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第二 農業の特質


**この項の目次**


一 農産物は自然の営みから得られる恵みである

農産物、さらには水産物、林産物もそうであるが、これらは自然の営みから得られる恵みである。これを生産するのに田畑を耕し、種を播き、肥料をやり…と人の手がいくらかかろうともそれは自然の営みに少々手を貸すのに過ぎない。何となれば人間は全くの無機物から生命を作り出すことはできない。品種改良ですら今までとは全く違った植物や動物を作ることはできない。今まであった植物や動物の性質を少々変化させる位しかできない。生物が既に具えている能力をいかに人間の都合のよいように発現させるかというのが、農業から現在最先端の生物科学に至る人間の自然に対する働きかけの姿である。

近年、農業に関しても「バイオ」が盛んに言われるようになった。バイオテクノロジーによって、現代の農業の限界がいとも容易に突き破られるといった幻想があちこちで語られている。バイオを使えば農業における生産効率が飛躍的に増大し、さらには今までにもなかったようなものまで作りだせるというようなことまで一部で言われている。

しかし育種におけるバイオ即ち遺伝子操作を使った品種改良にしても、花等の今までにない新しいものや珍しいもの、即ちより大きな変異が求められるものや、特殊な物質を生産させるといった場面においてはそれなりの役割は果たすことができよう。しかし、一般の農作物、即ち単なる珍しさではなく食物としての農作物の基本的な特性を維持しつつ、生産効率やその安定性(病虫害抵抗性、気象変動下での生産安定性等)を改善しようとする場面では、いくらバイオといっても夢として語られている程にはドラスティックな目に見えての効果は望みえないであろう。収量が一気に2倍、3倍になることは期待しがたい。バイオテクノロジーによって、従来交配しえなかったキャベツと小松菜を交配して得られた「千宝菜」にしても、両方の特性を組み合わせた従来の菜にはない特性を備えたものではあるが、菜のイメージを大きく変革するには至らず、またそれは菜を越えるものではない。家畜の受精卵移植によって多くの子畜が得られるといっても、実際に子を産む母畜の数に限度がある以上、母畜の産子能力を越える子畜を生産することはできない。元々その母畜が産むべき子畜をより優れた遺伝的型質を有するものに置き換えるだけである。量的な増大としては、せいぜい受精卵移植技術を使うことにより、双子生産を増やすことができるといった程度である。

バイオについてやや悲観的なことを言い過ぎたかもしれない。今日カトレア等の蘭が比較的安価に買うことができるのも成長点培養というバイオの手法が実用化され、普及したことによるものである。作物の品種改良もバイオ技術の導入により、新たなしかも極めて有力な手法を駆使することができるようになった。家畜の受精卵移植にしても、このことにより家畜改良の進み具合は今までになく加速されるであろう。バイオ技術により人間の今までにはない自然への働きかけ力が加わった。人知による生産性向上もよりスピードアップされよう。将来的には従来にはない新しいものも生産できるようになるかもしれない。しかし、これとても自然の摂理を越えることはできないことを肝に銘じなければならない。

話を転じて農と食との関わりの点からこのテーマに触れてみたい。我々が食物を食べるということは、それにより栄養を得るということであるが、それは活動のためのエネルギーを得るとともに、体を構成し、あるいは各細胞、器官の機能を調節するための物質を得ることでもある。またそれは結局大地(植物の根から吸収される各種の物質)と水及び空気、そしてこれら動植物の生命の神秘やこれらを生かしている環境の恵みを受け取ることである。エネルギーとは即ち太陽のエネルギーに由来する。食物とは結局は太陽と地球と生命の恵みを組み合わせたものであり、人間が生きていくために必要なものとして大自然から私たちにプレゼントされたものである。

農業の営みということは、より多くのそしてより良い恵み(食物)を得ようとして、人間が自然に対して行う努力のことではなかろうか。農業こそは自然との共同作業(その主役はもちろん自然の側にあるのだが)により人間が生きていくのに欠かせない食糧を生産するということで高く評価したい。もちろん労働に貴賎はない。しかし、産業にはgnpやgdpのような経済的指標で表される以外の重要度……人間の生存に不可欠かどうかという問題にかかわる尺度……があるように思われる。

一方、農業がこのように自然の恵みに依存し、人間と自然との共同作業であり、反面自然の制約のもとに行われる営みであるということは、また人間の努力だけでは如何ともし難い限界があるということにもなる。いくら品種改良を行っても、またどれだけ肥料をやろうとも収量が一足飛びに倍になるわけではない。自然が受け止めうる人為には限界があるということでもある。

ここで農業は人間と自然との共同作業であるとし、自然との共生が必要であるとしたが、本来は自然との共生などとはおこがましい限りなのではなかろうか。自然の営みの中で生かされているというのが真実なのではなかろうか。人間は自然に対して一方的に利益を得る「片利共生」の立場にいるというのが本来の姿であった。しかし文明が進み、技術が進歩することにより、自然を蝕みつつもより多くの利益を得ようとするようになってしまった。このようになればもう共生ということはいえなくなってしまう。現実には人間は自然に寄生しているのである。工業はその最たるものであるが、農業においても経済社会の中で成立しなければならないことから工業の論理である「効率性」の論理を受け入れざるをえなくなった時から、その性格は「自然との共生」から「自然への寄生」へと性格が変わってしまった。

しかし、まだ工業のような完全な寄生とまではいっていない。特に有機農法等自然との共生への回帰をめざす動きもある。農の論理である自然との共生が社会一般のありかたにおいても再度見直されることが望まれる。その時こそ農業の優れた点が見直される時であるように思われる。


二 農業は動けない

農業は自然の恵みであり、その自然の一部としての大地に立脚している。このため農業の特徴として、立地している場所から動けないということである。もちろん施設園芸やさらには水耕栽培等のように、土地よりも施設に依存する割合が高いものもある。しかし大部分の農業、しかも食糧の供給のために重要な農業部門のすべてにおいては大地と密接に結びついているがゆえに移動することができない。

一方工業においては、もちろん工場敷地としての土地は必要であるが、製品を生産するのは直接的には土地ではなく工場であり、農業に比べれば相対的に土地依存度は低く、土地に執着することは少ない。労働コストや資材調達、さらには販売等の観点から最適生産立地を求めて、それが有利となればどこにでも、外国にでも動くことができる。現に自動車産業等多くの企業が需要地である米国や欧州に、さらには低賃金を求めてアジアにと生産拠点を世界各地に展開している。

これに比べれば農業における立地移動は極めて少ないのではなかろうか。もちろん農業が動けないことの理由としては、農地を単なる生産手段としてではなく、先祖代々受け継いだ「家産」としてとらえ、長年耕作した土地に対して愛着を感じるということもある。逆に容易には動けないことが、このような意識を醸成しているという側面もある。両者が互いに相まって日本人の、特に農家の土地にたいする意識を育ててきたのではなかろうか。また近年における農業外の理由(宅地やゴルフ場等における土地需要)を背景とした土地価格の上昇等も、農業の立地移動を困難にしている。農地の売買による経営基盤の変動はあっても、生産拠点の移動を伴うようなことは極めて少ないであろう。また、このように農を営む「人」に着目してみても移動は少ないといえるが、土地としての農地そのものに着目すれば、それこそ全く移動は不可能である。たとえそこを耕作する農家が何らかの理由によりそこを売却した場合でも、その土地を買った人が農業を行う限り、属人的ではなく、属地的に見れば、そこにおける農業は継続されているのことになる。

このように農業が土地と密接不可分に結び付けられ、そこの土地から動けないということは、その土地の自然条件に従わざるを得ないということにもなる。これを工業にたとえるならば、工場の新設や移転ができないということになる。すでにある工場を使い、せいぜいそこにある機械の一部を更新・改善しながら生産を継続するのに等しい。さらには農業にはそれ以上に他の産業との間に何か根本的な違う性格……農業や農村の保守性もそこから派生する一つであろう……を与えているようにも思われる。


三 農業における生産性向上

農業が自然と人間との共同作業であり、自然が受け止めうる人為には限りがあるとしても、人間の努力が全くの無駄かといえばそうではない。農業においてもまた、人間は生産性向上のための努力を続けてきた。工業における生産性の向上からすれば「わずかずつ」といわなければならないが単位面積当たりの生産量も増え、全体として養いうる人口も増え、またこのことが文明の発展にも寄与してきた。

しかし農業における生産性向上は工業生産……ほとんど人間が開発した技術に依存する、人為のみによって行いうる……とは大きく異なる。工業製品は技術の力で短期間の間にコストをドラスティックに下げることができる。例えば半導体の生産コストでは技術革新や生産量の増加(スケールメリット)により同じ性能のものが、一年で半分とかそれ以下にもなりうる。また、性能の向上も著しいものがある。工業においては生産量の拡大、性能の向上、低コスト化が技術の発展・革新により飛躍的に進みうる。更には今までに全くなかったようなものでさえ、科学技術の発展を背景に開発され、生産しうるようになる。

しかし自然の力に大きく依存する農業はそれが困難である。農業においては工業における程には生産量の拡大、品質の向上、低コスト化は進み得ない。農業に工業の論理をあてはめるならば大規模化、農薬や化学肥料の大量施用となり、本来の食糧の姿からは離れてしまうことになる。農業の本質からすれば、規模拡大や目先の生産性向上よりは本物の食糧、農産物を生産することが重要であるように思われる。農家においてもこの本筋をふまえた上で、可能な範囲において規模拡大や生産の近代化がなされるべきである。

現実には農業における技術革新、生産性の向上はどのような形で現れたのであろうか。農業における技術革新は、量的拡大(単収向上)や品質向上も当然ではあるが、それよりもむしろ所要労働の軽減の面であらわれる場合が多い。新しい技術や農機具の導入によりそれまでよりも楽に農作業が行えるようになる。このことにより一人で多くの面積をこなしうるようになり、農業全体としての所要人数の減となってあらわれる。このことは特に第二次世界大戦後の農業において大きく現れ、第二次、第三次産業のための労働力需要の急激な増加に対応する労働力供給源となった。

しかしながら、農業は他産業と比較して既に成熟した産業である。また自然の摂理に沿った生産しか行い得ない産業でもある。従って農業における技術の発展とそれに基づく農業そのものの経済的発展速度は当然のことながら工業、商業のそれに比べれば遅々たるものがあった。また人々の生活水準の向上は食料以外の工業製品や各種サービスの需要を飛躍的に増大させた。これは社会経済的には農業の地位が低下し、他方、第二次、第三次産業の地位が向上することとなった。


四 国々の農業に対する意識の違い

古来日本を含めたアジア、特に東アジアの国々においては多神教が一般的であり、自然の物象の多くに神が宿り、あるいは山や樹木等の自然物そのものが即ち神であると信じてきた。人間も自然を構成する一つであり、自然の中に抱かれるものであった。このため意識して自然を破壊するようなことはしなかった。また、幸いなことに日本における最も主要な食糧となった米を生産する水田については、雨の多い気候を要求するにもかかわらずその一方で多雨によってもたらされる洪水を防止し、土壌の流亡を防ぐ機能を有しており、極めて環境保全的な農法といえるだろう。また生産される農作物、特に米は神からの授かり物であるとともに、一方では神そのものでもあった。従ってこのような性質を有する農作物を生産する「農」というものを大事にし、田畑を粗末に扱うようなことはしなかった。

一方、西アジアからヨーロッパ、後には人々の移住に伴い新大陸にまで広まったユダヤ教、イスラム教、キリスト教は一神教であり、神の次に人を置き、その下に他の動植物等の自然を置いた。即ち人間は神の下僕である一方、自然に対しては支配者であり、自然は人に屈服すべきものとしてとらえられていた。このため、自然を切り開き畑とし、あるいは家畜を放牧して人のために役立てることは神の意にかなうことと考えられていた。このような人々の考えを背景として、それまでヨーロッパにあった深い森は切り開かれ、農地や草地に変えられていった。しかし、行き過ぎた森林の伐採により洪水や土壌侵食に見舞われ、また心の安らぎの場としての森林を失っていった。その後このような反省から積極的に木を植え、森林を守るようになった。今日、ドイツにおいてシュヴァルツヴァルト(黒い森)として知られる広大な森林も、このような歴史を背景として守られ、維持されてきた。ヨーロッパにおける活発な自然保護運動は、人の活動により一旦は失われてしまった自然の積極的な復元活動が精神的な背景となっている。

しかし新大陸を発見し、ここに移住した人々は広大な土地を前にして、このような反省を忘れてしまったかのように見える。米国、特に大規模な企業的農業においてはいかにしてそこから収益をあげるかが重要であり、未来永劫継続させるべき農業とは考えていない。水に乏しい所では地下水による灌漑を行い、地下水の枯渇と土壌への塩類集積による農地の荒廃という自体を招いている。超大型の農機具が効率的に動くように防風林を取り除き、結果として風食に悩まされている。化学肥料に依存し、堆肥等の有機質肥料の投与が乏しいために地力の低下がおきている所もある。最近ではさすがの米国も反省しだし、有機質肥料の積極的投与やlisa(低投入持続的農業)等と言いだしてきているが、まだ米国農業において一般的となるに至っていない。ヨーロッパ以上に大規模な農業ゆえに省力化、スケールメリットに依存する体質が濃厚であり、手間がかかり緻密さを要求される技術はなじまないのかもしれない。lisaが定着するにしても数世代の時間がかかるかもしれない。

このように農業に対する意識が日本とは異なる米国であるから、農地やここにおいて生産される農作物=食糧に対する考えも当然異なる。日本において見られるような農地に対する愛着心は見られないであろう。特に大規模な企業経営では。農地やその他の経営資産についてもわが国における「家産」ではありえない。必ずしも息子に経営資産を譲り、農業経営を受け継がせるとは考えてもいない。必要とあればだれにでも売却しうる生産資材である。愛着心が乏しければ、次の世代のために生産力を維持し、向上させようとする意識も薄くなりがちである。農業という営みは現在の収益を得るためのものであると同時に、将来における生産の基盤を維持向上させるものでなければならないと考える。日本における土地に対する執着心は異常といえるほどに強いものがある。しかしその逆の米国農業もまた問題なしとはしない。

米国の農業においては、そこにおいて生産される農産物についても、それは生産者としては「食糧」ではなくてそれにより収益を得る「商品」である。カビや虫を防ぎ、長期間の保存や輸送に耐えられるように「商品」にはポストハーベストアプリケーション(その実質はいわゆる農薬である)が振りかけられる。このことはそれを「商品」と思えばこそであり、自らの汗の結晶である「農産物」、そして人々の口に入る「食糧」という意識が強ければ生産された農産物に農薬を混入するということを思いつくであろうか。

このように欧米、特に米国の農業と日本の農業との間の意識の違いをその宗教的な背景にまで遡って論じてみた。もちろん日本の農業も自由主義経済の中、そして高度化する国民の品質に対する要求、効率主義等他産業の影響もあり、実態としては肥料や農薬の多用、大型農機具の利用等次第に米国流の考え方……本家に比べれば誠にちゃちなものではあるが……を取り入れてきた。また、特に都市近郊においては、近年における地価の高騰も、農地を農産物を生産する基盤としての農地としてではなく、年々価格の上昇する土地資産として見るという意識も強くなってきた。悲しむべきことではある。しかし、まだ農業(生産手段たる農地や、農の営みの結果として生産される農産物をも含めて)に対する意識の中には、まだそれを大事と思う心は残っているのではなかろうか。


五 農業は環境を保全する産業である

農業は元来、自然の原野を人が切り開き、ここにおいて営まれてきたものである。従ってある意味では農業は自然破壊である。現在においても傷つきやすい環境……熱帯雨林や半砂漠地帯がその代表である……において自然の許容範囲を超えた無理な農業を行えば、それは明らかに自然破壊につながる。

しかし農業は本来その土地に立脚し、永続的に行うことを前提とした産業である。そして、農業をやることによって得られるものは自然からの恵みであるという意識を持ちつつ、一時的な略奪ではなく永続的にこれを保守しながら自然の力……人間の努力で徐々にではあるが、高めることができる……の範囲内で生産を続ける限りにおいては、農地は二次的な自然環境として「地球」に認知してもらうことができるのではなかろうか。

永続的な農業のためには、自然に対して十分な配慮を払う必要があるという知恵がまだ備わっていなかった古代文明においては、農業生産は自然の大いなる犠牲の上に成立し、そこでは次世代のための農業基盤の破壊が避けられなかった。そして農業生産基盤の破壊を背景として国、そして文明そのものが衰退せざるをえなかったことは前述したとおりである。

今日の農業においても先進諸国における肥料、農薬、大型の農機具等を前提とした農業技術は大地に大きな負担を強いるものとなっている。アマゾンにおける熱帯雨林の開発利用は一時的な農業生産をもたらす……しかし、その多くが自国の人々の食糧としてではなく、米国向けの牛肉のような輸出向けのものである……が、その跡には荒廃し、むきだしになったラテライト土壌が照りつける太陽により風化され、強烈なスコールに侵食されるがままになっている。森林の下でわずかに保たれていた表土が急速に失われていく。アフリカ等の開発途上国においても、人口の増加をまかなうために無理な耕作や放牧が行われ、生態系を破壊し、結局は砂漠化の道をたどる。そして当初の期待とはうらはらに、人口を養う力を失っている。

今後あるべき農業としては、できるだけ自然に負担をかけないようなものであることが望まれる。この点において水田を主体とする日本の農業は環境保全的であるし、近代的な農業技術が発展する以前においては、より一層環境保全的であったように思う。肥料にしても周囲の山林から刈り取った草、家畜や人間の糞尿、干した魚等大地が受け入れることのできる肥料を受け入れることができる範囲内で投入した。そして自然の生産力をベースとした範囲内での生産を行った。もちろんそれは自然には優しかったかもしれないが、そこで働く人には労苦を強いたものではあった。これをそのまま今日の状況で行うことはできないが、人間の知恵によりできるだけ人間の負担を少なくしつつも、もっと自然には優しい、自然と共生しうる農業のあり方を追求できるのではなかろうか。また、他の国々に対しても持続的かつ環境保全的な農業のあり方を伝え、略奪的、自然破壊的な農業のあり方を改めさせていくことができるのではなかろうか。

一方、近代から現代における工業の発展は、一方で自然を踏みつけることによってなされてきたと言っても過言ではない。工業の論理とは価値の高いものを低コストで生産し、そこからより多くの利潤を得ようとするものであるが、そのためには資源の搾取と廃棄物の押しつけという、自然に対する傲慢かつ情け容赦のない態度が前提とされている。そもそも経済学においては一般に自然破壊や環境汚染等の外部不経済を計上することをしていない。それは経済学そのものが商工業の発達を背景としてきたからであり、その活動の根底にある自然や、そして経済活動を担っている「人間」というものに対する配慮を全くといってよい程に欠いていたからである。最近では廃棄ガスや廃水の清浄化、製品や容器のリサイクル等環境に「やさしい」ことをうたい文句にしているものが多くなってきている。しかし、それでもなお全体的に見れば多くの鉱物資源や石油、森林資源等を食いつぶし、二酸化炭素や各種の有害物質を環境に放出することを前提として生産が行われており、今に至るも極めて自然破壊的である。

思えば、人類は地球上に発生してからこのかた、地球を汚し続け、傷つけ続けてきた。しかしそれも近年までは、まだ地球の自然治癒の範囲にとどまっていたといえよう。しかし、産業革命を機とした工業文明の飛躍的な発達により、急速にその度合いが強まり、いつの間にか自然治癒の範囲を超えてしまった。われわれの活動に伴う外部不経済は、地球を破産に追いやっている。人類が地球からの借金を払うために今の文明資産を総て処分し、原始の状態にまで戻ったとしても、その負債はゼロにはならないだろう。

農業においても先ほど記したように、現在のあり様では十分に自然環境保護的であると胸を張って言えるものではない。しかしそれでもなお、工業に対しては農業に学び、自然環境保護的な産業になるように忠告できるのではなかろうか。「工は農に学び、農は自然に学ぶ」ことが望まれる。


六 本来的には自然界の循環を考えた農業でなければならない

前項とも大きく関連するが、近代から現代における先進国の農業の発達は逆に工業の論理を導入し、工業の論理のもとでなされてきた。効率性や収益を重んじてきたのである。このため、化学肥料や農薬、農機具やその燃料たる石油、そしてそのままでは決して自然界に戻ることのないビニール等の石油化学製品の利用を大前提としている。この点においても自然を搾取し、廃棄物を自然に押しつける工業のありようそのままである。

また、物質の循環を考えてみても水と二酸化炭素、そして根から吸収した各種の物質を生合成することにより作物(そしてこれを食した家畜)が育つ。作物や家畜を食した人間は糞、尿そして二酸化炭素を排出する。以前であれば人間の糞尿は集められ農地に還元された。即ち物質の循環が形成されたのである。

効率性を求め、工業に学んだ農業はこのような物質の循環を断ち切ってしまった。必要とされる養分は化学肥料として投与され、一方人間のし尿は農地に戻されることはない。糞尿の問題については、人間の「衛生」を考慮すればしかたがなかったのかもしれないが、循環が消滅したことは自然の側からすれば大きな問題となる。物質が一方通行で流れるということは一方で資源を食いつぶし、他方において集積された廃棄物が汚染として自然を害するということになる。また農業の側においても化学肥料に偏し、有機質肥料が投与されないことにより地力の低下や土壌の物理化学性の劣化が問題になってきている。

かつては人間の排せつしたし尿は大事な肥料であった。農村はもちろん、大都会であった江戸のし尿でさえも農村に運ばれ、肥料として利用された。し尿が肥料として用いられなくなったのは第二次世界大戦後、西欧の衛生観念が一般化することになる。し尿を食糧生産のための肥料としては用いられなくなる。そして下水道がはりめぐらされ、し尿は大地に還ることなく浄化処理され、河川等に放流される。多くの人はし尿が肥料となりうることを知らない。

このような中で人間の排泄物の農業への環流は現在においては不可能であろう。しかし、下水処理のあり方をもっと検討することによって人間が排泄したものを何らかの形で農業の中に戻し、新たな形での循環を形成させたいものである。

物質の一方通行があたりまえになっている工業においても、農業の循環システムに学び、完璧な資源リサイクルシステムを形づくりたいものである。例えば「紙」についても、現在ではその多くが森林の伐採……それは森林資源の食いつぶしといってよい……によって得られる木材を原料として作られている。使用済みの紙のほんの一部が回収、再生されるに留まっており、多くの紙が最終的にはゴミとなっている。本来的には紙はすべてリサイクルされた紙を原料とすべきであり、ただこの循環系におけるロス分を補うためにだけ木材から補充されるべきである。


七 農業の有する諸機能

これまで農業そのものの有する性質について歴史的背景等も含めて記してきたが、ここにおいては農業が営まれることによる社会的・文化的側面について考察を加えてみたい。農業は食糧生産という本来目的以外にも多くの機能を有し、それらのうちの多くは金銭的には評価し難いものの、極めて重要なものである。

第一に日本人の特性に根ざす農業の影響という文化的な側面に触れてみたい。日本に限った話ではないが、かつては人口の多くが農民であった。各種祭礼等の行事、慣習等の多くの文化や、その基底となる思考基準とでも言うべきものが農村に由来していた。農業とこのようにして維持される地域社会こそが日本の文化を醸成させてきたのであり、日本人の勤勉さや人と人のつながりを重要視する考えを培ってきた。都市住民ですら少なくとも数世代さかのぼれば農村の出身である者は少なくない。農村で身に付いた特質は親から子へと受け継がれ、日本人の特徴として形成された。

日本人と特性としてよく取り上げられるのが、「忍耐強い」、「集団行動」等である。これらは農業と深く結びついている。農業では播種から収穫まで数ヶ月を要する。特に日本のような気候条件では、その間の雑草、害虫、病害に対処するための管理も必要である。数ヶ月後の収穫のための労働が必要になるのである。更に長期的な食糧の確保のためには、生産基盤たる畑や水田の管理も欠かせない。農作業は長期的な視野に立って行うものである。これは狩猟民族における労働の多くが、その直後における獲物の獲得に結びつくのとは大きく異なる。

また、農業は一人の個人が行うものではない。特に水田が主体の日本農業では、用水の管理等集落全体として取り組む必要がある。用水の利用ということからしても、一人だけ他の人と違った管理をするわけにも行かない。これが日本人特有の「集団」で能力を発揮するという特質の由来となった

第二次世界大戦後の日本経済の発展を支えてきた第二次産業の躍進の基盤の一つにこのような人的要素があげられる。即ち、すぐには成果は出ないが、長期的な視野に立った戦略をとる日本企業のあり方であり、苦境に立ってもすぐには諦めないということである。また、会社員が会社という組織の中で能力を発揮するという特質である。

近年は「能力主義」ということで、個人の能力を評価しようということになってきている。社会的にも農村由来の「一致団結して」ではなく、狩猟民族的な「能力のある者が全てを得る」ような風潮がある。しかし、現代社会は組織と組織、人と人とが深く結びついた社会でもある。個々の能力を活かしつつも(農業由来の)人の結びつきを大事にした社会でありたいものと思う。

また、現代の日本人からは忍耐強さが失われてきていると言われている。これも日本社会の基盤に対する農業の影響が少なくなっていることが理由の一つとしてあげられる。このようなことが日本という国の体力低下に結びつくことを懸念する。

第二に労働力供給機能があげられる。現在においては農家人口の減少とともに、この機能は限定されたものにしまったが、過去においては農業は他産業への労働力供給源でもあった。農業は各産業の中でも最も多くの就労者を必要とし、それだけの人口を農業の内部に抱えていた。第二次世界大戦後、皮肉にも日本は敗戦国であるにもかかわらず、未曽有の発展を遂げた。戦後復興や朝鮮戦争特需を端緒とし、その後は世界の工場としての地位を固めていった。そして高度経済成長を経て今日に見る姿になっていった。このように発展し続けた工業、そして国民の所得水準の向上に伴い飛躍的に発達した商業等の第三次産業。これらの産業の発達はまた多くの労働者を必要としていた。当時のここにおける労働者の供給源は農村だった。それは農業側からすれば農業技術の発達や機械化による余剰人員の発生であり、それらの人々の就職先が必要であるという事情もあった。このように、都市の側における旺盛な労働力需要と、農村における労働力過剰が同時に発生し、農村から都市への人口移動がおこった。しかもその労働力は、「勤勉」かつ「忍耐強い」という特性を有していた。もし、農村側における労働力の供給がなければ、今日にみられるような産業の発展はなかったといってもよい。しかし一方において都市における人を吸引する力、即ち「都市の魅力」は今日に至るまで極めて強く、各種の問題を生ずるまでに都市は膨張し、一方農村の多くが過疎に悩むことにもなる。

今日においては、かって見られたような労働力の供給能力は農業の側にはない。しかし、土木作業や肉体を酷使する作業等社会の底辺における労働力の供給源としては、兼業あるいは農閑期の出稼ぎとしての農家の労力に依存する面は少なくない。

第三には農業の有する国土保全機能である。既に触れたように、農業といえども元々の自然を切り開いた人工的なものである。しかし、一方で自然に依存し、自然の恵みにより収穫をえるものでもある。自然の法則に逆らってまでも人間の意志を通すことはできない。このようなことから、農業はいかにして土地を保全するかということが重要である。過去の文明が滅びたのも農業の永続性に注意を払わなかったことがその要因の一つであった。現代における農業は永続的であることを重要視している。ここでいう「永続的」とは、土壌を流亡させないということが最大の要因である。日本では雨が多く、また農地のかなりの部分が多少なりとも傾斜のある所にあり、土壌流亡の危険が大きい。このような所でも段々畑や棚田のように、すぐには土壌が流出しないような工夫もなされてきた。水田も大きなダムとしての機能を有し、梅雨や台風等による洪水を未然に防ぐ機能を有している。

このような国土保全機能は河川の上流部、農業地帯区分からすれば中山間地の農地で特に大きいといえよう。農業を単に経済的な側面からとらえれば、中山間地農業などはやめてしまえ…ということになるのかもしれない。中山間地農業を単に農産物を生産する工場として、しかも他に比べて能率の悪い工場としてのみとらえる風潮がある。しかし、このような国土保全機能を考えれば大きな問題があるといえる。

農村といえでも現実には安価な労働力をあてにした工場が誘致されたり、スーパーマーケットやコンビニエンスストア、ホームセンター等が建設される等、既にかつてのような純粋な農村ではなくなってきている。しかし地域の主たる産業はやはり農業であり、次いで農業関連の業種である場合が多い。このような地域社会においては農業そして農業により形成される農村のありようが地域社会の維持、保全、活性化に深く関わっている。

農業が崩壊した時、農村社会もまた崩壊せざるをえない。農業を崩壊させた第二次、第三次産業は農業に代わって地域社会を維持させるとは思われない。また、農業を崩壊させる力は日本人の心にも影響を与えるであろう。農村という根を断ち切られ、また地に足つかぬ虚業の中に身を置き続ければ、日本人特有の勤勉さ等の特徴は徐々に失われていくであろうし、そうなれば良質な労働力に支えられてきた他産業も衰退せざるをえなくなるであろう。人間もまた自然の恵みにより生かされているのであるが、人間がこのことを意識できなくなった時、自然は人間を生かしてくれるだろうか。


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