとなれば更に寒さも厳しくなる。寒さゆえに食用作物は十分な生育を示しえない。このような乾燥あるいは寒冷といった気候の下では、人間が食用としえない草と、草を食糧に変えてくれる家畜が不可欠になる。生産力の低い食用作物の生産を少しでも向上させるためにも、糞尿という貴重な肥料を生産してくれる家畜が必要となる。欧米型の畜産物を多く食べる食文化は、彼等が豊かで生活水準が高かったがゆえではなく、直接食用としうる植物資源に恵まれなかったがゆえに発達した。

家畜の飼料たる草についても、北に行くほどその生産力は低くなる。従って家畜の生産性も低くならざるをえない。一頭の家畜を屠殺して肉を得た場合、これを補充するために子畜を得て育てるには多くの時間と経費、そして飼料を要する。子畜を生産するための繁殖用家畜を確保しておかなければならない。暖かければ草の成長も早く、飼料も確保しやすい。屠殺して食べてしまう家畜とは別に繁殖用家畜を飼う余裕もある。気候が厳しければその余裕は少なくなる。家畜を殺さずにそこから食糧を得ようとするならば、肉ではなく乳を利用することとなる。従ってヨーロッパでも北に行くほど乳を多く利用するようになる。乳を利用しなければ、そこに食物を確保することができなかった。

乳は本来、離乳期前の乳児のための栄養源である。乳には乳糖が含まれ、これが脂肪等とともにエネルギー源となるのであるが、乳糖それ自身が消化されるためには乳糖分解酵素−ラクターゼ−が消化管より分泌されなければならない。しかし、ラクターゼは本来、離乳期後には不要になるはずである。現に、元来家畜の乳を飲む習慣のなかったアジア、アフリカの人々においては、離乳期後ラクターゼは分泌されなくなる。しかし、家畜の乳を食糧とせざるをえなかったヨーロッパにおいては、大人になってもラクターゼを分泌する人の割合が多い。しかもそのヨーロッパにおいても北に行くほど成人におけるラクターゼ分泌者の割合が高くなる。直接食用とする植物資源に恵まれず、乳を食糧の主要部分に位置付けざるをえなかった状況での人間側での対応…小進化といえよう。(島田彰夫「食と健康を地理からみると」農山漁村文化協会)

バターやチーズにしても、いわば乳の貯蔵形態である。チーズの中には木の板のように硬く、何年もの貯蔵に耐えて非常の際の保存食とされるものもあった。

アルプス以北のヨーロッパは、かつては広大な森林に覆われていた。人々はそこを切り開いて農地としたが、その周りには依然森林が広がっていた。ここにおいて語られた童話にもそのことがうかがえる。深い森に迷い込んだり、森の奥に住む魔法使いが出てきたりする話が多い。イギリスのロビンフッドにしても森を活躍の舞台としていた。しかもその森を形成する木は広葉樹−ナラやカシのような秋になると多くの実(どんぐり)をつける−であった。木の実を有効に使うことのできる家畜は豚である。春から初秋には豊富な草を食わせ、せいぜいこれに収穫残渣や収穫物のうちの品質の悪い部分が飼料に振り向けられた程度であろう。このようにして育て、秋も深まり森に木の実が落ちる頃、これをたっぷりと食べさせて太らせ、冬になり飼料が無くなる頃には次の年の春に繁殖に用いるものを除いて、これを屠殺して冬の間の食糧とした。そして一部は屠殺の直後に食べたであろうが、その多くは冬の間の数か月間の食糧として貯蔵しなければならない。ハムやベーコン、ソーセージはこのようにして生まれた。本来は決して私たちがこれら食品に抱いているような嗜好食品としての特性を付与するための加工法ではないのである。かつてのわが国における塩辛い新巻鮭と目的は同じである。スパイスやハーブの利用にしても、本来は長期間の貯蔵により臭いがきつくなった肉を何とかごまかして食べるための工夫の一つである。

私たち日本人は、無意識のうちに食肉や乳製品等の動物性食品を穀類等の植物性の食糧資源よりも価値が高いもの、より好ましい食べ物と思いがちである。これは現代につながる文明が、このような畜産物に依存しなければならなかった西欧において発展したためである。進んだ文化とともにわが国に入ってきたために、それをわが国の伝統的な米を主体とする食文化よりも優れたものと勘違いしたのである。むしろ食の歴史からすれば、畜産物こそ穀類等の植物性食糧資源の「代用食」なのである。もちろん普段は木の葉等の植物しか食べないチンパンジーにおいてさえ、時に他の小動物を捕らえて食べる時は常になく嬉しいらしい。しかし彼等は肉食を日常の食とすることはない。私たち人間においても肉は美味しい食品である。しかし、美味しいものが必ずしも普遍的な基礎食品たりえないことも事実であろう。人間における長い食の歴史を振り返ってみても、また私たち人間とは近縁のチンパンジーの例を見てもそのことは理解できよう。


三 ヨーロッパにおける農業の発達

畜産に頼らざるをえないヨーロッパ。しかし、その厳しい条件の下で人々は主穀たる麦を生産することに努力してきた。文明発祥の地オリエントにおいては、草地の一部を耕し麦を播き、麦を収穫した後はまた草地に戻すというやりかただった。この方法が麦の伝播とともに地中海地方でも行われるようになった。しかし、より地中海性気候に適した方法として二圃式農法が行われるようになる。夏に雨の少ない地中海地方において、土壌水分をいかにして確保するかが農業上の最大課題であった。雨は少ないとはいえ全く降らないわけではない。しかし照りつける太陽の光の下、急速に蒸発してしまう。この蒸発さえ抑制できれば、時折降った雨水を土中に蓄えることができる。土壌をよく見ると土壌粒子が集まり、土壌粒子間が非常に狭い。水はその狭い空隙を伝わって移動する。いわゆる毛細管現象である。土中水分の蒸発をさせないようにするためには、畑を浅く耕せばよい。これによって土壌の表層とその下との間につながっていた毛細管を断ち切るのである。このために使われる犁は、わが国のような湿潤地において雑草対策のために深く耕さなければならない犁とは形が大きく異なっている。一年おきの作付けは多くの畑作物において不可避な連作障害を回避する意味合いもあった。また、徐々にではあるが休閑期間中にも進行する土壌鉱物の風化によって得られる肥料成分、即ち天然供給量に期待するところもあったであろう。

この二圃式農法がアルプスを越え中部ヨーロッパに伝わった。しかし、ここは南欧よりも気温は低いものの夏に雨が降る。従って休閑の意味も水分保持から雑草抑圧へと変わることとなる。犁も雑草を埋め込むために大型のものになる。しかし日本程に高温多雨というわけではない。雑草が多いとはいっても日本に比べれば少ないものである。従って一回の作付け毎に休閑を設ける必要はない。休閑した次の年は雑草は少ない。翌々年にはやや雑草が多い。三年目には非常に多くなり麦の作付けはできなくなる。従って休閑の後二年間の作付けすることになる。しかし連作障害もあり、同じ作物を連続して作るわけにはいかない。従って秋播いて翌年夏に収穫する小麦(あるいはライムギ)、春播いて夏に収穫する大麦(あるいはエンバク)、休閑の三年二作による、いわゆる三圃式農法ができあがった。小麦は最も主要な食糧、主穀である。大麦やエンバクは小麦よりはランクが下であり、人の食糧にもされるがむしろ家畜の飼料であり、小麦が不作の時には人間の食糧とされる割合が増やされる。休閑地は、地力回復、雑草抑制のために何も作付けされず、年に数回耕される。この三圃式農法は村の中の農民が個々ばらばらに行うのではない。村全体の農地を大きく三分割し、それぞれの農民は三分割したそれぞれにほぼ同じ面積の農地を持つ。豊かな農民はそれぞれに多く、貧しい農民は少ないながらも三つの区画にほぼ同じ面積有する。また、農地は家畜により耕しやすいように非常に細長い形をしていた。三圃式農地の外側には広い採草放牧地があり、家畜が放牧されていた。また三圃式農地における収穫の後はここにも家畜が放され、残稈や刈り株を食べる。このため、それぞれの農民の畑の外周に柵等はない。なお当時飼われた家畜としては、耕作用の馬はもちろん必要ではあるが、貧しい農民としては食用として牛のような大きな家畜を飼う余裕はない。食用家畜でしかも草に依存する家畜として、大型の家畜である牛よりもむしろ羊が多く飼われた。このようにして麦と家畜の生産が行なわれた。

後に家畜の飼養を増やすために、休閑地に牧草を栽培することとなる。そしてそれまでの休閑地を「黒い休閑地」、牧草を栽培するようになった所を「緑の休閑地」といわれるようになった。


四 近世における経済発展と農業

十八世紀イギリスに起こった「第二の波」、産業革命も単に蒸気期間等の発明や技術開発だけによってなされたわけではない。その背景として農業の発展による富の蓄積と、非農業従事者たる都市住民の増加が背景となっている。農業生産性の高まりにより多くの人々が農業以外の職業に就くことができるようになり、それらの人々はその技術を生かせる場として都市を志向した。地主層の人達はそれまで以上に財力を蓄えるようになった。食料品や、既に発展を見ていた手工業製品等を扱う商人も多くの富を有するようになった。このような農業の発展を基盤とする産業の発展、都市の発展が産業革命の基盤となった。いわば産業革命の助走段階があったのである。このような活気の中で蒸気機関を初めとする発明、技術開発がなされ、産業の発展を一気に加速する。今日の欧米型文明がこのように発達した大きな要因の一つに、この産業革命があげられるであろう。

産業革命は更なる人口の都市集中をもたらす。膨れ上がった都市住民の需要に応えるため、農業側には食糧たる農産物の増産が求められるようになる。食糧の中核となるのがパンと肉、即ち小麦と畜産物である。従来の三圃式農法を越える生産力が必要とされたのである。小麦の生産を増やすには、当時における最大の制限因子である施肥水準の向上を図る必要があった。そのためには肥料製造機でもある家畜を増やさなければならない。しかもできるだけ多くの糞尿堆肥を得るためには、従来の放牧主体から年間舎飼い方式とする方が都合がよい。一方肉の生産からしても、従来の放牧よりも効率的な増体を図ることのできる舎飼いの方がよい。

また、画期的なことには、従来はほとんど麦しか作らなかった畑に舎飼家畜の飼料であるクローバとカブを作るようになったことである。これによって舎飼家畜の飼料を確保した。更には放牧を行わなくなったことによって、従来放牧地となっていた周辺の土地にまで耕地を拡大することができた。従来の三圃式農法に代えて小麦−カブ−大麦−クローバの四年輪作による作付け方式が確立された。この方式が考えだされたのがイギリスのノーフォーク地方であったのでノーフォーク式農法と呼ばれるようになった。そしてイギリスのみならずヨーロッパに広く行われるようになる。

ノーフォーク式農法においては、全体耕地に占める小麦作付けの割合は従来の三分の一から四分の一と減少したが、単収の向上はそれを補っても余りあるものであった。しかも耕地を従来の放牧地であった所にまで拡大することができる。二重、三重にも生産の拡大、効率化が行えた。

しかしながら家畜を舎飼いするとなればそれまでの放牧とは異なり、飼料はすべて人手で収穫し、貯蔵しなければならない。また肉を生産する家畜としては羊のような小型の家畜よりも大型の牛の方が効率が良い。このように大型の家畜を、しかも従来の手間のかからない放牧を止めて、経費と労力を要する舎飼いで飼うことは普通の農民にはできないことであった。地主か余程の富農でなければできないことであった。また、ノーフォーク式農法においては耕地に飼料作物を栽培する。従来の三圃式農法では麦の刈り跡に家畜を放牧するが、そこに飼料作物が栽培されていれば、それは食べられてしまう。従来の三圃式農法と新しいノーフォーク式農法は混在不可能である。新しい農法を行なおうとすれば、土地の交換等により分散している自分の農地を集め、柵で囲わなければならない。いわゆる「囲い込み」である。地主や富農は新しい農法を取り入れ、そのために「囲い込」もうようとする。貧しい農民にはそれだけの力はなく、従来の農法を維持しようとし、そのために囲い込みには反対する。当時のイギリスでは三分の二の賛成……人数ではなく、農地面積の……があれば村全体の農地を囲い込むことができた。地主や富農は多くの土地を持っていたから、囲い込みは急速に進展した。新しい農法の普及により麦と家畜、双方の生産が飛躍的に向上したのであった。しかしその一方で農村における貧富の差はますます大きなものとなっていった。

家畜の肉を都会に持っていけば高く売れるようになれば、肉の生産効率を更に向上させようとするのは自然なことである。そのためには家畜の形質を更に肥育効率のよいものに変えることも積極的に行うようになった。ベイクウェルは自ら牛や馬の家畜の育種を行い、新しい品種を作出するとともに、家畜育種の方法を体系化した。一見関係なさそうに思える家畜育種と産業革命は実は密接に関係づけられている。しかし当時としては食肉を輸送するための、冷蔵装置を有する輸送手段もまだない時代である。消費地である大都市まで家畜を追っていかなければならない。移動期間のエネルギーを確保するために、皮下脂肪層の厚いことが求められた。家畜の育種方針は時代の要請により変化する。ベイクウェルの育成した品種は現代においては既に見られなくなってしまったが、彼が体系化した育種技術というものは今も生き続けている。

このように農法や家畜の飼養方法やさらには家畜に求められる形質も、産業革命と関連した農業の変革の中で大きく変わった。しかしそれは一方において中小農民の犠牲の上に地主や富農が益々大きくなっていったことも忘れてはならないと思う。

そして当時の最先進国であるイギリスにおいては、工業生産の飛躍的な拡大により、対外貿易も盛んになった。産業革命は一国で完結するシステムではない。一方で廉価な工業製品を輸出し、他方で工業原料や第一次産品である食糧を輸入する国際間分業を必然とする国際システムとならざるをえない。当然国内農業は輸入食糧との競合にさらされる。商工業サイドとすれば輸出入に障壁が無ければ、自由に輸出できるから、自由貿易を標榜する。労働コストを低減するためにも、安価な食糧が供給されることを望む。それは国内生産である必要はない。一方、地主等の農業側とすれば、自由貿易により安価な外国産農産物が入ってくればたちうちできなくなる。他の国はまだ産業革命が波及していないか、していたとしてもイギリスよりはまだ遅れている。そうなれば必然的に農産物が安価に輸入される。今日の日本における輸出入の関係を見れば明らかなように…。更には北米や豪州のような大規模な国土を利用して農産物を作れば、輸送コストを考慮しても大量に安価な食糧が得られる。

当時の商工業サイドの考え、即ち自由貿易の論理を経済学的に展開したのがリカードである。適地適産、その国々で最も得意とする、最も低コストで生産できるものを作り、交易するのが全体として最も益が大きいというものである。これに対するマルサスは、短期的には国際分業により利益があがったとしても、長期的には相手国の工業も発展するだろうし、自国の経済的有利性が将来とも継続する保証はなく、食糧の輸入も困難になるかもしれない。人口は幾何級数的に増加するが、食糧生産はそのようには増加せず、将来にわたって国民を養っていくためには、食糧自給率を確保することが重要であり、目先の利のために工業のみのことを考えるのではなく、農業、工業共に調和のとれた発展させなければならない…とした。

結局当時のイギリス政府は商工業サイドの論理を取り入れた。一八四六年それまで穀物の輸入を制限していた穀物条令を廃止し、穀物の輸入自由化をした。イギリスは経済的にも大発展し、「大英帝国」とまで称せられるようになった。しかし、国内農業は衰退した。しかしマルサスの危惧は現実のものとなった。アメリカやドイツ、そして日本等が次々に工業化を果たし、イギリス産業の絶対優位は長くは続かなかった。加えて第一次、第二次世界大戦においてイギリスは戦勝国であったにもかかわらず、戦争の痛手はパックス・ブリタニカの旗を降ろさざるをえないようになる。帝国主義の時代は終わり、多くの植民地が独立した。超大国の地位もかつての植民地であったアメリカに譲らざるをえなくなった。没落の辛酸をなめた。食糧そのものに関しても、第二次世界大戦においては、食糧供給のために重要な航路を断たれ、深刻な食糧不足におちいったことは特筆すべきである。

イギリス以外にも過去にはギリシャやローマ、そして通商国家ベネチア等国内での農業を軽視し、食糧を属国からの徴収や輸入に頼った国は滅亡し、あるいは今日においては過去の栄光は見るべくもない。これに対し、ドイツやフランス等商工業と農業のバランスをとりつつ発展した国においては、たとえ戦火に見舞われ、あるいは敗戦という事態に陥ってもしぶとく生き残っている。イギリスも農業の重要さを身にしみた。戦後は積極的に農業振興をはかることとなる。これに対し、日本は第二次世界対戦後急速な工業の発展がなされた。戦前からの工業技術の蓄積もあったであろうが、農業基盤がしっかりし、食糧の安定的な供給や良質な労働力といったものが工業発展の基盤となった。それにもかかわらず、その後の日本は通商国家ベネチア、百五十年のイギリスの道を選択してしまった。百年後の日本はベネチアの運命をなぞるのであろうか。イギリスのように辛酸をなめなければその非に気付かないのであろうか。


五 開発途上国における農業

通商政策と農業の関わりについて考える場合、先進国側についてのみ触れるわけにはいかない。産業革命は必然的に国際間分業を必要とするが。イギリスを初めとするヨーロッパ諸国が産業革命を果たし、工業化がなされ、そこで生産される工業製品の輸出先、そして逆に工業原料や農産物の供給先とされたのがアジア、アフリカ等の後進地域である。イギリスはそれまでの綿織物の輸出国であったインドに安価な綿織物を輸出した。しかもただ輸出しただけではない。インドにおける輸入関税をゼロとした。一方でイギリス本国はインドからの綿製品の輸入に対しては、ほとんど輸入ができないような高率の関税を設けた。更にはインド国内における綿工業に高率の税を課し、インドの綿工業を壊滅させた。

このようにして先進国の植民地とされた国々においては、織物等安価な工業製品の輸入により伝統的な産業が衰退に追いやられる。インドにおいても職を失った織物職人は、仕事を求めて農村に流入する。農地の利用について需要と供給のバランスが崩れ、小作料が高騰する。そうなれば収入の少ない自国のための食糧でなく、利幅の多い綿花等輸出のための農産物を栽培せざるをえなくなる。それまで当然のこととして行なわれていた自給自足的な農業は、力づくで輸出産品の生産をさせられるようになる。それはそのことにより利を得るその国の支配層や地主階層によって、あるいはその国を植民地とした宗主国によってばかりではなく、農民自身がそうせざるをえないような状況に追いやられるのである。このようにして国内におけるバランスのとれた産業構造が破壊される。

このような産業の変化は社会、経済、環境等に多くの影響を及ぼす。それまで自立していた経済が宗主国に依存せざるをえない経済へと変質する。国内にはそれまで以上に多くの貧困層を抱えることとなる。商人、高利貸しは農民の貧困につけこんで農民を借金で縛る。ひいてはプランテーションと呼ばれる、宗主国の資本が直接農業労働者を雇って行う資本主義的な企業経営による農業生産が行われることとなる。当然ここにおいては綿花や茶等の輸出農産物が栽培される。農業と自然の長期にわたって維持、継続してきた安定的な関係が崩されることとなる。このようにして貧富の差が拡大し、特に貧しい者が増えて社会不安がつのるようになり、そのような中で発生する暴動や宗主国への抵抗運動の抑圧を通じて、宗主国側の植民地支配が益々強められる。

第二次世界対戦後、このような国々は独立を勝ち得ることとなる。しかし、独立を得ても産業基盤に乏しい状況の下では、農業を本来の姿に立ち戻らせることは不可能であった。産業振興のためには工業化が必要とされた。独立後は国内での対立抗争や近隣諸国との武力紛争がほとんど必然的にといってよいほどに発生した。軍事力強化のためには資金が必要である。工業化や軍備拡張に必要な外貨獲得のためにも、それまでと同様な輸出農産物の生産を続けなければならなかった。また、独立後も国の実権を握るのは地主層等の一部特権階級である。彼らにしても、利益を多く得るためには、国内自給的な作物よりも輸出農産物の方が好ましかった。このようなことからアジアやラテンアメリカ等の発展途上国においては農地改革は進んではいない。農業の体質は植民地時代とそう変わってはいない。

私たちは日常、何の気なしにコーヒーや紅茶を飲んでいるが、これらがこのような状況で作られていることに気がついている人は少ない。近年においては、これらの他に思いもかけないものが発展途上国でつくられている。しょうがや漬けもの用の胡瓜、低カロリー甘味料のステビア等々。農産物ではないが日本向けの海老の養殖も行なわれている。そしてこれらの国々においては自動車やラジカセ等の日本製工業製品があふれている。日本はこれらの国を属国や植民地としているわけではない。しかし実質的にはかつてのイギリス等の宗主国の地位をそっくりそのまま引き継いでいるようにも思われる。


六 新大陸の農業

ここでは新大陸の中でも特にアメリカを取り上げて考察してみたい。一四九二年から一五〇二年にかけての、コロンブスの数度にわたる探検航海によってアメリカ大陸はヨーロッパの人の知るところとなった。そして中南米はスペイン、ポルトガルによって、北米はイギリスを初めとしてオランダ、フランスが植民地として分割支配した。アメリカ合衆国は一七七六年にイギリスから独立し、植民地となっていた中西部の地を併合し、後にハワイ及びアラスカを加えて現在の版図となった。

アメリカの農業も、既に工業化が進展しているイギリスへ原料綿等の原料農産物供給をすることにより発達した。南北戦争以前より南部においてはイギリスへの輸出のための綿花栽培が行われていた。一方、アメリカ北部においては工業が発達した。このような産業構造の違いが南北戦争の原因となっている。原料綿の輸出のためには貿易障壁はない方がよい。一方イギリスとの競争にさらされる工業においては、保護貿易が好ましい。南北戦争とはこのような国内産業のあり方、対外政策のあり方をめぐっての戦争だった。そして北軍の勝利となり、必要に応じて国内産業保護的な政策をとることができるようになり、このことを背景としてアメリカ国内における工業が飛躍的に発展する。いわばアメリカ版産業革命である。このような工業の進歩は農業機械の発達をも促す。大面積の農地により行う農業が更に発達するためには能率の良い機械が不可欠である。南北戦争の時において兵隊に労働力を取られ、人手不足に悩む北部の農業において労働力不足を補ったのが、当時発明された自動刈取機であった。

南北戦争後、中西部の開拓が進んだ。そこは乾燥した気候であり、元々乾燥した条件の下で発達したヨーロッパの農法をほとんどそのまま取り入れることができた。元々オリエントそしてヨーロッパの農法はそこが乾燥地であるという条件の下で発達した。乾燥地という生産力の低い条件の下ではいくら手間をかけてもそれ程の収量増は見込めない。それよりも面積を拡大して粗放的に経営した方がよい。ヨーロッパにおいては既に面積拡大の余地は極めて少なくなっていた。広大な未開の地が広がるアメリカこそがヨーロッパの農法にとって、ヨーロッパ以上に適合する地となったわけである(しかしそのことによって、そこを生活の場としていたアメリカインディアンの人達は狭い居留地に追いやられた)。しかし人力や畜力のみで耕し、収穫するには面積が広大過ぎてしまった。そのために機械力が使われた。既に自動刈取機は南北戦争当時において使われていた。更に進んだ農機具であるコンバインが用いられるようになった。「コンバイン」とは結合する、組み合わせるという意味がある。刈取機と脱穀機、そしてトラクターという三つの機能を一体化した農機具なのである。ヨーロッパで発達した農法を継承しながらも、そこに大規模、大型農機具利用という独特なアメリカ型農業が発達した。しかしながら大規模に営農するとなれば、機械装備等も大掛かりなものとなる。それをできるだけ抑制しようとすれば営農構造を単純にした方が良い。かくしてアメリカの農業は単作の方向にむかう。

アメリカ人の心の故郷とでもいうべきものはアメリカのテレビドラマ「大草原の小さな家」にあらわされるような家族農場であるという。家族で自営し、必要な食糧は自給し、堅実な家庭を築く。そこには健全な開拓者精神が宿っていた。しかし20世紀の後半にはこのような家族経営は崩壊し、巨大農場と趣味的な兼業小規模経営に二極分化することとなる。その背景としてはとうもろこし等の穀物や家畜の育種改良が進み、農業生産性が大幅にアップしたことである。しかも大規模であるほど生産コストが安いというスケールメリットが最大限に発揮されることになる。しかしそのような生産性向上により農産物価格は低く抑えられることになる。そうなればよりコストの低い大規模経営が一層有利になるのは必然である。加えて米国政府の補助政策が規模が大きくなればなるほど有利に働くという逆進性もこれに拍車をかける。加えて農業不況期には資本力の小さい中規模の家族経営は、好況期において行った設備投資等のための負債の償還に耐えきれず離脱することとなる。そして農地は大規模経営に吸収されてしまうこととなる。そしてこのような巨大農場においては、その所有者は自ら農業を行わない場合も増えてきている。いわゆる不在地主化である。これら不在地主は都会に住み、耕作を請け負う会社に経営を任せている。またこのような巨大農場の所有権も投機の対象となっている。そして小麦やとうもろこしのような穀作においては大規模機械化が可能であるが、オレンジ等の果樹のようにどうしても人手に頼らなければならないところについては、メキシコ等からの不法入国者のような低賃金労働者を雇用している。いわば開発途上国におけるプランテーション農業に類似した形態を示してきているのである。

またこのような大規模化の過程では、目先の効率性を追求するあまり、防風林が伐られ風蝕の要因となったり、土壌侵食、地下水の枯渇、不適切な灌漑により地表に塩分が蓄積して農業生産が不可能になる等の自然収奪とこれによる問題点も多くみられるようになってきている。


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