Holocaust ――The borders――
Chapter:3
隆弥――Takaya―― 第5話
ひゅ、ひゅと言う音が耳元に響く。
まるで耳が切り裂かれていくように。
その音が聞こえるたび、僅かな血が皮膚の上に滲み出していく。
――音よりも早い
音が聞こえた時には、服の下で血が滲んでいる時には、もう次の刃が光を弾いている。
実隆はそれを皮一枚だけで避けているのか、皮一枚だけを切り刻まれて消耗しているのか判らない。
それでも。
――それでも隆弥はっ
もう先程のように簡単には懐に入れさせてくれない。
踏み込もうと思った瞬間に膝の上を鈍色が走る。
それに目を取られると風圧を首もとに感じて、逆に間合いを切らなければならなくなる。
「ぐっ」
真後ろに飛び退こうとして思い切り肺の中身を叩き出してしまう。
目の裏側に圧迫感を感じて目の前が白くなる。
「っ」
実隆の眼前を風がよぎっていく。
彼の背に、いつの間にか路地の壁が迫っていた。
自分の脚力で背中をしたたかに打ち付けた事に気がついた彼は、ほとんど無意識で自分の体を支える事をやめた。
腰を落とした彼は、地面に横たわるような格好でそのまま両腕を頭の方へとたたきつけるように伸ばした。
「っ!」
隆弥は今の一撃で仕留めるつもりだった。
仕留めたはずだった。
――やるな
だから体を大きく開くように、右腕を外側へと開いてしまっている。
切っ先が髪の毛すら切り払わずに通り過ぎ、実隆の身体が必死に逃げるのが見える。
彼の踏み込んだ左脚に実隆の腕が当たる。
そうして股をくぐられるのをただその体勢のまま待つしかなかった。
体勢を整えて実隆の方に刃を向けた時には、もう片膝をついて立ち上がりかけている。
そして何故か、彼の詠唱も止まってしまっていた。
――『檻』から、抜けたか
彼は、構えを解いて右腕に刃を支えたまま、実隆と相対している。
距離はほんの数メートル。
いつでも、一撃を加えていける距離。
無論逃がしはしない。
「……どうした」
鋭い剣気を含む視線。
切り刻むための――視線。
刃を押し当てられたように動けなくなるか、逃れようとして――排除しようとして、凶暴化する。
それが今まで彼が排除してきた化物の通常の反応だった。
――け…もの
「兄貴、どうして」
だが実隆はそのどちらでもなかった。
その表情には疑問が、そして敵意は一切そこにはなかった。
有るのは疑念。
「どうして?それはむしろ、俺の科白だ」
だから隆弥は眉を吊り上げた。
目の前にいる人間ではない物が、自分の知る存在とは違う事を確認するため、のように。
「ヒイラギミノル、お前が俺を兄貴と呼んでいたのは少なくとも俺ではない」
きりきりと糸が引き絞られていくように、さらに目が鋭く、細くなる。
「じゃあお前は誰なんだよ。俺の兄貴じゃないんだったら誰だって言うんだ」
ひゅん
彼の持つ刃が一回転して、綺麗な真円の閃きを作る。
その時起きた風が、まるで鞭のように頬を打つ。
左頬が引きつる感触が、次に液体の感触が伝わる。
「お前は俺の獲物で、俺は狩人――人間という枠の外側からの侵入者を排除する者だ」
いつの間にか、切っ先が実隆の鼻先にある。
鉄の臭いと、それに混じって脂の臭いがする。
そして何より――研ぎ澄まされた先端から、威圧的な殺意が突きつけられる。
「早く、本気で来い。さもなければお前にはばらす価値すらない」
ほんの少しだけ力を入れただけで、まっすぐ顔を貫くだろう。
耳が痛い。
奥の方からまるでドラムが叩き付けるように鳴り響いているように。
息が苦しくなる。
――来る
一瞬視界が白く瞬く。
途端暗転するようにして全身の感覚が広がっていく。
それは先刻までとは違う。
まるで違う――この間学校で起きたあの時とも違う。
身体と、全く別のモノが弾けてしまうように。
どくん
明滅するように視界がだぶり大きく揺れる。
色違いの原色の世界。
そして厚みのある巨大な音の漣。
その音の中で怒気のような呼吸を、間延びする時間の中で捉える。
怒気が切っ先の震えに変わるのに気づいた実隆は、顔を捻って避けると右手を添える。
鼻先を伝う刃を指先で弾いて方向を変えながら、さらに右足で踏み込む。
隆弥に対して右真半身の体勢になる。
まだ隆弥は視線をこちらに向けるのが精一杯――
――時間が間延びして見える
実隆は彼の視界に捉えられるのを避けるように身体を沈めようとする。
だが、目に見える感覚よりも身体の動きは間延びし、まるで泥沼の中でもがくように手足が重い。
まるで感覚だけが時間を早送りしているかのように。
――まだ――まだだっっ!
一瞬だけ隆弥と目が合う。
同時――身体が加速する。
勢いよく、丁度粘る罠から抜けたように勢いよく蹈鞴を踏み、右手を振るう。
気がついていたのか――ただ腕を動かしただけなのに、空気が目に見えて濃淡を生み出す。
渦を巻いているのを、肌で感じる。
それがまるで、狙いを澄ましたように隆弥の左頬へと伸びる――その線をなぞるように、彼の頬に線が入り、引き千切れる。
――!
かすめただけなのか、風船が破裂するように切れた皮膚から、丸い血の珠が産まれる――
同時、時間が引き戻される。
ぱしという乾いた音が彼の耳に届き、隆弥が振り向いて身構え直すのが判った。
左頬はまるでカッターでも使って切り裂いたような血の線が浮かんでいる。
そして、再び詠唱。
唱える隆弥の表情には何の感情もない。
――くっ
数メートル飛び退いたぐらいでは、彼の刃から逃れるのは難しい。
いつの間にか隆弥の口から詠唱が漏れ始め、再び実隆は『檻』の中へと追い込まれる事になった。
彼の言葉など、初めから――意味の成さないものであるかの、ように。
実隆が隆弥を追って行くのを、菜都美は見送ってしまった。
――追いかけなきゃいけない
そう思っても、目の前にも人が倒れている。
――隆弥さん、一体……
突然の閃光に見舞われたと思うと、人の争う声と気配に包まれ、目が見えるようになると隆弥が刃を実隆に突きつけているのが見えた。
動けるはずなかった。
それでも、今彼女は何かざわめくような物を自分の中に見つけていた。
――どうしても追いついて、助けなきゃ
何をどうして。
そんな、肝心で必要な事も思いつかずに。
だがやがて感覚が戻ってくるに従って――そこが、血の海である事に気がつく。
――!!
誰の、何の血なのかは判らない。知りたくもない。
その外れに彼女達はいた。
「刑事さんっ」
まさか。彼女は不安が頭を擡げてくる。
この刑事は死んでいるのではないか、と。
自分の側で倒れている彼の側にしゃがみ込むと、大きく揺すぶりながら彼女は声をかける。
「刑事さん、刑事さん、しっかりっ」
慌てているせいか、彼女は刑事のネクタイを思いっきり引っ張っている。
混乱しているのかも知れない。
そのせいか、呻きながら刑事は目を開いた。
菜都美が彼から手を離してやると、自力で身体を揺すって起きあがった。
何事か呻きながら頭を振る彼に、菜都美は大きくため息をついた。
――死んでいない
こんな、自分以外全てが死に絶えたような激しい場所で生きている人間に出会える。
たったそれだけの事がこれだけ嬉しいとは、彼女も思わなかった。
「よかった、生きてる」
だから、安心した。
もう心配ない。
菜都美は、彼に特に外傷がないのを眺めると、自分も立ち上がった。
「待て、俺は…」
刑事が頭を起こそうとするのを、菜都美は頷いて言う。
「ごめんなさい、もう行かないと」
間に合わない。
実隆が、隆弥が――彼女は嫌な予感を抑えきれなくて刑事に背を向ける。
そして全力で地面を蹴った。
実隆に刃を向けていた彼――隆弥の様子はおかしかった。
敵意や殺意といった、感情的な物ではない。
菜都美が感じていたのは不自然さ――そう、隆弥が刃を向けて突っ立っているのが奇妙に不自然に見えたのだ。
だのに――彼は、それを当たり前として受け止めている。
だからかも知れない。
菜都美は、あの二人を止めなければならないと感じたのは。
――隆弥……さん……
いつも笑みを絶やさない穏やかな性格をした男、彼女はそう記憶している。
実隆といつもコンビを組んで、ちょっとぼやっとした感じの会話を交わしていた。
小学生の時、二人が兄弟であるとは知らなかった。
同じクラスになる事がなかった事と、名字が違うせいだ。
中学の時に二人が一緒にいるところを初めて見かけた――その時、二人が兄弟であると言う事も知った。
その時、実隆が感情豊かに弾けているのに対し、隆弥はただ穏やかに笑っているだけだった。
何故か強烈な印象として彼のその笑みを覚えている。
初めて会った印象――普通なら、穏やかで優しいというイメージだろう。
だがその時の彼の笑みに対する彼女の印象は別だった――全く、反対だったのだ。
――底の知れない恐ろしさ
彼の笑みをもし表現するなら、見事にカモフラージュされた罠。
壁の向こう側で牙を研いでいる獣――そんな、言葉にするには難しい物を感じていたのだろう。
今思えばそれは予感だった、とは言えないだろうか。
それとも彼女の僅かな『違い』が危険だと判断していたのだろうか。
普段彼らと話をする分には全く気にならない。
今までにも感じた事はなかったのに。
ちゃりん
不意に金属音がして、彼女は慌てて足を止めた。
「あ」
彼女が音の在処を探して地面に目を向けて――無意識に声が漏れた。
丁度五百円硬貨を一回り大きくしたような円盤が転がっていた。
ニッケルの鈍い、鉄とは異なった輝きが表面を滑る。
よく見れば縁に備えた小さな輪が開いてしまっている。
もう随分と痛んでいるそれを、彼女は大切そうに拾い上げると少しだけ力を込めて握りしめる。
そして再びポケットへとしまうと、再び路地の向こうへと駆けだした。
実隆達の姿を、追い求めて。
『隠匿とは無に等しく、呪とは悪なり』
滑らかな発音の英語がどこからともなく聞こえてきた。
――……?
菜都美はその声の方向を、耳を立てるようにして探す。
きりきりと緊張の糸が張りつめていく感触と、空気が漂っているのが判る。
彼女が最も嫌いな――嫌いな理由は、それが初めての薫りだから――それは嗅ぎ慣れた闘いの気配。
全力で、その気配を追い――地面を蹴立てる。
ぱしゃっ、と血のぬめる音が聞こえても彼女は気にせずに走った。
足を取られそうになっても決して緩めず、やがて曲がり角を二つ越える。
ぎぃん
菜都美の目の前で金属を強引に引き切ったような不協和音が響いた。
「ミノルっ」
風が彼女の耳元を通り過ぎ、右肩に急に重みを感じ、そのまま重さは――真後ろへと自分の身体を引きずる。
悲鳴を上げる間もなく、倒れそうになった背中に何かが当たって彼女は両肩を震わせる。
それがどうやら人間である事、それも知っている事に気がついて――
「馬鹿、何故追ってきたっ」
左肩から覆うように、腕が自分の前を過ぎていく。
そして左腕一本で彼女は抱き留められて、さらにもう一歩真後ろへと跳んだ。
抱きしめられて初めて、自分の感じていた気配が間違いでない事が判った。
だからせめて、実隆の顔を見ておきたかった。
ひゅ
でもそんな余裕はない。
その時擦過音がして、自分の目の前で何かがはらりと落ちる。
自分の前髪だと気がついて、視線を前に向ける。
人が、斜めに地面にしゃがみ込んでいる。
違う。
頭をこちらに向けて、右手にだろう、刃を横に構えて両足を縮めて――力を溜めている。
前髪が弾けるように跳ね上がり、男の顔が見える。
「畜生、隆弥、菜都美はっ」
実隆は彼のその様子を見てもう一度跳躍する溜めに入る。
――ああ――逃しは、しない。折角の機会だからな
隆弥は僅かに唇を吊り上げただけで、kingdom Englishを消そうとはしない。
まるで彼らの声が聞こえていないかのように。
「隆弥さん?」
ずしん
隆弥は菜都美の言葉にも何の躊躇いもなく、姿勢を低くしたまま突進する。
その時の靴音を菜都美は、パンクした自動車のタイヤが立てる音のように感じた。
右手の方向へ銀色の筋を残しながら。
その姿は不鮮明に消え去っていく。
「ぐ」
実隆の呻き声が耳朶を叩き、菜都美は思わず顔をしかめて身体を縮こまらせる。
悲鳴だけは何とか踏みとどまったが、直後漂い始める血臭に口をきゅっと閉じる。
彼女は実隆に抱きしめられたまま隆弥と切り結んでいるのだ。
一瞬接近した隆弥と眼があった。
視線が絡む、というよりも偶然視線を合わせた程度の、瞬間の出来事。
それなのにまるでそれだけで脳髄に掴みかかられたように彼の姿に視線が奪われてしまう。
――な……に?
駅前を横切る隆弥の姿
突然彼女の脳裏に蘇ってくる古い記憶。
目の前で額を射抜かれて倒れていく男
隆弥の笑みに、彼女は背筋が震える。
拒絶と恐怖を抑え込む一つの獣
さあ思い出せ 目覚めろ もう一度その殻を破れ
違う。それは隆弥ではなく、自分の中から聞こえてくる言葉。
肌よりも深く骨よりも浅い位置で蟲が蠢き始めるように。
全身が、彼を拒絶するために反応する。
意識が真っ白に落ち込んでいく。
代わりに浮かび上がっていくのは、忘れていた枷を外そうとする行為。
菜都美はその激情に耐えられなかった――
実隆の腕の中で、菜都美は突然身動ぎした。
――!
実隆が気づく間もない。
恐ろしい力で彼の腕の中から抜け出そうとする。
「っ、菜都美っ」
彼が後ろに逃げようと跳躍するのと、万力のような力で彼の腕をこじ開けるように押しのけるのは同時だった。
もっと早く気づけばよかった――いや、あるいは飛び退くのを見越して動いたのだろうか?
隆弥と菜都美の距離が縮まり、実隆は離れていく。
「――――――――――!!!」
何が起こったのか、実隆には判らなかった。
気がつくと隆弥の詠唱は止まり、彼と間合いを大きく取り戻していた。
菜都美は彼の前で腰を低くして、両手をだらんと下げている。
獣と変わらない、戦闘のための姿勢。
実隆からは見る事はできないが、隆弥はその上目遣いの瞳をのぞき込んでいる。
決意のような強い光を湛える彼女の瞳を。
それは正気を保っていて、決して――以前のように狂おしく輝いてはいない。
隆弥はそれを知って僅かに口元に笑みを浮かべ、得意の呪文を打ち切る。
そして決して彼女のためではなく自分のために言葉を選び――言う。
「もう一度、『堕ちる』か?真桜菜都美」
眼をついっと細めて、攻撃的に全身を震わせる。
右上腕に深々と日本刀の切っ先だけが突き刺さっている。
彼が握りしめていたはずのそれは、ぽきりと真っ二つに折れてしまっていた。
自らの腕から流れる血が、柄から鍔、そして折れた切っ先に向けて赤く染めていく。
ぽたりぽたりと刃によってではなく、それを持つ人間の血によって汚れていく。
「――そうまでし…」
旋風が巻き起こった。
――ええ、そうよ
彼は敵。
そんな事はもう随分と昔から知っているのだと彼女は頷く。
自分が人間ではないから、アレはそれを拒み続けようとする。
アレは人間。
――私は、境目を越えている
境目に立つ人間は、境目の向こう側の存在を拒もうとするのだ。
――以前越えかけた時に助けたというのに、まだ『墜ちる』か
隆弥は口元を歪めて彼女の態度に応える。
今度は実隆にも見えた。菜都美が背中を地面と並行にして右回りに真横へと滑り込むのを。
隆弥は素早く一歩退いて刀を左手に持ち替え、左足を軸にして身体を回転させる。
それに追われるように、隆弥の周囲を滑るように疾駆する菜都美。
実隆は考えるより早く身体が動いていた。
菜都美と反対側に回り込むように地面を蹴る。
このまま殺し合いを続ける気はない。
殺し合いを始めた菜都美を止めなければならない。
隆弥を――おかしくなってしまった隆弥を押さえ込むには今しか――ない。
映画のフィルムを早回しにしたように恐ろしい速度で隆弥が近づいていく。
そして右手を鞭でも振るうように振り上げ、隆弥に叩き付け
ようとした。
「ミノルっっ!駄目っ」
菜都美が悲鳴を上げた。
実隆は肩口を堅い何かに押し戻されるような力を受けて地面に転がった。
自分の視界の上へと流れていこうとした隆弥が、瞬時逆方向に戻っていくのが見えた。
笑っていた。
それまで真剣に菜都美を見つめていた彼の目は、いつの間にか彼を見下ろして嘲笑を浮かべていた。
――な
隆弥の右腕から、切っ先は消え去っていた。
代わりに――それは実隆の右肩を刺し貫き地面に縫い止め、隆弥の体重を支えていた。
器用に右手を回し、自分の二の腕に刺さったモノを抜きはなち、低い姿勢で突っ込んできた実隆に突き立てたのだ。
いや――彼はただそれを実隆に向けただけだった。
彼が突っ込むのに合わせて大きく右半身をねじ込み、突き飛ばすようにして刺した後、駄目押しとばかりに右足の裏で踏みつけた。
踵の下で金属がぎしぎし嫌な軋む音を立てる。
軋むのは足の裏に伝わる振動と、その下にあるアスファルトのせいだろう。
だが彼が踏みにじるようにして彼の上にいたのはほんの数秒に満たない時間。
「仕方がない」
実隆の耳にその言葉はどのように届いたのだろうか。
彼の前で空気が震え、菜都美が踊るように隆弥に襲いかかるのが見えて、何も言えずに隆弥をただ見送る。
きしり
その時、ほぼ同時にガラスの破片同士が立てるような音が聞こえた。
甲高い音――
「――時間切れだ」
とんとんと軽い音を立てて彼の姿が素早く遠ざかる。
そして、彼のすぐ側に数人の人影が姿を現す。
男性、それもまだ若い青年ばかり。
ただ彼らに共通して言えるのは全員奇妙に鋭い視線を持ち、黒い服を身につけている事。
「ヒイラギミノル、お前は剰りにも優柔不断だ」
そして、彼らが普通の『真っ当な』人間ではないと言う事。
菜都美はそれに『畏怖』とは違う、胸と腹の境目が重く熱くなるような感情を覚える。
「『人間』なのか、『化物』なのか。……次に会う時までに決めておけ」
「隆弥っ」
一瞬だけ、隆弥の顔から感情が消える。
悲しみも悦びも刻み込まれていない、仮面のような表情。
そこには何もない――砂漠のような感情。
「……ミノル、やっと名前で呼んでくれたんだね」
でも。
その視線は何故か彼ではなく隆弥の前方――直立不動になった時に自然に見つめる方向に向けられていて。
決して彼の方へ、顔も、視線すら向けず。
「でも行かなきゃならないみたいだ」
その科白が途切れるように、表情が浮かび上がる。
自然に首を曲げて、実隆を見つめた彼はまるで、今言葉をかけた彼とは思えない程別人で。
「ああ、行かなければならない。――どうせお前らはついでだったんだ」
くるりと背を向ける隆弥。
「畜生っ、どこに行くんだっ、一体」
実隆の叫び声は、しかし聞こえていないかのように無視されてしまう。
追いかけようと体を動かそうとして、菜都美は自分の両足が固まっているようにびくともしない事に気づく。
二人の様子を眺めるようにして振り返り、最後に彼は大きく右手を振り上げて去っていった。
病院を出た二人は、しばらくの間無言だった。
戦闘の直後、地面から引きはがされた実隆は、そのまま歩いて病院へ向かった。
言い訳も、理由も、何も思いつかず――ただ、警察に連絡した医者はそれ以後無言だった。
医者の顔色は僅かに青ざめていた。
誰も――彼ら以外、生きて動いている人間がいなかった、その惨状を知って。
あとでもしかすると警察に呼ばれるかも知れない。
だが、幸い病院で警察に捕まる事はなかった。
治療を終えて外に出ると、肌寒い空気が既に街に舞い降りていた。
いつの間にか暮れた日の代わりに白い星の灯りと瞬く水銀灯が辺りを照らす。
「動ける?」
何が起こったのか。
実隆は闘いの始まりに見えたあの閃光を思い出す。
突然全身の感覚が奪われてしまい、思い通りに身体が動かなくなるあの閃光。
「……あちこち、まだ痛いけどな」
結局。
何一つ解決しないまま、時間だけが過ぎ去っていた。
彼の右肩を刺し貫き縫い止めていた日本刀の欠片を布でくるんで、彼は握りしめていた。
警察に行くしかない。
――隆弥が犯人だとは思いたくはないけど
実際、あれだけの惨状を彼一人で行えるはずはない。
それに、まだ疑問は残る。
隆弥の側に現れた人間達が、一体何者だったのか。
結局何も判らずじまいで、ただ隆弥が襲った証拠がここに幾つか残っただけで。
「……行くの?」
そして彼女の問いは短い。
何をすべきかはもう話し合った事だから。
医者から『警察』の言葉が出た時にさほど慌てなかったのも、そのせいだろう。
それでも菜都美は心配そうな顔で実隆に、その意思を確認する。
実隆は彼女の方を見ることなく、小さく頷いて答える。
「多分それが一番早い解決方法だと俺は思う」
言いながら、気乗りしていない自分に気づく。
それがあの木下という警部のせいだとは思いたくない。
またか、と言われるのが怖い。
それとも――逆に、納得するだろうか。
あの時の犯人が兄貴だった――同居する、親の実の息子だったと。
――いや
実の息子という一点は、実は間違いだ。
「今日、行く?」
本当はそれが一番良いし、そうしなくても既に家に電話の一本もかかっているかも知れない。
家に、と考えて実隆は口元を歪めて悔しそうにうつむく。
――母さん
彼らに言われるよりも早く。
実隆は、自分の口から話をしておきたいと思う。
「……できる限り、早く。その前に家に帰るよ」
言えるだろうか?
疑問が頭をよぎる。
同時に思う。情けない、と。
『お前は、人間じゃない――それだけで十分な理由だ』
「また連絡する。今日は、もう帰ろう」
◇次回予告
だが、菜都美への連絡は以外に早くなる事を実隆は知らなかった。
「あなた、どなた?」
突然足下をすくわれるような、そんな出来事。
選択肢は、もう残されていない。
Holocaust Chapter 3: 隆弥 第6話
里美さん?俺の友人にこんな奴、いなかったよ
信じたくない事実
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