top > 私たちにとって「食」と「農」とは > 第一 食糧の特質

**この項の目次**


私たちにとって食べ物とは何であろうか。いわゆるグルメ、食通の人にとっては快楽を得る手段であるかもしれないし、またレストラン、料亭から食料品店等に至る食品を扱う人々にとってはそれによって利益、報酬を得る、いわゆる「メシのタネ」であるかもしれない。それぞれの人により「食べ物」に寄せるいろいろな思いがあるであろう。しかし、本質的に食べ物=食糧とは私たち人間にとっては生命を維持するのに欠かせない、最も重要なものである。

この地球上には食糧が生命維持に必要であるということを現実に感じざるをえない状況にある人たちが多くいる。民族・宗教による対立抗争、戦争、内戦、独裁政権等による不適切な政治・行政等の各種の国内外の事情や旱魃・水害等で居住地を追われ、あるいは劣悪な条件の下で食糧を生産しなければならない人たちにとっては、それこそ食糧を得られることが即ち生きられることである。

日本の多くの人たちは平和の中にいる。そして私たちの多くは、身の回りには多くのばかりの「物」に満ちた生活をしている。しかし、ふんだんにある「物」のうち我々が生きていく上で根源的に必要なものはそのうちどれだけあるであろうか。そのほとんどのものは生命維持のための必需品か否かという篩からは落ちてしまうであろう。身に付ける衣服でさえもがその多くは本来の目的である保温や防護という以上に、身を飾るためのものとしての価値のために購入、利用されている。

そして「食べ物」に関しても、これを得るための苦労は前記のような国々の人々に比べればほとんどしなくて済む状態にある。それ故に…というべきであろうか、食糧の大切さを実感できないでいる。このことが一方でグルメ志向(しかし本当のグルメというには底が浅い)や、ファストフードが一般化し、食品産業の「売らんかな」のコマーシャルに乗せられた加工食品や健康食品の氾濫等々。売る側は「食べ物」は儲けのための道具であり、買う側は一時の楽しみを得るためのものである。今や日本の多くの人達の意識の中では、「食べる楽しみ」の要素がほとんどであり、食べることは一種の快楽の追求の手段になっている。そして食べることが呼吸するということと同じく生命維持のために欠かせないものであるという意識はほとんど無いであろう。このようなことが日本国民における「食糧は重要なもの」という意識を失わせ、安易に「輸入した方が安いなら輸入すればよい」と考えるようにもなる。

しかしながら、食糧がなければ生命の維持がかなわない以上は、食糧、特にそれらのうち一時の嗜好に偏したものを除いた基本的な食糧……主要な栄養供給源であり、その土地で生産され、その地域の文化に根ざしたもの……こそは空気や水と同様に他の何物にも代え難い貴重なものとしてとらえられなければならないであろう。


もう一つ食糧が他の物と違う点をあげれば、それは食糧としての用がなされるとともに消耗されてしまう、即ち食べればなくなってしまうものであるということであろう。これとは違って、例えば衣料は一回着れば次にはもう着られなくなってしまうというものではない。通常は何回も、また何年にもわたって着用にたえるものである。 また、食糧は毎日の「食」に欠かせないものであるだけに、その都度用意されなければならない。冷蔵庫等もあり、家庭では多少の買い置きはきくとしても少なくても週に一、二度は食料品を買ってくる必要がある。いわゆる「食いだめ」ができない以上、消費需要に見合う恒常的に安定した供給が求められる。

食糧の根幹をなす穀物は長期の備蓄が可能であるとはいえ、消費にみあう補給がなければ備蓄も底をついてしまう。比較的貯蔵がきく穀類にしても、例えば米でいえば貯蔵が一年を超えれば古米となり、高温多湿という日本の気候を考えれば、多くのコストをかけなければ食糧として五年、十年と長期にわたって貯蔵できるものでもない。また、その量も膨大なものとなり、とても一年分の必要量を超えるような量を常に確保、貯蔵しうるものでもない。穀物以外でも乾物や缶詰等比較的貯蔵がきくものもあるが、多くは長期の保存は困難であるとともに、それだけで食糧の主要な部分とすることはできない。。

また、穀物等の保存が利くものだけではなく、野菜や魚、肉等のいわゆる「生もの」、即ち生鮮食品も必要である。生鮮食品はその特性上、その都度生産、供給されなければならない。やはり食糧においては安定的な供給が不可欠であるが、そのためには恒常的な生産がなされることは絶対的な必須条件であることは言うまでもないことである。


このように最も多くの量が必要とされ、かつこれにより国民が必要とする栄養のかなりの部分がまかなえる米、かつ比較的長期保存に耐えるこの米でさえもが十分な量の貯蔵ができないとなれば、国内において安定した生産を確保するは国民生活の維持を図るためには必要不可欠の条件となる。また、生産された食糧がスムーズに……買い占めや売り惜しみ、あるいは恣意的な価格操作を排除して……量、価格共に安定した供給がなされることも併せて考慮にいれなければならない。今後米の自由化がなされ、その供給源の多くを外国に依存するようになり、しかも何らかの理由で外国からの供給に支障が生じるようなことがあれば、国民の生命の維持に必要な食糧供給はどうなるのであろうか。

最も重要な物資を外国に依存するとなれば必然的にその国に追随することを余儀なくされるであろう。その国の機嫌を損ね、供給が絶たれた場合、当面の蓄えを食べつくせば、飢えるしかない。あるいは非常な高値で輸入しなければならない。そのような状態になってから食糧を増産しようとしてもどうしようもない。水田は放棄されて年数が経ってしまった場合、元の水田に復するためには新たな開田に近い努力を必要とする。生産基盤である田畑がなければ、また食糧=農産物を生産する技術が衰退してしまったらすぐには十分な生産はできない。

食糧の自給がなされなければ、更にはその主要部分の多くを特定の国(それは即ち米国ということでもある)に頼るとなれば、意を曲げてまでも他国の無理難題を聞かざるをえない…という事態が生ずることを全く否定することはできない。即ち国の尊厳の点からも極めて重要といわねばならない。もちろん世界の中で孤立するようなことはあってはならないことである。しかし国際社会においては、多かれ少なかれ何らかの形での国と国の間の摩擦は避けられない。米国では「食糧は戦略物資」という考えもある。相手国の必要食糧の多くを供給することによりその国を意のままにしようというものである。ましてや食糧を戦略物資として考えている国に基礎的な食糧の多くを依存することには危惧の念を覚える。戦国地代には相手の城を攻めるのに「兵糧攻め」というやりかたもあったことを忘れてはならない。現代においても、かつては米国がソ連封じ込めのために小麦の禁輸を行ったこともある。

かっての米国は「大人」の国であった。世界のリーダーを自負し、敗戦国や発展途上国に対しても暖かい援助を惜しまなかった。寛容な国でもあった。しかし他の諸国が力をつけ、「全てにおいて世界一」の座がゆらぎ初め、ドイツ等のヨーロッパ諸国や特に日本が、そして近年においてはアジア諸国が台頭してくるに至り従来の寛容さが失われ、神経質に自国の主張を強引に押しつける事も多く見られる。私が最初にそれを感じたのは、かつて対日貿易赤字を背景とする日米構造協議等の場でも見られる日本に対する強引な言い方であり、その中における農産物等に対する輸入自由化圧力である。これは米国が成長の時代をすでに過ぎ成熟ないしは老熟の時代に入り、国内的にも多くの矛盾や問題点が顕在化してきたこととも関連していよう。日本の食糧の多くを米国に握られてしまった場合、その次はこれを武器として何を言ってくるかわからない。

また、米国との関係が今後とも安定的に推移したとした場合でも、長期的には世界的な食糧供給の不安定性という不安は残る。地球温暖化という問題に加え、世界的な人口増加圧力もある。世界的には今後食糧不足基調は更に強まるであろう。また、主要な食糧供給国である米国や豪州における農業の多くはアジアやヨーロッパ等の伝統的な農業とは異なり、元来自給に根ざしたものではい。旧世界における伝統的な農業は……たとえ今は必ずしも伝統的な農業が主流ではなくなったとしても……歴史をたどれば自給自足のための農業を基礎としている。自給自足であれば大きな規模は必要としない。しかし、永続性が求められる。農地の生産力を収奪しつくし、生産性の低下が見られればこれを放棄し、移動しなければならないような農業ではない。米国や豪州の農業は伝統的な自給的な農業とは直接には繋がっていない。その広大な土地に依存した粗放的な農耕を行い、輸出のための農業を発展させてきた。そのような大規模農業の経営理念は企業的経営であり、土地に定着した農家的経営ではない。企業的経営においては農業生産の永続性よりも、投下資本に対する利潤の追求が優先される。次の世代のために土壌を保全し、愛情をもって農地に接するよりも、今いかにして多くの収益をあげるかが問題となる。多くの収益をあげ、その収益をもって別の所に投資をし、更なる収益をあげればよい。このような考えのもとに農業を行えば表土の流失、灌漑用水としての地下水の枯渇、塩類の集積等の問題を生じ、ひいては農業生産が不可能になるか、あるいは極めて低水準にまで落ち込むことは必至である。またこのことは地球環境にも多くのダメージを与えることにもなる。

また、近年危惧されている地球の温暖化についても、一方において従来不可耕地であった寒地において作付けが拡大されたにしても、他方従来の主要な作付け地の多くが乾燥化、砂漠化の危険にさらされ、食糧生産が大幅に減少することも危惧されている。

一方、米の国際的な供給源ということになれば、それは米国だけではない。日本が米の輸入自由化をすれば米国よりもむしろタイ等のアジア諸国からの輸入が多くなるだろうともいわれている。しかし、米は小麦等他の穀物に比べてはるかに国内自給的な食糧である。米生産国の多くにおいては自国内での消費が多くを占め、国際貿易に回る割合は小麦に比べてはるかに小さい。このような状況で日本が米を輸入しようとすれば……日本の経済力や国内での米価水準からすればそれがかなり高い価格でも購入は可能である……米の国際価格は高騰するであろう。そうなれば食糧不足のため米を輸入していた発展途上国の人々は食糧の入手が困難になるであろうし、生産国にあっても、国内需要にまわすよりも高値で取引される輸出に振り向けられることとなろう。そうなれば米生産国にあってさえも、実際に米生産にたずさわる零細農民も含めて、一般庶民は米が買えなくなってしまうかもしれない。輸出国にしても儲かるのは地主や米を扱う商人であり、決して手に汗して働く農民ではない。他国の人々、特に弱い立場にある人たちの犠牲の上に立った食糧の確保は、国際的な道義上からの容認されないであろう。

発展途上国等においても保健衛生意識のひろまり等による死亡率……特に幼児の……の低減を背景として人口が急激に増加してきている。本来的にはこれらの国々が自ら「国内で養いうる人口」を認識し、人口抑制策を講じなければならず、また自国の国民に供給するための食糧を確保するための農業振興を図らなければならないのは当然ではあるが、実際にはうまくいっていない国が多いのも実態である。さらには食糧の確保のため、自然の摂理を無視した無理な農業を行うことにより、当初の思惑とはうらはらに砂漠化等農業生産基盤の破壊による食糧供給力の低減といった事態も各所で見られる。このような国々においては食糧を輸入したくとも外貨に乏しいため十分に輸入できない。このような飢えに苦しむ国がある中で、金にあかせて食糧を買いあさることは道義的にゆるされるだろうか。

また、かって世界に覇をとなえた大英帝国もその栄光は過去のものとなってしまった。米国の繁栄にも今やゆらぎが見え始めている。経済的な繁栄を誇る日本においても、今後五年、十年といった短期、中期的な観点からすればまだまだそれは続くであろうが、長期的な観点からすればそれは永遠ではない。そうなれば「金にあかせて」食糧を買いあさることすらできなくなる。

少なくとも主要な食糧……日本においては、その中心としてとらえられるべきものはやはり米である……の安定的な供給の確保が極めて重要と考えられる。自由化した際の供給先と見られる国々の農業において多くの問題を抱え、輸入国としての不安(輸出国の意のままに供給が操作されるおそれ等)や国際的道義を考慮に入れれば、やはり基礎的な食糧は自給すべきである。


ここで視点を変えて古代から近世に至る国々の興亡を食糧の観点から見てみたい。もちろん国の弱体化、滅亡は食糧だけによるものではない。他国からの侵略や経済の疲弊、国内の政治的問題等多くの要素がからみあってこのような事態を招くのであるが、そのほとんどに食糧問題が多かれ少なかれ関与している。

古代メソポタミアでは浅耕による土壌水分の蒸散抑制と、河川からの灌漑に頼る農業を基礎として人類の歴史上初めての文明を築き上げ、都市国家を形成していった。しかし乾燥地農業において避けがたい農地の表層土壌への塩類集積や、潅漑用水路が土砂で埋まってしまうこと等により農作物の生産が低下した。このことによる国力の弱体化も大きな要因となり国は滅亡した。ここにおいても国の滅亡は直接的には他国からの侵略等によるものであろうが、農業生産の低下による食糧供給力の低減というボディブローが利いて国力が弱ってきたところに外からの侵略という強烈なパンチをくらってダウンしたというところが真実に近いであろう。

古代ギリシャにおいても国力の増大とともに、食糧の需要が増加し、これに対応するために地中海沿岸諸国を征圧し、これを属国、植民地としてここから食糧を供給させていた。また、古代ローマにしてもギリシャ同様植民地からの植民地からの食糧供給に加えて、征服した国の人々を奴隷とする大農場を経営し、ここからの食糧にも多くを依存した。しかし属国とされ、本国のからの搾取のために人々は生産向上に努力するであろうか。いくら働いても自らの利益にはなりえない奴隷の身分で熱心に働くであろうか。また支配者たるローマ本国に納める重い租税や、本国からの厳しい食糧供出命令のため、森林は伐られ農地は荒廃した。このようなことからギリシャにしてもローマにしても十分な食糧が供給されなくなった。このことがギリシャ、ローマ文明の終焉を早めた。加えて船を造り、燃料とするために国内の木を伐りつくしてしまい、さらに羊や山羊の放牧により草を食いつくし、今に見るはげ山にしてしまった。さらに加えていうならば、前述したとおり古代ギリシャ社会はそしてこれを受け継いだローマも同様に奴隷制度の上に成りたっており、市民即ち支配する側の人々は労働を忌み嫌った。支配層たる市民は頭を使うことのみを行い、体を使う仕事は奴隷が行うものとされた。体を使う「もの」作りは低次元の労働とされた。しかし食糧も含めた「もの」作りを軽蔑した社会は、それにより文化までもがひ弱になってしまったといえるのではなかろうか。

時代は下って、ヨーロッパではスペイン、ポルトガル、オランダそしてイギリス等が栄え、多くの植民地を得、覇を競い、そして衰退した。これらの国においても通商や植民地からの搾取に多くを頼り、国内の産業、特に第1次産業に力を入れなかったことや、前にも述べたギリシャと同様、造船のための良質な材木を伐りつくしてしまったことが勢力の減退の遠因ともなっている。

イギリスの時代になるとそれまでとは違い、産業革命により工業が飛躍的に発達した。対植民地を中心とする貿易によって国の発展を図るために、国内の地主の反対を押しきって対外自由化政策をとった。もちろんこれによってかの世界に冠たる大英帝国が築かれたわけであるが、一方ではイギリス国内での農業は相対的に衰退し、食糧自給率は低下した。

このように、過去において覇をとなえた国々も食糧を中心とした「もの」づくりを軽視したことや国土の荒廃、農業の不振を背景として没落の道をたどる。

さすがに農業国でもあるフランスやドイツにおいては、過去における近隣諸国との戦争……それは国土=農地が踏みにじられることでもある……の経験も多く、さらにはこのようなイギリスにおける教訓もあり、近年このような国内農業軽視の政策をとることはない。また、これらの国のリーダーや産業界の人々にあっても、単に食糧供給というだけではなく、文化、社会的意義をも含めた農業の重要性をも十分認識し、安易に農業を蔑視したり攻撃したりはしない。イギリスもその後、食糧生産の重要性に気付き、国内農業の振興を図ってきたことは多くの人の知るところである。

過去において隆盛を誇った国々も食糧の自給……その国の自立した農業者が、その国の人々の食するための食糧を生産する……が十分になされなかったことを遠因として滅び、あるいはかっての威光を失った例も数多いことは以上記したとおりである。このことは今日でもいえるのではないだろうか。輸出国は輸出するものがあり、かつ儲かるから輸出するのである。農産物輸出国といえども不作ともなればまず自国の需要を優先し、輸出量を減ずるであろう。国内での食糧供給が減ずれば国内価格が上昇し、自然と国内供給仕向け割合がたかまるであろう。またその国の政府も国内治安のために輸出を制限するかもしれない。

また将来日本の購買力が低下すれば、従前どおりには食糧さえも確保できなくなるのは当然である。ましてやすでに記したように食糧は「戦略物資」としても使えるのである。国の尊厳、自立を守るためには少なくとも主要な食糧については自国内生産を確保すべきではなかろうか。

このようなことを言うと、一方の自由貿易論者は食糧の安定的な確保(=輸入)のためには、日本の国際協調こそが大事で、かたくなに米の輸入に反対することこそ国際協調に反するというであろう。しかし、貿易の不安定は国と国との間の紛争だけではない。後でも述べるが穀物を外国に頼るとなれば、それはその多くを米国に頼るということになる。米国における気象変動による出来不出来もあるし、また近年問題になっている米国におけるモノカルチャー的な土壌をいためつけるような耕作による土壌侵食や、水源として依存する河川水や地下水も不安定要因となっている。河川水といえども増大する都市需要との競合がある。優先順位からすれば農業における水需要は都市におけるそれよりも下位に位置付けられる。河川流量の少ない時には農業仕向けの水量は大幅にカットされる。米国の農業地帯における地下水は日本の地下水とは異なり、過去において蓄積されたいわば化石水であり、有限の資源である。近年においてはその地下水の水位低下が問題となっている。これに依存した農業は将来とも永続できるものではない。

最近では石油に代わる代替エネルギーとして、しかも空気中の二酸化炭素を増やさない燃料としてバイオエネルギーが注目されている(エネルギー発生時には二酸化炭素を排出するが、それはそのエネルギーの元となる植物が生育した時に同量の二酸化炭素を吸収したため、二酸化炭素収支は差し引きゼロとなる)。ブラジルではサトウキビが、米国ではトウモロコシがバイオエネルギーを生産する作物として注目され、その栽培が増えてきている。しかし、エネルギー用作物の生産は食糧生産と拮抗し、あるいはトウモロコシ等では飼料用に仕向けられていたものがエネルギー用に仕向けられる等により、食糧・飼料の供給量と価格に大きく影響し始めてきており、これは今後とも大きな問題になる。

本来国民の食糧の安定確保を図るべきは政府であろう。しかし主要な食糧である米については自主流通米が正規に位置づけられて以降もその流通に関する政府の関与を弱めてきており、またその実行には多くの経費がかかるということで、政府在庫を極力圧縮しようとしている。米の生産・供給に大きな問題を生じたのが1993年(平成5年)のいわゆる「平成の米騒動」であり、この時には米の国内需給の逼迫から米の緊急輸入という事態に発展した。食糧の重要性に鑑みるならば、特に基礎的な食糧については何らかの形で公的機関たる国が、その安定的な生産の確保とスムーズな供給を確保・保証する必要があるのではなかろうか。

やはり必要なものは国内で生産し、かつ十分な備蓄を用意し、時として不足が生じれば備蓄を取り崩し、更なる不足が生じたときに初めて国際市場から調達するのが最も重要な物資である基礎的食糧においてとるべき措置であるように思われる。また、通常は需要を多少超える生産を確保し、余剰分は備蓄や家畜飼料等他用途仕向けとし、不足時は食糧仕向け割合を増やし、あるいは備蓄を取りくずすといったような措置がなされれば、食糧の安定確保は更にしっかりしたものになるのでははなかろうか。


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