商売の話がうまくすんだので社交は割愛してさっさと広間を出て帰ろうとしている川地について成沢が郵船ビルヂングの廊下を歩いていると、川地が「なんだ」と、ふり向かぬまま聞いた。
成沢は一瞬口ごもった。
答えに詰まってというよりは、驚いて、である。
自分が、先刻聞いた話を主人の耳に入れるべきかどうか逡巡している、そのことがもう読まれているという、あらためての驚きである。
「秘書仲間の与太話ですが」
「うむ」
川地はいらついたような声を出した。
会合やら夜会やらで主人達が大広間で交友を深める間、おつきの秘書や書生はむろん主人の側についてご用を足すのがお役目だが、大方は息抜きとばかりに手洗い所やクロークに陣取ってグラスを片手に主人の愚痴やら噂話の交換をし合う…というようなことはとうにこの主人には知れているのだった。
成沢はそれほど川地のことを漏らすことはないが、それは別に主人に対する敬愛の念というわけではなく、もし妙な噂が流れるようなことになれば、自然その出処は自分だと知れ、どんな叱責を受けるかと考えただけでも身がおののくようだったからである。
そのことも含めて、川地はすべて知ってのみこんでいるようである。
天井が高く、幅も広く長い廊下には、二人のほかには人影はなかったが、それでも成沢は許される距離まで川地に近づき、声を潜めた。
「昨夜--家で泥棒騒ぎがあったようで」
「ふん?」
先程まで、川地と同じ部屋にいた一人の名前である。
「そんな話は出なかったが。新聞にもなかったな」
とりあえず主人の関心を引くのに成功したことで満足を感じつつ、成沢は続けた。
「表に出せない話のようで。奥方には秘密の春画を蔵に隠していたのですな。それを譲るとか何かの話で仲介を呼んでブツを披露している間に奥方参上、目をつり上げて、あなた何をしてらっしゃるの、で旦那周章狼狽、これはまずい、こいつは泥棒だ、この絵はよそから盗んだ品だ、などと」
「……」
「奥方はもう、いやらしい、下衆な、という頭でかーっときて警察を呼んで、旦那は何も言えずに、で、割を食ったのはその仲介というわけですが」
「持ってかれたのか」
「なんだかんだで、どういう事情なんだか、二、三日留められるようですな」
「誰だ」
知り合いのことでもなければ自分がわざわざ話すことはないと、川地には当然わかっている。
「どうも、先日の学生のようで」
川地が足を止めたのを、成沢は今回はうまくよけることが出来た。
***
成沢は、すぐに川地が自分に命じて警察に電話をかけさせて管轄署を聞き出し、また確かにその学生が自分の思っている相手かどうかを確認させた後、運転手にそこへ行くよう命令することは予想していた。
また、署で自らの名を出して、学生を即時釈放させるだろうことも想像が付いた。
寺で見かけた後、人を使って色々と調べさせ、なにやら力を行使してそちらの相手をさせたらしい。
そもそも川地は、それは事業に関わる男としての必要から妻を娶って家庭を作り、世間のつきあいで芸者遊びなどもするが、一方蔭間茶屋などにも出入りして、どちらかと言えばそちらの方が好みのようである。
そういう男は多いとはいえぬまでも、案外にいるものだ。
成沢はそういう「私事」に直接関わることはないが、筆頭秘書である限りは当然主人の動向は耳に入ってくるし、把握しておかねばならなかった。
その学生のことでは、運転手が、郊外に近いあたりまで送り迎えをさせられたという話を聞いていた。
表には出さぬが、かなりのご執心と見える。
どうでもいい遊びの相手なら、呼びつけて、終われば勝手に帰らせるだけであろうからである。
そんな相手であれば、釈放させた後は自分が身元引受人として引き取って、そのまま家代わりの料亭へ連れていく算段かと考えていたのだが、川地はそうはせず、恐縮する署長に、
「自分の名前は出すな。絶対だ」
と言い捨てて署を出、それで帰るのかと思えば、
「ちょっと確かめねばならぬことがある」
と、署の玄関を見られる路地に車を停めさせて人の出入りを見ている。
これは予想外の行動であった。
(誰が引き取りに来るかを見ようというのか?まさか姿を現して親兄弟に恩を着せようというわけではあるまいが)
そんなことを成沢が案じていると、半時ほど待った後、見覚えのある姿が現れた。
寺での連れであった鳥の巣頭の男だ。そしてもう一人、これは未知の、二十代と見える洋装の女が共にせわしなく署に入っていく。短い髪や、大きな鞄とカメラを下げている様から、これは近頃増えた職業婦人というものであろう。
(どちらも親には見えぬから、あれで兄弟ででもあったのか。あるいは帝都には係累がなく、勤め先の上役にしか引取りを頼めぬのかもしれない。そういう身の上で、簡単に話が進んだということかもしれぬ。女の方も似てはいないし、あの男のメッチェンというあたりか)
じき、玄関口にマントを羽織った学生が姿を現した。
後に続いてきた二人はしきりに警察を非難しているようで、特に女の方はかなり興奮して腕を上げ下げしている。その後ろには署長が先程と同じように頭を下げ続けながらついてきているのが見える。
学生自身は特に表情はなく、大人二人をなんとなく眺めているといった体だ。
(なりは大きくとも高等師範ならまだ十七かそこらだ。サツのご厄介になったことなど生まれてはじめてだろうし、ショックが大きくて呆然としているのだろう。まして身に覚えのない、とばっちりというようなことだ)
男の方は一応抑え気味に、女をなだめるような様子も見えるが、それでも口元は引き締まり、先日の愛想のいい商売人といった顔とはまったく違う趣を見せている。
(この帝都で探偵というのだから、そこはブラッフというか、かけひきも上手いのだろう)
川地をうかがうと、わずかに眉根がひそめられている。
感情を大きく出すことをめったにしない癖であるが、面白く思っていないということは、つき合いの長い成沢には明らかであった。
(女が声高に騒ぎ立てているのが気に食わないのかもしれんな。職業婦人というものも好きではなさそうだし)
そんなことを思っていると不意に、
「もういい。戻るぞ」
川地が命じ、運転手は車を大通りに動かした。
署の前を通り過ぎる際に成沢がもう一度玄関口に目をやると、学生の足元に黒猫がいるのが見えたような気がした。
***
「それで結局、この件はどうなるんだ?」
「……」
彼らの住居でもある探偵事務所に戻って一息ついた後、所長の鳴海は少年に尋ねた。
少年も答えはわからぬ風である。
二人とも疲れた風で、少年よりも特に鳴海の方にあらわだった。
帰り道でもまだ怒りがおさまらず、「この、上流の腐敗と官憲の横暴を絶対記事にしてやる」と気炎を上げる若い新聞記者の朝倉タエを「未成年の少年のことを公の記事に書いては、人々の興味の的になって、逆に少年のためにならないだろう」と説得して、どうにか車に乗せて別れてきたのである。警察の「釈放するから、引き取りに来い」という連絡を受けたところに、ちょうど心配していた朝倉が来ていて、同行を拒めなかったのだった。
もちろんそれだけではなく、昨夜以来少年の身を気遣っての心労も見える。
「殴られたりしなかったか」
「いえ、まったく」
「俺が行った方が、よかったかな」
「危険が、ありましたから」
少年の答えは相変わらず事実の真ん中だけで、何の含みもない。
鳴海ももうその辺には慣れてきているらしく、
「ああ、絵に憑いているという噂の『悪魔』が出てきたら俺ではお手上げだからね」
と、会話を補う。
「しかしせめて一緒に行ったらよかったな。いや、事情がわかっていれば…」
「……」
僅かに疑問を覚えたような表情の少年に、
「警察からおまえが捕まって留められるということを知らされて、すぐ上の方に電話をしたんだが、どうやらあそこの御仁は陸軍に近い筋らしくてな」
「……」
少年はわかったようなわからぬような表情を浮かべた。
(大人の事情、というような話はまだわからぬだろう。正は正、邪は邪、とまるきり割り切っているわけでもないが、とにかく、悪意をもって人に害なす異形は退けるのが自分の務め、という意志しか、確かなものは持っておらぬ)
少年と共に件の家に赴いていた業斗は思った。
あらかじめ鳴海から話をつけてもらった上で裏口から蔵へ回り、確認のために絵を開いていたところへ怪しんだ奥方に踏み込まれ大騒ぎとなったのは、まったくの災難であった。
自身もこの事務所へ戻ってようやく気を落ち着けた感を覚え、猫という肉体に身に付いた習性で、手足を舌でなめて身づくろいをしながら、
(しかし、先日の仏が絵を譲っていた先が陸軍関係だったとは、偶然であろうが間の悪かったことだ。国家を超えるとはいえ、現在はどちらかというと海軍寄りのヤタガラスとは性が悪い。そこらの意地の張り合いの具合では、下手をすると本当に何日も留められることになったかもしれぬ)
常であれば機関の威光で手もなく片付く話が、この場合はかえってまずい方向に働こうとしていたのだった。
上がなんとか、中立に近い筋に話を持って行って事を収めてくれたのだろうが、
(その辺でまた、「借りを返す」というような話になるのかもしれぬ)
自身に落ち度がなくとも義理は果たさねばならないという、そんな不条理の繰り返しで人の営みが織られているということを十分すぎる程知っている業斗には、具体的な内容までは予測できなくとも、成り行きだけはもう見えている気がしてくるのだった。
「悪魔憑き」の噂のある絵の方の問題はまだ引き続き、今後の課題である。
***
約束の時刻にはまだ半時ほどあったが、川地はなんとなく落ち着かず、何度もとっくに冷えている茶を啜った。
初めて少年を待った時にも何か気持ちの昂ぶりというようなものはあったが、それは嗜虐的な楽しみへの期待というものが大きく、今日のように(本当に話が通じているのか。ちゃんと現れるのか)という不安が混じっているのとは違った。
(もし何か行き違いというようなことがあれば、迎えに行った運転手がとうにこちらに連絡を入れているはずだ)
何度も頭で繰り返す論理で神経を宥める。
あれから何日か後、某所の夜会で会った、例の機関に関わりを持つ男は、こちらが意図を持って挨拶に近づいたなどとは夢にも思わぬ様子で顔をほころばせ、「援助」に対する礼を述べた。
もちろん他人が洩れ聞いていても、何か商売のことで便を図ってもらったのだろうとしか思わぬ会話だ。
だが別れ際川地が、「そういえば高樹町の方でなにやら捕り物騒ぎがあったようですな」とさりげなさを装って口にした途端、表情がこわばった。
さすがに一瞬で男の表情は元に戻り、「近来、家人の狂言やら、官憲の早とちりなども多いようですな。そんな場合の無辜の犠牲者を救い出す義人は天も見過ごされないでしょう」と大仰な一般論にし、「それではまた後日…」と別の客に挨拶に向かった。
そして川地の予想通り数日後に、前回と同じような手配がされることが「ご迷惑でなければ」という紋切り型の前口上と共に通知されてきたのだった。
(もし土壇場での拒否というようなことをすれば、こちらがどのような報復手段を取るかという恐れくらいはあるだろう)
川地は再び、先日車の中から見た少年の横顔を思い浮かべていた。
予想通り駆けつけた世話係の男に世事を任せ、超然としていた横顔。
自分の立場からいって一晩でも罪人扱いされたなど腹立たしくてたまらぬだろうが、それは後であの男にでもぶつけるのだろう。
犬猫のようなと思ったが、そのでんで行くと用心深く、知らぬ相手にはたやすく生な感情は見せず、格下の相手にだけ吠えつく、そういう性かもしれぬ。
尻尾を出すところを見てみたいものだ、と川地は思った。
するうち、タイヤの軋む音が聞こえ、川地はほっと息をついた。
「先日は、自らが招きました厄介ごとにご尽力いただきまして、まことに感謝申し上げます」
少年が畳に両の手を付き、他人事のように儀礼的な挨拶をするのを川地は内心おかしく思いながら眺めやった。
自身に落ち度はないのに、知らない男の奥方のご機嫌取りのために留置場に入れられて一晩過ごすことになったり、更にまた恩を着せられて稚児扱いされるのでは、不運以外の何物でもないだろう。
不貞腐れた顔を見せないだけマシで、心のこもった感謝をしろと言っても無理な相談である。
「下らん話はいい。来い」
川地は前回と同じように言って次の間に入った。
格好も同じ、浴衣にどてら姿である。
前回よりは少し温かい季節になったので、綿が薄めの物になっているくらいである。
少年も同じようについてきて膝をつこうとしたが、
「もう温かいのだから、服は脱いでしまえ」
と言うと、そのまま部屋の端の布団のないところへ行って、
「失礼致します」
と、ボタンを外し始め、手際よく脱いではたたんで畳の上に重ねていった。
下着姿になったところで少し手が止まったので、
「全部だ」
と言うと、それもすぐに取ってしまって、同じように上に乗せる。
例外は件の学帽だけだ。
(それを取れと言ったら牙をむくだろうか。まあそれは、楽しんでからでも遅くはあるまい)
少年の体はなんとなく予想していたような、鍛えられた筋肉が目立つという風ではなく、しかしもちろん痩せぎすで骨が透けて見えるということもなかった。
無駄な脂肪などはなく、若者らしい張りのある肌がなめらかに全身を覆っているとでもいえばよいだろう。
また後ろを向いて背中で両腕を合わせるのを、
「縛ると後が面倒だ、自分で組んでいろ」
と言うと(これは前回、川地が実際に思ったことであった)、
「はい」
と大人しく答えて、言われた通り腕を後ろに回したまま、川地の前に身をかがめた。
川地が何も言わぬので、前と同じに進めるつもりのようだ。
川地もそれで否やはない。命じる手間が省けるだけだ。
同じように川地のものをくわえ、川地の合図で顔を離すと、同じように手をつかない四つんばいといった格好で尻を持ち上げる。
(恥らったりするより従うのが楽とみたか)
面白みのない、とも思うが、若い裸体を目にし、その肌にじかに触れているとそれはやはり血の巡りをよくするので、また川地はいつになく早い高まりを感じる。
少年の方も、川地の指が前回と違って腰だけでなく、皮膚のすべらかさを求めて背や腹や胸の方までを撫でさするので、早くも吐息が荒くなっている。
試みに乳首を指の腹で探ってみると、既に固い。
抑えきれない声が洩れる。
腰を自分に押さえつけて回すように動かしてやると、面白いほど簡単に悲鳴をあげる箇所がある。
「ここか」
「は…はい…」
途切れがちな声が面白いので、わざと、
「こっちはどうだ、ここは…」
と、同じ箇所を突いてやると、目をしばたくようにしながら、
「ご勘弁を…寝具を、汚してしまいます」
と訴える。
「こうすれば、よいか」
川地は少年の足を持ち上げながら体を回し、普通に男女が行う形にさせた。
位置が女とは違うので腰を高めに上げなければならないし、仰向けの背中で組んだままの腕に自分と川地の重みがかかるので、それだけでもつらそうだ。
だが川地が気にせず動くと、やはり快感の方が強いらしい。
「あ…これでは…お体に…」
いい加減に結んでいた浴衣の紐が解けて、少年のものは川地の膨らんだ腹にじかに触れている。
「しょうのないやつだな。我慢出来ぬのか」
「…ゆるめて、下されば…」
頬が桜というよりは、もう紅葉のような赤味に染まり、濃い睫毛の下の眼球の表面が濡れている。
青白く見えることのある白目の部分が更に薄く透きとおるようだ。
僅かにのけぞるたびに、前回は見えなかった喉や顎も若い線を見せる。
(そんなものを見せつけておいて、ゆるめろもないものだ)
川地は自分にそう言い訳をして、欲情のままに身を動かした。
鋭い声音と共に、白い飛翔が走った。
「申し訳ございません…」
少年の放出に僅かな後れで川地が達し、しばらくどちらも荒い呼吸を続け、やや肌が冷えを感じ始めた頃、少年は体を起こして裸のまま寝具の上に正座し、寝そべっている川地の前で手を付いた。
「前回の失態を償えるかと思っておりましたが、若輩で…」
よどみのない口調が川地をいらだたせた。
「いいから、綺麗にしろ。おまえの汚したところもだ。今度は起きておけよ」
「はい」
少年は少し顔を赤らめ、前回と同じように川地のものを口で拭い、それから腹の方へと顔を動かしたが、そこでつと動きが止まった。
前回は浴衣で隠れていた火傷跡が目に入ったのだろう。
一番ひどいのは顔なのだが、左腹のあたりにも広い赤味がある。もう少し湯のかかり具合が下にずれていたら男性としての機能を失っていた、と医者が言っていた。
「穢らしくて、嫌か」
わざと厭味たらしく言ってやるのに、少年は普段と変わらぬ顔で見上げ、
「お怪我の跡のようですので、一度口をすすいで清めてからの方がよいかと…」
「自分でぶっかけておいて、今更清潔がなんのと言うのか」
川地が内心おかしく思いながら言うと少年は再び顔を赤らめて、
「…申し訳ありません」
慌て気味に言って顔を下ろした。
少年は、火傷跡の部分では他よりもゆっくりと舌を動かし、しかしあまり続けては触れないようにしている。
(そうだろう、蔭間共もまるで南方の皮膚の病かなにかのように、手が触れるさえ避けたがっていたからな…だが…)
気のせいとわかっていながら、なぜか川地はこの少年が、川地の傷跡を気遣い、舌のこすれすらも痛むのではないかと案じてそうしているように思えるのだった。
(下らんことを思いたがる)
川地は自分を嗤った。
(少しばかり造作のいい人間は何事につけてもその行動を良くとられる、そういうことだ)
ひるがえって自身の昔を思い返し、川地は胃のあたりに苦いものが上がってくるような気持ちになった。
(今でこそ一種の貫禄になっているが…いや、もう--)
「もう、よい」
思い出したくない記憶が蘇ってくるのを怖れるように川地は横に身をひるがえした。唐突だったので少年はよけそこねたらしい。腹に顎がぶつかる衝撃があった。
(あっ)
川地はあせったが、かろうじて声を出さずふり向いた。
「申し訳ありません」
言う少年の唇のわきから血が滲んでいる。歯で口の中かどこかを切ったようだ。
「不調法を、致しまして」
と、頭を下げるのに、
「同じことばかり言うな」
川地は目に付いた手拭いを少年の顔に投げつけた。
先程汗を吸わせたもので、それまでも何度も湯で使いながら仲居に洗いに出すのも面倒でほっておいたという、清潔からはほど遠いしろものだったが、少年は厭う様子もなくそれで口元をぬぐい、少しの間押さえるようにしていた。
口の中の血が止まるまで待っているようだが、思いのほかなかなかおさまらないらしく、目をしばたいて、少し不安げな表情になる。
「冷やすんだ」
そういうことに慣れている川地は、脇の水差しからコップに水をついで少年に差し出した。
「ありがとうございます」
少年はくぐもった声でいい、川地から受け取ったコップを唇につけ、少しずつ口に含んで顔をやや上げるようにしている。水をこぼさない用心にか、手拭いはそえたままだ。
真面目な様子と裸体のつりあいがなにやらおかしく、川地はこっそり笑みをもらした。
少年が今味わっているであろう、血を含んだ水の味。
川地はよく知っている。
少年よりももっと幼い頃、家で毎日のように味わっていた味。
故郷から逃れて住んだ町も、男達は荒くれていて喧嘩騒ぎが絶えず、川地はその容貌からすぐに何かと因縁をつけられた。時がたつと喧嘩の、というよりは逃げ方の要領を覚え、それから元何々家のお大名とかいうお大尽に目をかけられる機会があり、その後はそんな味もめったに味わうこともなくなった…
ふと目をやると、少年は血も止まったのかコップも手ぬぐいも脇に置き、脱いだ時と同じ手際のよさでもう上着をつけるところだった。
「他にご用がなければ、これで失礼致します」
前回と同じ挨拶をするのに、川地はまた同じように数枚の札を投げてやったが、
「あ」
と、札を集めてまとめ、捧げ持つように返して寄越した。
「報酬はもういただいているとのことですので、これは不要です」
まったく、含みのある言い方ではない。
それよりも、前回は多少とまどったような顔はしたものの、「報酬だ」と言うと素直にそのまま持って帰ったのが今回はこんな返事になるというのは、
「前のは、どうした」
「はい、ですので浄財にさせていただきました。知らずに甘えた形になってしまい申し訳ありません」
真面目に言う少年の顔を川地はつい、しげしげと眺めた。
そこらの財閥やら貴族の子弟でも、学齢前ならばともかく、この年になれば金を投げつけられるようなことをされれば、相手が自分を侮辱しているということは理解するものだ。
どんなに自分に自信を持ち、誇りがあったとしても、そんな行為に対してはそれなりの反応をするだろう。
(理解していないか)
札を持ち帰った先の「上」はさすがに気づいただろうが、本人には悟らせず上手に処分したということだろう。よくよく大事にされているものだ。
「一度出したものは引っ込められん」
川地がわざと意地悪く言ってみると、受け取ってもらえない札を手にしたまま、動きが止まっている。
どうしていいのやら、判断がつかないらしい。仕方なく、
「慈善にでも、やればいい」
と言ってやると顔をほころばせて、
「そういたします」
と、たたんでポケットにしまった。
立ち際、少年は横に置いた手ぬぐいを手に取って、持って行こうとする。
「まだ血が出るのか」
「いえ、汚してしまいましたから…洗ってお返しいたします」
川地は再び、少年の顔を注視してしまった。
「またここに来るつもりか」
「あ…ご迷惑でなければ、お邪魔でない時に」
「醜い老人に犯されるのが、そんなに気に入ったか」
「……」
川地の意地の悪い問いに少年は困惑したような表情になっている。
もちろん、少年はただ手ぬぐいを返しに来る、それだけのつもりで言ったのだ。
百も承知でこういうことを言うのが川地の癖である。
悪癖である。
だが、やめられない。
少年が何も返答せず出て行くものと思った。
だが少年は川地をまっすぐ見据え、
「よく、わかりません」
いつもの淡々とした調子で言い、再び頭を下げて出て行った。
川地はしばらく呆然としてその後を見ていた。