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送り火の夜には稀人の饗応が行われる。
相応に整えられた酒宴の後、寄り神の嫁たる巫女が定められた間に入って訪れを待ち、暁降ちに送り出す。
普通の客人の場合、巫女役は里の女たちが適当に交代で務めるが、女人が禁忌となっている修験者の場合には稚児がその代理となる。
めったにないことで、当然少年にも初めてのことだったが、とにかく今回は当代がその贄を務めることとなっていた。

***

渡り廊下で屋敷とつながったその離れには既に夜具がのべられていた。
十畳ほどの広さに小さな雪洞が一つだけ灯りを燈されている。
脇に立てられた几帳の陰からは微かに魔を祓う香が漂う。
白い薄衣の夜着をまとった贄は夜具の脇に正座で控えていた。
引き戸を開けて入ってきた山上は僅かに目を眇めた。
つかつかと近づくと、贄の頬を平手で強く張る。
「あっ!」
予想もしなかった行動に、身体がそのまま夜具の上に倒れた。
「何のつもりだ!身代わりの贄とは!」
(いたた…もうバレちゃったのかあ)
少年に化けていた狐は片手で頬を押さえつつ身体を起こそうとしたが、
「稀人をたばかってただで済むと思っているのか?」
それより早く山上が両襟をつかんで引き起こした。
「狐の分際で山神たる我が身を忌避し、儀式を蔑ろにするとは」
「ち、違います!」
怒りをあらわにする山上に狐は懸命に訴えた。
動揺のあまり出てしまった白い尻尾が足の間で揺れ、三角の耳は後ろに伏している。
「ボクが勝手にやったんです、ほんとです」
「なんだと?」
「コーホにはお茶に一服盛っておいたから、何にも知らずに寝てるんです」
狐の大それた告白に山上は意表を突かれたのか、衣をつかむ手を放した。

「なんだってそんなことを」
夜具の上に胡坐をかいた山上が尋ねる。
狐は夜具から下り、耳と尻尾を引っ込め、姿勢を正した。
「だってあなた、コーホをいじめる気でしょう」
「いじめる…?」
山上はまた呆気に取られたような表情になる。
「普通に女の人としないで、わざわざ呼ぶなんて、変じゃないですか」
「普通と言ったって、おまえだって夢の中でおかしなことを考えていたじゃないか」
「ボ、ボクはいいんです!昔からコーホのこと好きなんだから!」
指摘されて狐はうろたえ、自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。
そんな狐を見て、山上はふんと苦笑いのようなものを洩らした。
「笑ったってごまかされませんよ。大体、その手の怪我」
「これか」
山上は左手の包帯を外した。掌には火傷の跡のようなものがある。
(あれ、茨の傷とかと違うみたい…)

「ちょっと山の様子を見ていたら幽鬼どもが湧いていてな。少々数が多くてこんなものが残ってしまった」
「…ごめんなさい、ボク、あなたのこと…」
「怪物だと思ったんだろう?心を読んでわかったが、面白いから放っておいた」
狐はそんなことをつらっと言う山上の顔を不思議な思いで眺めた。
本当のことを言って、それで悪かったとか言うのではない。
ただ事実を事実として教えてくれたまでで、心の底には何かこわばったものがある。
それはあの時、気を失う前に感じたのと同じ、憎しみすら感じられる冷気だった。
(上の神様って、そういうものなのかな…)
「他は知らないが、僕は狐が嫌いなだけだ。小狡くて誘惑に弱く、逃げることだけは得意で」
「……」
心を読まれた上にこうまで言われて、狐は返事のしようがなくなったが、気詰まりな空気を破るように、山上が手を伸ばしてきた。
「別に僕はどちらでも構わないんだ。これさえ済めばおまえたちとの関わりは終わりだからな」
男の重さが自分の上に移るのを感じた時、引き戸が開く音が聞こえた。

「待って下さい。それは、人違いです」
少年の声だ。
(目が覚めちゃったんだ?)
万が一にもおかしなことになってはと、薬の量を少な目にしたのが失敗だったようだ。
少年はまだ少しふらつくような足取りで座敷に入った。
「申し訳ありません、自分の不手際です」
山上の前にひざまずき、手を付いて深々と頭を下げる。
「しきたりで定められたことですのに、自分の説明が拙くて、何か勘違いして身代わりなどを思いついたようなのです。どうかお許しを…」
「間に合ってよかったな。身代わり稚児を相手にしていたらまったく意味の無いおつとめになるところだったからな」
山上の言葉は狐にはよく意味がわからなかった。
(だって、ただ…アレでしょ?何か違うの?)
「はい、神にたいし大変な礼を欠くことになるところでした。…おまえはもう行け」
少年はぼんやりとやり取りを聞いていた狐を睨む。
「は、はい…すみませんでした」
狐は仕方なく夜着の前をきちんと揃えて一度山上に頭を下げてから立ち上がり、部屋を出た。
山から吹く風に、もう秋の匂いがあった。

***

それからしばらく、山上はもう口をきかなかった。
衣服を脱ぎ、上掛けをめくって敷布に身体を横たえた少年の上に被さり、首や喉元に口をつけ、手が腰や腿をまさぐる。
それは少年を愛しむ行為ではなく、ただ自分の肉体を燃え立たせるための行動のようだった。
だが考えてみればこれは儀礼なのだから、そこに情の入る余地などは無いのだ。好感にしろ嫌悪感にしろ…
違和感を感じるのは、夢に現れた老人がかつて自分に触れたやり方を覚えているからなのだろう。
(このような儀式と、恋情の上でのことを比べるなど、身代わりを贄に出すよりも余程無礼ではないか…)
少年は自分の心を恥じ、無心であるようにと努めた。
やがて熱い塊が自分の中へと動きを進め、それが独特の運動を始める。
儀式であると了解していても、肌が熱を持ち出せば肉の反応は自分では制御できない。
抑えようとしてもついと漏れる声に山上が眉をひそめる。
「も…申し訳…あ…」
謝罪を口にしようとして、かえってかすれ声がその快楽を顕わにする。
そのことで頬が赤らみ、それを自覚することでまた感覚に弄ばれる自分を感じ…

幸い、少年が完全に自制を失う前に山上はことを済ませた。
だが儀式そのものは完全に終わりではなかったようだ。
自分の中に温かい液体が噴出されたことは感じていたし、以前に経験したことでもあった。だがそれが素早く体内に浸透していくような感覚は初めてのものだった。
身体が熱を持ち、力が内から湧き上がる。
(これは…?)
少年の戸惑いを山上が笑った。
「ご招来の儀の本義を知らなかったのか」
「ゴショウ…ライ?」
身体を離した山上はおかしそうに少年を見た。
「高位の神が力を与えることだ。だが受け取る相手に力量が足りなければ死ぬことになる」
少年は山上の言葉を反芻し、どきりとした。
「それでは、もし…」
「あの狐なら死んでいただろうな。僕はむしろその方が見たかったね」
冷たく言い放つ山上に少年は黙ったままだった。

「怒らんのか。狐というのは、それくらいの気概も持ち合わせていないか」
黙ったまま身体を拭き、衣服を着ける少年に山上は挑発するように言った。
着衣をすませた少年は姿勢を直し、手を付いて答える。
「…神は幸いと禍い、どちらをももたらすものと教わっております。吉と出れば喜び、凶と出れば嘆く、それだけが人の為しえること…怒るなぞ慮外であると」
山上は少し眇めるような目をした。
「小賢しい知恵…所詮、弱者の諦めだ」
「弱者でも生きることまで諦めてはおりません。そのことを神は浅ましいとまでは仰せられないでしょう」
「そうか?」
山上の腕が空を切り、掌から閃光が走った。
ジュッという音と共に畳の焦げる臭いが漂う。
その寸前少年は床に付いた手を支点に軽く五歩分ほどの距離を後ろへ飛んでいた。
「ふむ…仮にも当代だからな。この程度は」
山上はにやりと笑うと次々に攻撃を投げてくる。
気を溜めて雷撃に変化させる技のようだ。技自体は他の魔も使ってくるものだが、
(溜まる速さが尋常でなく速い…これが上位の神の力か)
一瞬の間に、目にも見えるほどの光を放つ気が掌一杯に膨らむのだ。もろに受ければ致命傷は避けられないだろう。

少年は慎重に間合いを測って攻撃を避け続ける。距離を飛びすぎてはその間に撃たれる。跳躍の間は避けようがない。
「さすがに逃げ回るのは得意だな。だが…」
山上は両の掌を肩の高さに上げて開いた。それぞれに籠球ほどもある二つの光が輝く。
一つを避けてもすぐにもう一つを当てられるだろう。少年は我知らず唾を飲み込んだ。
「遊びは終わりだ、狐」
山上の目が光る。
少年は腰を落とし片膝を付いた。すぐにも飛べる体勢だ。
その時、ガタンと後ろの引き戸が開く音がした。
山上が一瞬そちらに気を取られる。同時に少年は頭を低くしたまま山上の足元に飛び、両の足を手でつかんで転倒させた。
「うわ!」
さすがの術者も思いもよらなかったであろう攻撃で、溜まっていた気の弾は二つとも見当知らずの方角に飛んでいった。
そのまま山上の上になって押さえつけた少年の耳に獣の悲鳴が聞こえた。
(今のが!)
はっと気づいた少年は引き戸の方を振り向き、走った。
制御を失った雷撃の一つは開いた引き戸の向こうに飛び、そこにいた者を撃ったのだ。
少年の武器やマントが散らばる中に夜着をまとった白狐が倒れていた。鮮血が薄衣をみるみるうちに染めていった。

***

「あの狐が帰ったふりをして外で様子を伺っていたのはわかっていた。だが戦いになった途端気配が消えたので、命惜しさに逃げたとばかり思っていた」
すまなそうな山上の言葉を、正座をしたまま少年は黙って聞いていた。
数日後、出立する前に山上が少年の部屋に謝罪の言葉を述べに来たのである。
「その後は僕も他に気を配る余裕は持てなかったから…。まさか戻ってきていたとは」
不利な戦闘になったと気づいた狐は母屋に駆け戻り、すぐに少年の武器防具を持って戻ったのだろう。そして…
「僕の気を散らすように戸を開けたんだな。ちょっとでも隙が出来れば君がその機を逃す筈がないとわかっていた…」
狐の読みは正しかった。
山上を押さえつけている間に管から仲魔を呼べれば完全に少年の勝ちだっただろう。
「だけど君は悲鳴を聞いた瞬間、勝負を捨てたね。いや、僕の方は君に押さえられた時点で負けたと思っていたけれど…」
山上は少年の前に手を付いた。
少年は驚き、慌ててそれを制した。
「高位の方がそのような…」
しかし山上は頭を横に振った。
「今回の僕の行動は私情が入りすぎていた。狐の仕える神の社は、とかく現世利益を求める人間の欲望に侵され、穢れていく。修験の者は、だから狐にはあまり近寄りたくないのだ。しかし君やあの狐を見て、あえて聖と俗のあわいに身を置き、人に触れつつも潔さを失わない生き方というものもあるのだと思うようになったよ」
山上は今一度頭を軽く下げ、部屋を出て行った。

入れ替わりのように、先達の一人が現れ、開いたままの障子越しに覗いた。
「延期になっていた演武の儀は明日行う予定になったが…」
少年は姿勢を直し、うなずいた。
「大丈夫か」
「はい」
先達もうなずき、部屋へは入らず廊下を戻って行った。一人になった少年はぼんやりと室内に目をやった。

普通なら即死の攻撃だったが、抱えて持っていた少年のマントが防御の役を果たしたのだろう。狐はどうやら息があった。
すぐに仲魔に回復させたがやはり上位者の技による損傷は大きく、意識不明が続いた。少年は山上から再び香を借りて狐の夢に入った。
以前見たのと同じ花畑の中、今度は獣のままの姿の狐がいた。
(コーホ!)
狐は嬉しそうに走ってくる。少年も駆け寄り、飛びついてくる獣を抱きしめた。
(今日は化けていないのか?)
狐は悲しそうな顔をした。
(ボク…もうその力が出ないみたい…)
(何を言ってるんだ。ここは夢の世界だから、おまえの好きに出来るんだぞ。遠慮しなくてもいい)
少年が狐の頭を撫でながら言うと、狐は目をぱちくりさせた。
(そうなの?)
(そうだ。だから…あー、この間みたいなことを考えても…いい)
言いながら、少し頬が熱くなるのを感じる。そんな少年を見て狐は笑った。
(そうかあ、ボクの好きに出来るんだ)
狐の目がいたずらっぽく光る。

(だ、だがあまり…え?)
狐が飛び上がって回転すると、その姿は初めて会った頃の子狐になっていた。そして自分も小袖と袴の童姿になっている。
(コーホ、遊ぼう!)
狐は駆け出した。
(あっ、待て!)
二人、いや一人と一匹は、昔から変わらない里の山を走り回った。
塚山に登り、小さな崖を飛び降り、喉が渇けば渓流の水を飲んだ。
木の枝であけびの実を落として食べ、お腹がいっぱいになればそのまま下草の陰で眠った。
(ん…)
鴉の鳴き声が聞こえた。
(そろそろ帰らないと…あれ?)
夕暮れの森に、いつのまにか少年は一人だった。
(おうちに帰っちゃったのかな…)
はっと少年は気づいた。
元の自分の部屋。
のべられた夜具の上に、先ほどまで横たわっていた狐の姿は無かった。

***

「獣は弱っているところは誰にも見せない。人目に触れず、自然の中に隠れようとする。生まれた時から人に飼われていたとしても、それが動物の本能というものだ」
帝都に向かう汽車の中、少年の膝に乗った黒猫は、他人には猫の鳴き声としか聞こえない言葉で少年に語りかけていた。
演武の儀が始まる前、再びお目付け役として姿を現した業斗童子が、少年が里にいる間は鴉の姿であれこれに目を配っていたことは、少年があらためて帝都守護の任を申し付けられた後で聞かされた。
「あの里の山は霊気に満ちている。じき元気になってケロっとして姿を現すだろう。あの崖から落ちても生きていた生命力だ」
黒猫が自分を慰めようとしているのを感じ、少年は唇の端を持ち上げた。狐と同様、この猫も少年の僅かな表情の違いを見て取れるようになっている。
「それより、自分が見回っていたというのは長老の命もあってのことでな。このところ、おまえも通ったことのある例の回廊を使って時空を移動してやってくるモノどもが多いようなのだ」

(あの回廊…一人で歩いた場所…)
少年は少しばかり胸の痛みを覚えた。
鬼の憑いた娘を追ってあそこに足を踏み入れてから、それまでは聞こえていた目付け役の声も届かなくなった。自らの足音の反響と知りつつ、つい後ろを振り返ることも何度となくあった。
少年は思わず、膝の上の猫を抱え込んだ。黒猫も少年の気持ちはわかっているのか、咎めはしない。
「それでだな、聞いているか?」
「はい」
「おまえも見たあの怪物や山上が出会った幽鬼、それは皆同じところから来ているようだというのが一族の見立てでな。また未来のどこかからの干渉が起こりそうだという読みなのだ。熊野修験の者に頭を下げてご招来を頼んだのも、それへの備えだ」
「……」
「ヤタガラスの方にも報告は行っているだろうが…まあ、おまえは自分の任務を果たすことだけを考えていればいい」
「はい」
少年はうなずいた。

「書生さん、仲良しの猫ちゃんの切符はお持ちですか?」
検札にやってきた車掌が微笑ましそうに笑った。
「帝都に行かれるんですね。お粗相だけは気をつけて下さいね」
人と動物用の両方の切符に鋏を入れて車掌は歩いていった。
「誰が粗相など…人を猫扱いしおって」
黒猫は不満そうな顔をしている。今度は自然に少年の口の端が緩んだ。
規則的な振動の中、里の山々が遠くなっていく。
(帝都に…戻るのだ。行く、のではない…)
自分を待ち、出迎えてくれるはずの人々の顔を思い、少年は気持ちがあらたまるのを感じた。
少年は一人ではなかった。あの回廊にいた時でも、あの人たちの思いが一緒にあった。
(あの人たちの住む町を守るのだ…)
汽笛と共に一筋の煙が青空の下を流れていった。



 the end





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