気がつくと、少年の心配そうな顔があった。
(コー…ホ…)
うまく声が出ない。
ああ、そうだ、まだ狐の姿だからだ…と思い出した時、少年が先に口を開いた。
「もう大丈夫だ。安心して寝ていろ」
(え…?)
自分の居場所を確認しようと首を上に向けかけると、痛みが走った。
(てて…)
「無理をするな。あちこち怪我していたんだ。回復魔法はかけてもらったが、完全に癒えるのには少々時間がかかる」
少年は優しく狐の頭を撫でた。
ここ数年、めったになかったことだ。
「随分、頑張ったようだな」
(えへへ…。まあ、あんな目にあったんだから、このくらいのご褒美もらってもいいよね)
狐は嬉しさに目を細め、少年の掌をぺろぺろと舐めた。
落ち着いて少しずつ見回すと、里で少年が使っている座敷のようだった。
清潔な敷布のかかった布団に寝せられている。
怪我の負担にならぬようにか、上掛けは薄い綿紗を縫った浴衣だった。
どうやら、気を失っている間に屋敷に運ばれたようだ。
(でも、誰が?)
狐の心に湧いた疑問を察してか、少年が教える。
「お前の仲間の一人が怪物のことを伝えに来た。それで里の皆で山狩りをして、お前を見つけてくれた」
(コーホも探してくれたの?)
これも声には出さなかったが、問いかけるような目をしていたのだろう。
少年はちょっとすまなそうな顔をした。
「今夜は迎え火だから、色々仕度があって…」
狐はうなずいた。
帝都では守護者として活躍するサマナーも、この里に帰れば若衆の一人だ。
襲名を果たした当代とはいえ、それはこの里の師匠や師範の手で修練を積んできた成果である。
その先達から見れば少年などまだまだただの若僧で、雑用係なのだ。
狐などはたまに、実力のある少年が襲名試験に落ちたような大人たちにこき使われることにイライラしたりもするのだが、目上には従うのが当然と育っている少年は、不満などはまったく感じないらしい。
今回も、お盆と言ってもちろん単なる里帰りではない。
同じ年頃の青年たちに混じって迎え火や送り火、お供物などの用意に走ったり、精霊棚やそれの鎮座する板の間を掃除したりと、何かと忙しいのだ。
「そろそろ、手伝いに戻らねば。何か欲しいものはあるか?」
少年が再び、頭を撫でながら尋ねる。
特にない、と軽く頭を振る。
「じゃあ、大人しく寝ていろよ」
(そうだ、怪物は、どうなったのかなあ)
野茨での怪我くらい、あの「魔」ならばすぐに治癒してしまうだろう。
そしてあらたな餌を探すに違いない。
ここでか、他所へ移るかはわからないが、存在を知った以上そんな危険な「魔」をほっておく里ではあるまい。
結局は少年が働くことになるのだろうか…
そんなことを考えていると、廊下の方から嗅ぎなれない匂いが漂ってきた。
(誰…?)
狐の耳が自然に少し後ろに折れる。
それを見て、立ち上がりかけた少年は今一度腰を下ろし、廊下側の障子に目をやった。
だが近づいてくる足音に、少年の表情はゆるんだ。
(知ってる人なんだ?でも、里の人じゃない…)
「いいかな?」という断りの後、障子が開いて姿を現したのは、所長を少し縦に縮めたような若い男だった。
(髪の毛はこっちの方が長めだけど)
「暗くなってきたから、そろそろ始めるって」
「申し訳ありません、山上さんに言伝てをさせてしまったんですね」
恐縮して言う少年に、山上というらしい男は気さくに笑いかける。
「いやいや、僕もぜひ勇敢な狐くんというのに会ってみたくてね」
少し異人の血が入っているのかと思わせる容貌に反して、男は慣れた様子で膝を折り、礼にかなった動作で障子を閉めた。
その片方の手に白い包帯が巻かれているのが見えた時、狐はなぜか胸騒ぎがした。
(なに…怪物が怪我したところを見たわけでなし、初めて見た人をなんで怪物が化けてるなんて思うんだろう?)
自分でもおかしいと思うが、つい、こっそりと念入りに匂いを嗅いでしまう。
ごく普通の青年の体臭に、少々の人工的な香り。鳴海も使っているコロンのような類だろう。怪しいところはまるでない。
狐が自分に注意を向けているのに気づいたらしい青年はにっこりと笑った。
「よそ者に用心しているのかな?安心しておくれよ、僕なんかはここの裏山を散歩していてうっかり怪我をするような役立たずなんだから、この里で悪さなんか出来ないよ」
そう言って、包帯を巻いた左手を軽く振って見せる。
「山上さん」
怪我を気づかってか、少年が心配そうな目をむけた。
(コーホがこんなに気を使うなんて、この人誰なんだろう)
その心を読んだものか、少年が軽く狐を睨んだ。
狐が、他人にはなかなかわからない少年の表情の変化を読めるように、少年も狐の心の動きをかなり正確に読めるようだ。
もっとも少年に言わせると、狐の考えやら感情やらは大体が単純なもので、特に自分の知らない相手が少年と親しくしている時には、(ダレダコイツ)という言葉が顔に書いてあるのが見えるほどだそうだ。
「山上さんは稀人でありながら、明日の手伝いもなさって下さるそうだ。格からも上に当たる方なのだから、失礼をしては駄目だぞ」
少年の説明に狐は少し驚き、あらためてその山上という男を見た。
この里でのお盆は他所とは違うところがある。
おがらを燃やして迎え火や送り火をしたり、茄子や胡瓜を乗り物に仕立てたり、色々と飾り物をするようなのは世間と一緒だが、お中日には独特の行事がある。
地獄の釜が開く盆の期間、善良な祖霊に混じって当然のごとくタチの悪いあやかしも跋扈することになる。
この里のようなところへはそれこそ、灯りに誘われる虫たちのようにそういうモノたちが密集してくる。
単に迷ってなんとなく光に引かれてくるようなモノもいれば、力のある人間がいると知ってちょっかいをかけて来るモノもいる。
そういう厄介モノたちは、まとめて始末してしまうのが一番、というわけで中日の夜には里の通力者たちが一ところに結集し、そこに寄ってきたモノたちを端から片付けていく。当然今回は少年が当代としてその中心になる。
(でもそこに格上の人が入るって、なんか複雑じゃないのかなあ、コーホは…)
ある意味晴れ舞台でもあるのに、大人の人たちは少年がまだ未熟と思って他所の人を呼んだのだろうか。
「格がどうとか言ったって、実力がどうかは人それぞれだからね。僕はせいぜい邪魔にならないように気をつけるよ」
なだめるように山上は笑って言い、「じゃ、行こうか」と少年を促した。
少年は客のために障子を開け、横に膝をついて控える。
(なんだよ、家来みたいじゃない。いくら稀人ったって…)
狐は、考えがバレないように目をつぶったふりをしながら横目で見る。
その時、頭の中で声がした。
(不満か?狐風情が)
狐は思わず目を開いた。
立ち上がって見下ろす青年の瞳から、凄まじい冷気が流れてくる。
優しげな微笑を浮かべつつ、その髪は蛇のようにうごめき、髪の間から見える耳は三角に尖り…
(こいつ、やっぱりあの!)
「コ…」
なんとか声を出そうとした。
だが少年が不審そうにこちらに目を向けた瞬間、狐は金縛りに捕えられた。
同時に意識も落ちていく。
(こいつが…コーホ、あぶな…)
そこで狐の意識は途切れた。
***
晴れた夏の夜空にいくつもの煙が立ち上っていくのが見える。
町ではいい加減になっているところもあるようだが、この里では伝統を粗末にする家はない。
少年も毎年、このオガラを燃やす炎と、軒先に吊るされる提灯の灯りを見るたびに一つの季節といったものを感じる。
家々の門の前には、それぞれ子供たちが野菜で作った牛や馬が並んでいるのだろう。
人々に混じって上る煙に手を合わせつつ、少年は自分のすぐ前に立つ男のことを考えた。
掃除の後で大人たちのところへ行ってみると、この青年が上座に座っていた。
あらためて挨拶をかわした後聞くと、ある修験者集団の系譜に名を連ねる人物だという。修行の最中、通い路である熊野古道にほど近いこの里に立ち寄られた、というのが先達方の説明だった。
「さっきはイタズラをしてすまなかったね」と微笑む顔は柔和だったが、少年は自分の身体に残ったすくみの感覚を忘れ去ることは出来なかった。
(実力は別、などと言っているが、それは逆に、格以上の自信があるということだろう…)
この里よりも格上の神をいただくその一族は、どの一人を取っても少年以上の能力を持つ強者らしいという噂だった。
「なんだか、おおごとになりそうだね」
火の向こうの山蔭に目を向けたまま、山上が言った。
その控えめな声は少年にだけ向けられたもののようだった。
「…見知らぬ怪物、やはり明晩現れるとお考えですか」
少年も同じように、相手にだけ届く声で答える。
山狩りで渓流のそばに倒れている狐を見つけた後、里では当然怪物の方をどうするかという議論になった。
結論として、知力の高い妖獣のようであるし、それであれば霊力のある人や獣を狙うだろうから他所へは行かずこの辺りに潜んでいるだろうと、深追いはせずにおくことになった。
人々には山に近づくなと伝えて家々に結界を張り、動物たちの方はわざわざ言わずともその本能からしばらくは身を隠して過ごすだろうから、飢えた怪物は中日の祈祷に誘われて腹を満たすために現れるに違いない、そこで仕留めればよいだろうという算段である。
「魔獣か妖獣か…どちらにしろ自惚れが強く、貪婪な性だ。自分が退治られることなど夢にも思わず、何もかも食らい尽くそうと勇んでやってくるだろう」
淡々と、しかし自信を持って語る山上の後姿を、少年は畏敬を持って見た。
「怖いかい」
「はい」
こちらを振り向いた山上が問うのに、少年は自分の心そのままに答えた。
「怪物と言ったって、あの小狐くんだって、上手く逃げ切った程度だよ?」
山上は意外そうな顔を見せた。
「難関と言われる襲名試験を突破した当代の君なら、見事に仕留めて手柄に出来るさ」
「はい…ですが、試験ならば、しくじっても自分一人の命ですみますが、自分の未熟さで他の人間に被害が出てはと」
怪物が本当に貪欲で、通力を持った人間たちとそこに寄ってくる魔たちを狙ってやってきてくれればいいが、そんなことは面倒、或いは行きがけの駄賃にと、里の家を襲ったりするかもしれない。
もしも怪物が結界を破ろうとすればすぐに術者にはわかるが、万が一にも気づかなかったりした場合、そこには惨事が生まれるだろう。多少なりとも力のある者はすべて祈祷の場に集まっているのだから。
(明日は、一刻たりとも気を抜けない…)
武者震いのようなものが、身を走る。
「余計なことを考えてはいけないよ。かえって身体の動きが鈍くなってしまうからね」
少年の気負う気分を感じたのか、山上が微笑みながら言う。
「あ…はい。ありがとうございます」
「まあ、僕のように気を抜きすぎてもいけないけどね」
山上はまた、包帯をした手を振ってみせた。
それを見て少年はあらためて疑問を感じた。
最初に聞いた時も思ったのだが、あんなに力のある人がちょっと山歩きをしたくらいで包帯をする程の怪我をしたりするものだろうか?
朝、修験場で会った時には、確かに怪我などしていなかった。
それが、数時間ほどの間に…?
だが目上の人間、それも神たる稀人にことを問い質すようなことは許されない。少年は目線をそらして曖昧にうなずいた。
「そうだ、いいものをあげよう」
山上は右手で上着のポケットを探り、よれよれの白い布を取り出した。開くとそこにはいくつかの小さな黒い円錐形の塊がある。
「鎮静作用のある香だ。ほら、嗅いでごらん」
そう言って一つを少年に渡す。
「…本当だ、落ち着きますね」
「寝る時に焚くといい。深く眠れて、すっきり目が覚めるよ」
「わかりました、ありがとうございます。」
ほんのりと甘い香りのする香を少年は自分のズボンのポケットに入れた。
***
狐は一面の花畑にいた。
光が溢れ、色とりどりの花々からは不思議な香りが漂う。
(あ、コーホ)
少年がこちらにやって来るのが見えた。
(こっちだよ!)
大きく手を振る。
少年と同じ、制服を着た手だ。
(あ、そうだ、もう治ったんだった。また化けられるようになったんだ。でもコーホ、嫌がるかな…)
ちょっと心配になって近づく少年の顔を見る。
少年は微笑んでいる。
(怒ってない…)
狐は嬉しくなって自分も走って少年に近づき、そのまま抱きつく。
少年はそれでも怒らない。それどころか狐を抱き返し、そのまま口付けをする。
(ええ?!)
狐は狼狽して自分から身体を離した。
少年は不思議そうな顔をする。
(だ、だって、こんなのコーホじゃないよ)
「これだって僕だよ。嫌なの?」
そう言いながら少年は再び狐を抱き寄せる。
いつのまにか二人は草むらに寝そべっていて、少年の手は狐の腰を這い回り、ズボンの前あきを開く。
(コーホ…そんなこと、するの…?)
「嫌?」
少年は優しく笑って聞く。
(い、嫌、じゃ、ないけど…)
正直、夢見たこともあったけれど、現実に起こるなんて信じられない。
しかし少年の笑みはあくまで優しく、その長く器用な指は狐のものを注意深く握る。
気持ちよさに狐がのけぞると、その喉や、耳の下を唇で吸われる。
「僕のも、ほら…」
少年は狐の手を自分のものへと導く。
熱い肉の塊が狐の手の中で固くなっていく。
自分のものも少年の手の中で同じように育ち…
「ずっと、二人でこうしていようね…」
(コーホ…)
少年に見つめられて戸惑いは消え、陶酔に取って変わられた。
揺れる花々の中に互いの吐息だけが響いていた。