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「なんだ、それは」
「だから、鳴海さんが…」
「そんなものはいらん。所長が留守のまま事務所を開けたところで意味はないではないか」

業斗の態度からも予想はしていたが、鳴海から預かった金のことを言って渡そうとすると雷堂は激怒した。
顔が真っ赤になり、刀傷がひときわ盛り上がっているようにすら見える。
「だが雷堂、昌を巻き添えにしてここで暮らさせるのは気の毒だろう」
業斗が逆になだめにかかる。
「なら昌は鍵を開けてもらって我の部屋を使えばいい。我はここで過ごす」
「雷堂…」
業斗は溜息をついた。

「鳴海も悪いとは思っているのだ。だからおまえが怒っていると思って帰れずにいるのだ。おまえが金を受け取って事務所に戻っていると知ればたぶん…」
「悪いと思っているなら、なぜ自分で謝りに来ない。鳴海こそ我を疎んじているのだ。業斗はあいつの味方ばかりするが、そんなのは業斗が想像していることだけだ」
昌がいるので言葉は抑え気味なのだろうが、それにしても相当に根深い問題らしい。
(鳴海もヤタガラスに関係があるらしいのだから、たぶんかなり昔からの知り合いなのだろう。長い間に積もったこじれのようだ…)
雷堂と業斗の言い合いを聞いているとそんな気がしてくる。
そう考えて、昌はふと不安を覚えた。

自分には関係のないことと思っていたが、もし、自分も元の世界で同じように鳴海と諍いをしていたとしたら?
そしてその言い争いがこの忘れ病につながっていたら…
精神的な問題が原因だとしたら、いつまでも治らないのではないか。
(いや、そんなことよりもまず試練を完遂することだ…)
昌は疑念をふり払うように立ち上がった。
「銀座町の異界に行ってきます。町の様子もわかったし、一人で大丈夫です」
「おい待て昌、もう日が落ちたというのに忘れ病の身で一人歩くのは」
業斗が今度は昌の方に首を向けた。
「異界には昼も夜もないのでしょう。それならば早い方が」
「それはそうだが…」

「そう心配するな。俺も同行する」
小部屋の入り口の下の方から声がした。
「何?」
業斗が鋭い声を出した。
その声は業斗と寸分違わない声だったのだ。
そして現れたのはその姿も業斗とそっくり同じの黒猫だった。
「俺のことをまったく心配してくれない、なんと冷たいヤツかと思っていたら、どうやら頭の具合がいかれていたか」
黒猫の言葉に昌はなかなか返事が出来なかった。
(ええと…この業斗とそっくりということは、この猫はつまり…)

「なるほど、おぬしがこの十四代目の目付け役か」
業斗の方が理解が速かったようだ。
「お互い、苦労しているようだ」
黒猫は笑った。
「俺もゴウトと呼ばれるが、別名は特にいらんぞ」
「おぬしも一緒にこちらの世界へ来ていたのか?それならなぜ…」
「この世界に入る際、何か衝撃があった。空間の乱れのようなものにぶつかりでもしたのだろう。それで、少し離れた場所に出てしまったようだ。同じ町内ではあったが、なにぶん猫の足では探し回るのに時間がかかってな…で、こいつの方は頭でも打って記憶を飛ばしたというところだろう」

猫とはいえ、十四代目たちよりはるかに実年齢は高そうな目付け役たちの会話に、昌も雷堂も加わる隙はなかった。
(自分が何か言っても、混乱するだけだな)
現れたゴウトの話によると、昌たちはある任務の最中、敵の術にはまって時空の狭間に飛ばされたが、意識を集中してなんとか元の世界に帰ろうとしていたのだという。
「それが、完璧には行かなかったということだ」
ゴウトは少し悔しそうに言う。
「任務の方の詳細は、よその時空で語るべきことでもないゆえ秘させてもらおう」
「うむ、その方がよいな。この昌から洩れる心配はないし」
「昌…か。まあライドウと呼ぶよりは混乱を招かずにすんでよいか」
黒猫はまた笑った。
「じゃあ神社へ行こう、ゴウト」
「せっかちなところは変わっとらんな」
まだ少し心配そうにこちらに目をくれる雷堂と業斗に昌の足元のゴウトは、
「俺はこちらの世界はあまり歩いていないとはいえ、向こうではあちこちの異界にも入っている。もちろん銀座町もだ。こちらが遅くなるようなら、かまわず先に寝てくれ」
その口調にはサマナー目付け役としての貫禄があふれていた。

「すまない」
多聞天を出るとすぐに昌は言った。
「何がだ?」
ゴウトが訝しげに尋ねる。
「あの雷堂に業斗という目付け役がいたのだから、自分にも同じ役割の者が身近にいるのだと察して探すべきだったのに」
「記憶喪失なのだから仕方あるまい。なぜここにいるのかもわからん状態で」
「だが、心細かっただろう。猫の身で…」
「猫、猫と言うな。おまえよりはよほどしっかりしておるわ」
「そうだな」
素直に認める昌に、ゴウトは苦笑した。
「まあ、こうしてまた一緒に歩けるのは安心だ。それよりちゃんと電車賃は持っているのだろうな?少し、貸しがあるぞ」
「えっ、いくらだ?」
「相変わらず、冗談のわからぬやつじゃな」
ゴウトは笑いながら前へ出る。
昌はこの世界に来て、はじめて心からくつろげる気分になった。

***

「で、憂いごとはなんだ」
「あ…」

不意に聞かれ、昌は言葉につまった。
銀座町で守護者スサノオと相対し、見事に闘いおおせて火の角柱を預けられた後である。
異界から現世に戻れる通路を使って神社へ戻ったところだった。

「ちょっと、そこに座れ。話が長くなっても一晩野宿するくらいは慣れたことであるし」
(遅くなったら先に寝るようにと言ってきたのはこのことも考えてか)
昌はあらためて目付け役の知恵に感心し、枯れた手水鉢の脇石に腰を下ろした。

「まずは先程の闘いぶり、誉めておこう。見事であった。記憶を失っていることなど聞いていなければ信じられぬ動きだった」
「体で覚えていることだからだろう」
「だろうな。だが完全にいつもと同じ動きとは言えなかった」
「……」
「時折、迷う動きが出た。意識せずとも心に濁りがあって自ずと現れる類のものだ」

言われて昌は目を落とした。
「まだこの先二つの試練が待っているのだ。よそ心を持ったままでは無残な結果に終わるかもしれぬのだぞ。言ってみろ」
黒猫の翡翠色に燃える瞳が厳しく昌を見つめている。
「鳴海さんのことが…」
「鳴海?」
黒猫は目を丸くした。
そんな返事は予想もしていなかったらしい。
「ゴウトが来る前、雷堂と業斗が言い争いをしていて」
「それは俺もかなり聞いていた。姿を現すによい折を待っていたのでな」
ゴウトにはそんな芝居っ気もあるらしい。
「いや、それで鳴海と何の関係があるのだ?」
「聞いていたならわかるだろう。鳴海と雷堂には深い確執があるのだ。自分も鳴海とそんな関係だったのなら…」
そうだとしたらどうなのか、わからぬままに昌はそんなことを口走っていた。
黒猫はやっと得心がいったように昌を見た。

「ああ、そういうことか」
「どうなのだ、ゴウト。自分は…」
「俺がわからなかったというのがその答えだ」
(?)
黒猫の凝った言い回しは昌にはぴんと来なかった。
呆けたような表情をしていたのだろう。
黒猫はいつもの笑いを浮かべた。
「俺たちの世界の鳴海とおまえは、ごく普通の上司と助手だ。実際普通よりもうまくいっているくらいだろう。少々だらしないところはあるが、家賃は今のところきちんと払っているし、おまえのこともちゃんと気を配っている」
「……」
「だからおまえがそんな心配をしているなどとは、まったく想像もしなかったということだ。わかったか?」
昌は安堵してうなずいた。
「では、筑土町に戻るか?少し遅い時刻ではあるが…」
「今夜はもうここで寝よう。その方がいい」
「そうか」
昌の言葉にゴウトも強いて反対はしなかった。
昌は黒猫を自分のマントの中に抱え込み、膝を立てた。
猫の体の温かさが瞬時に眠りに誘ってくれるようだった。

***

翌朝、昌とゴウトが多聞天に戻ってみると雷堂は既に登校した後だった。
「剣道部の朝錬があるとかでな。体を動かす方が好きなやつだから」
前と同じく回廊の板の間で寝そべっていた業斗はそんなことを言った。
「それは、うちのも同じようだ」
ゴウトが笑う。
「その笑いでは、第一の試練は余裕で突破したようだな。同じ十四代目の力量を持ってすれば軽い手わざであったろう」
「…まあ、そうだな」
褒めているようで自画自賛のような業斗の言葉に、ゴウトは苦笑した。
「後は晴海町か桜田山という話だったな。俺たちはどちらもあまりなじみが無い場所だが…」
「そうなのか。そこら辺は少し違っているようだな。こちらは、どちらも既に任務に関連して行っている場所だ。このライドウには目新しく映るであろうが、俺がいれば大丈夫だろう」
「早速行ってくるか?」
「昌、どうだ?」
昌はうなずき、二人はまた一眠りしようとしているらしい業斗を後に門へ向かった。
だが門を出た昌はまっすぐ駅には向かわなかった。

「昌?」
「忘れていたが、こちらの鳴海さんからお金を預かっていた。家賃の足しにということだ。雷堂は戻る気はないというが、大家の人には払っておいた方がいいと思う」
昌が言うとゴウトも、
「たしかに、変な意地の張り合いで事務所を追い出されるなどということになっては『ライドウ』の名前に傷がつく。異なる時空のことであっても、歓迎すべきことではないな」
賛成して、二人は事務所へと通じる路地への石段を下りた。
大家の女性は昌が金を渡すと、すぐに鍵を開けてくれた。
「しょうがないわね。まあ払ってくれる気があるのなら待ちますから、残りもなるべく早くお願いね」
「はい。鳴海もご迷惑をかけて大変申し訳ないと謝っておりました」
「あら、そうなの?いやあね、いいのよ、わかってくれれば」
ゴウトに教わったままの形式的な詫び科白に、大家は上機嫌で去っていった。
「こちらの鳴海も、女受けはいいようだな…」
ゴウトが呆れた様子で呟いた。

「どうする昌、中に入ってみるか?」
「だが、他人の…」
昌は逡巡したが、
「たぶん、中の様子も向こうと同じだろう。何か思い出す手がかりがあるかもしれんぞ。違うところがあれば、俺が教えてやる。私室に入る必要はないだろう。事務所だけ見てみればいい」
ゴウトに言われると、見ておいた方がいいと思えた。
扉を開けて足を踏み入れた瞬間、
(あ…)
懐かしい感覚に襲われた。
窓から入る光、部屋にしみついた匂い…
(そうだ、自分はここにいた…)
足がひとりでに、数段の階段を下り、隅に向かう。
(いつもここで…窓の方を見ていた。あそこの机の前には…)
昌が窓の手前の大きな事務机に目をやった瞬間、ベルの音が響いた。
「はい、鳴海探偵社です」
考える前に昌の体は机に走り、電話の受話器を取って耳にあて、送話器に向かってしゃべっていた。

「雷堂?」
受話器の向こうの声は鳴海だった。
「雷堂、戻ってたのか。よかった」
「あ…」
鳴海は電話に出ているのが、あの雷堂だと思っている。
二人の声は同じなのだから、ここで電話を取る者がいれば雷堂だと思うのが当然だ。
(どうしよう…)
「昌、どうした?」
「ああ、業斗も一緒なんだな」
猫の声なら尚更鳴海には区別がつくまい。
「あ、あの」
「とにかくおまえがちゃんと部屋に入れたことだけ確認したかったんだ、じゃあな」
電話はそこで切られた。

「昌、何か依頼か?」
「鳴海さんだった」
「む…」
ゴウトは眉根をひそめた。
「昌」
机に飛び乗り、昌と近い位置で目を合わせる。
「電話に出てしまったのは習性だろうが…」
「考えなしだった」
「それはいい。だがおまえはまだあの二人のことを気に病んでいるな」
そんな風に言われて昌は反発を覚えた。
「それは…でも、世話になった人間だし、何よりも自分の分身のようなものだ。雷堂こそ、そんなわだかまりを持っていたら任務に支障をきたしてしまう。そうなれば、あの業斗だって悲しむ」
昌はなんとか自分の思いを口にした。

雷堂もそのようだが、自分も言葉を巧みに操るなどということは苦手らしい。
だが、このことだけはどうしても伝えなければと思った。
ぶっきらぼうさの中に優しさを見せる雷堂も、チャラチャラしてはいるがどこか淋しげな鳴海も、ほっておけない気がする。
会ったばかりとはいえ、自分でも口にしたようにほぼ写し身の分身と、記憶はないながらも親しんでいたはずの人間の分身に対して自然に湧く好意のせいなのだろう。

「…確かにそうだな」
ゴウトは考え込むような顔つきになった。
昌は更に続けた。
「長い確執が、自分が何かしたからとすぐに解決出来るとは思わないが、何か出来ることがあれば助力したいだけだ。試練の間は気を散らさないことを誓う」
ゴウトはしばらく昌の顔を眺めていたが、やがて口元をほころばせた。
「ではまず、その誓いを守ってみせることだ」
言って机から飛び降り、扉へ向かう。
「行くぞ」
「はい」
昌はすぐにその後に続き、二人は神社へと向かった。

***

「それで、私に問いあらためたいこととは何なのですか、異なる時空の業斗童子」
ヤタガラスの使者は不思議そうに尋ねた。
二つ目、晴海町の異界での試練も無事済ませ、神社へのみ通じる空間の裂け目を通って戻った後、ゴウトは昌に命じてもう一度使者を呼び出させたのである。
聞いておきたいことがある、というのがその理由だった。

「はじめは、いかに腕の立つ十四代目といえ、若い身で記憶を失ったまま一人知らぬ土地で動くことを危ぶんでおりましたが、お目付け役のあなたもこちらにいらしていたと知り、こちらが心配をするなど僭越なことと思っておりました。見れば既に二本目の角柱を入手された様子…」
使者の言葉は流暢だ。
(このように、しゃべれればよいのだが)
昌はそんなことを考える。
「手数をかけてすまぬな。もちろん試練に関しては、この十四代目もこちらと同様心配は要らぬ。聞きたいのは、別のことだ」
「はい…?」
使者はますます不可解だ、という表情になる。
もっともその顔は頭巾の下の唇くらいしか見えないのだが。

「鳴海のことだがな」
昌はどきりとした。
ゴウトが何を聞こうとしているのか、知らなかったのだ。
「鳴海が何か?ご迷惑でも…」
「いや、そういうことではない。ただ…向こうでは鳴海と我らは、十四代目が襲名を果たし、帝都に出た時に初めて顔を合わせた関係だが、こちらでは違うのだろうか?」
「いえ…ヤタガラス自体とは昔からつきあいのある人間で、色々と役に立ってもらっていましたが、十四代目と会ったのはやはり襲名後ですから、一年にもならないでしょう」
「ふむ、少しばかり時の進みが違うだけで、経緯は同じようだな…いや、確認しておきたかっただけで、多少の違いはたいしたことはない。下らん用件で呼び出してすまぬ」
「いえ、これも務めですからいつでもご遠慮なく」
使者は優雅に微笑んで去った。

使者の姿がなくなると、昌は早速聞いた。
「なぜあんなことを?」
「わからぬか」
昌は首をふった。
ゴウトの質問の意図がまったく不明だったのである。
(鳴海さんの名前を出すのなら、もっと何か役に立ちそうなことを聞いてくれるのかと思ったのだが…)
と言って、どんな質問が役に立つのかは昌にもわからない。

「おまえが、あの二人の喧嘩を長い長いというから、俺たちとは違うつきあいなのかと思っただけだ。だが、おまえの方が長いくらいではないか」
言われて昌は気づいた。
「ああ…」
「おまえの記憶があれば、また違ったろうが」
しかし、ただお金のことなどで怒っているのではないというなら、なぜあのように雷堂が深く怒るのか。
あんな風にこじれるのは、長いつきあいゆえではないのか。
昌が言うと、ゴウトは妙な表情でしばらく昌の顔を眺めた。
(なんだか、ここへ来てからこんな顔でばかり見られているような気がするな)
「ゴウト?」
「短い間でも、こじれる時はある」
「それは…」
どんな、と聞こうとする昌にゴウトは、
「わからぬことには手を出さぬことだ」
言って、参道を門の方に歩き出した。




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