少年はどことも知れぬ場所に一人立っていた。
暗闇のようでもあれば、ほの明るい気もした。
何の音も聞こえない。
回りには何もないようだった。
歩いてみると何の問題もなく歩けるが、足音は響かない。
時々、上ったり下ったりしているような感覚があるのだが、どちらにしろ景色はまるで変わらなかった。
しばらくするうち、前方に少し明るいところがあって、何かの影が見えた。
(人間…?に見えるが…)
自分の願望が見せる幻かもしれない。
少年は焦らずゆっくりと近づいた。
(えっ…)
少年は思わず息を呑んだ。
前方に立っているのは人間だった。
それも、懐かしい人の姿だった。
小柄な、だが目には強い光を持った老人。
最後に会った時と同じ着物姿だ。
少年の足は自然にそこへ駆け寄ろうとした。
だが老人は片手を前に突き出し、少し指を広げた掌をこちらに向けた。
止まれとでも言うように。
老人まであと数歩というところで少年は足を止め、その手を見た。
小さいが膂力のありそうなその手はかつて、もう一つの手と共に少年の手を上下から柔らかく包んだ。
「この手の使い方を間違えるな」と、その時老人は言ったのだった。
少年は老人の顔を見た。
老人は黙って首を横に振る。
(許されないのだ…)
少年の心は少し沈んだ。
(わかってはいたけれど…)
こうして迷うのは自分の弱さ、浅ましさなのだ。
それを振り払うように少年は目をつぶり、頭を振った。
目を開けた時、老人の姿は無かった。
(お待ちください…せめて一言)
声が出かかった瞬間、目が覚めた。
少年は自分の部屋の布団の中にいた。
(夢…しかし今のは、まるで…)
かなり寝汗をかいていることに気づき、少年は起き上がった。
(ただの夢だとわかってはいるが…)
今が盆の期間であることが、妙な胸騒ぎを起こす。
(まさか…あの方に何か…)
空はそろそろ白み、遠くで鳥の声がしている。だがまだ新聞は来ていないだろう。
横の布団を見ると、狐はまだ眠りの中だ。
「そろそろ起きろよ」
「ん…コーホ…」
夢うつつの態で返事はするものの、目を開けようとはしない。
(しょうがないな。まあ、今日は特に任せる仕事もないのだからいいか。朝食には起きるだろう)
少年は身支度を整えて簡単に食事を済ませ、日課の遂行のため修練場へと向かった。
今夜の祈祷にも使われる場所である。
いつもより念入りにはたきをかけ、床を磨く。するうち、ようやく不安な気分も消えていった。
(夢を見たくらいで…修行が足りないな)
それは、老人の年齢を考えれば万が一ということはある。
だが、だからと言って今それに関して少年に出来ることはないし、出来る立場でもない。
少年のやるべきことは、今日の勤めを果たすことなのだ。
もし実際に老人が幽冥界に行こうとしているのだとしても、あの老人ならばそう言って少年を諭すだろう…
修練の方は短めに終わらせ、少年は早めの昼食に向かった。
その後は里を回って結界の確認をするつもりだったが、予期しない事態が起きていた。
狐がまだ朝食を取りに来ていないというのだ。
(探偵社では所長と朝寝を競うほどだが、ここでそんなに呑気にしているはずはない)
里での失策が少年の責任になることは承知していて、それは避けようと努力している狐だった。
気づかない怪我があって、熱でも出しているのだろうか。
少年は急ぎ、自室へ向かった。
獣は外見からはただ眠っているとしか見えなかった。
だが、いくら揺すっても、耳を引っ張りすらしても起きないというのは完全に異常である。
里の医師が見ても、どうにもわからないと言う。
呼吸や脈は少し低めだが、どこにも怪我は残っていないし、熱も平常なのだ。
昏睡状態とでもいうのだろうか。
夢を見ているのか、時々うめき声を漏らすが、苦しそうではない。
「しかし、一日二日ならともかく、このまま目が覚めなければ栄養を取れず、衰弱していってしまう」
医師は眉をひそめて言った。
考えてみれば、昨日もろくに食べていないのだ。
「せめて水分は摂らせないと」
(山で、何かそういう毒のある植物にでも触れたのかもしれない…用心深い獣だが、昨日は追われていたのだし)
少年は湯冷ましを入れた吸いのみを狐の口にくわえさせてやった。
傾けてゆっくりと流し込んでやると、自然に飲み込んでいく。
少年は少しほっとした。
とりあえず今日一日は様子を見ようということで医師は帰った。
(頑張れよ…また、後で見に来るから)
少年は布団からはみ出ていた狐の前足を軽く握り、布団をかけ直した。
少年の心配をよそに狐の寝顔はうっとりとして、極楽にでもいるようだった。
***
「狐の看病のため今夜の祈祷から外して欲しい」と少年が申し出た時、里の先達たちが驚き、翻意させようとしたのは当然と思えたが、山上が強く異を唱えたのは少々意外であった。
「大事な晴の日の儀式をそんなことで降りるなんて、当代としての責任を放棄するも同然じゃないか。それも危険な怪物が襲ってくるというのに、自分だけ安全なところに隠れて他人を犠牲にするのか?」
熱くなって言葉を荒げる山上に、先達たちは冷静に言葉を返した。
「犠牲とおっしゃるが、我々では魔獣一匹倒せぬとお考えですかな?」
「いや、そういう意味では…」
「そも盆のあやかし退治など、大した力量は要りませぬ。ただ数が多いゆえに、こちらも頭数を揃えるだけのこと。獣といえ意を通じた命を案じる気持ち、それもまた人を護るサマナーにとって大切な道かと」
「なるほど、弱者が助け合う理(コトワリ)か。共倒れにならねばよいがね」
「手厳しいご意見、有難く拝聴いたします。…当代、まずは行ってよいぞ」
「はっ…ありがとうございます」
少年は手を付いて頭を下げ、祈祷の間を出た。
山上の不機嫌そうな顔が心に残った。
(軽蔑されたかもしれない)
仕方あるまい、と思うしかなかった。
午後、里の各戸を回って結界を強力に張り直しつつ、少年はこのことを考えていた。
もし帰ってもまだ狐が目を覚ましていなかったら自分は狐に付いていようと。
今夜、里じゅうに結界が張られた中、祈祷の場になる屋敷だけは無防備になる。
ここぞと飛び込んでくるあやかしたちが眠っている狐に目を付ければ、一発でやられてしまう。
どこかの家に預けることも考えたが、風邪やら腹痛ならともかく、こんな不安定で何が起きるかわからない病では頼まれた方も困るだろう。原因が見えない症状であれば、また見えない原因で悪化し、あっという間に命取りになるかもしれないのだ。
今にも異変が起こっているのかもしれないと思うと、少年の心はつい乱れた。
(いけない…集中しないと)
このような、結界を張る作業ならやり直してすむことであっても、百鬼夜行のようにあやかしどもが乱舞する戦闘の場ではそんな気もそぞろの兵は邪魔になるだけである。
それで少年は襲名剥奪の覚悟すらして申し出をしたのだったが、案外にすんなりとそれが通ったのは、山上の反対が逆に効いたのかもしれない。
まずは、と言われた以上、事が終わった後の詮議によっては代を追われる可能性もあるが…
(その時は、その時に考えるしかない)
少年は自室に結界を張った。
狐は相変わらず昏々と眠っているようだ。
少年は布団の脇に座り、封魔管から外法属の悪魔を呼び出した。
(眠っている相手に読心術を用いてどうなるのかはわからないが…)
とにかく、出来ることを試すしかなかった。
***
どのくらい時が流れたのかわからない。
空は青く柔らかい光であふれ、甘い香りが漂う中、狐は少年と抱き合っていた。
快感の中、今にもその意識が空気の中に溶けていきそうだった。
と、突然少年が厳しい顔つきになって上半身を起こす。
(ど、どうしたの?)
「邪なモノが近づいてくる…」
(えっ…)
少年の注視する方を見ると、人影がこちらにやってくるのが見えた。
(あれっ?)
その姿は、ここにいる筈の少年だった。
だがこちらとは違い、あちらの少年はきちんとマントをはおっている。歩くたびに、その下に付けられた白皮のベルトや、長い刀の鞘がちらりと窺われる。
(コーホ…?あっちも?)
狐は慌てて自分の着ていた服を手探りした。
が、その手は既に服を着ている。
共に裸で自分の上にいた筈の少年も、気がつけば初めから脱いでなどいないように制服姿で立っている。
(え…?これって、やっぱり、夢だったってことなのかな?)
狐はわけがわからなくなった。
「お前、こんな夢を見ていたのか。人が心配していたのに」
近づいてきた少年が、なんだか呆れたような顔で言う。
こちら側の少年はそれを遮るように立った。
「近寄るな、偽者」
(偽者?)
近づく少年はその言葉が聞こえなかったかのように、辺りを見回し、匂いを嗅ぐようにした。
「この香り…夢の中で幻影を見せる力があるのか」
こちらの少年はクスクスと笑った。
「なんだ、もうバレてしまったか…君も見ただろう?慕わしい人の姿を」
「コーホ、誰が好きなの?」
思わず狐は叫んでしまった。
(あ、声が出た…?っていうか、今までもしゃべってたと思ったけど、夢の中だから違ったの…?)
混乱している狐を放って、並んだ少年二人は会話を続ける。
「…あれはお前が見せたのか」
「見せたのは君の心だ。君が誰を好きかなんて、僕は知らないからね」
「あのまま近づいていれば、自分も目覚めなかったということか」
「そういうことなんだけど、止めたのも君の心だからね。さすがによく抑えたと褒めておくよ。こっちの獣は簡単だったけど」
ちらりと狐を見ながら、こちらの少年がまた笑う。
(ええ…なんだかよくわからないけど、からかわれたってこと?)
「お前は何者だ。一体何のつもりでこんなことをする」
少年(どうやらあちらが本物のようだ、と狐は思った)が詰問する。と、偽少年の声が尖った。
「一族の命令で本来なら近寄りたくもないおまえたちにつき合ってやってるんだ。ちょっとくらい遊ばせてもらうさ」
少年がはっとして、偽者の顔に目を向ける。
「あなたは…まさか…?」
その時狐は、頭上の空気が動いたことに気づいた。
(あの、山の時と同じ…?)
「コーホ、よけて!」
落ちてきた何かを掴んで投げ、同時に後ろに飛ぶ。
「ウオッ!」
狐の投げたそれが少年の背後から近づいていた黒い影に当たった瞬間、世界が一変した。
(うわ、何?)
そこは自分が寝ていた座敷だった。だが妙に薄暗い。
夜の暗さとは違う。ちらちらと舞う粒子が漂い、魔の匂いが強い。
偽の少年の姿はなく、既に刀を抜いた少年と山で見た怪物が対峙している。
(異界だ!あいつが結界を破ってきたんだ!)
「食い損ねた小狐め…また邪魔をしやがって!今度こそ食ってやる!」
怪物は思いがけない素早さで少年の横をすり抜け、狐に飛びかかってきた。
「わっ…!」
なんとか避けた狐の後ろから少年が鋭い切り口で斬りつける。
だが怪物にはまるで損傷がない。
「ハハハ、無駄だよ刀なんぞ!」
怪物はせせら笑いながら少年を無視して今一度狐に狙いを付ける。
(力押しじゃ効かない妖獣なんだ…ヤバ…)
狐がどちらへ飛ぼうか迷っていた時、背後から黒い鳥が飛び出した。
狐の前に出たその鳥は、その大きさには似合わないような強い羽ばたきで怪物に風を吹きつけた。
「ウッ!こ、この…」
怪物の動きが一瞬止まる。
その隙を見逃す少年ではない。数発の銃声が響き、更に怪物は硬直した。すかさず神木が具現化したような仲魔が喚び出され、一陣の風が刃となって怪物を裂く。
「ウギャアッ…」
断末魔の叫びと共に怪物は崩れ落ちた。
空気が変わり、部屋の姿が正常に戻る。
「大丈夫か」
「うん、コーホ、今の、鴉…あれ?」
見回したが鳥の姿はなく、畳に黒い羽根が一枚落ちているだけだった。
少年はそれを拾って無言で眺め、胸ポケットにしまう。
(あんなもの、大事そうに…)
狐はなんとなく面白くなかった。
ほどなく、廊下に大勢の足音が響いてきた。
(里の人たちだ…祈祷が終わったのかな)
近づいてくる中には山上の匂いもある。
(あいつが怪物だと思ったんだけど…違ったんだなあ?)
少年は素早く辺りを片付け、膝をついて障子を開けた。
「こちらでも騒ぎが起きたようだが、ふむ、処理したか」
先達の人々はさすがに、部屋の様子を垣間見ただけで何が起きたかを察したようだった。
「はい、なんとか」
と頭を下げる少年に、
「結局、分業ということでお互い楽になったというわけだ」
と笑う。
「しかし、あの程度の魔に破られるような結界しか作れないようでは、まだまだ修行不足じゃないかね」
山上が口を挟んだ。
口元には一応笑いを浮かべているが、どちらかといえば揶揄に近い。
「はい。色々と勉強不足で、油断をしておりました」
落ち着いた少年の言葉に、
「まあ、無事に済んだのだからこれ以上は言うまいよ」
とだけ答えて、山上は廊下を戻って行った。
「コーホ、結界は怪物をおびき寄せるのに緩めにしておいたんでしょ?言ってやればよかったのに」
祈祷の片付けをして部屋に戻ってきた少年に、狐はくすぶっていた不満をぶつけた。
「それにあいつ、すごく怪しいよ。変なお香くれたりして。ほんとにあの怪物と関係なかったの?」
「そのくらいにしておけ」
少年は軽く狐の頭をこづいた。
「下らない夢につかまって、目が覚めずにいたのはお前の心がけの悪さだぞ」
「あ…えへへ…ごめんなさい」
狐は照れ隠しにぺろっと舌を出した。
そんな狐を見て少年は溜息をつく。
「しかし、お前の夢の中に入ってしまったのは、自分の油断だった。あの時お前が気づいてくれなければ眠ったままやられていた」
言われて狐は、山の中でも起きた不思議な出来事を思い出した。
「あの時も、上から何か落ちてきたんだ。あの鴉が落としてくれたのかな?」
「…きっと、そうだな。山狩りにしても、お前が随分と早く見つかったというのは、その鴉が場所を教えてくれていたんだろう」
そう言う少年の顔は、どこか嬉しそうだった。
(黒い猫だったっていう、前のお目付け役かもしれない。なんか黒い生き物に入るとかいってたし…)
一人何かを思うような少年の姿に、狐はまた面白くない気分になった。