当面会合や夜会の予定が入っていないのでしばらくはのんびりできると思っていた成沢はその日の午後、急に川地に呼び出されて少々あせることになった。
以前欠席の返事をしていた夜会に、気を変えて出席することにしたという。
ふさわしい衣装の用意がなく、家に着替えに戻るのも面倒なので一式を揃えて持ってくるようにとの命令だった。
(昨日あのお稚児さんを連れていったんだから、三日くらいはかかりきりになると思ったんだがな。長期戦で、ゆっくり仕込むつもりかね)
だが成沢が料亭に着いた時には少年の姿はなかった。
もとより常に不機嫌そうな顔の主人は、今日はいっそうその度合いが深い。
(諍いでもしたか。稚児と呼ぶには少々薹が立っているし、そういうなりわいでもないのだから、気にそまぬことがあれば黙ってはいないだろう)
腹のうちではそんなことを思いつつ、顔には何も出さぬようにして成沢は川地の着替えを手伝った。
離れの格子戸を開けて表へ出ると、急に空の色が暗くなってきていた。
「この薄物では、まだ早かったですかな」
成沢は案じて言ったが川地は、
「車に乗ってしまえば気にならん。向こうはどうせ人だらけで暑くてかなわんのだ」
いつもの調子で門へと向かう。
二人が後部座席に座った時、
「おや、あれは」
エンジンをかけ、車を動かそうとしていた運転手がバックミラーを見て言った。
後ろをふり向くと、例の少年がこちらへ走ってくる。
マントも羽織らず学生服姿であるが、背の高さ、長い足で走る独特な姿ですぐにそれと知れる。
「ご主人様…」
川地も同じようにふり向いた。
だがエンジンを止めろとは言わない。
少年は川地の横の窓から何かを言っている。
川地は仕方なさそうに窓を少し開けた。
「…自分のせいなのでしょうか」
いきなり聞こえたのはそんな言葉だった。
「未熟で、おぼつかない点が多く、お怒りになられるのももっともですが…」
川地は答えずにいる。
少年の方に顔を向けることすらしない。
(よほど、腹に据えかねたのか。まあずっと、誰にもそむかれることなどなかったお人だからな)
「それならばどうかお怒りは自分に…ヤ、いえ機関の方へのご援助はお続け下さるよう、どうか…」
ふいと、成沢からは少年の姿が見えなくなった。
必死な声だけが聞こえてくる。
(土下座しているのか。援助…だと?なるほど、わけありだったか)
「自分のような者が在籍するところなどそれに値せずとおっしゃるのでしたら、自分は今すぐこの任を辞します。ですから…」
「馬鹿を言うな」
川地がはじめて声を出した。
窓をいま少し大きく開けて少年の方に顔を出し、
「下らんことを言うな。おまえが辞めようがどうしようが、そんなことは関係ない。馬鹿を言ってないで帰れ」
それだけ言って窓を閉め、
「さっさと出さんか。遅れる」
前を向いて運転手に言いつける。
運転手は少しの間逡巡したようだが、命には逆らわず、ゆっくりと車を前進させた。
「もっと速く走れ。遅れると言っただろう」
運転手は言われるまま速度を上げた。
川地は腕組みをして目をつむり、深く座席に座り込んだ。
成沢がこっそりとバックミラーに目をやると、まだ地面に膝をついたままの少年の姿が映っていた。
***
夕刻から降り始めた雨は夜半にもまだ続いていた。
強くはないが、しとしとと、止むようで止まぬ、うっとおしい降りである。
(成沢を帰すのが早すぎたか)
珍しく夜会の終わりの時刻までつきあったので、帰り際成沢には俥代をはずんで帰らせたのだが、自分が車を降りてから料亭の離れの玄関までの短い距離を濡れるのがうっとおしい。
そんなことを思う川地は、また、
(贅沢になったものだ)
と自分を嗤いたくもなる。
石畳を小走りに進むと、脇の石灯籠の後ろに人影が見えた。
「誰だ?」
一瞬少年かと思い、血が熱くなるのを感じたが、その姿は川地よりも更に小柄な人物であった。
「突然何のご挨拶もなく伺いまして申し訳ございません」
黒ずくめの着物の若い女のようだった。
顔の大半をやはり黒い頭巾でおおっている。
「当方には喫緊の事案でございましたので、失礼を省みず訪わせていただきました」
もの柔らかで慇懃な口調が少年のものとそっくりである。
「カラスとやらのお方か」
川地が聞くと女は、紅というより薄紫がかった唇の両端だけを上げる笑い方をする。
「お時間は取らせません。昼過ぎ、当方の者がこちらに参ったかどうかをお尋ねしたいだけで」
「…来たことは来たが、すぐ帰ったぞ」
「帰る、と申しましたか」
川地は嫌な予感がした。
「立ち話もなんだ。入れ」
「では、お玄関先お借り致します」
女は川地の横をすり抜けて玄関に入り、沓脱石の脇に立った。
「濡れておりますゆえ」
座敷に上がらず、座りもしないということらしい。
川地はどうしたものかと思ったが、結局自分だけ板床に腰をかけた。
(どうもこういう、西の風というのか、本音を言わずそのくせ、上辺だけは気遣いをしておりますと見せるのが礼に適っているとする習いは、性に合わぬ)
女は静かに立ったまま、川地が口を開くのを待っている。
「帰る…と、聞いたわけではない。帰るところも見てはいないな」
「参って、お目にかかりましたことは確かなのですね」
「確かだ。だから、何なのだ。すぐ帰れと言った。ちゃんと帰ったのだろう?」
「それが、戻っておりませぬゆえ」
川地は立ち上がった。
「どこへ行った」
「それがこちらも知りたいところですので、こうして」
「……」
川地はもう一度腰を下ろした。
女はそのまま、また静かに待っている。
「…援助を打ち切ったのは自分のせいかと聞いてきた」
「肯とおっしゃったのですか」
「そうは言っておらぬ。出がけだったので、気がせいていた。返事はしなかった」
「それだけですか」
「自分がいることのせいでなら、辞めると言った」
「そのように申し付けられたのですか」
「馬鹿な」
川地はつい怒鳴ってはっとしたが、女の方は少年とは違ってたじろぎはしなかった。
表情も変わらず受け流す風である。
「おまえが辞めようが辞めまいが関係ないのだからさっさと帰れ、と言った。それきりだ」
「…自分から、辞めると申したのですね」
「だからそれは、援助を続ける条件としての話だ。そんなことをさせようとは思っていない」
女の表情が少しだけ固くなった。
「はばかりながら、当方の者が自ら辞意を口に出しておいて、条件次第でそれを翻すなど許されぬことでございます。若輩とはいえ十四代目もその程度の矜持は持っております」
「何…だと?」
川地は女の言葉を理解して、愕然となった。
(自分のせいで機関に損失を与え、さらにその任を賭けても失策を取り戻せなかったと思い込んで失踪したと、そういうことなのか?)
「事情はわかりました。お手間を取らせまして申し訳ございません」
女は頭を下げ、出て行こうとした。
川地は思わずその肩をつかんで止めようとしたが、女は目にとまらぬ動きでそれを避けた。
「まだ、何かお話し下さることがおありでしょうか」
変わらぬ表情で静かに言う。
「まさか、このまま捨て置くわけではないだろうな?あれには、何の責任もないのだ。探して、元通り任につけてやるのだろうな?」
「……」
女は黙っている。
部外者には教える必要がないと思ってのことか、「否」の返事を表しているのか、どちらともわからない。
「探すのならこちらも手を尽くす。金ならいくらでも出す。人を集め、新聞とラヂオに毎日でも広告を出し…」
「おやめ下さい」
女はきっぱりと言った。
「こちらには、こちらの探し方というものがございます。世間を騒がせるようなことがあっては、本当に戻れなくなります」
ならば探す気はあるし、元の位置につけてもやるということなのだ、と川地は安堵した。
「もし金が入用だというのなら、また…」
「ご心配いただき有難うございます。また何かご縁がございましたら」
女は再び優雅に微笑んで玄関を出ると、闇に溶けるように姿を消した。
川地にも女の言葉が「二度とお会いすることもないでしょう」という意味であるくらいは理解できた。
今更のように、雨音が聞こえてきた。
***
雨の音と共に水の流れる音が聞こえていた。
どこかの掘割のようだった。
どこの町かは暗くてわからない。
どのくらい歩いてきたのかわからなかった。
色々な考えが浮かんでは消え、それを落ち着けるためには体を止めていては駄目だという気がした。
だがいくら歩いても頭の中は静かにならなかった。
時折ひときわ強く浮かぶのは、
(もう、会ってはいただけないのだ)
という思いだった。
使命を全うできず帰る場所を失くしたことよりも、そのことの方が胸を痛めるのは何故なのか、少年にはわからなかった。
気がつくと、掘割を正面に立っていた。
水の中から声が聞こえる。
(そう、あんたは捨てられたのさ)
知らない女の声だ。
(いいように遊ばれて、用がなくなりゃそれまで。かわいそうな玩具)
違う…あの方は、優しい方だった。
(それは上辺だけのこと、男はみんなそういうのは上手)
あの方は、そんなのじゃない。表面は厳しくしていらした。でも、心のうちはお優しい方だった。
(だったら、捨てられたのはあんたの心がけが悪いんだね)
そうだ…優しくしていただいたから、つい心得違いをしてしまった。
自分がお願いすれば聞いていただけると、自惚れて。
何一つ満足にできなかったのも忘れて…
(かわいそうな子。何もかも忘れたいだろう?)
忘れてしまいたい…できるものなら。
(忘れさせてあげる)
どうやって?
(簡単なことだよ。あたしのところへおいで)
水面がざわざわと波打っている。
それは人の形となり、両の腕がさしまねくように広がった。
(おいで)
そこへ行けば、静かになるのか。
(静かで、ゆっくりできるよ)
もう、重い足をひきずって進まなくてもいいんだ。
(疲れたよね。もう大丈夫)
これ以上、何も考える必要はない…
「--!!」
(えっ?)
母親が自分を呼ぶ声がして、少年はふり向いた。
だがもちろん母親の姿はない。
少年が幼い頃に亡くなったその人が、今この帝都に現れるはずはない。
そこにいたのは、十になるかならぬかという禿髪の少女だった。
笠のついた小さなお手燭を持っている。
「お兄ちゃん、危ないよ。川に落ちちゃうよ」
「あ…」
少女は少年の制服の裾をつかんでいる。
「こっちに来ないと、危ないよ」
少女は裾をひっぱり続け、少年が十分に水から離れるまで放そうとしなかった。
(待ちなさい、馬鹿な真似を)
女の声は怒りを含み、水は渦を巻いて躍り上がり、二人に襲いかかった。
「駄目だってば!」
少女は燭台の蝋燭をその水に投げつけた。
水はうなり声のような音と共に光って弾け、水面は元の流れに戻った。
「--!」
遠くから今度は本当に自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
「ゴウト」
暗闇の中、翡翠色の目が光り、黒猫はまっすぐに少年の元へ走ってきた。
「無事だったか」
問われて少年は今自分が魔に魅入られようとしていたことに気づいた。
「この子に助けられた」
黒猫は不思議そうにあたりを見回した。
「どの子だ」
少女の姿はどこにもなかった。
(守っていただいた…母上…?)
「何があった」
「この間の魔だった。最後のあがきで道連れにと惑わされかけた…」
言いながらも少年は、魔とかわした言葉は真実ではあったのだと思っていた。
(あそこへ行ったらこの頭と心の騒ぎはおさまったのかもしれない。しかしそれは選んではならぬこと…)
黒猫は少年の顔をしばし見つめ、
「風邪を引くぞ。早く帰って生姜湯でも飲め」
と、表通りへの道へ向かった。
少年は黙ってその後に続いた。
***
それからしばらくは変わらぬ日々が続いた。
少年はできもののように現界に出現する小さな魔を退じ、学校に通い、事務所の雑用を片付けた。
神社に行き、定期的な報告をし、使いなどもした。
学校以外の用事は業斗も一緒である。
市電の乗り場で電車を待っている間など、少年は自分の中に焦点を当てているような目をしていることがあった。
以前にはなかったことだ。
だが業斗はそれについて少年に何か言うようなことはしなかった。
少年が戻らなかった夜、老人に会ってきた使者から話を聞いて、大方の筋は察していた。
(いつからどうして、ということはわからぬが、とにかくどちらも相手のことを思うようになっていて、またどちらも、相手が自分を思っているとは考えなかった。老人の方はこいつが機関のために自分の贄にされ続けることを止めようと関わりを打ち切る決心をし、こいつは自分がまずいことをして愛想を尽かされたと思い、せめて機関には損をかけないようにと望み、そのことでまたかえって拒否されるということになった…)
仕様のない成り行きだった。
(それを今更蒸し返しても、どうにもなるまい)
老人の方は、少年が本気と知れば余計に自分のために将来ある若者を犠牲に出来ぬと考えて離れようとする、そんな心持の人間に思えた。
だが少年の方は、相手が受け入れていると知ればますます思いつめ、深入りをして本当に御役御免にもなりかねない危険がある、と思う。
そんなことを見過ごすわけにはゆかぬ。
これで終わりにするのが、誰にもよいことなのだ。
(若いのだ。じき忘れる…)
それは確信と言うより願い、祈りのようなものであった。
人の心に生まれた思いというものは、ある時は消えたように見えても突然姿を現す魔のように、隙をうかがいながらその奥深くをくり返し流れ続ける地下水脈だと、業斗は知っていた。
「ゴウト」
珍しく、少年が自分から呼びかけた。
事務所で留守番をしている時である。
鳴海は情報集めと称して出て行ったが、どうせカフェーかミルクホールでのんびりしてくるのだろう。
「どうした」
「昨日、学校の帰り、門に秘書の人がきていた」
「成沢が?」
業斗は緊張した。まさか老人が未練を出して誘いでも--
「これを渡して帰った。手紙がついていた」
少年は渡された品ともども、学生服のポケットから出して業斗に見せた。
まったく屈託のない様子である。
品は絹のハンカチだった。高級品ではあるが、特に変わったものではない。
手紙の方は和紙一枚に、短い文章だった。
老人の手蹟なのか、なんとはなしにゴツゴツした体の字だった。
(古びた布よりこちらの方が似合うと思い贈る。体に気を付けて怪我などせぬように。)
「……」
業斗はなんと言ってよいのかわからず、少年の顔を見た。
少年も何を言うべきなのかわからないらしい。
黙ったまま、業斗を見ている。
そのうちに、目から涙が溢れた。
少年はそのことに気づいていないようにすら思えた。
(終わったのだ…)
白い頬の上を一筋、静かに流れる涙を見ながら、業斗は祈りがかなえられたことをかすかな後ろめたさと共に感じていた。
the end