prev. -1- -2- -3- -4-





次の日の午過ぎ、昌は一人市電に乗っていた。
ゴウトもいない、一人歩きである。
こちらの世界をたった一人で歩くのは先日業斗とはぐれて以来だが、ゴウトとも出会い、試練を全て突破した今では心細さというようなものはほとんどない。
少々の心のひっかかりといえば、出てくる時に遠出をするとは言っていないことである。

(でも嘘は言っていない…どこへ行くとも、行かないとも、言っていないのだから)
そんな風に、自分の心の中で言い訳をする。
昌は深川町に行って、鳴海を探してみるつもりなのだった。

***

その日の朝から三つ目の試練に取りくんだ昌は、これもまた難なく突破した。
使者の言う、三つの角柱が揃ったわけである。
現世に戻ってこれを使者に渡せば、すぐにでも帰れるのだろう。
だが…

「あれは…」
現世の時刻に関係なく闇に包まれたような異界の、桜田山に聳え立つ鉄塔に、ゴウトは毛並を逆立てるようにした。
「ゴウト、何か?」
「思い出せぬか。俺たちがここへ飛ばされたのは、あの鉄塔の中での出来事なのだ」
昌は驚き、あらためて塔を見た。
「わからない…」
「そうか、あるいはとも思ったが、まあよい。しかしそれよりも、この塔がこちらにもあるということは、俺たちが向こうで対峙している大きな敵が、こちらでも始動を始めているという証なのだ」
「……」
「他言は禁物だぞ」
昌は何も言えず、ただうなずいた。
しかし、人間を異なる時空に送るというような力を持つ敵が現れるのだとしたら、雷堂には一刻も早く鳴海と和解しておくことが必要ではないのか。

「このままでは、帰れない」
「うむ…」
それにはゴウトもうなずいたが、
「しかし俺たちは結局はよそ者だということを忘れてはいかん。この世界のことには出来るだけ介入せぬのが正しいのだ」
「だが」
「わかっている。おまえは誓いを果たした」
(それなら…)
昌が口を開く前にゴウトは、
「今度は俺の番だ。こちらのゴウトとちゃんと話してみる。事情をきちんと知らないと動きようがない。とにかく多少なりともその片が付くまでは帰らんことにしよう」
そう結論付けて、二人は現世に戻った。

多聞天に戻るとゴウトは、雷堂が当分学校から戻らないことを確認してから、昌のことも、
「ここからは大人の話だ。おまえはパーラーでソーダ水でも飲んでいろ」
と追い出した。
だが実際にそのパーラーというところに行ってみると、中は女学生や買い物のついでに寄った奥様たちなどで一杯だった。
男の客は一人もいない。
銀座のミルクホールとはまったく違う雰囲気だ。
任務でならどんなところでも怖気づくことはないが、ここでゆっくりと一人飲み物を飲むというようなことはなんだか出来そうもない気がした。
(少し歩いて時間を潰そう…)
パーラーの石段を下りて最初に気がついた橋の方へ歩いていくと、声をかけてくる男がいた。

「はは、雷堂ちゃん、あんなとこで女子供と一緒におやつを食いたいのかい」
前に町を歩いた時も気軽に声をかけてきた中年の男だ。
「男ならもっと行くとこあるだろ、ほら、深川の先だよ。所長さんなんかすっかり顔じゃない」
(鳴海さん?)
「深川町の先って」
「おいおい、とぼけるなよ。いやー、あの所長さんはオレなんかと違っていい男だからさ、女たちにモテモテなんだよな、チクショウ」
男は興奮状態だ。
(そうだ、こんな時は)
闘いの最中でなくとも、適した仲魔を呼び出すことで捜査の助けになる、とゴウトから教わっていた。
冷却魔法を使える仲魔を呼び出して試みさせると、男はやっと落ち着いたようだ。

「や、すまねえ。つい羨ましくてさ。雷堂ちゃんみたいな子供に遊郭の話なんぞしちゃって、バカだねオレも…」
(遊郭)
子供の昌でも、それがどんな場所かくらいの知識はある。
それでは、あの日も鳴海は自分と別れてそんなところに行ったのか。
もし、本物の雷堂がそんなことを知ったらますます怒るに違いない。
(知ったのが自分でよかった)
しかしこのままではこの男はいずれ雷堂にも話してしまうだろう。
今のうちに鳴海を探して連れて帰った方がいい。
昌は男と別れると停留所に走り、深川町に行く電車に乗ったのだった。

***

町の入り口で、昌は先日の男衆たちに出会った。
いつもこの辺でたむろしているらしい。
「縄張」を守るには、必要なことなのだろう。
彼らは学帽とマントという、昌の特徴ある姿を覚えていたようだ。

「なんだ、鳴海さんとこの。また来たのか」
「鳴海さんの筋だから手は出さねえが、それにしてもここはおめえみたいな小僧がうろつくとこじゃねえんだぜ。学生さんは真面目に勉強してろよ」
「すみません。でも鳴海さんに用事があるんです」

「居続けの若旦那を、思いもんのお稚児さんが迎えに来たいう風情やな」
男達の後ろの頭一つ--いや、それ以上に高いところから、からかうような声が聞こえた。
西の方の話し方である。
鳴海も背が高かったが、その男はまた更に高い。
「あ、佐竹の兄貴」
「若頭」
男衆たちはさっと頭を下げて、道を空ける。
鳴海は背は高くてもかなりの細身だったが、この男は横にも、前後にもそれなりの幅がある。
決して太っているわけではない、がっしりとした、いい体格だ。
その男らしい体には、前を広くはだけた紬に、きりっとした帯。
袖を通さず肩にかけた羽織に、足には雪駄。
「いなせ」を絵にしたような、強面の任侠の姿である。
「おまえ、誰や」
佐竹という男は昌を一瞥した後、目を細めて言った。
(あ…)

「鳴海んとこの書生ですよ、兄貴」
「ビビらしちゃ、かわいそうですぜ」
言いよどむ昌に代わって男たちが答える。
だが佐竹は昌から鋭い目を放さない。
「ワシが聞いてる話じゃ、その書生さんは顔にたいそうな傷があるらしいが。ワシらも真っ青ってくらいの」
佐竹は自分の顔を指でなぞってみせた。
それは正確に雷堂の傷跡と同じ二本の筋を描いた。
(この人は、本物の雷堂に会ったことがあるのか…)

「なんだと。じゃ偽モンか?」
「何しに来やがった」
男たちの目がすがめられ、拳が握られる。
「兄貴」の命令一つあれば、殴りかかってくる気配だ。
「すみません。自分は、雷堂の従兄弟です。葛葉昌といいます」
「名字は一緒かい、ふうん」
ほお、というような表情で佐竹は言った。
(名前までちゃんと知っているのか)
「驚くこたぁねえよ」
佐竹は口の端でにやりと笑い、昌の心を読んだように言う。
「ワシはこの帝都でも情報通で知られてるんや。人の知らないことを知ってるいうのは、力になる。探偵の鳴海とつきあいがあるのも、そういうことや」
「それじゃ、鳴海さんが今どこにいるかもご存知ですか」
「おっと、いきなり直球でくるかい」
佐竹は呆れたような、笑うような顔をした。
「そこらへんは従兄弟さんとは、似てるようでちょっと違うみたいやな。どうや、ワシが案内してやろうか」
「え、いいんですか。有難うございます」
昌は頭を下げた。
佐竹はまたおかしそうな顔をして昌に目をくれ、遊興街へ通じる橋の方へ向かった。

「しかし、傷さえのければ、ほんまそっくりやなあ」
佐竹は昌の顔を見ながら言う。
(やっぱり…)
「雷堂に会ったことがあるんですね」
「でなきゃ従兄弟なんて嘘臭い話、信用せえへんよ。その顔見りゃ他人じゃないってのは疑いようがあらへんわな」
「……」
他人…ではないのだろうが、従兄弟というのは嘘だ。
この鋭い男には何か余計なことを言うとすぐにわかってしまいそうな気がして、昌は黙って歩いた。

遊興街に来ると、佐竹は一軒の店に向かった。
「ちょっと、来いや」
呼ぶのを見ると、見世物小屋の一つである。
(そんなものを見ている暇はないのだが…)
「こんな子供だまし見せようってんじゃねえよ、ええから来」
佐竹はまた昌の心を読んだように言う。
「はい、すみません」
昌は駆け寄った。
「子供だましはひどいですぜ、佐竹さん」
店の前で客引きをしている若い男が言う。
その口調は親しげでもあり、媚びているようでもある。
頼りにはなるが、怒らせれば怖い、町の実力者ということなのだろう。
「はは、堪忍しい。ちょい、奥を借りるぜ」
佐竹は磊落に笑って店の中に入った。昌も後に続く。

不気味な「見世物」となっているのは、大きな板に赤い塗料を流した「大イタチ」だったり、大きな紙に「娘」という字を書いた「おおかみ娘」だったりと、苦笑せざるを得ないようなものばかりだった。
だが更に奥へ入ると、やたらに体が小さかったり、あるいは逆に人の倍ほどはありそうな大きな人間、手や足のない--たぶん生まれた時からなかったのだろう人間たちなどが檻に入れられていた。
それらの者たちは、目の焦点が合っておらず、ろくに言葉も話せないようだった。
「怖いか」
「いえ」
昌は首をふった。だが青ざめた顔をしていたのだろう。
「なら、かわいそうってか」
「…自分には、何も出来ないと…」
「…せやな。人間、分ちゅうもんがあるわ」
佐竹は少し黙って昌と同じように檻の中の『生き物』たちを見た。
それから肩をそびやかして、
「こっちや」
長い暖簾のような布が仕切り代わりになっているらしい部屋へと入った。

「あれ、佐竹の旦那、何か?」
部屋には店の主人らしい男がいた。
男の声は少し不安そうだった。
「あっちの方は、きっちりとさせていただいてると思いますが」
「ああ、いつもきちんとしてくれとって助かるわ。商売繁盛してるようで、結構やな」
「まあまあなんとか、ですよ。ご勘弁を」
二人は昌にはわからない、商売らしい話を続けた。
「今日はな、ちょい頼みがあるんや」
「へ、そりゃ旦那のお言葉でしたら嫌とは申しませんよ。荒事は無理ですがね」
「こっちかて、頼む相手は見るわい」

「へえ、この綺麗な顔に傷つけるんですかい。勿体ないですなあ」
店の主人は佐竹の頼みに驚いたようだった。
昌も少し驚いていた。
その頼みとは、昌の顔に傷をつける--もちろん、本当にではない。
見世物の舞台で使う、特殊な塗り物で、本当の傷跡らしく見せろというのだ。
(雷堂に、化けろというのか)
昌は不安になった。
諍いをしている本人の雷堂が現れては、鳴海はかえって逃げてしまうのではないか。
だがそう思って昌は、先日の出来事をふりかえった。
あの時鳴海は、雷堂だと思っていて助けてくれたのだ。
本当に嫌っているのなら、黙って去ってしまうだろう。
ならば、「雷堂」が困っているのを見れば、また助けてくれるはずだ。
佐竹はたぶん、鳴海と雷堂の諍いなどは知らぬまま、雷堂本人の方が鳴海を連れ戻せると思ってこんな計画を思いついたのだろうが、結局それで上手く行きそうな気がした。

***

「佐竹さん、手が…」
「ええから」
「でも、腰がこんなに」
「仏頂面をしていては、鳴海は出てこんぞ」

昌は困惑していた。
遊興街の向こうに伸びる遊郭の大通り。
その大門をくぐる時だ。
「ここからは俺の言うとおりせいや。鳴海を連れ戻すためやからな」
佐竹はそう言って、マントごと昌の腰を抱え込むように手を回した。
更には、体をぴたりと密着させるようにする。
「あ、あの…」
「けったいな顔すんなや。今はおまえは雷堂なんや」
「それは、わかっていますが」
「そしたらもっとくっついて嬉しそうな顔を…ああいや、そんなんしたらかえっておかしいわな、あの坊ンじゃ。普通に、くっついとれ」
そう言われても昌は戸惑うだけだった。
自分が雷堂だとして、なぜこの佐竹とこんな風に歩かなければならないのか。
一体これで鳴海を連れ戻す手立てになるのか。
(でも、ここでのことは、自分にはわかっていないのだからしょうがない…)
ゴウトたちの話を聞いてから来ればよかったか、と少し後悔したが、今ではもう間に合わない。

「いやあ、佐竹はん、宗旨替えなん?」
「あたしたちをお見限り、なんて嫌よ」
通りでも、建物の格子窓の向こうからも女性たちが声をかけてくる。
「そうあせるな。おまえらはこの次や」
女たちはきゃあっと嬌声を上げる。
「約束やで」
「そっちにはまったら駄目よお」
(そっち…?)
昌の困惑には構わず、佐竹は物慣れた様子で店の一軒に入り、店の人間の挨拶もろくに聞かずに二階へ上がった。
二間の座敷は手前に小さな卓と茶道具、座布団などが置かれ、奥の部屋は路地に面しているようだが、そこにはまだ夕刻だというのにもう布団が敷いてある。
不思議に思う間もなく、佐竹はそこへ昌をひっぱった。

「え?」
「え、やないわい。ここが何するとこか、知らんいうんじゃないやろな?」
佐竹は言いながら掛け布団を足で蹴り上げ、白いとはいえない黄ばんだ敷布の上に昌の体を倒し、のしかかるように押さえつけた。
驚きながらも、昌は答える。
「知っていますよ。男の人が、女の人を買うところでしょう」
佐竹は目をしばたかせた。
その顔は、昌の真上20センチも離れていない。
「それだけやないで」
そう言われて、昌は考えた。
(その他…?ああ、布団があるのだから)
「旅館の代わりにもなりますね」
佐竹は大仰に眉をひそめた。
なにやら情けなさそうに顔になる。

「ああ…もうええわ。ちょっと黙っとれ」
佐竹は掛け布団を引っぱり、二人の上に被せた。
昌の上に覆いかぶさったままである。
「これから、寝るんですか?」
「黙っとれ言うたろ」
佐竹は布団の中で上半身だけを少し起こし、昌のマントのボタンを外して前を開く。
制服のカラーと、一番上のボタンも開ける。
シャツの前も開いてしまう。
「……」
昌は黙っていた。
命令されたからではない。
一体何が起こっているのかわからなかったのだ。
だがそのすぐ後、事態は明らかになった。

佐竹が、露わになった昌の首筋に口をつけたのと、
「ここか?!」
という鳴海の声が響いて座敷の襖が開けられたのは同時だった。
佐竹の広い肩越しに昌の目に入ったのは、顔を真っ赤にし、髪が逆立ったようにすら見える鳴海の顔だった。
鳴海はそのまま二人の元へ走り、掛け布団ごと佐竹の体を昌から引き剥がし、蹴り出した。
「おおっと、探偵さん、手荒やねえ」
佐竹は油断していたものか、鳴海に蹴られるままに転がった。
昌も、とてもそんな力があるとは見えない鳴海の意外な行動にびっくりした。
鳴海は昌の方にふり向き、
「雷堂!俺へのあてつけはともかく、こんなヤクザとは許さん!」
厳しい表情で怒鳴りつける。
(あてつけ…?)
意味がわからず呆然としている昌に代わって佐竹が言う。
「こんなヤクザとはひどい言い草やな。職業差別はあかんよ」
だが鳴海は佐竹の言葉など聞かず、昌の腕を取って引き起こし、
「さっさと筑土町へ帰れ!二度とこんなところへ来るな!」
座敷から追い出そうとする。
このまま鳴海を逃がしたら、先日の二の舞になってしまう。

「じ…いや、我は」
今の自分は雷堂なのだと思い出した昌は、雷堂の話し方を真似して言った。
「我は、鳴海が事務所に戻るまでは帰らん。鳴海がいなければ、嫌だ」
雷堂はきっとそうなのだと昌は思った。
(そうでなければ、鳴海の名前の一字を取って自分につけるなど、するわけがない)
昌の言葉に、鳴海は目を見開いた。
掴んでいた指が腕から落ちるように離れる。
「…雷堂…怒ってないのか」
(怒る…)
昌は必死に、業斗と雷堂の言い合いを思い返した。
(業斗は、雷堂が怒っていると「思って」鳴海が帰れない、と言っていたのだから)
「怒ってなど、いない。鳴海は、まだ我を疎むのか」
昌の言葉に、鳴海は泣きそうな顔になった。

「雷堂、悪いのは俺なんだ。そんな風に言わないでくれ…」
昌は何と言っていいのかわからず、黙って鳴海の顔を見る。
「おまえとのことを遊びにしたかったのは、俺みたいなしょうもない人間に深入りしちゃ、帝都のサマナーたるおまえの将来によくないと思ったからなんだ。どの女や男とも、本気じゃない。本気になったのはおまえだけだから…」
鳴海の言葉はところどころわからないところもあった。
だが、
「鳴海は雷堂が好きなのだな」
わかったことだけを言うと、鳴海の顔はまた赤くなった。
「雷堂、そうはっきり…」

「違うのか?」
声を発したのはいつのまにか昌の後ろに立っていた人物だった。
昌がふり向くと同時に、鳴海が驚いたような声をあげた。
「ら、雷堂?ええ?」
そこに来ていたのは本物の雷堂だった。
頬に赤味がさしている。
だがそれは、怒りからではなさそうだった。
「鳴海、どうなのだ」
雷堂が重ねて聞く。
呆然としていた鳴海は、思い当たったという様子で昌を見て言った。
「そうか、君は昌君の方か」
「鳴海、答えてくれ」
雷堂が更に言う。
更に顔が赤くなっている。
(どうしよう…)
二人の間で落ち着かない気持ちになっていた昌の体が、横から引っぱられた。
佐竹が引いてくれたのである。
「馬に蹴られるで」
次の瞬間、鳴海と雷堂は互いをしっかりと抱きしめていた。

***

「やれやれ、やっと納まるところに納まったかいな」
鳴海と雷堂がさっきの佐竹と自分のように並んで行ってしまった後、前の座敷の卓の前に座った佐竹が笑いながら言った。
雷堂は、昌から鳴海が深川にいたと聞いてから、朝の始業前と夕方の終業後にその姿を求めて歩いていたのだという。
そして先程やっと鳴海の姿を見かけ、後をつけたのだった。
鳴海は鳴海で、遊女たちから「佐竹が雷堂を連れて店に入った」と聞き、駆け込んできたのである。
佐竹はそれが目的で、人々に昌と自分を見せつけるように歩いたのだった。
「あの探偵さんと書生さんの仲は知ってたからな、話聞いたら絶対カーッとなって飛び込んで来よると思ったんや」
二人は別の部屋で「もう少し話をしてから」筑土町に戻るという。
昌には悪いが、遠慮せず先に帰ってくれということだった。

(本当はあんなに仲が良いのに、喧嘩をしていたのだから、話したい事も沢山あるのだろう)
昌が言うと佐竹は吹きだし、
「ああ…もうおまえはそれでええわ」
涙を流さんばかりに笑っている。
不審に思う昌がその顔を見ていると、
「もうその変装はええやろ。顔洗って来いや」
佐竹に言われて、昌も自分の顔のことを思い出した。
洗面所に行き、石鹸を使って塗り物を落として部屋に戻ると、佐竹はあらためて昌の顔を眺めた。

「向こう傷も男らしくてええが、やっぱりそのお人形さんみたいな顔が可愛らしくてワシはええなあ」
「そうですか?」
帰ろうとマントを羽織ろうとすると、佐竹の手がその裾を引いて止めた。
「…?」
「そう急かんでもええやろ。ワシは完全にそっちいうわけやないが、おまえみたいに綺麗な坊ン見てると、ちょっとムズムズするんやわ」
「……」
昌はまた意味がわからなくなって、黙っている。
「声も好みやしな。ちょっと、啼き声聞かせてくれんか」
「何もないのに、泣けませんが」
「ええから」
佐竹は言って昌の腕を引いた。
(あっ)
昌は思わずその力に逆らった。
靴下が畳を滑り、体のバランスが崩れた。
卓の角が目に入り、昌はよけようと顔をそらした。
昌が覚えているのはそこまでだった。

***

気がついた時、そこは見知らぬ部屋だった。
懐かしさというようなものもない。
日本旅館のような板天井、薄暗い照明、剥げかけたような壁。

「大丈夫か?」
ぼんやりしていると、男が声をかけてくれた。
「佐竹さん」
(だが、大丈夫…とは?)
起き上がろうとすると、頭が痛む。
(転んだのだろうか)
「すまん、ちょいテンゴが過ぎたな」
佐竹は神妙な顔をしている。
「頭打ったやろ。ここ、額んとこや。一応冷やしたけど、跡にならんとええが」
言われて額に手をやると、濡らした日本手拭いがかかっている。
「大丈夫です。すみません」
切れたりはしていないようだ。
しかし、ここはどこなのだろう。
佐竹がいるのだから、深川のどこかなのだろうが…

「ゴウトは」
「ゴウト?」
「黒い猫です」
「そんなんは見てないけどな」

いつも一緒にいるはずのゴウトがいないとは妙だが、捜査の都合で別れたのだろうか…
「あっ!」
捜査、と思って思い出した。
桜田山に聳え立つ異様な塔の上での闘いの後、自分たちはダークサマナーの強力な術で時空の狭間へと飛ばされ--
「どうしたんや」
「こ、ここは」
急いで体を起こした。
「頭打っておかしなったんか?深川の先の遊郭やないか」
遊郭ならば来た事はある。
外の大通りを歩いただけだが、ここはその建物の一つなのか。
自分は無事帝都に戻ったのだ。
だがゴウトは?

(まさか、時空の狭間に置き去りに)
頭から血の気が引いていく気がした。
「顔色悪いで。ほんま、大丈夫かいな」
「帰ります」
言って立ち上がり、部屋を出た。
「ほんま、すまんかったわ。冗談やからな」
佐竹の声を後に、ライドウは建物を出、駅への道を走った。

市電は最終電車が出たところだった。
ライドウは走って追いつき、ステップに飛び乗った。
「学生さん、無茶しちゃいかんよ。あんた、こないだもやったろ。怪我するよ」
(この間?いつだろう…捜査で夢中になっていたのだろうか)
「すみません、気をつけます」
呼吸を整えながら車掌に謝り、電車賃を払う。
筑土町までの短い時間が、いつまでも終わらない無限の時のような気がする。
「筑土町、筑土町」
やっと着いて止まった電車から降りつつ、もう足は事務所の方へ走りかけている。

「本当にせっかちなヤツだな。少しは落ち着け」
足元から懐かしい声がした。
「ゴウト、よかった」
「遅いし、パーラーにもおらぬから、また勝手にどこかへ行ったのだと思い、時々停留所に見に来ていたのだ。雷堂は一緒ではないのか」
「ライドウ?他にライドウがいるのか?もっともゴウトはいつも自分を本当の名で呼ぶが…」
ゴウトははっとしたような表情になった。
「戻ったのか、記憶が」
「記憶?」

多聞天に行き、「業斗」に会ったライドウは、二人の業斗童子から想像もしなかった話を聞かされて驚くしかなかった。
「まったく、覚えていないのか」
聞かれて思い出そうとすると、なんとなくおぼろに浮かぶことごとはある。
「もう一人の自分…顔に傷があった」
「うむ、雷堂だ。しかし、こう遅いとは一体どこに行っているのか。てっきりおまえと一緒かと思っておったが」
任務のない日は、学校で部活動があったにしても、夕刻までには帰るのが日常だ。
急に何か、事件に巻き込まれたのかもしれない。
自分にもそういうことはあった。
「そういうことかもしれんな」
「サマナーとしての腕は立つのだから、そう心配することもあるまい」
業斗たちは、そんなことを言い合った。

三本の角柱は揃ったのだから、後は神社に行くだけである。
だがその儀式には送り出す側に力のある術者が必要になる。
「それは十四代目葛葉雷堂をおいてはいないだろう」
業斗はやや誇らしげに述べた。
「では今宵はひとまず休むとするか」
ゴウトの言葉にライドウもうなずき、三人は小部屋で眠りについた。
夢の中でライドウはもう一人の自分を見た。
顔に傷のあるその男は、誰か別の男の腕の中で幸せそうに眠っていた。
それはライドウには関係ない、違う世界の話だった。
(帰ったら…また、闘いが始まる。超力兵団計画…阻止しなければならない)
ライドウは、これが最後になるのかもしれない束の間の休息を味わっていた。




-the end-





prev. -1- -2- -3- -4-