「そんな、無茶ですよ、それは」
……
「しかし、それは無責任すぎるじゃ…あ、ちょっと!」
探偵事務所のデスクで、電話の送話器に怒鳴るように話していた鳴海は、最後には立ち上がっていた。
もちろん相手が目の前にいるわけではないのだから何の益もないのだが、思いあまって体の方が動いてしまったということだろう。
「まったく、言いたいことだけ言って切りやがって」
と吐き出して、部屋の反対側で大人しく立っている少年のことを思い出したか、
「ああ、すまん、つい…」
とは言うものの、腹はおさまらぬ様子で荒々しく受話器を戻し、音を立てて椅子に座り込む。
「どうしたのだ」
業斗が聞いても鳴海には猫の鳴き声にしか聞こえないのだが、
「どうしたのですか」
すかさず少年が補う習慣が出来ていた。
「いや、例のあの絵ね…」
鳴海の電話の相手は例の高樹町の主人だった。
向こうから次の機会について電話をかけてきてくれたのはよいのだが、あれから奥方が自分の一挙手一投足を見張っていて、外出するにも予定の時刻や場所をまえもって申し述べねばならず、その予定が会合や人との約束などであれば必ず相手側に確認を取るほどで、家に戻ってからは母屋から出ることならず、特に蔵などはまったく近づけない有様だという。
「困ったものだな」
「困りますね」
「でも、ほっておくと祟りがあるっていうんで、まあその辺は俺がちょっと脅かしすぎたせいかもしれんが、とにかく早く持ち出して始末して欲しいと言うんだな」
「しかし主人が蔵に近づけないのでは入れないではないか」
「勝手に入るしかありませんね」
鳴海は驚いた目で少年を見た。
間の業斗の言葉は鳴海にはわからないのだから、少年の返事はかなり飛躍がある。
いや、業斗の言葉が中にあっても大胆である。
(大胆というよりは、何も考えていないという方が近いか)
「いや…実際、相手もそう言うんだ…裏口の鍵をこっそり開け、使用人には言い含めて、蔵で何か物音がしたり人影を見ても騒がぬようにしておくから、勝手に持って行ってくれと…」
なるほど、鳴海が無茶と言っていたのももっともだ。
地に足が付かないようなことを考える点では、名門の金持ちと俗世間をまだ知らない若者は似ているのかもしれぬ。
「それでは、夜になったら行って参ります」
少年はもうそれで決まりとばかり、後はいつものように腕を組んで部屋の隅に立っている。
「そうか…まあ今度こそ俺が行っても邪魔になるばかりだからな、すまんが上手くやってくれよ」
鳴海は多少困惑しているようだが、半分は安心したような表情で電話をかけ、相手方に今夜決行の旨を伝えた。
***
物事というのは深く考えずにただ動いた方がすんなり進むという場合もあるのだろう。
先方の約束どおり、屋敷町の暗い路地に面した裏口は微かな軋りのみでわけもなく開き、少年は物音一つ立てず蔵までたどりついた。
山中を一人、月や星の明かりのみで獣にも気取られぬよう動く訓練をしてきた体である。
マントや刀など余分な諸々を身に付けていても、風のそよぎほどの音も立てることはない。
猫の身である業斗も感心するほどである。
重い蔵の扉もやはり使用人の手で鍵を開けてあったか、なんなく開く。
小さな明り取りの窓が天井近くにあるだけの中は庭以上の暗闇だったが、少年の目にはそれも障害にならないらしく、すぐに問題の絵巻物を見つけ出した。
それさえ入手すれば長居は無用である。
少年と業斗は来た道を戻り、屋敷裏に出た。
「鍵は、このままでいいだろうか」
世間知らずかと思えば、少年は妙なところに頭を回して小声で言う。
仲魔を召喚して単独捜査をさせれば閉めさせることは簡単だが、そんな凝った真似をすればかえって相手に怪しまれかねない。もう今後は関係のない相手なのだから、余計なことはしない方がいい。
「朝になれば使用人が閉めに来るだろう。ほっておけ」
少年はうなずき、二人は近くの神社を目指した。
前もって調べてもいたが、少年も業斗も神仏のおわす処というのは未知の土地でもすぐにわかる。二人は迷いなく坂道を上り下りして小さな社に出た。
作法にのっとってしばしお前をお借りすることを請い、絵巻物を地面に拡げる。
その回りに結界を張り、清めの火をつける。
少年が座して両手で印を結び、鎮めの呪を唱える。
このまま巻物が灰になれば、任務完了である。
(途中面倒もあったが、まあ穏便に片付いたか)
安堵の溜息をついた時、激しく炎が燃え上がった。
その中で生じた黒い影が徐々に大きくなる。
(む、抵抗するか)
「気をつけろ」
言うより早く少年は刀を抜いて身構えている。
人の背より高く燃え上がった炎の中から飛び出したモノは、しゃにむに結界を破って少年に襲いかかった。
少年は楽にかわしつつ炎使いの仲魔を召喚し、自らも火の銃弾を撃ちこむ。
慣れた身の動きである。
火の魔法で金縛りになっているモノの姿を見ると、上半身は髪をふり乱した若い女、下半身は虫の幼生という異形である。
少年は動かない悪魔に走り寄った。
浄化ならずに現れてしまった以上は自分の手元に封じるしかない。
空いた管を片手に封の印を結び、呪文を唱える。
魔の姿が内からはぜて形を失い霧状になり、管へと吸われ--
と思った瞬間、
「ダレガニンゲンナドニ!」
悪魔は形を取り戻し、少年と逆の方に飛んだ。
再び魔法か銃で、と思う間もなくその姿は闇に消えた。
「取り逃がしたか」
「そのようだ」
言葉は普通だが、さすがに声に悔しさが滲んでいる。
「しかし、憑いていた依り代の絵がないのだから現界には長く住めぬ。精気を失って消えるか、異界に入るか、どちらかになるだろう」
「…一応、完了か?」
「多少生き延びたとしても『こちら』で悪さは出来ぬ。先日の仏は間に合わなかったが、これ以上死人が出ることもあるまい」
「……」
少年はまだ少し得心のいかない顔をしていたが、じき頷いて歩きはじめた。
空には細い月が浮かんでいた。
***
翌朝、いつものならいでデスクでコーヒーを啜りつつ新聞を眺めていた鳴海は、
「ああ?!」という驚きの声をあげた。
登校するためにマントを羽織ろうとしていた少年が何事かとふり向いたが、驚いた拍子にコーヒーが気管にでも入ったらしく、むせるばかりでろくにしゃべれない。
「あ、いや、この記事だ。読んでみろ」
鳴海はハンカチで鼻を拭いながら新聞を少年に渡した。
少年は猫も共に読めるよう来客用のテーブルに拡げる。
「これか…なに?なんだ、これは」
その記事は高樹町の家の盗難事件だった。
昨夜、--家の裏口の木戸と蔵の扉がこじ開けられ、家に伝わる骨董などが盗まれたと警察に届けが出された。
夜半に物音がして使用人が行ってみると、黒っぽいマント姿の背の高い人物が逃げていくのが見えたという。
「なんなんだ、これは?」
やっとまともにしゃべれるようになったらしい鳴海が聞く。
「報告だと、悪魔は逃がしたが、絵を持ち出すところは何も問題はなかったということだったな?」
「はい」
「話の通っていなかった使用人がいたんだろうか?しかしそれなら届けを出したりするわけはない…」
鳴海は一人ごちながら部屋を歩いた。
少年を疑う必要のないことはわかっている。
もし自らに不手際があれば馬鹿正直に告げるのがこの少年の性である。
「鍵を閉めなかったのが、いけなかったのかもしれません」
少年が手短に言う意味を鳴海は少し考えて、
「あんなお屋敷町で、運を頼りに開いた戸を探して歩く泥棒がいるとは思えない。いたとしてもそれが昨夜というのは偶然すぎる」
と、その推測を打ち消した。
「それに、マント姿だの背が高いだの、三日月の光で遠くからわかるわけがない。近くに人がいておまえが気づかないわけがないし」
(裏に何かある、ということか…)
「陸軍のしっぺ返しということかもしれないな。こないだおまえがすぐに出てきたことで、面目を潰されたなどと下らんことを考える人間もいるかもしれない」
「……」
鳴海の説には一理ありそうだった。はじめから罠だということだ。
「ちょっと隠れていた方がいいかもしれないな。神社に行っていたらいい。その間になんとか話をつけてもらおう」
「はい…」
話の筋をきちんと理解したわけではなさそうな少年がマントやその他の品を身に付けて事務所のドアを開けた時、
「おや、朝早くからお出かけですか」
業斗には見知らぬ顔の男が立っていた。
「あ、あなたは先日の…」
鳴海は見覚えがあったようで、
「確か…金沢さんとおっしゃいましたか。--寺でお会いした…今日はまた、何かご相談でも?まあとりあえずこちらへ…」
男に近づき、適当な挨拶をしながら少年を去らせようとしたが、男は鳴海を無視して少年から目を離さず、
「ああ、学生さんですから登校するところですか。しかし今からでは遅刻ではないですかな」
「……」
少年は答えない。
答えるのが嫌だというような反抗的な気持ちはもちろんない。
また嘘の返答をすることを憚っているわけでもない。
確かに今からここを出ると、着く頃には朝一番の授業は始まっているだろう。
しかし多少の遅刻がそれほどの大罪として禁じられているわけでもない。
学校へ行くと思っていて何故そんなわかりきったことを聞くのかがわからないので、更に何か言うかと待って、黙って相手の顔を見るということになる。
腹に一物ある人間はよくそういう物の言い方をする。
少年はいつも黙って相手の顔を見ている。
相手はその時その時で、それを勝手に解釈する。
「脅された」と思う人間もいれば、「黙らせてやった」と思う人間もいる。
今回の相手はどちらかというと後者に近い受け取り方をしたようだ。
「どうせなら他のところへ行った方がいいでしょう。警察が話を聞きたいと言って引っぱっていくような危険のないところへ」
口元に笑みを浮かべながら言う。
「あなた…」
驚くような、怒るような顔をしたのは鳴海で、少年はやはり黙って男を見ている。
「このまま一人で外に出ると、保護者のいないところでいいように連れて行かれるかもしれませんよ」
(そんな、もってまわった言い方がこいつに通じるものか)
「どこかいいところをご存知ですか、と聞いてみろ」
業斗が言うと少年はオウムのように繰り返す。
男はわが意を得たりという表情になって、
「これは、話が早い。さすがですな。そう、たとえば、名のある料亭の離れなど…」
言いかけるのに鳴海が、
「料亭?銀座町になじみの店はあるが…」
と割って入ったが男は、
「あそこの女将さんの気風なら匿ってくれるでしょうが、関係を知られているようなところでは、警察も見逃しませんよ。下手に頼っては女将さんにご迷惑でしょう」
と、軽くいなした。
「…こちらのことは何でもご存知のようですね」
鳴海の目つきが変わった。
「ことによると昨夜の騒ぎもそちらの息がかかっているのかな?」
「おっと、しゃべりすぎて怪しまれたようですね。私はただ親切で無実の書生さんをお助けしたいだけで」
「しかし、こんなタイミングでやってきて、まるで脅迫のようなことを」
「鳴海は例の御前の話を知らんからくい違うのだ。料亭とか離れとか口にする以上、こいつはあの老人の関係なんだろう。一緒に行くと言ってやれ」
業斗の言葉に従い、少年は、
「わかりました。ご好意に甘えさせていただきます」
と、頭を下げた。
「おい?」
鳴海は言いかけた言葉を飲み込んで少年を見た。
「この人は、大丈夫です」
「……」
鳴海は少しのあいだ少年の顔を眺めていたが、
「おまえがそう言うんならそうなんだろうな。でも気をつけろよ」
と、背中を軽く叩いた。
「はい」
少年はまた、内気な子供のように微笑んだ。
***
「ふむ、女に見えないこともないか」
かしこまって座っている少年を見ながら川地は言った。
唐突な言葉に少年は不思議そうな顔で川地を見上げる。
その目は、西洋人のようにまっすぐ人の目を射るというわけではないが、他の川地の回りの人間達のように、首から上には目線を上げないという形とも違い、ただ目上の相手に相対するにふさわしく、目の下、鼻の辺りにゆるやかに焦点を当てているという風だ。
成沢が同乗する車で少年がやってきたのはまだ朝の光が庭に残っている時刻だった。
成沢はすぐに帰ったが帰り際、
「おっしゃる通り、ビルの外で何人か張ってましたよ。間に合ってようございました。それに、自家用車に乗ってしまうと、下手に声をかけたりも出来ぬようで」
と報告するのに川地は、
「うむ、よかった」
と、数枚の札を渡した。首尾よく少年を連れてきた手際に対する報酬が欲しいのだと、川地にはお見通しである。
成沢は恐縮したような笑いで頭を下げながら去っていった。
その間、先に挨拶をすませた少年は部屋の隅の畳の上に大人しく座っていた。
奥に戻ろうとしていた川地がそんな少年を見て出てきたのが、件の言葉である。
「高樹町の奥方は春画がどうのよりも、旦那とおまえが蔵で逢引を企んだと疑っているらしい。おまえを男装の女と思い込んでな。怪しまれないようマントで体の線を隠しているのだと」
「……」
少年はまた当惑したような顔をしている。
この年頃の少年が「女のよう」などと言われれば大抵は怒りを見せる。
実際に少女のような顔立ちの少年ほど、そうである。
女達にそう言って可愛がられる嬉しさよりも、男達にそう言われて侮蔑される悔しさの方が上に立つのが男というものである。
この少年は普段から「女のよう」と言われるような柔弱さは見えないが、それでも普通はそんな言葉には反発するものだ。
少なくとも多少顔を赤らめるくらいはするだろう。
しかしこの少年にはどこまでも「普通」はあてはまらないらしい。
川地はまた、意地の悪い気持ちになる。
「何故そんなことを疑われるのか、わかるか」
少年の前に片膝を落とし、その細い顎を手につかんで持ち上げてやる。
「……」
少年は川地の急な動きに驚いたようだった。
それに気を取られて、聞かれたことには頭が働かぬらしい。
「わかるか」
川地が今一度聞くと、少年はわずかに首を横にふる。
「いえ…申し訳ありません」
「そればかりだな」
「……」
少年は困ったように川地を見ている。
「妻のある男をたぶらかして、人の道に外れた色恋に誘うような、そういう女に見えるのだ。おまえの中にそういう穢いものがあるから、そう見られるのだ」
川地が決めつけて言うと少年は目を落とした。
(泣くか、怒るか)
だが少年は黙ったきりだった。
何度かまばたきをし、川地の言葉が頭に入っていないわけではないようだが、それ以上の反応はない。
川地はいらつき、立って次の間に入った。
「もういい。務めをすませろ」
少年はまた素直に部屋に入ってきて膝をついたが、
「よろしいのでしょうか」
と、以前にはなかった逡巡を見せる。
「何がだ」
川地が眉をしかめて見やると、少年は少し考える風をして、
「…そのような者が…」
目線を落として訥々と言う。
川地は思わず少年を凝視した。
「それをご承知の上で、救っていただいて、その上に…」
そこまで言って頬に赤味が差した。
その行為を、どういう言葉で表現してよいものやら、わからぬようだ。
(本気か)
あてつけや厭味で言っているのではない。
川地が言ったことをそのまま容れて、しかも、川地にはただ自身の欲求を果たしているにすぎぬそのことをなにやら恩寵のように思っている--
(馬鹿な)
そんなことがあり得るわけがない。
川地は心に浮かんだそんな考えを振り捨てるように、
「下らんことばかり言っていないで、さっさとしろ」
怒鳴るように言って足を広げた。
少年は前回にならって部屋の隅で衣服を取り去り、川地の前に身をかがめる。
腕を自分で後ろに回すのも同じであったが、
「手は前につけ。頭が重くて邪魔だ」
と、姿勢を変えさせた。
「犬のようで、合っているだろう」
と、また川地はいらぬことを言う。
少年の表情がそんなことを言わせるのだ、と川地は思う。
もっとも、具体的にどこがどう悪いのかはわからない。
素直に従う者をいたぶって、相手が苦渋を表すのを見て楽しいかといえば、それは実際川地には楽しいことである。
だが今回はそういうことではなく、むしろ嫌がれ、反抗してみろ、といたぶってみたらそうはならず、それでは媚びているのかというとそれもまた違って、少年の困惑につられて川地も困惑している、そんな風である。
その困惑はなぜか血のめぐりを早め、川地のものは前回に比べても少年の口の中で素早く大きさを増すようだった。
(慣れたせいだ)
と、川地は思う。
初回や、裏を返すあたりでは、まだ他人が自分の側にいることで緊張している。
それが薄れてきて、やっと体も安心して自然な反応をするということだ。
それは少年にしても同じことのようで、川地が今回ははじめから男女の形で入れようとすると、もう既にかなりの膨らみを見せている。
「なんだ、もうか?」
「……」
少年は顔を赤らめて、何も言わずにいる。というよりは、言えないのであろう。
(申し訳ありませんの馬鹿の一つ覚えを繰り返すのも、さすがに出来なくなったか)
そして礼儀作法として習った以外の言葉は、なかなか出てこないらしい。
(回りには用を命じるだけの暮らしだったか)
川地はそんなことを考えた。
自分は常に命じられる方だった。
ある程度の年までは。
財産というものが出来て、今度は逆になった。
同じように金を持つ人間たちとは、それなりの口のきき方となった。
だが、それは対等というわけではなかった。
少なくとも川地にとっては違った。
川地に金や地位がなくなれば彼らはすぐに川地に「命じる方」になるか、「声もかけない」相手になるだろう。
門閥の生まれと違う成金の川地は、もし何かで金を失うことがあれば「それっきり」である。
故郷と呼べる土地はあっても、家族はもうなく、当時から友人などというものはいない。
同じくらいの年の近所の子供も、川地の火傷の跡を見れば逃げていく。
女中が浴びせたなど大嘘、いつも酒に酔っては川地や母親を殴る父親が何かの腹立ち紛れに薬罐の熱湯をぶちまけただけのことである。
よく生き延びたものだと自分でも思う。
一人でどうにか生きていける自信がついて逃げるように家を出るまでは、いつ父親の暴力で殺されるかわからなかった。
母親はとうに妹を連れて逃げていた。
身分や収入に関わりなく心のままに話せる相手、そんなものは川地にはなかった。
この少年もそうなのだろうか。
(下らん…)
妙なことを考える自分をふり払うように、川地は動きを速めた。
少年の息が荒くなり、足先が川地の背に回った。