ふれあい


Prologue


 ガスパールは警察に逮捕され、レミは本当の母親であるミリガン夫人と再会することが出来た。マチア達はルールシーヌ通りの家に戻って自分たちだけで生きていくことを決意した。そんなマチア達の元にレミとミリガン夫人がやってきた。 「私だけ幸せになることは出来ない、みんなも一緒だよ」と。ミリガン夫人はマチア達にレミが支えてもらったこと、ガスパールの悪巧みから助けてもらったことを感謝して自分が皆の母親になると申し出た。

 寝室から繋がる屋根の上でレミとマチアは話をしていた。ここからはパリの光景が一望できる。今にも日が沈もうとしている空は、二人にとって今まで見たことが無いほど美しいものに思えた。
 「俺、必ずレミに相応しい人間になる。一生懸命勉強して一流のバイオリニストになる。そして……レミを……レミを迎えに行く」
マチアはレミをまっすぐに見つめ、告げた。
 「うん!」
レミは嬉しそうに返事をした。そしてマチアに寄りかかる。そんなレミをマチアは優しく抱き寄せた。この時、レミは考えてもいなかったのだが、マチアには大きな決心があったのだ。マチアは自分の胸の中にいるレミの笑顔を見ているとそのことが言い出せないでいた。


 「ルールシーヌ通りの家に帰りたい?」
 「ええ、家を空けておくのは心配なので……」
 「でもあなた達はもうあそこに戻る必要はないのよ。私が責任を持って皆さんをイギリスにお迎えするわ」
マチア達はミリガン夫人に連れられてグランドホテルにいた。そこではマチア達が今まで見たことのないほど十分の食事とりっぱな部屋が用意されていた。食事の後にマチアはミリガン夫人の部屋を訪ねて話し出したのだ。
 「ミリガン夫人のご好意にはとても感謝しています。リーズや他の子達にはこのパリでの暮らしは大変な事だから夫人にお願いしたいと思っています。でも……俺は、このパリでずっと暮らしていこうと思っているんです」
 「どういうこと?」
パリでの生活はマチアにとっては何のプラスにもならないことだと夫人は思っていたので不思議そうに尋ねた。
 「実は……皆にもまだ言っていないのですが、俺、パリの音楽学校のバイオリンの先生に学校へ入ることを薦められたことがあるんです。その時は勉強なんて出来る状況じゃなかったのでお断りしたのですが、ガスパールから自由になった今、この道を進みたいと思っているんです。もちろん、一度断った身でまだ先生が俺のことを受け入れてくれるかは分からないのですが、俺はどんなことをしても学校に入らせてもらおうと思っています」
 「そうだったの……でも、バイオリンの勉強ならイギリスでも出来るわ。私がちゃんとイギリスで学校に通えるように手配します。レミや皆もあなたを慕っているし、皆でイギリスに行くのが一番良いと思うのよ。パリとイギリスは遠いわ……」
 「本当に……本当にありがたいと思っています。でも、バイオリンに関しては、自分でやって行きたいのです。その代わり、俺の代わりにリーズの事をお願いします。あいつ、本当にお母さんが出来たって喜んでいたから。母親を知らないんですよ、物心つく前に死んでしまったから……」
マチアの決心は変えられないと察知した夫人は優しく答えた。
 「……分かりました。マチアの気持ちはもう決まっているのですね。でも、一つだけ教えて頂戴」
 「なんでしょうか」
 「あなたに音楽学校を薦めた先生の名前を教えて?」
 「ええっと……パリの国立高等音楽院のアルベルトさんという方です」
 「分かったわ。私の方からもお願いしておきます」
 「え、でも……」
 「お願い、これくらいのことはさせて頂戴。ね?」
 「……分かりました。本当に……どうもありがとうございます」
マチアは深々と頭を下げてミリガン夫人の部屋を後にした。



 「マチア!」
聴き慣れた声で呼び止められた。レミが後ろに立っていた。
 「どこにも居ないから探してたの。お母さんと話していたの?」
いつもの曇りの無い笑顔。レミと離れ離れになる事を考えるとそれはマチアにとって苦しいものであった。マチアは目をそらして答えた。
 「あぁ」
マチアの表情が浮かないものであったのでレミは心配そうに尋ねた。
 「どうしたの? 何を話していたの?」
 「いや……」
マチアが言い出せなさそうにしているのを察したレミは話を変えた。
 「ねえねえマチア、マチアの部屋に行っていい? マチアのバイオリンを聴かせて!」
 「……ごめん、レミ。俺今からルールシーヌ通りの家に戻るから……」
 「え? どうして? 何か忘れ物でもしたの?」
二人が居たのは夫人の部屋を出た廊下だったが、度々人が ―やはりそれは身分が相当に高そうな人であったのだが― 通りかかった。レミとマチアはずいぶん浮いているように見えたし、マチアは何だか慣れないここで立ち止まって話す気にはなれなかった。
 「レミ、ここじゃ何だからレミの部屋に行こうか」

 二人はレミの部屋へと移動した。レミだけの部屋として与えられたその部屋はルールシーヌ通りの家の、寝室として皆が使っていた2階の部屋よりも大きいものであった。マチアは改めてレミが貴族であることを思い知らされた。意を結してマチアは話し始めた。
 「レミ、俺はイギリスには行かないよ。パリに残ってここでバイオリンの勉強をする」
 「え……どういうこと?」
レミから笑顔が消え、何が何だか分からないという表情になった。マチアは続けた。
 「ぶどう摘みに行った時に会ったアルベルトさん、バイオリンの先生がいたろ。あの時俺あの人に一緒に来ないかって誘われたんだ。バイオリンの勉強をさせてくれるって言ってくれた。でもあの時俺はみんなや……レミと離れたくなかったし、俺が守らなきゃって思っていた。だから先生の誘いは断ったんだ。でも今は違う……レミには本当のお母さんが居てくれる。今俺がレミにしてあげられることは無いんだ。だから……」
 「そんなの嫌!」
レミはマチアの話をとぎって抱きついた。
 「マチアに出来ることがないなんてない! マチアがいるだけで私は……。マチアがいなくなったら私は……!」
マチアに抱きつくレミの体から今まで何度も抱き合って感じたレミの温もりがマチアを包む。しかし今のレミからは今までのそれと一緒に悲しさが伝わってくるようであった。
 「イギリスでバイオリンの勉強をするのじゃ駄目なの……?」
マチアはレミを体から優しく引き離して、ゆっくりと首を振った。
 「俺、レミに相応しい人間になりたいんだ。レミのお母さんに頼って勉強するんじゃ意味が無いよ」
レミの目からすぅっと一筋の涙がこぼれた。レミは今までガスパールにどんなに鞭で叩かれても、食べ物が貰えなくてお腹が空いている時も決して涙を見せることは無かった。いつも笑って皆を励ましてくれて希望を与えてくれた。そんなレミはマチアにとってただ一つの宝物であった。どんなことをしてでも守ってみせると誓っていた。しかし……今レミを苦しめているのはマチアであった。どうしたらレミを悲しませずに出来るのだろうか……。マチアはそっとレミの顔に触れ、涙を拭った。そして、ゆっくりと自分の顔を近づけレミの唇に自分の唇を重ねた。
 「あっ……」
レミが声をあげたがすぐにそれはマチアの口によって塞がれてしまい一瞬の物で終ってしまった。そして数秒経ってから―具体的にはどのくらいか分からないのだが、レミがごくんと息を呑む動きを感じて―マチアはレミの唇から離れた。
 「……あの、マチア……」
顔を赤らめてレミが口を開いた。真っ赤になって俯いているレミを見て、その時初めてマチアは自分が今までにしたことのない、大胆な事をしてしまったことに気づかされた。
 「ご、ごめんレミ! 俺、ただレミを慰めようと考えていただけだったのに……体が勝手に……」
 今度はマチアの顔が真っ赤になった。そしてそれを隠そうと手で口を押さえて顔を横に背けた。
 「ち、違うのマチア。私そんな……全然嫌じゃなかったよ。ただ……」
レミは息を整えて続けた。
 「さっき……マチアの口から、血の味がしたから……」
 「あ、あぁそっか、さっきガスパールの奴に結構やられたから……。あ、ごめん……こんな状態で俺レミに……」
 「ううん、違うの。私、いつもマチアを困らせてばかりいる。私がいなければマチアだってこんな風にガスパールさんに殴られる事もなかったし、今もマチアを困らせている……。ごめんなさい、本当にごめんなさい」
 「違うよレミ」
 「え……?」
 「俺も皆も、レミのおかげで変わる事が出来たんだ。レミが来る前は俺なんで生きているんだろうっていつも思っていた。やりたくも無いスリや泥棒をし続けて、それで生きている俺は一体何なんだろうって。でも、生き続けているんだよな。嫌だ嫌だと思いながらも一日は過ぎていってまた同じような一日が始まる。ずっとその繰り返しが続いていたし、続くものだと思っていた。でもレミが俺たちと同じ状況の中でも決して諦めないのを見てから俺知ったんだ。あきらめちゃいけないって。もっと俺が望む、俺の道があるかもしれないって。レミが俺にそれを教えてくれたんだ」
 「マチア……」
 「だから、レミが俺を困らせたことなんて一度も無い。俺がレミを守りたいんだ」
マチアのその言葉でレミの顔にいつもの笑顔が戻った。そしてレミは少し恥ずかしそうに小さな声で言った。
 「マチア……さっきの血……私が……取ってあげるね……」
 「え? 何?」
言葉を聞き取れなかったマチアは聞き返すためにレミに顔を近づける。そんなマチアに今度はレミの方から唇を重ねていった。そしてレミの舌がマチアの唇の傷をそっと舐めていく。マチアはレミの舌を通じて、レミの高まってゆく鼓動を感じることが出来た。マチアは一層、レミをいとおしく感じ、さっきよりも深く口を重ね合わせたのだった。


 「……おいマチア、マチアってば!」
ぐい、と肩を掴まれて、バイオリンを弾いていたマチアははっと我に返った。手の主はリカルドだった。
 「何だ、リカルドか。来たなら一言そう言えよ」
 「何度も呼んださ。全く……お前本当にバイオリンが好きなんだな」
呆れたようにリカルドは言った。
 「ああ……。入学はまだだけどアルベルトさんに楽譜を貰ったんだ。音符も大体読めるようになった。結構簡単だぜ。今まで出していた音に対応する音階と音の長さが分かればいいんだ。それで大抵の曲は弾ける。それとな、このバイオリンなんだけど……」
 「はいはい、分かったよ」
リカルドは、彼には全く興味の無い話だったので早々と話を変えた。
 「それよりさ、マチアお前何でグランドホテルに来ないんだよ?」
あれから……ガスパールが逮捕されてから3日程経っていた。マチアはルールシーヌ通りの家に戻り音楽高等学校のアルべルトを訪れ、入学の手続きを終えていた。そして家でバイオリンを弾いているところをリカルドが訪れてきたのだ。マチアはあの夜以来、レミに会わないでいた。その話題をしたくないのか、マチアは不機嫌そうにリカルドに逆に言い出した。
 「……そんなことよりリカルド、お前ずいぶん暇そうだけどイギリスに行く準備は出来てんのか?」
 「え? 別に持っていくものも無いし俺はいつでもどこにでもいけるぜ!」
 「ばかやろう。今まで働いていた縄張りの、知り合いの人にちゃんと挨拶に行ったのか?」
 「いや、何も言っていないけど……」
 「リーズやマリアの所は俺が回って挨拶してきた。お前も世話になった人がいるんだろ。出発する前にはちゃんと挨拶してこい」
 「分かったよ……。相変わらずだな、マチアは」
 「お前がだらしないからだ」
呆れた表情のマチアに対してリカルドは急に真面目な顔をして話し始めた。
 「レミと何かあったのか?」
 「え……いや。何でそんなことを言うんだ?」
一瞬、ドキッとした。今、何かと言われれば、それはマチアにとってはあのことしかない、あのこと……本当はあの日以来、ずっとマチアの頭から離れないこと。バイオリンを弾くことで気を紛らわせていたこと。あの日、レミとキスをしたことだ。しかしそのことは全く表情には出さず(正しくはなるべく出さないように)マチアは平然を装った。
 「レミの様子がおかしいんだ。食事の最中に居眠りするんだぜ? 話し掛けてもうわの空だし何だか夜眠れていないみたいだ。お前はグランドホテルに全然来ないし……それでまぁお前が原因じゃないかって思ってね」
 「お前……鋭いな?」
マチアはちょっと驚いてリカルドを見上げた。まさかリカルドがそこまで考えを及ぼしているとは思いもしなかったからだ。
 「へへっ俺の方が先にレミを好きになったんだぜ?…… っていうか何か? やっぱりお前ら何かあったのか?!」
 「なんだハッタリかよ」
マチアはふぅと息を吐いた。
 「違うよ! レミがおかしいのは確かだ。マチア……お前まさかこのままレミと会わないつもりか?俺たち来週にはイギリスに向かうんだぞ?」
 「……そのつもりだ」
 「なんでだよ?! レミの事が嫌いになったのか?」
リカルドがマチアを睨み付けた。マチアも睨み返す。が、すぐに目をそらした。
 「お前には関係無い」
 「関係なく無い! 分かった。じゃあ俺がレミを貰っても良いんだな?」
 「はぁ?」
 「だって俺たちは一緒にイギリスに行くんだぜ? お前とレミが関係無いなら当然俺とくっつくだろ、レミは」
 「なんだとてめぇ」
マチアはバイオリンを置いてリカルドの胸倉をつかんだ。が、ややあってそっと手を離す。
 「……すまないリカルド」
 「いや、俺も言い過ぎたよ。でもホント何かあったんだろ。このままで良いのか?」
 「……」
 「お前さ、いつも問題を一人で抱え込もうとするじゃんか。俺もこんな性格だからお前に甘えるところがあった。でもさ、たまには俺の事も頼ってくれよ。案外役に立つと思うぜ?」
リカルドは人懐っこい顔でニヤっと笑った。そう、こいつの良い所は屈託の無い雰囲気を持っている所なんだ。現にジャックやピエールは俺よりリカルドに懐いている。こいつにはそういう魅力があるんだ……マチアは意を決した。
 「分かった、言うよ。実はな……」
と、言いかけてマチアはかぁっと顔を赤くした。あの日以来、一瞬でもあの時の事を思い出すとずっとこうなのだ。そして迷った。本当にリカルドに言って良いものかと……。
 「うんうん、どうした?」
リカルドは、結構真剣そうな顔で(もしかして興味津々の顔なのかもしれないが)マチアが話すのをじっと待っていた。


 「レミと……キスしたんだ」
ぼそっとマチアは答えた。
 「え?! マジで?! お前らもうそんなに進んでいたんだ!……へぇ〜そっかぁ〜。ま、でも良いんじゃないの? お互い好きなら自然な成り行きだろ? 何か問題あるのか?」
案外まともな答えがリカルドから返ってきて、マチアは意外な気がした。同時に安堵感が生まれた。言ったのがこいつで良かったと。そして話を続けた。
 「それ自体には問題は無い……だけど、そのことを考えると俺、駄目なんだ。次の欲求が沸いてきて、ずっとそのことが頭から離れない」
 「次の欲求って……ああ、なるほどね」
 「俺もし今度レミに会ったら……何するか分からないんだ。実際キスしたときも俺、自分の意志とは全然関係なく体が勝手に動いたんだ。だから、会わないのが一番良い」
全てを打ち明けてマチアは肩の荷が下りたのかふぅっと息を吐いてずいぶん落ち着いた。そしておもむろにリカルドを見上げる。何だかマチアにはリカルドが面白そうに笑っているようにも見えたのだが、それは自分の思い過ごしであると自分に言い聞かせた。
 「ふ〜ん」
リカルドがにやにやして言った。
 「何だよ、お前やっぱり俺の事バカにしてんのか?!」
マチアはきっ、とリカルドを睨み付けた。
 「違うよ、嬉しいんだよ。マチアでも人並みに悩むことがあるんだってね。お前そういう精神論を俺に相談したことってないじゃんか」
 「何だよ、俺だって普通に悩むよ。当たり前だろ」
 「い〜や。そうは見えなかったね。だって俺、ジャックやピエールとそういう話してるぜ? ジャックなんてマリアが好きでしょうがなくってさ。そういう話、お前全然知らないだろ?」
 「そ、そうだったのか?! 全然知らなかった……」
驚いてマチアはリカルドを見返した。
 「ま、それは置いておいてだ。まぁそういう欲求は男としてはしょうがないんじゃねーの?第一金払ってでもやりたいって奴らがいるくらいだしさ」
 「あぁ……言われてみればそうだな」
マチアはルールシーヌ通りの娼婦達を思い出した。ルールシーヌ通りが繁華街と呼ばれるのは売春が盛んであるからだ。実際にマチアより少し年上の女の子達ですらそういう仕事をしているのをマチアやリカルドは知っているのだ。
 「だから……自分を押さえられないかもしれないからって会わないのはどうかと思うぜ? お前たち今後いつ会えるか分からないんだぜ? 半年後、あるいは一年かそれ以上会えないかもしれない。それをお前自分の都合だけで会わないって言ってレミを悲しませて良いのか?」
 「うん……」
 「会った時にまた考えりゃいいさ。普通に接せられるかもしれないし、駄目だったらそれでもいいじゃんか」
 「そんな訳ないだろう!」
真面目に言うマチアに対してぶっきらぼうに「そうか?」とリカルドは答えた。
ふと、リカルドが一転して真剣な眼差しで話し始めた。
 「マチア、俺たち孤児なんだぜ? そしてガスパールの元で盗みをやって生きてきた。そして、何人もの俺たちと同じくらいの、俺たちと同じ境遇の子達が死んでいったのも知っている」
 「……」
 「俺はどんなことがあっても俺が孤児であり、死んでいった友達と同じ運命を辿る可能性があるということは消せないと思う。お前もそうだ。どんなにバイオリンが上手になってプロになったって、死んでしまうときは一瞬だ。まぁコレは人間なら誰にでも言えることだけどな」
ニヤっと笑ってリカルドは続けた。
 「だから、そんなに自分を押さえなくてもいいんじゃないかって俺は思うわけよ。そうしなきゃ死んでも死にきれないぜ?」
 「違いねえや」
ははは、とリカルドとマチアは笑い合った。
 「リカルド、ありがとうな。何だか俺、考えすぎていた気がする。それに本当に大事なことを忘れていた」
 「レミに会ってやれよ」
 「ああ」
いつの間にかバイオリンで気を紛らわせていた悩みがマチアの中から無くなっていた。そう、悩みは自分一人で抱え込んで解決するよりも友人に話して聞いて貰うのが一番良い解決策なのだ。マチアはリカルドに、自分の悩みを真剣に聞いてくれた事に感謝したのだった。



 次の日の午前中にマチアはグランドホテルへと向かっていた。先日の悩みは殆ど解消していた。やはりリカルドという第三者に聞いてもらったのが良かったのか、それとも単にマチアの考えすぎだったのか……どちらにしても今ではそんなことどうでも良いくらい、マチアの気分は晴れ晴れとしていた。マチアがグランドホテルの前に着いた時にちょうどリーズやマリアがホテルから出てきて馬車に乗り込もうとしていた。リーズ達に続いてピエール、アルベールも出てきた。最後にリカルドがアーサーの椅子車を押して出てきた。どうやらどこかに出かけるらしい。マチアは駆け寄った。マチアに気が付いたリーズが駆け寄って抱きついてきた。
 「マチアにいちゃん!」
 「リーズ、お前たちこれからどこか行くのか?」
リーズや他のみんながいつもとは違うしっかりした服を着ているのに気が付いたマチアはリーズに尋ねた。リカルドや他の男の子たちはアーサーが馬車に乗るのを手伝っていた。
 「うん! 今からみんなでパリを回るんだよ!」
 「え?! そうなのか。……レミは?」
見回したところレミの姿が見えなかったのでマチアは尋ねた。
 「んとね、レミは病気だから寝ているって」
 「おぉ、マチア」
手が空いたリカルドはマチアに話し掛けた。リーズの説明はいまいち状況が分からなかったのでマチアは改めてリカルドに尋ねた。
 「これから市内を回るのか? みんなで?」
 「あぁ、ミリガン夫人とアーサーも一緒にね」
 「レミは?」
 「レミは部屋で休んでいるよ。ここんとこいろいろあって疲れが出たみたいだ。お医者さんは寝ていれば治るって言っていたからそんな心配はないよ」
 「……みんな出かけるのか?」
 「んーと……一応ネリーさんは残っているみたいだけど……」
と話しているリカルドを、マチアは腕をつかんでみんながいる所から距離を置いた場所へつれてきて声を潜めて言った。
 「おい、リカルド。お前は残れ」
 「え? 何言ってんだよマチア」
マチアはリカルドの耳元で小さな声で言った。
 「今俺とレミを二人っきりにするつもりか?!」
 「そんなこと言われても、俺がいなくなったら誰がミリガン夫人やアーサーを案内するんだよ」
確かに……このメンバーではリカルドがいなくなったらミリガン夫人が困ってしまうだろう。仕方が無くマチアは今度はリーズの元に行き、話した。
 「リーズ、お前は残れ」
 「えぇ!! なんでマチアにいちゃん!」
楽しそうにしていた顔から急に笑顔が消えた。昨日話したリカルドはともかく、今のマチアの心情を知らないリーズに対して、マチアは自分のわがままにリーズを付き合わせている様で悪い気がしながら、それでも譲れないと思いつつ葛藤しながら少しうろたえて答えた。
 「なんでって……みんなが出かけたらレミが可哀相だろ」
 「そんなこと無いよ! さっきレミがみんなで楽しんできてって言ってくれたもん!」
 「ばか、そんなの強がっているだけだよ。本当はレミだって寂しいんだ。もしリーズが病気になって他のみんなが遊びに行ったら寂しいだろ?」
 「うぅぅ……」
リーズは泣き出しそうになるのをこらえている。そんな状況を見ていたリカルドがリーズに優しく尋ねた。
 「リーズ、いいのか?」
 「よっし決まりだ。リーズはお兄ちゃんとお留守番だ」
リカルドやリーズの返事を聞かないままほぼ強引にマチアは言った。と、そこへ最後にミリガン夫人がやってきた。
 「あら、マチアも来ていたのね。じゃあみんなで行きましょうか」
そこへリーズが泣きながらミリガン夫人に抱きつく。
 「えぇーん、お母さん」
 「あら、どうしたの? リーズ」
 「マチア兄ちゃんが私にお留守番しろって」
 「え? どういうことなの? マチア」
ミリガン夫人は、いつもの優しい笑顔であったがリーズが泣いているのに困惑しながらマチアを見つめて優しく尋ねた。マチアはミリガン夫人が苦手であった。苦手というのは嫌いという苦手ではなくて、今までこのような人……穏やかで全ての人に優しさと愛をもたらしてくれるような聖母のような大人と出会ったことはなかったのだ。マチアが今まで会った大人はマチアやリーズを人の子とは思わない大人ばかりだったのでマチアは大人が嫌いであった。だからマチアの大人に対しての接し方はいつも同じで良くないものであった。だから……ミリガン夫人という初めての好きな大人にどのように接していいのか良く分からなかったのだ。
 「え! あぁぁえぇっとみんなで出かけちゃレミが可哀相だから俺とリーズは留守番していようと思いまして……」
マチアは今まで使った事のない気を精一杯使って話した。
 「あら、そうだったの……。でも、リーズはそれでいいの?」
 「ううん、やだ、お母さんと一緒に出かけたい!」
 「そうね……どうしましょう……」
完全に泣き出したリーズとミリガン夫人の困った様子。もう馬車の準備はすっかり整っていてマチアの考えを通すには非常に苦しい状況であったし、ミリガン夫人を困らせるのはマチアとして非常に苦しかった。
 「あ、あの、ミリガンさん、いいですよ。みんなで行って来て下さい。俺は待っていますんで……」
 「……本当に? そうね、レミも一人じゃ可哀相だし、マチアが残ってくれるなら安心だわ」
 「はい、楽しんで来てください!」
 「ええ、お願いね。ネリーが残っているから何かあったら彼女に聞いてね。私たちは夕方には帰ってくるから、夕飯は一緒に食べましょう。さ、リーズ、もう泣かないで」
 「うん! やったぁー!」
とたんに笑顔を取り戻し、リーズは馬車に飛び乗った。
 「えへへ。じゃあねーマチア兄ちゃん」
 「それじゃあマチア、レミのことよろしくね。夕方には帰りますから」
馬車に乗り込んだミリガン夫人は窓越しにマチアに告げた。はい、とうなずいて
マチアは手を振っていた。ふぅっと息を吐いて自分でも思いがけないくらい気を使ったなぁと感じていた。マチアは何の気を使う事もなくミリガン夫人に甘えられるリーズの事が羨ましかった。マチアほどの年になってしまうと変に気を使ってリーズのように甘える事が出来ないのだ。それじゃあ俺が気を許して甘えられる人って……? そんな事を考えながらマチアはグランドホテルへと入っていった。


 マチアはグランドホテルのレミの部屋の前に立っていた。こん、こんとノックをしてみたが返事は無い。思い切ってドアをかちゃりと開けてみる。
 「……レミ?」
部屋にレミは見当たらなかった。奥にあるベットに目を向けると布団が脹らんで人が寝ているようだった。おそらくレミだろう。マチアはベットの元へと歩み寄った。レミはマチアが部屋に入ってきた気配にも気づかずに小さな吐息を立てて布団の中で寝ていた。マチアは部屋の隅にある椅子をベットの近くに持ってきて、腰を掛けた。具合はどうなんだろうと思い、レミの顔を見てみる。特に顔色が悪いことも無く心配はないようだった。マチアはそっと手をレミの額に乗せてみた。寝ているからか少し暖かい気がしたが、高熱ということもない。
 「んん……」
マチアの手が触れたせいか、レミが寝返りを打った。起こしてはいけないと思ってマチアは慌てて手を離した。
 「……んん……マチア……」
レミは小さな寝言を言った。それを聞いたマチアはふとガスパールの所からレミを助け出してパリに向かっていた時の事を思い出した。あの時、野宿した時にレミは寝言で「お母さん」と言っていた。今回は自分の名を読んでくれたことが何だかとても嬉しかった。しかしレミを起こすわけにもいかず、することのなくなったマチアは椅子に座ったまま上半身だけベットの上に横たえた。ふんわりとした布団はレミの体温のせいか少し暖かく、心地よかった。マチアは目を閉じた。ふと幼い頃のおぼろげな両親の記憶が思い浮かんで来た。あの頃はお父さんに教えてもらって毎日バイオリンを弾いていた気がする。
 <父ちゃんのバイオリンはどうしたのかな……あるわけ無いか。孤児院に付いた時、俺はリーズの手を握っていただけで何も持っていなかった。>
マチアはうとうととしながら自分の今までの記憶からバイオリンの記憶を辿っていた。
 <サーカスにいた頃はバイオリンを見たことはあったっけ……?>
 <あの頃の事は芸の練習で辛かったことしか思い出せないな……あぁ、そうだ>
 <一度だけ、サーカスの余興でバイオリンを弾いていた人がいた。でもあの時俺は今みたいにバイオリンに対してどうしたいっていう感情はなかったな。毎日食事を貰うために必死に芸の練習をしていただけだった……その後、パリでガスパールの所に来た……>
羊を数えるような感覚で記憶を辿るにつれて、マチアは段々と意識がもうろうとしていった。そして数分か……もしくは数時間か正確な時間は分からなかったのだが経って、ふと自分が横たわっている布団に動きを感じてはっと体を起こした。頭はまだぼうっとしていたが、レミが目を開けているのを認識して目がすっと覚めた。さっきまで寝ていたレミは体をおこしていた。
 「あ、マチア。ごめん、起こしちゃったね」
レミはちょっと申し訳なさそうに言ったが、そのあと穏やかに笑っていた。
 「あれ……俺寝ていた?」
体を起こしてマチアはレミに話し掛けた。
 「うん。私が気が付いてから30分くらい」
 「ははは……何だかレミの寝顔を見ていたらこっちまで眠くなって寝ちゃったよ……。それより体の方は大丈夫か?」
 「うん。先生はただ疲れが溜まっていたのと睡眠不足だって。薬も貰わなかったし。全然気にすること無いよ。マチア、いつ来たの?」
 「皆が出かける時。ちょうどホテルの入り口で会ったんだ」
 「そうだったの……」
レミがくすりと笑った。マチアは不思議そうに尋ねた。
 「何?」
 「うん、マチアの寝顔、初めて見たから……。マチアっていつも一番最後に寝て一番初めに起きるから……みんなに寝ているところ見せないでしょ? だから嬉しくて……結構かわいかったよ」
レミにそんなことを言われて、全然嫌ではなかったのだが照れくささと戸惑いを隠すかのようにマチアは言い返した。
 「何だよ、俺なんて何回もレミの寝顔見ているぜ」
 「え……ふふ……可愛かったでしょ?」
レミがニコニコして尋ねてきた。「うん」と何のひねりも無く素直にマチアは答えていた。マチアとレミはお互い優しく笑いあって暖かい雰囲気が流れていた。そんな雰囲気の中、マチアは思い切って話し始めた。
 「レミ、俺達が離れ離れになること……俺、バイオリンの勉強が出来るのはすごく嬉しいけど……全然平気じゃないから」
 「……」
 「いつだってレミの事想っている。何かあったらすぐイギリスに行くから」
レミも、マチアをまっすぐに見て話し始めた。
 「……マチア、私ね、さっきマチアの夢を見ていた。マチアがバイオリンを弾いて私はそれを聴いているの。それで目を覚ましたら寝ているマチアがそばにいて……とても嬉しかった。私たち、離れていても気持ちはずっと一緒だよね。マチアの心はいつも私のそばにいてくれるよね?」
そう言い終わってレミはマチアの手にそっと触れた。マチアはそのレミの指に自分の指を絡ませて、強く握り締めて言った。
 「ああ」
そして絡めた指をレミも握り返す。そのことが、二人の決心とお互いの誓いをより強めるものとなっていた。レミもマチアもその事をしっかりと確信していた。


続き