Holocaust ――The borders――
Chapter:3
隆弥――Takaya―― 第4話
じじじ、という空電が立てる音がその路地を支配していた。
真昼、青空の見える場所で自然状態の球電が発生する事は稀だ。
だがそれはそんな珍しい現象ではなかった。
「ふ……ふははははは、ははは、そうか、そうなのか」
まだ特有のノイズの混じる路地に、今度は甲高い少年の声が響く。
そこにあったのはもっと単純な現象だった。
少年の周囲にぱきぱきという音を立てるものは、彼が帯電している静電気。
目が、髪が、青白く輝いている。
彼は自分の両手をじっと眺めたまま、相好を崩して笑っている。
そのまま四白眼に見開いた目をゆっくりと持ち上げる。
風ならぬもので髪が靡き、彼の周囲が渦を巻く。
「――やってやる」
ばちっ
彼が足をあげた途端、靴底と地面の間で青白く発光する。
それに呼応して鈍い音が響きわたる。
路地の壁が、球形に押し広げられ、耐えきれなくなって亀裂が入った音だ。
彼を中心に倒壊していくコンクリの壁面――さらにそれは、まるで喰らい散らかされていくように溶けて消える。
彼――臣司は、まるで何かに突き動かされるようにしてその視線を、穹へと向けた。
――やってやる
まるで今初めて目が覚めたように。
今までとは違う――理解できた全ては、自分の常識の一部とは違う何かと。
くだらない感傷を覚えて苛立っていたことが、今更馬鹿馬鹿しくてどうでもよくなる。
今まで自分を支配していた痛み
崩れた鏡が舞い散るような光の欠片が満ちていく――そんな幻像。
彼は今、自分を中心とするこの世界が自分の支配下に――まるで彼の周囲全てに神経が行き渡っているように――あると、感じている。
「――誰だ」
だから今の彼は異常に過敏になっていた。
例え視線が通らなくても、その周囲に起きてる全ての出来事がありありと判る。
そう丁度、掌の上で踊るモノを見つめているように。
自分の体の中で動くモノを感じるように。
水の一粒、風の一粒すら手に取るように判るその時に――彼は、自分に向けられている意志を見つけた。
突き立てた矢印のように、明確な方向性を持った『意志』。
今のこの中で自分にその意志を向ける事など――あり得ない。
――誰だ
それは違和感。
コヒーレントな空間中に、異物は生じてはならない。
幾つものベクトルが存在し、その合成された方向とは逆の要素があったとしてもうち消されるように。
大きな流れに逆らえない小さな物は――排除されてしまう。
ぎちりというまるで縄を絞り込んだ時に聞こえる軋みが、空間を揺らす。
「つれないな」
違和感が言葉になって現れる。
形としてこの世に姿を顕したそれは、拭う事の出来ない程圧迫感を与え続ける。
それでも臣司は動かない。
自分の背中に現れた『異物』は、丁度自分と同じぐらいの背格好であり。
「昔はもう少し、愛想良かったんじゃなかったか」
その左手にぶら下げた、脳髄を揺らす嫌悪感と共に、右手にはきな臭い凶器が握られていて。
「――さぁな、少なくともお前に言われる程じゃなかっただろうな」
彼の感じている空間のほとんどは、奴の全身から放たれる悪寒――電子の臭いで満たされていて。
今にも吐き気を催す程、彼は苛立ちを覚える。
つい、と視線を左から後ろを覗くように動かす。
横に大きく流れる背景――そして、違和感が視界に収まる。
風景にとけ込むかのような彼の姿にますます――臣司は眉を吊り上げて彼を睨み付ける。
スーツ姿の青年。
――見た目通りの人間ではない。それは、あくまで姿だけだ。
左手には想像通り小型のコンピュータが無造作にぶら下げられていて、右手には黒い塊が見えた。
日本人である彼には似合わない程、大きすぎる鉄塊。
「第一愛想良くする必要はないだろう?」
彼は口元を歪めて、すっとその塊を無造作に持ち上げた。
イスラエル製の巨大な拳銃――Desert Eagle。
無骨で、剥き出しのバレルの黒い闇から吐息が漏れるような錯覚。
「ああそうだ。お前が試作に終わり、俺が実用化したんだからな」
銃声
――!
「だがそれは俺に至る道筋を失っただけに過ぎない。そうだろ」
怒号のような銃声が鳴り響く。
衝撃波は確かに空間を貫いた。
銃撃は、彼の右手から確かに放たれた。
鉛は衝撃波をその後方へとまき散らしながら、臣司の肩口から上半身を消し飛ばす――はず、だった。
揺らめくような空間の拉ぎに、聞き覚えのないガラスが砕けるようなけたたましい音。
ほんの一瞬。
銃弾が刹那を薙ぎ払うだけの距離が、伸びた。
全ての音が、その一点に集約される。
まるで、意志のある運動をするようにして――壁を築きあげる。
不定形のプリズムが偏光し虹色を生み出すように、滲み、歪み、そして。
ぽとり、と鉛は地面へと落下した。
「――馬鹿な」
全ての熱量が、空間へと飛散した。
.50 Action Expressの弾丸の持つ全てのエネルギーは、臣司の肩口付近で消えてしまう。
「完成しない事は完成するための道筋を作り上げる事で――俺に終わりはなく、お前はそこに留まり続けるんじゃねえか」
ガラスを削ったような光線の歪みがゆっくり復元しながら、その歪みの向こう側から臣司はゆっくりと振り向く。
じりじり、と奇妙な音をあげ、彼の身体に蒼い色の光が走る。
――!
同時に漂うオゾン臭。
鬼相を浮かべる臣司の顔が完全にこちらを向いた途端。
ばし
左手に握ったコンピュータが異常な音をあげた。
驚いて見ると、先刻まで稼働していたはずのそれが、完全に沈黙していた。
「矢環伸也、お前――確か『脳無し』だったよな」
一瞬、男の眉が吊り上がった。
右手に握った銃を改めて臣司の額を狙って動かす。
だが言葉を発する事もそれ以上表情を作る事も彼はしようとしなかった。
「残念だよ」
ぱきりと、握りしめる臣司の拳がなる。
獰猛に口元を歪め、ゆっくり腰を低く構え直しながら。
「お前の砕ける様を、じっくり嬲りたかったぜ」
地面を蹴り、再び銃が咆吼した。
『駅裏』はまるで地獄のような光景が繰り広げられていた。
ある一瞬を境にそれは起きた。
今道路は斑に染みを浮かべている。
何が起こったのかそれを想像させる――そんな生半可なものではない。
「ひ、ぃいえ」
物。
それとも、獣。
表現のしようがない悲鳴が上がり、同時に破壊的な音が続く。
続けて液体の弾けるような音。
曲がり角の向こう側からのそりと――まるで、生きている死体のように青年が姿を現した。
だらん、と両腕をおろして猫背のままに彼は足を引きずって歩く。
彼は思い出そうとしていた。
――俺は何をして……
彼は歩いている事すら気がつかない。
自分が、何を見ているのかすら判らない。
つい一瞬前に右手を振り回したことすら。
頭の中から声が聞こえる。
漣のような笑い声が聞こえる。
――な…ぜ
濁りきった眼球の一部が、突然どろりと歪む――冗談のように、白目が溶け始める。
その向こう側に本来あるはずの、肉と血液はもうそこにはない。
そして、彼の光を求めない瞳が何かを捉える。
「がぁっぐがっっが……がっ」
意味不明の声を上げる。
――どうして――!
何も見えなくなった。
何も覚えられなくなった。
でも、彼の目には白い光が映っていた。
彼の脳裏を横切っていく巨大な光が見えた。
弾ける瞬間。
彼は、その白くて大きな光が、何故か、夏の強い日差しのように感じられた――
ぱしゃっ
突然人間が血液の塊のように真っ赤に砕ける。
「ひゃあああああああっっっっ」
「畜生、どうなってるんだ!」
悲鳴、銃声。
何度も何度もマイクの接続を点検しながら叫ぶ同僚。
だが、既に戦線は壊滅状態だった。
横転したパトカーを盾に、数人が威嚇しながら発砲を繰り返している。
日本の警察は歴史的にここまで『酷い撃ち合い』をしたことがない。
弾なんてない。
井上が指揮を執っていた事件現場にそれが訪れたのはほんの数分前の出来事。
――なのに
木下が去ったのを見送って前線に立った途端、彼女を迎えたのは今目の前に起きている惨状だ。
まるで冗談じゃない。
眼を疑う状況だった。
ふらり、と現場に青年が現れ、一人の警官が静止しようと声をかけた。
「こら、今ここは立ち入り禁止だ、邪魔になるから入ってくるんじゃない」
一人の青年。
ふらふらとまるでよっぱらいのように足を進めてくる。
警官は眉を吊り上げた。
無視されたと思ったのだろう、青年の方に無言で詰め寄りさらに一言言おうとして右手を挙げて――
いや。
「……あ?」
青年の面がいつの間にか持ち上がっている。
虚ろな眼差し――とても、生きていると思えない程濁りきった眼に、表情を感じられない貌。
頬がこけている訳でも、死体のように瞳に色がない訳でもない、のに。
「うわ、うわああっ」
警官の叫びは全く別の意味であげられていた。
彼の右腕は、肩の根本からなくなっていた。
自分の制服ごと。
ささくれ立った切断面から止めどなく赤い液体が零れ落ちる。
見れば、彼の後方数メートルの所にそれらしい物が落ちている。
まるで、何かの衝撃で弾け飛んだように。
青年はさらに、警官に詰め寄っていく。
既に何が起きているのか判らないまま警官は一歩後ろに下がった。
恐ろしさのあまり。
その時、烏鷺のような青年の口が動いた。
鈍い衝撃音
その警官がそのままの体勢で、空中をまっすぐ十メートルは滞空してパトカーの屋根をうち砕いた。
がしゃんというガラスが砕ける音に、一斉にそちらに警官達の眼が向かう。
そして、その場にいた全員が驚愕と緊張を覚えた。
哀れな警官はもとより――彼らの視線の向こう側に、まるでB級ホラー映画をあざ笑うかのような光景が。
数人の、腕をだらりと下げた幽鬼のような青年達が路地のあちこちから現れていた。
男女、年齢の別なく全く同じように、のそりという言葉が似合う程ゆっくりと。
声も上げず誰も指揮をせず、ただ群体とも取れる不気味な動きで確実に彼らに迫ってくる。
「止まれっ」
「馬鹿っ」
井上の叫び――だが、部下は既にホルスターから銃を抜いていた。
訓練されたとおり、訓練通りに――恐慌状態に陥っているせいで、訓練が徒になったのか――そのまま引き金を引く。
ぱん、と空砲が鳴る。
びしゃ
同時。
まるでその空砲が破裂したせいで、とでも言いたげに最初の青年は目を向けていた。
その警官は、貌を穹に向けて倒れていた。
正確には壁に貼り付けられるようにして、頭の上半分が消し飛んでいた。
頭だけではなく、胸から下、右腕、左肘から先、そしてちぎれて転がった下半身。
貌だった部分に蒼い痣が浮かび上がってくる――まだ死んで間もないからだろう、打ち身らしい鬱血が症状として現れたに過ぎない。
ずり、と湿っぽい音を立てて壁からずれ落ちていく。
反対側で機械的な爆音。
何が起こっているのか理解できる人間は少なかった。
爆発に横転するパトカー。
前触れもなく弾け飛ぶ同僚達。
警官達はあっという間に恐慌状態に陥っておかしくなかった。
――冗談じゃない
井上は焦ってパトカーの無線に叫ぼうとして、眉を顰める。
警察用のデジタル化した無線はコンピュータにより制御されている。
今それが、意味不明の数字以外の記号を表示しているのだ。
黒いバックに光る液晶の緑の表示は、かちかちとあたかも生き物のように明滅し、次々に『言葉』を生み出していく。
誰が見てもそれが無線の役を成すとは思えなかった。
故障、そう思ってスーツの胸ポケットに手を入れる。
さわり慣れた感触に、彼女は自分の携帯電話を見つけて取り出す。
ピンク色の外観に飾り気のないストラップ――女性らしからぬそれは無機質な仕事の道具に過ぎない。
――!
だが、それすらまるで使い物にならなかった。
意味不明に明滅を繰り返すアンテナと液晶表示は、たった今見た無線機とさして違いはなかった。
「……っ」
叫びだして携帯電話を投げつけたくなる衝動に駆られる。
が、彼女は歯を食いしばるようにしてそれを耐える。
部下の目の前で恥をさらさない。
それが、彼女の唯一の維持だった。
――それにここで自分が恐慌状態に陥れば、みんな……
絶体絶命の危機。
そんなものに出逢う事になるとは彼女も思っていなかった。
「飯山巡査部長!栗木巡査!急いで車で連絡を!」
だがこんな時、指揮を執るために陣頭に立った人間はうろたえてはならない。
喩えそれが女性であったとしても。
事の起こりはどこにあったのだろうか。
一瞬の躊躇だろうか。
それとも、全く別の所にあるのだろうか。
隆弥は悩んでいた。
――何故、先刻手を止めてしまったんだ
切っ先の向こうで戸惑いの目を向けるミノル。
その表情と、それまでの『尋常ではない』動きは不釣り合いなぐらい。
どういう事だろう――何故か、彼の表情が脳裏から離れない。
「……あれは、やはりミノルか」
かしっ
アスファルトに映る影が恐ろしい勢いで形を失っていく。
まるで体重がないかのように、たった一蹴りで隆弥の身体が宙に舞った。
その動きは軽やかで、相当に鍛え上げた技量を持つ戦人の動きだ。
手に持つ刀からは一切血の色も、脂も認められない。
――殺したく――
隆弥は足を止めた。
既にそこは黒ずんだ血が溜まり、数分前にも人とは違う何かが過ぎ去った臭いを残している。
――殺せない?
花のような香り――彼にとっては忘れようのない『化物』の香り。
人間ではない証拠――それは殺戮の理由。
彼の切っ先の向こう側で化物は自分を見つめていた。
それは――怯えの表情のはず。
――ミノルは
化物だ。
それは初めて会った時から判っている。
笑顔を向けていた時から彼からは臭いが漂っていた。
それは人間とは、自分たちとは違うという正直な臭い。
ぎちり、と彼は全身の筋肉という筋肉を軋ませる。
――奴は臭う、人間じゃない
だから。
そうであるならば殺らなければならない。
人間でない物は人間に対して敵対するのは自然の理である。
種と種が交わらないのと同じように、自然は淘汰されるべき種を淘汰するのだ。
人間に対し――奴は淘汰されるべき種。
――『こちら側』に侵入させないのが、俺の存在意義
なのに実隆は切っ先の向こうで、不思議そうな目で、唖然と自分を見つめていた――
「兄貴」
路地はもう見慣れた景色のように、血溜まりがあちこちに水たまりのように存在した。
ただ不自然な事に、死体も肉片もなかった。
これだけ血液を絞り出せば、いくら何でも死体の一つは転がっているだろう。
それが存在しない。
まるで輸血用血液を道路にぶちまけたように。
だからB級ホラーの映像を見ているのと大した差はない。
ただ生臭いだけ。
気をつけないと滑りそうなだけで、彼はもう自分の靴の裏を水洗いする事以外、気にならなくなっていた。
そんな陰惨に彩られた路地の中央に、自分の足下を見つめたまま立ちつくす彼がいた。
左手に白木の鞘、右手には日光をぎらつかせる刃を手にして。
彼は何かを呟き続けている。
実隆はあがった息を整えもせずに叫んだ。彼の、名前を。
するとゆっくりと瞳を彼に向けて、鈍い輝きを瞳の裏側に湛える。
映り込んだ実隆は大きく歪み、その輝きに飲み込まれている。
闇。
正確には視覚で捉えきれない空間が彼の周囲を満たしている。
それが蠢くように見える――それはまだ視覚が生きている証拠。
闇を楯に、まるで投影したように自分の網膜を流れる血流が明滅しているのだ。
だからこれは肉体が感じている風景のはず。
この闇は、肉体の外側に存在するはず。
隆弥はその中で、わずかに揺らぐ物を感じている。
冥く揺れ、白く薄れるように。
――ミノル
僅かに違和感が全身を貫く。
眠っているような、夢にうなされているような。
自分の体のようで自分の体ではないようで。
「たがははずれているようだな」
誰かの声が聞こえている。
それが誰の声なのか、一瞬全身の表面が粟立つように足下から駆け上がっていく嫌悪感。
なにに嫌悪しているのだろうか、嫌悪だと言うこと以外は彼には判らない。
「……なにを言っているのか、判らない」
返事を返す声。
それが自分の声と全く同じなのに、全然違うように聞こえる。
今自分は返事を返したのか?
今返事をしたのは自分なのか?
「一人、罠にかかった。……今のお前なら、言わなくても動くだろうが」
「……言われるまでもない」
彼ではない彼は答えた。
実隆は思わず歯ぎしりする。
――怖い
言葉に直すなら、それ以外の説明ができない怖気。
背筋を走る悪寒が、指先、頭頂、そして末梢の隅々へと伝わっていく。
どこかで 聞こえる 水の音
「……ミノル」
首が動く。
顔がゆっくりと彼の方に向けられていく。
その他、彼の体はいっさい動こうとしない。
まるで蛇が蛙を睨んでいるかのように、瞳を固定して首を起こしていく。
異様な光景――少なくとも、実隆は彼の姿が尋常には思えなかった。
「どうして、兄貴」
瞳がすっと小さく絞られる。
それは――殺意に悦びを見いだす貌。
「お前は、人間じゃない――それだけで十分な理由だ」
くるんと彼の向こう側で光が一回転する。
気がつくと刃は地面と平行に、彼の右手の中に収まっている。
ちょうど左肩が前になるような真半身で、すっと腰が落ちる。
隆弥の貌は、笑顔だった
びりびりと圧力を感じる程の殺意。
まるで、風が彼から吹き付けているように肌が引きつる。
実隆の全身が粟立ち、本能的に背を丸めて腰を落とす。
ずく ん
ぶれる視界にずれる感覚。
強烈に引きずり込まれるような、目の前にいる人物に対する畏れ。
「……そうだ」
隆弥の声が、妙に新鮮に聞こえた。
「お前は――俺と、殺し合わなければならない」
右手に提げた凶器が、ついっと切っ先をあげる。
左手を前に構え、右手を僅かに引いた形で切っ先が獲物を探す目のようにゆらゆらと震える。
「さあ」
ず くん
ひょうひょうと耳元で風が鳴る。
それに混じって、甲高い英語の朗々とした詠唱が漂い始める。
――あの時と同じだ
違うのは。
違うのは――たった一跳びで十メートルも後退し、体全体で着地の衝撃を受け止めながら実隆は思う。
――違うのはこれが現実で
もう一度、自分の力で地面を蹴る。
それが今までとは比べ物にならないのか、靴の底が潰れる感触がした。
それはまるで、柔らかいガムを踏みつけたような感じで。
――自分の意志で、こうなっている、ということか…
いつの間にか表情から笑みは消え、完全に戦闘態勢を作った隆弥が姿勢を低くして突進してくるのが見えた。
「化け物……それはてめえの事だろうが!」
十メートルをほんの何分の一秒で縮める彼に向けて、実隆は叫んだ。
「俺が化け物だって?けっ、どっちが化け物だい。自分の勝手で自分の理不尽な意志を突きつけるような真似をする『人間』だろう?お前らはっ」
流れるような英語の詠唱で応える隆弥の右手が消える。
実隆は一気に一歩踏み込んで――
弾けるように二人は間合いを切った。
しゃくるように振るわれた日本刀。
実隆は右足から踏み込んで、内側へと全身をねじるようにして懐まで入った。
そして、右手を隆弥の右肘へとのばしたのだ。
――……以外に
隆弥はかろうじて地面を蹴って間合いを切るしかない程、振り伸ばした刃が実隆に届くより早く実隆は懐の中にいた。
実隆の狙いが日本刀でなければ間違いなく『先に一撃』できたはずだ。
――甘いな
とはいえ。
あのまま肘を捉えられていれば、右腕はごっそりもっていかれたはずだ。
隆弥は目尻をはっきりと判るまで吊り上げて、目を細めて笑う。
口元から漏れるのはいつまでも続く詠唱。
言葉の中に潜む束縛。
それが因果律を支えて彼の目の前の獲物を、確実に『檻』へと閉じこめる。
『檻』の中に閉じこめられた『化物』は、切り裂かれるのみ。
――生きがいいのは、良い事だ
「やめてくれよっ」
実隆が叫んでいるのを、しかし隆弥は聞いていなかった。
◇次回予告
「ヒイラギミノル、お前が俺を兄貴と呼んでいたのは少なくとも俺ではない」
闘いを続ける二人。追う――菜都美。
そして変わらないものはあるのか。
思いがけず、実隆は。
Holocaust Chapter 3: 隆弥 第5話
ミノルっっ!駄目っ
穹の果て
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