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Holocaust ――The borders――
Chapter:3

隆弥――Takaya――   第6話


 菜都美は、家の近くぎりぎりまで一緒に帰ってきた。
『どうせ近くまで一緒じゃないの』
 帰り道、実隆の家に至る道の途中、最後の分岐で別れるまで、だからといって――何を話した訳ではない。
 ほとんど無言、ただ文字通り一緒に帰ってきただけだった。
 そして、ただ別れただけだった。
 別れ際、『携帯、持ってれば良かったね』と一言呟いた。
――気にしてくれているんだ
 と、実隆は思ったが、何も言わなかったし何もしなかった。
 気が回らなかった、と言えば聞こえが良い。
 ただ単に、彼女の本心を深読みしすぎただけだった。
――何か言っておけば良かったか
 今頃そんな事を考えてももう遅い。
 彼は自分の家の前で僅かな後悔をしていた。
「ただいまー」
 言わなきゃいけないことが多すぎる。
 何から言おう、何を言おう、どうやって説明しよう。
 でもそう思ったのも束の間だった。

  悪夢は、今初めてそのベールを脱ぐ

 彼の声に気づいたのだろう、とんとんと軽い足音が台所の方から聞こえてきた。
 スリッパを履かないこの足音は、里美だろう。
 実隆は靴を脱ごうと思った時、里美の怪訝そうな顔が見えて、座るのをやめた。
 里美はじろじろと無遠慮に、そして訝しげに彼を見つめて、言う。
「あなた、どなた?」

  どくん

 冗談だと思った。
 だが、彼女が彼を見る目は、息子に対する物ではなかった。
 不審そうに見つめる瞳は明らかに自分を信用していない警戒心を湛えて。
 それは――他人を見る眼。
 ふと、気がついたように視線を二階に向ける。
「隆弥ー、隆弥ーっ」
「え」
 心臓が跳ね上がった。
 自分の意志とは別物になるように、何度も鼓動を繰り返した。
 何も――考えられなくなって、真っ白に意識が飛ぶ。
――隆弥
 つい先刻、路地で争った記憶が蘇る。
 逃げた方がいいのか。それとも、ここで彼を待つべきなのか。
 あり得ない事だと自分に思わず言い聞かせる。
 隆弥がこの家に戻ってきているはずはないから。
 だが。
「はーい、何、里美さん?」
 階段の上から聞こえた声は、聞き覚えのない声だった。
 実隆は一瞬だけ自分の居場所を疑った。
 今いる自分の場所を。
 見覚えがある靴箱、日に焼けて変色した傘立て、自分の作った紙の網かごに飾られた造花。
 誰がなんと言おうとも、ここは間違いなく自分の家だ。
 目の前にいるのは自分の母親のはずだし、そして、隆弥と呼ばれるべきなのは彼の兄である――彼女達の息子であるべきだ。

 『面白いことを白状してやるよ。……俺も、実はこの両親の子供じゃない』

「お友達よ」

  どくん

 悪い冗談だった。
 それもとびきり極悪な、自分の目の前が真っ白に消えていくようなもの。
――どうして
 出かけた声を飲み込む。
 とんとんという階段を叩く足音が、ついに姿を現すから。
 そしてそれが――最悪の冗談だった。
 足音とともに現れる少年は、彼の知らない顔をしている。
 彼の母が隆弥と呼んだ、二階から現れた少年は、彼の知る隆弥ではない。
 彼の記憶の中にある自宅の中で、少年は全く別の、隆弥とは違う別人だった。
 彼が『隆弥』?
 そして里美の投げかける他人への視線。
 その偽物の隆弥は言う。
「里美さん?俺の友人にこんな奴、いなかったよ」
 俺にもいないよ、と言いそうになって止める。
 今、どうやらここは他人の――楠、という人間の為の家で。
――俺の……家じゃない
 背中が震える。
「楠隆弥は、俺の兄貴だ。友人じゃない」
 きっと目を上げ、『隆弥』を睨む。
「それに、お前は隆弥じゃない」
 彼の顔色は変わらなかった。
 見知らぬ『隆弥』は、まるで隆弥のように眼鏡をかけ、眠たそうな貌をしている。
 顔にへばりついたような笑みまで、まるで悪質な物真似のようで。
「な、なんて事を言うのよ、警察呼ぶわよっ」
「それより病院じゃないかな?」
 彼らの口から漏れ出る言葉は決して、家族のための言葉ではなかった。

 耐えきれなくて。

 気がつくと、実隆は家の外に飛び出していた。
――訳が分からない
 何故こんなことになっているのか。
――そうだ、警察に行こう
 警察に行けば、こんな訳の分からない奇妙な悪夢は解決するはずだ。
 警察に行く用事だってあるんだ、そこで話をすればいいんだ。
 彼は病院での医者の会話を思い出しながら、一番近い警察署へと向かう。
 交番ではない、この間の事件に巻き込まれた時に行った署の方へ。
 走りながら話す内容を混乱した頭で検討する。
 実隆はパニック状態に陥っている自分を把握していなかった。
 正常な思考過程を踏む事ができていないことすら。
 パニックになっていなければ、彼はあの場で問いただして警察を呼んでもらうのも別に構わなかったはずだ。
 だが結果は非常に単純で、又彼にとってはこの選択の方がよりショックの少ない方法だったのかも知れない。
 夜の灯りの中でもなお、入り口に点る光へと彼は誘われるような感じがした。

「悪戯なら、帰ってくれないか」
 まず実隆は、自分が病院で呼ばれた事を話してみた。
 受付での対応は非常に醒めた物だった。
――そんな連絡はしていない
 自分の治療をした病院の名前を出してもやはり無駄だった。
 病院から通報したはずなのに、後で呼ばれるかも知れないという話までしていたのに、それすらなかった。
 そして駅裏で襲われた話をしたところで、無駄だった。
 どこまで狂言として捉えられたのだろうか。
 実隆は、自分を貫いた刃を出して訴えて初めて聞き入れられた。
 自分の傷と、日本刀の欠片。
 動かない証拠だけに、彼らは渋々受け取ったが、次に彼が言った言葉に対してはやはり冷ややかだった。
 『楠隆弥が、行方不明になった』
 彼が自分の兄貴である事、彼が自分を襲った事、そして、彼がそのままどこかへ行ってしまった事。
――だが、家に電話したのか、警官は険しい顔で彼を睨んでそう言ったのだ。
「悪戯っ…」
 実隆が反論する前に、警官は言った。
「ああ、悪戯にも程があるだろう?楠隆弥さんは今自宅にいて、ご両親の話では弟なんかいないというじゃないか」
 そして、日本刀の欠片も乱暴にカウンターに叩きつけられた。
「下らない妄想に、我々は付き合っている暇はないんだ」
 そんなはずはない、と思ったが同時――里美の他人を見つめる目つきを思い出す。
 冗談を言わない彼女が、彼に向けた冷たい視線。
 隆弥と呼ばれた、全くの別人。
 何が、どうなったのか。
 だが彼がそうやって惚けていられたのはほんの少しの時間。
「だったら木下警部を呼んでください!」
 受付の警官は首を傾げて自分の後ろにいる同僚に視線を向ける。
 彼が首を横に振るのを見て、警官は言う。
「それは、どこの誰だ?」

  きりきり

 いつか、学校で感じたのと同じ気配。
 いきなり敏感になったような意識が『逃げろ』と警告する。
――その時、一人、署の奥へと消えるのが見えた
――じっと見つめる人間がいた
――耳打ちする人間が見えた
 それは、一体何の映像なのか。
 瞬時に自分に対する敵意のようなぴりぴりしたものが具体的に見える。
 まるで被害妄想のように。
 その時、先刻まで話しかけていた警官が視線を――向けようとしているのが判った。
 だから踵を返し、まるで逃げるようにその場を去った。
 そのままそこにいれば、悪意に沈みそうだったから。
 自分の事を他人を見る目で見つめる家族。
 いなくなった隆弥とは別にいた、まるで『隆弥』の不出来な紛い物のような男。
 警察署を出て、穹を見上げた。
 今日は澄み切った夜空が広がっている。
――どこにいこう
 視線を降ろすと、この辺では広い二車線の道路があり、勢いよく車が走っている。
 その向こう側には住宅地が広がり、家から灯りが漏れている。
――どこにいこう
 もう帰るべき家はない。
 行ったところでどうにもならないだろう。
 学校?あと数日で卒業なのに、それにもう卒業なんかもどうでも良い。
 今まで隆弥の弟として、楠家で過ごしていた。
 でも、もうそこに自分の居場所がない。
――今までの隆弥はもういない
 改めて認識してしまい、顎から力が抜けていく。
 がちがちと痙攣するように前歯が音を立て、噛み合わせる力が入らない。
 悪い夢。
 そう、これが夢ならよかったのに。
 彼はうつむいて自分の眉根を右手で揉む。
 足が動かない。
 動いたとしても、どこに行く訳ではないのだから。
 どこに行ける訳でもないから――彼は、眩暈を覚えた。
 自分の目の前から去った隆弥――結局彼は誰だったのか。
――『もう一度会う時』があるんだろうか

  『人間』なのか、『化物』なのか。……次に会う時までに決めておけ

 隆弥は何をするつもりなのだろうか。
 何をしているんだろうか。
 自分の思考をまとめられなくなって、彼は気がつくとふらふらと歩き始めていた。
 どこに行くのか――どこに行っても、同じだから。
――だったら
 悩む必要も、迷う事もない。
 彼が我に返った時、そこはやはり自分の家――いや、自分の家だった場所に、いた。
「ミノル」
 背中側から聞き覚えのある声が聞こえて、彼は振り向いた。
 青ざめた中で菜都美が珍しくしおらしい表情で、彼を見つめていた。
「よぉ、何だ、こんな時間に。警察にはもう出かけてきたぜ」
 彼女の視線が泳ぐ。
 何かを言いたがっているのは判る。
 でも、何を言いたいのか自分でも理解していないような。
 そんな、いろんな感情が綯い交ぜになったそんな貌。
「……送ろうか?」
「ミノル」
 今度は低く押し殺した声で、彼の名を呼んだ。
「話したい事があるの」
 そのまま彼女は息まで押し殺すように黙り込んでしまう。
――こいつは
 実隆はそれまで浮かべていた薄笑いをかき消して、僅かに俯いて視線を逸らせた彼女を見つめる。

――ドコマデシッテイルンダ

 脳裏に響く声は、怜悧で酷薄な相手を利用しようとする感情の流れ。
 まるでもう一人、自分の頭の中に住んでいるような気がした。
 何を言おうかと逡巡しているうちに、どれだけ時間が過ぎたのか判らなかった。
 一分?十分?それとも、もっと短かったのだろうか。
「送るよ」
「どこに帰るつもりなの」
 実隆の言葉に対して、甲高くヒステリックに叫んで彼女は応えた。
 一歩踏み出しかけた足を、彼はそのまま止めてしまう。
 菜都美は睨み付けるように眼を大きく開いて、唇を震わせている。
 彼女の、こんな感情を剥き出しにした怒り方を彼は少なくとも見た事はない。
 この間屋上で突然泣き始めた時も、こんな――唐突で、まるで人が変わったような感じだった。
「応えてよっ……ミノルは、どこに……帰るつもりなの」
 自分の声に驚いたのか、実隆の貌に気づいたのか彼女は言葉を飲み込むようにして、声を落ち着けながら言った。
 その質問の意味は非常に残酷に感じられた。
 帰る場所。彼女はそれを聞いている。
「――何で、そんな――事を聞くんだ」
 実隆は息を継ぎながら、菜都美の側まで歩み寄る。
 ぽん、と何の気なしに肩を叩いて、彼はその手を掴まれてしまう。
 冷たい両手で彼の手を握りしめたまま、それを自分の顔の前まで持ってくる。
 視線は実隆の顔から手とゆっくり動くと、そのまま目を閉じる。
 一瞬その表情を美しいと感じた。
 左右対称な、落ち着いた静かな表情。
 寺院にある菩薩像の穏やかな貌をそれは連想させる。
「このまま手を離したら、どこかに行ってしまいそうな貌、してるんだもん」
 静かな落ち着いた声。
 でも、何故か絶対的な物を感じさせる、強い声。
 従わざるを得ないと、感じる声。
「っ、馬鹿、どこに行くって言うんだよ」
 だから実隆は抵抗しようとして叫ぶ。
「帰って来れない場所。もう二度と会えない、そんな場所」
――震えてる?
 声とは裏腹に、彼女の手は震えている。
 ゆっくり顔を下に向けて、前髪で自分の貌を隠す。
 違うかも知れない――でも、彼女を見つめる実隆にとってはその仕草は怯えているように見えた。
 何に対してか。実隆はそれ以上は考えるつもりはなかった。
――ちぇ。興醒めだな
 だから自分に、そう強がってみて苦笑いする。
「ちょっと違うな」
 以外にも簡単に彼女の手はほどけた。驚いて実隆の顔を追う彼女の視線を重ねる。
 ちらっとしか見えなかったが、彼女の目は赤かった。
――馬鹿野郎
 泣いていたのだろう。
 だから、目を閉じていたのだろう。
 実隆は彼女の隣に移動して背中をぽんと叩く。
「どっかには行くけど、決して会えない訳じゃないだろ。隆弥だって言ってたじゃねーか」
 実隆が歩き始めるのに合わせて、追いかけるように菜都美も歩き始める。
 彼女の家の方向へ。
「み、ミノル」
「んだよ」
「あたしそんな事言ってるんじゃないの。あの……」
 と言うと眉を動かしたり口をぱくぱくさせたりしながら視線を彷徨わせて、やがて俯いて自分の足元を見るところで落ち着く。
「あのね、あたし何だか心配で、帰ったらすぐ電話したの。そしたら、あの……『隆弥』さんが出たんだけど」
 聞く必要はなかった。
 そして納得した。
 彼女はそれに気がついて大慌てで自分の家から実隆を捜しに来たのだろう。
 そして、家の前で鉢合わせた――ということだろう。
「ヒイラギミノルなんて、どこにおかけですか辺りの返事を貰えたって、こういう訳だな」
「っっ!!」
 非難の視線で実隆を見上げ、一瞬口が動くが言葉にはしない。
 続いた言葉と、もう一度視線を逸らせた時の彼女の貌が、実隆の落ち着いたその態度を揺さぶった。
「やっぱり落ち着いてるね。……タカヤを、探しに出かけるつもりだったんだ、やっぱり」
 『隆弥』。
 彼女は今先刻もさんをつけて呼んでいたはずだ。
「お前」
 訝しがって眉を寄せて、咎める口調で彼は言う。
「そうなんでしょ。クスノキタカヤ――今は、その名前を持つもう一人が既にいるから、そう呼ぶしかないけど」
 いつの間にか菜都美は目を鋭く細めて、睨むように彼を見返している。
 菜都美はいつか見せた『もう一つの貌』をそこに湛えながら言葉を継いでいく。
 ヒトに怯え、牙を剥く化物としての彼女の、貌で。
「アレは『人間じゃないから』という理由であたし達を殺そうとした。あたしは、タカヤが人間だからという理由で」
 そこでふっと表情を緩める。
 悲しそうな貌。
「……殺さなきゃ、いけないと思う?」
 つい数刻前の戦闘。
 隆弥と菜都美は、自分の命のぎりぎりを交わし合っていたように見えた。
 菜都美は敵を見つめる眼で。
 隆弥は冥い笑みを浮かべた瞳で。
「殺す必要はない、だろ」
 でも彼女も必死だったはずだ。
 何とか隆弥を止めようとした結果が、あれなんだと実隆は思っている。
 だから隆弥を追うと言う彼の意志が、どんなものなのか聞きたいのだ。
 先刻の自分の行動を評価して欲しいのかも知れない。
――こんな顔、見たくねえな
 それでも彼女のそんな貌を隆弥のせいにはできなかった。
「殺されてやる必要だってない。俺は隆弥を止めるために行くんだ」
 ほんの一瞬、別れる間際に聞いた言葉。
 彼が最後に交わした隆弥との会話。
 記憶の中で、一度も笑みを絶やす事のなかった彼の兄。
 無表情で行かなきゃと言った兄。
「じゃあもう学校にも行かないの。卒業式、まだ行かなきゃいけないよ」
「そうだな。……でも、それよりもこれから何とか、生きる方法を見つけないと駄目だと思う」
 くすっと笑う声が聞こえた。
 見ると、菜都美が笑みを浮かべて彼を見返してくる。
「何〜。ミノルぅ、そんな真面目な事できるのー?」
「んだよ糞っ。人が真面目な話してるってのに」
 片眉を吊り上げて実隆は大きく鼻を鳴らす。
 くすくすという笑いは消えない。
「んー、いつも人の事バカバカ言うから言い返してやる。こんのバ・カ。大バカ野郎っ」
 菜都美の胸ぐらを無言で掴み、右片腕で引き寄せようとして――それがままならない。
――!
 緊張感のある空気の揺らぎと、気配の重さに気がついた時には、先に菜都美が左手で彼の手首を握っていた。
 嘲りの笑みを湛える貌で、彼を上目遣いに見つめながら。
 『化物』――本気の、彼女の姿。
「ほぉら」
 みしりと彼の右手が音を立て、実隆は声にならない悲鳴を上げる。
 自分の身体の外側へねじり上げられて、激痛に身体を反らせていく。
 持ち上がるはずのない彼の身体は、彼女の細腕でゆっくりと上昇する。
「だからバカだって言ってるの」
 ふっと、腕をねじり上げる力が消える。
 死角に入ったのか菜都美の姿がも消えている。

  ぽす

 小さな音を立てて、彼の胸元に重さを感じる。
 しがみつくようにして菜都美が、彼の腕の中にいた。
「こんなにも弱いし、こんなにもバカなのに。こんなにも考えなしだから」
 額を実隆の胸に押し当てて、両肩を丸める。
 でも数秒もしないで、彼女は右手で彼を押しのけるようにして離れる。
 はにかんだ笑みを浮かべて。
「――ちぇ。気が利かない男の子は嫌われるぞ」
 右手の人差し指で鼻の頭をちょんとつつくと、両手を腰に当てて胸を反らせてみせる。
「うちにおいで、ミノル。お父さんの部屋が空いてるし、明美姉だって邪険にはしないからさ」
 実隆は思わず眼を泳がせた。
 それは驚きと、動揺と、そして多分嬉しさから、だろう。
「……いい、のか?」
 何もない。
 それは彼女にとって何の問題にもならない。
 彼は唐突に全てを失った――どこかで見た風景によく似ている。
 今の、彼の何かに縋る事を赦そうとしない意志を何とかして赦してやらなければ、脆く簡単に崩れる。
――何もないのなら、全てあげればいい
 菜都美にはそう思えたし、それは苦ではない。
 一瞬自分のポケットに入った鈍色のメダルを思い出して、無上の笑みを浮かべた。
「いーに決まってるって。……ミノル」
 そして少し戯けて、右手の人差し指と親指を開いて自分の顔の横でひらひらと動かす。
「女の子ばっかりの家だから、少しは気を遣ってよ?」
「お前らもな。俺は一応、男なんだからな」
 菜都美の笑いに合わせるように笑って、実隆は思い出した。
――戻って来れた、と。
 先刻までの冥い思いに捕らわれることなく、引き戻してくれたんだと。
「…ありがとう」
 へへ、と菜都美は嬉しそうに笑って、そしてはにかんで肩をすくめる。
「うん」
 単純な返事だったが、素直な彼女の態度に口元だけを緩めて微笑んだ。

「養子里親?」
 彼女の家に向かいながら、実隆は自分の生い立ちについて――そう、何故か――話す事になった。
「ああ。聞いた事ない?……みたいだな」
 目を丸くする菜都美の顔を面白そうに眺めて、実隆は言う。
「名字が違うだろ?本当は、名字を変えなきゃいけなかったんだろうけど、無理言ってな」
 最近は結婚しても名字変えない人もいるだろ、と冗談交じりに言う。
「『柊』って名前、大切にしてるんだ」
 眉を上げて目を丸くして、あさっての方向を見つめ――小さく数回頷く。
「そう……かもな。俺の、生まれの唯一の証拠だから」
「ふぅん。じゃ、ミノルはどこか孤児院にいたの?」
「へっへ、ばーか、今は孤児院なんて言葉はないんだよ。『児童養護施設』って言うの」
 実隆は小学生まではその施設で過ごしたらしい。
 ただ記憶が曖昧で、そこがどんな施設だったのか、場所もはっきり覚えていない。
 菜都美は彼の話を聞きながら真面目な顔でふんふんと頷いている。
「で、俺は特別養子扱いになるのかな。養子になるまでは『里親』として施設の子供を預かるのが養子里親っていうんだよ」
 実際には彼は親が事故死している。
 法律上の手続き等の間の一年だけ里親扱いだったらしい。
 ということを、実隆は聞いた事があった。
「じゃ、さ。……その施設、どこにあるか、知らないんだ」
「まぁな…って、何でそんな事を聞くんだよ」
 菜都美は慌てて首をぶんぶん振って、少し声に出して笑う。
「ごめんごめん、そんなつもりじゃないから、ごめん」
 応えながら、菜都美は彼を覗き込むように上目で彼を伺う。
「ただ、ね。ちょっとそこに行ってみたいなって、思っただけだから」
 菜都美の答えに首を傾げる。
「別に、行ったって何もないし。普通の建物だろ?」
 彼女は実隆の答えにもただ笑って答えるだけで、それ以上はその話題に触れる事はなかった。
 そして。
「では、どうぞ。いらっしゃい、ミノル」
 菜都美の家に辿り着いた。
「……お世話になります」
 実隆が頭を下げると彼女は嬉しそうに頷いた。


◇次回予告

  成り行きのままに菜都美の家に居候することになる実隆。
  しかし、彼の追うものは一つ――
  「――今、一つの敵の動きがある」
  そして、実隆達と敵対した隆弥の動きは。

 Holocaust Chapter 3: 隆弥 第7話

 下らない真実なんぞには踊らされはしない
                                            事実と真実の間に如実に横たわる虚実

      ―――――――――――――――――――――――


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