"TETSU IN LE MANS"
 1973年は、我が生沢徹にとって、最終目標である“グレーレッド・ドライバー(F−1ドライバー)”への道を事実上断念した年でありました。私たちがあれほど夢見て、そして期待していた“GREATET DRIVER TETSU”への思いは、はかなくも消えていったのでした!!
 後輩である“風戸裕”や“桑島正美”らによる海外レース挑戦のある程度の成功を尻目に、それまでただ1人挑戦しつづけていた生沢は、32歳という年齢と日本人という目に見えないハンデに屈した形で彼ら後輩たちに道を譲ったのでした。
 私は当時のTETSUを見て、69〜71年ヨーロッパF−2選手権を一緒に争っていたE.フィッティパルディやR.ピーターソンらがどんどんF―1ドライバーになっていく姿を見てやはり日本人ということでの差別(?)云々が存在していたことを改めて感じずにはいられませんでした。そして実力があってもどうにもならないこのモーター・スポーツ界の現実を当時高校生の私は、恨めしく思っていました。
TETSUは、1971年より、スポットながら“富士グランチャンピオン・シリーズ”に参加、翌72年からは、全戦参加と徐々にヨーロッパから日本へと主戦場を移してきたのでした。
 当時の心境を語る記事がありますので全文引用させて頂きました(交通タイムス社発行「CARトップ」臨時増刊1972年4月号より)。
 F−2に賭ける2匹の男
生沢徹・・・・・・風戸裕
 “今年は将来を左右する賭けの年?” 
 生沢にとってF―2GPチャレンジは今年で3年目となる。
 そして今年は新鋭GRD(昨年のロータス・チームが脱退し新しくグループ・レーシング・ディベロップメントを結成。現・ノバ・エンジニアリング森脇代表がいたチームとして有名)と契約。GRDチームとして出場する。
 昨年のようになから何まで自分でやるという個人チームとの違い、やっと本来の走るだけが本業のGPレーサーの立場となった。
 これで昨年のようなブザマな結果にはならずにすむだろう。安心してレース1本に打ちこめるわけだ。
しかし、一見、昨年よりも楽に戦えそうだが、生沢にとって、精神的なものは全部解決したわけではない。それは、今年が今後を左右する可能性を秘めた年といえるからだ。
もし、今年も昨年と同じような結果で終わったら、今、生沢に大きな期待を持つファンの目は、大きく第二のチャレンジャー風戸に動くだろう。
それと同時に、大きな資金源であるスポンサーも減少することは十分考えられる。
 これらのことを考えると、生沢にとって今年は大きな賭けの年でもあるわけだ。
 GRDにはまだ触ったこともない。すべてをGRDに賭けてるんだという、生沢のマシンはどの程度のー性能と価格がするものなのか。
生沢:エンジンはフォードBDAのDOHCの4気筒。260馬力/9000回転ぐらいを出すらしい。詳しくは知らされていないが、信頼性はあるんじゃないですか。価格はシャーシーだけだと300万円ぐらい。エンジンとミッションを入れると500万円ぐらいになるな。
>編集部:GRDとの契約料はどのくらいなのか。
生沢:全てを含めて、約2千万円程度というぐらいね。もちろん、リースだからシーズンが終われば戻ってくる金はあるが。でもほんの少々ってとこだな。
>編集部:GRDでの立場は?
生沢:GRDでの僕の立場は、まだいまのところははっきりとわからない。ファクトリー・チームというものはGRDにはないからワークスって言っていいんじゃないですか。GRDでもトップ・ドライバーとして扱ってくれると言ってくれているし、正直いっていまのF―2レースは強力なワークスでないと勝てないことは確かですよ。ある程度勝てる立場にあると言っていいんじゃないですか。
 昨年まではマネージャー業からメカ関係までもやったが…。
>編集部:今年のチーム内容は。
生沢:メカ関係は、昨年の後半から組んだロジャー・フィン(オーストラリア人)の他に1人ついてくれるんで、昨年のような苦労がないから楽ですね。
“ホッケンハイムなら勝てる!” 
今年初のヨーロッパ進出であるー風戸裕についてー生沢の心中は、ヨーロッパ2年の経験から見た風戸はどのくらいやれるのか・・・。生沢は一瞬考えてから。
生沢:風戸くんがどれだけやれるかって言ったってわからないね。風戸くんの腕がどの程度かわかんないからね。昨年のグランチャンピオンだって、条件が違ったから…。F−2はカンナムと違うよ。完走すればある程度なんとかなるじゃないんだから。1秒間に何台もゴールする接戦だから、どこまでやれるかわかんないな。ほんとにわからない。
 風戸の乗るマーチ722は昨年のF−2・チャンピオンマシンの発展モデル。
>編集部:あなたが見たマーチの感想は。
生沢:マーチね。実績のあるマシンだからいいと思うよ。しかし、チャンピオン・カーといってもロニー・ピーターソンが乗ったからで、僕は誰が乗っても早いマシンとは思わないな。シャーシーだってベストとは言えないし、今はロニーが乗ればなんでも早いマシンになっちゃうんじゃないかな。
>編集部:ロニー・ピーターソンについて生沢は一口でこういう。
生沢:ベスト・ドライバーといえるな。リントなんかより速いよ。最も好きな走り方をするからね。
>編集部:GRDの宿敵、マーチに乗る風戸について・・・アドバイスを生沢は自分の過去を振り返るかのように。
生沢:あせらずにやってほしい。初めての年ということを考えてね。
>編集部:今年の最大の目的は(…と話題を変えるとそれまで温和だった目がまた神経質な光に変わる)。
生沢:それは、一つでも多く勝つことだな。6位以内には入りたい。
>編集部:ライバルは。
生沢:それはもう僕以外…全員。
>編集部:最も好きなサーキット。最も勝てる勝算のあるレースは。
生沢:好きなのは高速コースだな、ホッケンハイムなんてのはいいね。昨年だってホッケンハイムでは断然速かったもの。コイルのトラブルさえ、なければ頂いたレースだったんだ。今年はかなり期待してもらってもいいんじゃない。トラブルがなければの話しだけどね。
“日本人でF−1に乗るのは無理だ!?”
 生沢は昨年と同様に国内レースにも出場する。
>編集部:今年はグランチャンピオンに全戦出場するというが。
生沢:GC戦は全戦出場する予定だ。マシンはGRD(2リッター)になると思う。3月20日の第1戦にも間に合わそうと思ったが、じっくりと調整してからにするんでGRDに乗るのは第2戦からだな。第1戦は何に乗るか決まってないんですよ。
>編集部:ヨーロッパと日本という地理的にはなれているレース生活はハンデになるのではないか、今年という大切な年にと思うが…。
生沢:レーサーは少しでも多くのレースは少しでも多くのレースをしたいもんですよ。向こうのヤツはヨーロッパ、アメリカと渡り歩いているし。特別なことではないんじゃないですか。
 …と軽く流したが、スポンサー、資金源関係によってF−2レースよりも国内レース出場の方がメリットが大きいため(?)とF−1への大きな夢にいきずまり(?)を感じたためか。
>編集部:そのF−1については。
生沢:F−1といっても今は金さえあれば乗れるんだよ。でも勝つとなると腕が良くなくてはだめだが。今の僕では正直いってベスト・マシンを提供されても勝つ確信はないな。金銭、腕、体力の三拍子がなければ駄目だよ。僕にはF−1を乗りこなす体力がないからね。まず無理だな。
>編集部:すると日本人ではF−1は無理なのだろうか?。
生沢:日本人でF−1に乗れる場合は、三拍子の中で金か腕がとびぬけてなければ、まず無理でしょうね。ちょっとぐらい腕があっても日本人を乗せてくれるチームはないね。

生沢の言う通り日本人のF―1ドライバーは無理なのか?
生沢の答えにも一理ある。しかし、F−1界は現在タレント不足だ。J.スチュワートのようにチャンピオン・ドライバーでなくても、観客を楽しませる、客を呼べる話題のドライバーなら、チームに少しでも貢献するドライバーなら乗れるはず。
 生沢自身も口では無理といったが、はっきりと断念はしていない。それは、彼自信が今年に全てをかけているからだろう。
 また、生沢は最近変わったと言われる。クール、冷たい男、一匹狼…と言った冷ややかな表現をされてきたが、本来は非常にテレ屋な男だ。他人にクールと呼ばれてクールになり、冷たい男にもなった。しかし、今は彼本来のテレ屋に戻っている。そして、2年のヨーロッパ生活からか、タレント性もそなえてきた。30歳にして、自分自身というものを、他人から取り戻してきたといっていいだろう。2月に“デッド・ヒート”という本を書いたが、その中にも自分を変えた他人への反発心がよくでている。今まで語らなかったことを書いて、さぞ心の中にウズいていたものがなくなり、すっきりしたことだろう。
 今年はそういった生沢自身の変身の年でもある。他を気にせず走ることだけに集中すれば必ずカケに勝てる年と思える。
 いずれにしても答えは今年のF―2最終戦10月5日(バレルンガ)には出ることだろう。全てを賭けた今年の生沢に期待しようではないか。

 上のインタビューでも分かる通り、1972年度のF―2チャンピオンシップに賭ける生沢の気持ちが痛いほどわかる内容でした。結果的に、ヨーロッパでの戦績は、TETSUの言葉とは裏腹に、GRD272の出来が最悪であった為、またも惨敗を喫してしまったのはなんとも皮肉なことではないでしょうか。さらに、スポンサー獲得のため出場していた1972年度・富士グランチャンピオン・シリーズも度重なる不運のため(?)か、総合6位(3位1回、リタイヤ2回)の成績しか残せずに終わり、TETSUの今後の動向が注目されていました。ちまたでは、TETSUのことを“落ちた偶像”と呼び、徐々にその人気にも翳りが見えてきた時期でありました。
 そのころTETSUは、日本での活躍のために加藤真代表率いる“シグマ・オートモーティブ”に所属しており、そこでGRDのメンテナンスを行なっていました。そしていよいよ1973年度からは、“シグマ・オートモーティブ”のオリジナル・マシンである“シグマGC73・BDA(写真参照)”で富士・グランチャンピオンに挑戦することが決まっていたのでした。さらに、加藤代表とTETSUとの間には、もう1つ壮大な計画が着々と進められていたのです。それが今回のテーマであります「ル・マン24時間レース初挑戦」なのでありました。
 
“シグマMC73のル・マン出場”
(73年富士・グランチャンピオンシリーズ第2戦カタログより引用させて頂きました)
 このマシンは、すでに富士GCシリーズで活躍しているシグマGC73(1973年度)を、グループ5(国際自動車連盟FIAが決めた規則)仕様に改造したもの。ノーズの左右と中央に合計4個のヘッドライトを取りつけ、リヤにウイングを背負っている。
左写真は、ル・マン出場に備えてスピードウェイで調整するシグマMC73。
ドライバーは、鮒子田 寛。
 シグマMC73に積みこまれるパワー・ユニットは、マツダ・ワークス・チューンのペリフェラルポート・ロータリー・エンジン。単空容積573cc×2ロータリーで、260psの最高出力を発生する。
 シャーシー/エンジン全て国産のシグマMC73をあやつるのは、生沢徹、鮒子田寛、それに生沢の友人であり、ル・マンのコースを熟知しているパトリック・ダルボの3人。
 スパ24時間、マラトン・ド・ラ・ルート84時間など、本場の耐久レースを手がけてきたマツダ・ワークスのこと、エンジンの耐久性についてはまず心配ないとみてよさそうだ。エース・ドライバーの生沢は「とにかく完走をめざす」といっているが、エンジンさえ壊れなければ、かなりのところまで行けそう。
 が、それはともかく、日本製のマシンが、日本人ドライバーによってル・マン24時間に出場すること自体に画期的な意味があり、現地でも、日本製マシンの出場は大きな話題となっている。シグマ・チームの活躍を大いに期待したい。
当時の新聞報道記事が手元に残っていましたので、少し紹介したいと思います。いかに、ル・マン出場が注目されていたかがお分かりになると思います。今のように、リアルなTV放送もされていなかった時代、「オート・スポーツ」誌等で1ヶ月後にしか結果がわからなかった時代に日本人と日本製マシンで挑戦した偉業に対して、誠に頭が下がる思いです。ちなみに、マツダ・ワークス・チームが初挑戦するのは、その2年後のことでありました。
 
 “ル・マン出場の生沢 国産マシンを使用”
(昭和48年2月13日報知新聞より引用させて頂きました)
 自信のシグマMC―73 
 来月下旬に正式決定 風戸の起用は中止
 スポーツカー・レースの最高峰、ル・マン24時間に生沢、ダルボ(フランス)のコンビがエントリーした。マシンも国産のシグマMC―73。画期的なル・マンへの日本人初登場である。
国際的なコンストラクター(マシン製造者)を目指す加藤氏は、かねてからル・マンに挑戦するチャンスを狙っていたが、一昨年トヨタ自工を退社。
シグマ・オートモーティブを設立、本格的なレーシング活動を開始し、ドライバーの生沢と組んで富士GCシリーズに挑戦していた。
同時にグループ7のレーシングカー“シグマMC―73”を製作、エンジンを除いたすべてを国産品でまかない、すでに数回にわたるテスト・ランでル・マン初挑戦の自信を固めていた。
 ドライバーについても「国産車は日本人にまず乗ってもらいたい」という意向から、国際的に知名度があり、24時間の長いレースに耐えられるトップ・クラスということで当たったところ「ドライバーとして出場したい」と風戸から話しがあった。たまたま生沢が「夜間走るのは苦手だし、体力にも自信がない」ということから、当初加藤氏は風戸にもう1人、高橋晴邦の線を考えていた。
 ところが、風戸側からその後連絡がなく、エントリー締め切りも迫った為生沢と外人ドライバーの線を固め、風戸起用は断念したもの。
 コンビを組む生沢徹、パトリック・ダルボはともにF2,F3レースで顔を合わせており、かねてから親交がある。長距離レースの経験こそないが、国際レースにはシーズンを通じて姿を見せる常連である。
 また、ダルボはドライバーであるとともにF2マシン“ピグミー”をを送り出しているフランスの新進コンストラクターとしても注目されている。
なお、正式にエントリーが受理されるかどうかは、3月下旬に決定する。
生沢徹: 「レーサーだったら誰だって1度はル・マンに出てみたいのは当然。それに日本人として初めてということは十分に価値がある。予選通過タイムもトップのラップの35%増しだから自信はある。エントリーOKの返事が来て欲しい」
加藤真氏: 「昨年日本人エントランとがエントリーしながら直前でキャンセルした例があるので、その点で苦労したが、われわれは絶対にそのようなことはないと念を押してきた。応援部隊を頼むのにもフランス人ドライバーと組めば都合がいい。エンジンについては初めの予定を変更、フォードのBDAになるだろう」

 加藤氏の話の中で出ていた「昨年日本人エントランとがエントリーしながら直前でキャンセルした例がある・・・」については、定かではありませんが、もしやNワークスが、エントリーしていたのでは…などと想像してしまうのは私だけでしょうか?!
いずれにしても、日本初尽くめのエントリーは実に有意義であり、TETSUとしても、こんな注目を集めるレースもないわけでありますから、ビジネスとしてもぜひとも出場したかったレースだったと思われます。

 ル・マンの空に“日の丸”燃ゆ!

 上の報道記事は、昭和48年6月9日の報知新聞が伝えるシグマ予選通過の模様。まだ、珍しいのか観客も東洋からの珍客という感じで見ていたようでした。それが、26年後には主役になるとは・…!?
 “シグマ” 14位で予選通過!(報知新聞から引用させて頂きました)
 {ル・マン(フランス)7日・中島特派員}
日本人レーサーが、はじめてル・マン・サーキット(1周13.64km)を走った。世界で最も古い伝統と権威を持つスポーツ・カーの“ル・マン24時間耐久”レースは9〜10日の両日、フランスのル・マン・サーキットで行なわれるが、生沢徹、鮒子田寛の日本人レーサーと、フランス人のパトリック・ダルボのトリオが操縦する日本製のシグマMC73ロータリーは、7日行なわれた最終予選で4分10秒0のタイムをマークして14位で通過。日本製マシン、ドライバーがともに、初めてル・マンでの栄光をめざしてスタートする。なお、ポール・ポジションは6日の第1次予選で3分37秒5(平均時速225.77km/h)を出したフェラーリ312PB(A・メルザリオ組)が獲得した。
 イタリアン・レッドのフェラーリ12気筒がうなる。フレンチ・ブルーのマトラが金属的な排気音を残して飛び去る。サーキットは、スポーツカー・レース最大のイベントにふさわしい熱気にあふれていた。
 “シグマ”は、鼓膜が破れるようなロータリー・エンジン特有の排気音を立てて、ピットを飛び出していった。
「さあ、やろうぜ。落ち着いてな」シグマの設計者であり、レーシング・チームのディレクターでもある加藤真エンジニアは、腕を組んでコースをにらんでいた。ポルシェが、ミラージュが、マトラが、フェラーリが、予選だというのに8分の入りのスタンド前を、風と爆音を巻いて突っ走っていく。
「走ってきますよ。どこまでできるか…。それよりも、ベストを尽くすことですよ」加藤氏は口早に言った。
 かつてトヨタも日産も、すばらしく速いプロトタイプ・スポーツカーを作ったが、それは結局、世界への道を開くのではなく、日本GPでの、エスカレートした戦いだけに終わってしまっていた。
 自動車生産世界第2位の日本が、スポーツカー・レースへ初めて送り出したマシンは、なんと、プライベート・チームのシグマなのである。フランス人の記者は、日本から初めて、はるばるル・マンまでやってきた“シグマ”が、純粋のプライベート・チームとは、とうてい信じられない、といった顔付きだ。
 「コース自体はそんなに難しくはない。けっこうその気になれば速く走れる。ただ高速コースといわれているだけあって、ストレートからコーナーへ入る時の減速が難しい。コーナーもスピードが乗っている割にはタイトだしね」鮒子田は完走を狙って「あわてずに乗るつもりだ」といった。
 場内アナウンスは、初めて東洋からやって来たマシンやドライバーを盛んに宣伝している。ピットへ入るたびに「ただいま、シグマはピット・イン」とやるし、コース・インすると「ドライバーが交代、周回を重ねます」とくる。
 ダルボは、ブルーのスーツをすっきりと着て、いかにも初のル・マン出場がうれしそう。「完走を目指す。けっこういいところへいけそうな気がする。マシンのセッティングもOKだ」といった。1昼夜ぶっ通し、トップの車は4千数百キロを走る“ル・マン24時間”は、9日午後4時にスタートする。
 
 TETSUのインタビューでもわかる通り、随分TETSUの考え方も変わってしまったなと感じたのは私だけでしょうか。
F−1をあきらめ、次なる目標をつかみきれていなかった(?)のか、TETSUは、彼自身ほとんどやったことがない耐久レース(スプリント・レースが好きだった!)にあえて挑戦したことから分かるように最初の日本人ル・マン挑戦ドライバーの栄誉を狙ったのかもしれません。
 しかし、彼の持つスピリットは何ら変わることなくその後もTETSU IKUZAWA伝説は語り継がれていくのでした。
 左の写真は、スタート後快調に走る“シグマMC73”とTETSU。
(PART 2へつづく)


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