Holocaust ――The borders――
Chapter:3
隆弥――Takaya―― 第3話
――警察……
実隆は近づいてくる警察官を見て、口の中でしまったと呟く。
――こんなことなら鞄ぐらい持っておけば良かった
「…高校生?」
自分から声をかけておきながら、今度は警察官の方が訝しがる番だった。
冷や汗がこめかみを伝う。
「ええ、もう卒業まで間近なので自主登校の期間なんです。私たち、予備校に行く途中で」
咄嗟に菜都美が反応した。
制服姿以外、説得力も何もないのに――だが警官はああ、と怪しむ事もなく頷いて、懐から手帳を出した。
どうやらあんまり興味がないらしい。
――補導じゃないのか
実隆は思わずため息をついて
「じゃあ、二三質問、いいかな」
「…なんですか」
それでも警戒を解くことなく応える。
菜都美も、いつの間にか僅かに身を引いて実隆より後ろにいる。
「昨晩、この辺りで人の声とか、誰かが通ったとか、些細なことでかまわないから教えて欲しいんだけどね」
思わず実隆と菜都美は顔を見合わせた。
警官の質問には判らないと応えておいて、二人は近くを見て回ることにした。
――そして、数分もしないうちにその場所は判った。
繁華街から歩けば数分だろうそこは、四方を住宅地に囲まれた大きな公園だ。
これでは神社――鎮守の森とそう変わらないではないか。
公園の周囲には無節操に植えられた木々が生えていて、中の様子を見ることができない。
それ以前に、今はどの入り口にも数人警官がいて、立ち入り禁止になっている。
だが判る。
警官の出入りや、その緊迫した雰囲気から――そこで何が起こったのか。
「行こう、多分見ちゃいけないから」
菜都美の声に僅かににじむ喉元の汗を手の甲でぬぐう。
既視感
ぞくぞくと全身の肌の下で何かがざわめく。
――これが ちのにおい
理解している。
だから背中から引っ張る菜都美に頷いて見せて、そこから背を向けた。
「…間違いなく、あそこで人が死んでいる」
死体は既に撤去されているはずなのに、濃厚に血の意識が脳裏に残されてしまった。
妙に敏感に。
「少なくとも二人…恐らくは五、六人」
菜都美は疑うそぶりも見せない。
多分聞き流しているんだろう。
「関係あるかな」
「……」
菜都美はうつむいている。
実隆は即答できなかったことを悔やみながら、付け加えるような形で言う。
「噂を聞いた。…兄貴の奴、駅裏に出入りしてたらしい」
剣道の道場――多分、間違いなくそうだと思うが、こうなれば疑うしかない。
「駅?」
「ああ、道場に通ってたと本人は言ってる」
ちなみに繁華街の方向から言えば、丁度こちら側からであればそう呼ばれる地域を通り過ぎて駅に行くことになる。
「調べておこう」
ここから駅裏までは、実は駅の方向に一直線で向かうことができる。
細い入り組んだ路地で、知っている人間でなければ滅多に踏み込むことはないだろう。
第一、車を乗り入れるには狭すぎるので、車なら少し大回りでも駅前の通りへと向かう。
駅裏までは緩やかな下り坂になっているので、ここからなら駅がよく見える。
その側を通る川まで。
実隆は無言でその川を見つめた。
菜都美はその様子に気がついたようだったが、果たして、何も言わなかった。
「駅の近くにあるビルに、お前んとこの道場があったよな」
「そりゃ、あるけど…隆弥さんは来てないはずよ」
「違う。道場を持ってるんだったら、同じような道場がどこにあるかぐらい判るだろう?」
菜都美はその質問にあんまりいい顔をしない。
「…同じ剣道の道場ならね。うちは剣道の道場なんかじゃないわよ」
突っ慳貪な回答にかちんと来るが、菜都美の方が先に言う。
「でもそうよね…手がかりなしよりましよね。商売敵の事なら確かに知ってるでしょ?」
ぷいっと背中を見せて、ずんずんと歩いていく菜都美。
実隆は下唇を噛んで、彼女の後を追う。
――やべえな
追いつめられている気分。
思わず険悪な雰囲気になりそうになったのを、菜都美は無理に振り切ったのだろう。
――落ち着け
菜都美も同じなんだろう、と自分に言い聞かせて、しばらく無言で道場に向かった。
真桜の道場は駅前にある大きなスポーツジムのビルの七階を陣取っている。
7Fの文字の側の『紹桜流古武術道場』という、硬質な感じの文字が刻まれた金属板。
いつ見ても『武道場』という雰囲気ではない。
「…木の板にしろとは言わないからさ、せめて毛筆体の方が良くないか」
思いっきりゴシック体で書かれた看板には重々しさというのを感じられない。
菜都美も疲れたため息を吐いて首を振る。
「駄目駄目。母さん言うこと聞かないもん」
それに『重々しかったら入門希望者も減るわよ』という彼女の母の考えから、らしい。
母子家庭――少なくとも治樹は父親の顔を知らないという。
菜都美もそんなに父を覚えている訳ではない。
しょっちゅう『海外遠征』だの言って家を空けていたらしいが、ある日を境に急に帰ってこなくなった。
死んだ――何の連絡もなく今までに至るから、そう言うことになっている。
彼女の父親も『真桜』の人間だ、どこでどうなったのかは明確に判らないし――想像したくもない、という。
母親も諦めていたのか、特別な感慨はなかったらしい。
治樹の一件も、彼女たちは同じように考えているという。
――いつどこで、どんな死に方をするか判らないから。
実隆は黙り込むしか思いつけなかった。
自分の家族がそんなに簡単にいなくなるという状況を知らないからだろうか。
――なんでそんなに、身内に対して淡々としてるんだ
当然の疑問を彼は喉の奥で飲み込むと眉の間に僅かに皺を刻んだ。
それ以上は彼自身にも判らなかったから――もう、言葉にもならなかった。
エレベータに乗り、道場の入口まで一息に登る。
エレベーターホールの目の前に受付らしきものがあり、ごくごく普通のガラス扉に道場の名前がある。
それが道場だった。そう、道場なのだ。由緒正しき伝統ある古武術の道場だ。
「初めて来るが…」
実隆は唇を震わせて目を彷徨わせる。
どうにも良い表現が思いつかない。
「ごめん、言わないで」
ガラス扉の文字は、丸ゴシックで金文字。
――どこかのスイミングスクールじゃないんだから
威厳も何もあった物ではないと、半ば呆れてため息をついた。
音もなく開くガラスの入り口をくぐると、硬質で甲高い気合いが聞こえた。
入り口付近からは木造で確かに道場らしい雰囲気がある。
「あ、姉さん来てる」
今の気合いはどうやら彼女の姉――明美のものだったらしい。
ひょい、と覗くと白い道着に袴をはいた女性が長刀を振るっていた。
実隆は言葉を失って、一瞬目を丸くした。
意外だったのは――その、あまりに実践的な、無駄のない動きか。
その動きはなめらかで、長刀がまるで獲物を求めてしゃくるように無機質で的確。
長刀のように長柄の先にある刃は、手元の動きだけでで幾らでもシビアに操作できる。
日本刀の刃を持つそれは手練れの手にかかれば恐ろしく鋭く、早く、そして力強い。
刃が反射する光を、空気を切り裂いていく。
ため息が漏れるとはまさに――
「…見惚れてるね」
からかうような声に実隆は現実に引き戻されて、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
じろっと目だけを菜都美に向けて睨み返す。
「五月蠅い、いいからさっさと聞いてこい」
ほーい、と適当な答えを返して走っていくのを見送りながら、彼はがりがりと頭をかいた。
長刀の演舞を続けている彼女は腰程まである長い髪に、人の良さそうなたれた目を必死に吊り上げている。
――ふぅん
菜都美が御転婆とすれば、彼女はむしろ家庭的なおっとりした女性だ。
初めて会った小学生の時にはもう高校生だったからかなり年上なのだろう。
虫も殺せないようなのんびりした、年上のお姉さんというイメージしかない。
だからこんな彼女の様子を見れるとは思わなかった。
一通り終わったのか、彼女は長刀の端でとん、と足下を叩くようにしてそれを一度直立させる。
作法なのだろうか、その後それを床にまっすぐに置いて、壁際に置いているドリンクへと手を伸ばした。
「……あ、あーっ、もしかして、楠くん?」
ドリンクのチューブを外しながら、彼女はやっとこちらに気がついて、笑みを浮かべながら声をかけてきた。
にこっとした笑みは、さすがは菜都美の姉だけあってよく似ている。
「柊です」
「えーっと…ああ、そうそう、楠くんところの柊くんっ。もう、同じ家に住んでる家族なのに名字が違うなんて」
少し口を尖らせて、人の好さそうな笑顔に目をたれさせる。
よく判らないが、どうやら非難されているようだ。
実隆は困った貌を浮かべて曖昧な返事を返す。
「何?入門?柊くんならきっと素質があるから、すーぐ師範代よ」
何の根拠があるのか笑いながら言うとチューブに口を付ける。
透明な液体がチューブを昇っていく。
「いえ、そうじゃなくて…」
ふと気がついた。
そう言えば彼女は汗をかいているように見えない。
あれだけの動きをするのであればそれだけ疲れるだろう――なのにそんな様子もない。
まるで呼吸でもするように、食物を摂取するように自然に、彼女は演舞していたというのだろう。
――相当の手練れじゃないか
「んー、なに、じーっと見つめて」
んふっと嬉しそうな声を上げてにっこりと笑みを浮かべる。
間違いなく年上なのに、その仕草は子供みたいで可愛らしい。
の、だが、何故か取って喰われるような印象を受けて、ますます困った表情で乾いた笑いを返す。
「ミノル、見つけてきたよ」
そこへ菜都美が事務所からとって返してきた。
――助かった
菜都美が右手に握った地図をひらひらさせて近づいてくる――それに気を取られる。
――不意に、人の気配がした。
「ふぎゅ」
突然自分の顔の前に影が現れたと思うと、それが反応できない程の速度で襲いかかってくる。
ふに、と柔らかい感触と花のような香り。
「えへへへ、可愛い」
実隆は道着で羽交い締めにされるように、思いっきり真後ろから頭を抱きしめられていた。
「明美姉!」
嬉しそうな貌で実隆をいたぶっている姉に、彼女は思わず声を上げる。
「あらー、なっちゃん?今新しい入門者を勧誘してるのよ、何怖い顔してるの」
多分、誰が見たって勧誘には見えないだろう。
第一顔を抱きしめる事はないだろう。
実隆は呼吸困難になっているのかじたばたと暴れている。
「それは勧誘じゃなくて誘惑でしょ!」
――ふむ、それは正しいだろう。何だか気持ちいいし
何となく意識が落ちかけていて既にまともな思考のできなくなった実隆は、思いながら振りほどこうとする。
でも、きちんと極まっていてはずれようともしない。
「あら失敬な。ねー柊くん」
「もがもが」
片方の腕が目を。
もう片方の腕は鼻から口にかけて。
きちんと肉で圧迫しているので、返事するどころかほとんど呼吸ができない。
しかも、両拳は無意識かどうか知らないがきちんと頸動脈をついている。
「ほら、そうだって言ってるじゃない」
「明美姉…博人兄に言いつけるよ」
「へーきよ、ヒロくんわたしのこと愛してるもん」
――どうでもいいよ、そんなこと
実隆はそう思いながら、意識が真っ白になっていくのを感じていた。
「ごめんなさい」
そのせいで道場を出たのは昼前になっていた。
クセなのかきちんと落ちるまで離してくれなかったせいで、意識を取り戻すまで時間がかかった。
――ああいうのも締め落としって言うんだろうか
まだ血が足りなくてぼぉっとした頭を振りながら答える。
「いや。悪い訳じゃないよ」
結果として一時間程時間を無駄にしてしまったのだが。
しかしはっきりと判った。
彼女は完全に気配を絶って真後ろをとった。
いかに彼が素人とは言え、音もなく気配も見せずに組み敷かれたのだ。
――倒されたわけではないが。
「でも驚いた。久しぶりに顔を見たと思うけど、あんな人だったっけ」
「昔からね。…気に入ったものは抱きしめるクセがあるのよ」
頷きながら――好かれているんだったらいいか、とも思う。
彼女の家系の事を考えるとそれも不思議ではない。
「何よ。明美姉には夫がいるんだからね」
すねた声が聞こえて、実隆は首だけひょいと彼女に向ける。
「いるんだからって…お前ね、何むくれてるんだ」
菜都美は困ったような表情をして顔を背けていた。
すねている。
一呼吸程様子をうかがって、実隆は口元を歪めて笑みを浮かべた。
「なんだ、やっぱり自分が御転婆だって事を自覚してるんじゃないか」
「んなっ、何っ…を、ぉ」
びきっと音を立てる程眉を吊り上げて、言葉の意味をかみしめたのか上げかけた拳を止めて、しゅんと肩を落とす。
思わず口の中で笑い声をあげて、また睨まれる実隆。
なんだか痛々しい。
怒ろうとしているのだろうがそれに反発しているのがよく判る。
「悪かったよ。別にお前はお前、明美さんは明美さんだろ」
彼は軽く言って振り払うように右手を振る。
「ばーか、何気にしてるんだよ。らしくねえ」
「らしくなくて悪かったわね」
ふん、と小さく鼻を鳴らして彼女は視線を下げる。
どうやらかなりコンプレックスらしい。
美人で可愛らしくて、結婚している姉。
自分よりも早く成長していく姿を見ているものは、確かに子供心に辛いかも知れない。
「まだ子供だな」
「馬鹿、そんなんじゃないわよ。……それに」
語尾は消えかかるようにして小さくなる。
実隆もあえて黙り込んで、彼女の様子をうかがった。
しばらくそのまま歩いてから、小さなため息をついて顔を上げる。
「んもう、会話しなさいよ、馬鹿」
微笑んで右手で作った人差し指をびしっと実隆の鼻先に突きつける。
「折角色々反応用意してみたのに、何にも言わないなんて卑怯じゃない」
「んあぁあ?」
けらけらと笑い声をあげる菜都美に、思わず語気を荒げて眉を寄せる。
「いいわよいいわよ。ミノル、人の事言う前に一人前になりなさい」
「ちっ」
舌打ちして両肩をすくめる。
何も言うつもりがなくなって、道場は彼女に探させる事にした。
――まったく……
何を考えているのか、彼には理解できなかった。
目が覚めた。
醒めた時には、何故か判らないがビルの屋上にいた。
そこは、『俺』は知らない場所だ。
こんな季節だ、雪でも降るような身を切る冷たい空気が渦を巻いているはず。
なのに、寒くない。
ふれているはずのコンクリートも、何故か冷たさを感じさせてくれない。
不思議に思って、身を起こすと――俺の身体はまだ地面に横たわっていた。
――死んだのか
何の感慨もわかない。
ただ、自分が横たわっているのを不思議な感覚で見下ろしているだけ。
そしてああと嘆息するだけ。
周囲を見回してみる。
俺の周りには数人の人間がいる。
妙に髪の長い女と、ポマードあたりでがちがちに頭を固めた男が二人。
何故か奇妙なのは一人の男は和服だと言うことだろう。
年の頃はそう、四十は行っているだろうか。
彼が何か指示をしている。
俺の周りで。
――こいつらが殺したのか
いやそうではないようだ。
それは見ていれば判る。第一、俺の死体は外観だけでは一切傷ついているようではない。
眠っているだけのようにも見える。
――夢か
と思った途端――『俺』は目を見開いた。
「うわぁっっ」
叫び声をあげて体を起こすと、そこは自分の部屋だった。
楠 隆弥は真っ暗な部屋の中で這い出すようにして電灯のスイッチを叩いた。
だがかちかちと音がするだけで灯りがつこうとしない。
元の電源を手探りで探して見るが、スイッチは入ったままになっている。
――ブレーカが落ちてる?!
焦って自分の部屋の出口に向かい――絶望する。
ないのだ。
自分の部屋にあるはずの、出口の扉がない。
ただの一枚の壁になっている。
――窓
カーテンを引いて窓に手をかける。
最悪の場合叩き割ってでも――だが、そこにふれるのも冷たい石の感触だけ。
ぺたぺたと触れる壁は、叩いてもその分厚さを感じるだけの感触で、とても人間の力で割れる物ではない。
「……嘘だ」
そこはコンクリートで固められた四角い、自分の部屋に似せて作られた空間。
どうやって自分が閉じこめられたのか。
何故、いつからここにいるのか。
そう言えば自分は――いつ、夢を見ていたのか。
そもそも眠っていたのだろうか。
――記憶がない
よく思い出せない。
ここに戻る直前の出来事が判らない。
あかい 死
机も椅子も、勉強道具も、ベッドも間違いなく自分の使っていた物だ。
さわっただけでその違いが判る。
真っ暗闇じゃないのが何故か――そう、窓と扉のない部屋なのに何故薄明かりがあるのか。
――これも夢?
隆弥はこめかみに指を当てて、ベッドに腰をかけた。
直前に見ていた風景――夢の風景は、自分が横たわっていた風景だった。
あの場面から、何か思い出せないだろうか。
――落ち着け、俺は大丈夫だ、しっかりしろ
先刻の自分の服装は。
見慣れた自分の私服姿だった。時々鏡で見たことのある自分の格好だった。
よく――そうだ、少ない私服の中でも自分で選んだ、余所行き用の服のはずだ。
あれでスポーツなんかしない。
血飛沫 崩れる少年の姿
――そうだ、俺は――
これは夢なんかじゃない。
先刻のも夢なんかじゃない。
もし、記憶が飛んでいるのであれば、この不連続な記憶の、大元はどこにあるのか。
それは――
はたして。
駅のそばに道場は何軒かあった。
だが、そのいずれの道場も――関係のない道場でしかなかった。
『楠 隆弥』の名を知っている道場は確かにあったが、櫨倉の剣道部の師範がいる道場だった。
――隆弥が通っているはずの道場に、彼は今まで一度も顔を出していなかったという。
「どういう…事だ」
道場をでて、実隆は愕然とした貌で頭を振った。
隆弥が嘘を言っていたのだろうか。
「ミノル」
菜都美も険しい表情を浮かべ、実隆を見つめていた。
軽く首を横に振り、実隆はその視線から貌を逸らせる。
「ミノルっ」
「五月蠅い、黙れ。この巫山戯た状況を、あいつ自身に問いつめてからでも良いだろう!」
叫んでから、菜都美の驚いた表情を見てから後悔してしまう。
「ごめん…思わず怒鳴っちまった」
一月前の記憶が蘇る。
あの日の夜、彼が言った事が全て嘘だったのなら理解できる。
あれらが全て夢などではなく――自分を殺そうとしたのも事実なのだとするならば。
「兄貴…」
悔しそうに彼は呟き拳を固める。
――こんな残酷な話ってあるかよ
「そうよね。早く探しましょ」
彼女がそう声をかけて歩き出そうとして――気配を感じた。
実隆も動かない。
――…なんだ
悪寒。
それもとびっきり極上の悪寒だ。
振り向いて声をかけようとしているのに身体が言う事を聞かない。
菜都美の掌が背中に触れたまま離れない――恐らく、菜都美も同じ状況なのだろうか。
じりじりと視線と言う名の威圧感が、周囲に満ちていくのが判る。
これは――
――人間の気配だ
それも間違いなく、自分のような物をわざわざかり出すための、専門的な戦闘集団に違いない。
この間とは気配の質が違いすぎる――自ら、丁度蛇が鎌首をもたげて蛙をにらみ据えるのと同じように。
肉体が叫ぶ。
本能が警告する。
脳髄の裏側から、畏れが零れてくる。
ただひたすらに――逃げろ、と。
ふ、と。
その時枷がはずれるように、全身の緊張が解ける。
「…なんだ、お前ら。学校がある時間じゃねぇのか?」
真後ろから、聞き覚えのある声が聞こえる。
同時。
刑事の言葉は続いていたが、異常に歪んだ音を立てて彼らの耳に届く。
振り向く実隆の視界に、木下警部の姿が映り込む――だがその姿はレンズを通したように虹色の縞模様を浮かべている。
「――刑事、さん」
きゅ、と。
菜都美の手が自分の肩を掴むのが判った。
――来る
と、思った瞬間。
音とは言えない音が、突然その周囲に発生した。
それは球体の表面のようで。
いきなり身体を見えない球体に押し込まれたような圧搾感と肌の緊張。
視界が強烈な
同時にそれらが密度の波として身体の中心へと――
どくん
そしていきなり全てが弾けた。
どう表現すべきだろう。
その一瞬を境にして――突然、物音が消えた。
白いモノクロ――ただ影だけが仄暗く灰色の世界。
突然光という名前が、意味を失った。
あちこちで異常な音と、鈍く肉を叩く音が響き、何人もの人の気配が交錯する。
――っっ!
実隆は突如自分に向けられたあからさまな殺意が、鋭く細く、まるで刃のように襲いかかってくるのを感じる。
どうやったのかは判らない。
ただ必死になってその筋のようなものから身をよじってかわす。
鋭く空気を切り裂くものが皮膚感覚に与えられて、それを音として理解する前に体が弾ける。
意志――殺気の源に向けて、体が動く。
「!!」
体が、自分の意志よりも早く動く。
右手が肘を中心にして円を描き、掌の小指側が弾けたように直線的に跳ね返る。
と、小指から手首にかけて痛覚が顕れる。
まるでそれは、痛みの伝達速度よりも――正確にはそれを脳が『痛みである』と判断するまで――早く動いているかのような。
同時に白い世界が――開ける。
痛みが彼の意識を現実へと呼び戻すかのように。
まるでそれまで目の前を覆っていた煙がはれるように。
モノクロで反転した奇妙な影が、現実味を帯びた風景へと変化していく。
色彩を帯びた。
今までの風景は消え去り――いつもの、街の路地裏が彼の視界を覆い尽くしていた。
「……嘘だ」
視野が、自分の動体視力で終えない速度で揺れる。
いや。
自分の体が『何か』に反応して弾けた――それを理解する時には、自分の身体をそう認識して、自らの意識で操っていた。
弾けたとしか表現できない速度で直線的に、地面に平行に走る。
ジグザグと大きく体が前後左右に跳び、その『何か』を避けていく。
その側を抜けていくのは――音の壁は恐らく『刃』。
先刻見つけた『殺気』の塊が再び、レンズに通された光のように絞り込まれる。
レーザーサイトで狙いをつけられるような感覚。
その、細く鋭い針のような殺気を逆に辿る――意志の流れを読む。
手順は簡単だった。スコープの反射光を追うカウンタースナイプと同じ要領と言えるかも知れない。
「ミノル――」
鋭い殺気を帯びた『もの』が白い世界をより白くさせながら迫る。
まるでVの形のように、目の前でそれが止まる。
遅れて音と色が顕れる。
更に遅れて、体の感覚が自分の体勢を知らせてくる。右膝を折り込んで、左膝を立てて座り込んでいると。
視線はまっすぐ、斜め上方、目の前の鈍色の先を見つめている。
肉体という名前の獣が、敵と認め反応した存在――人間、それも、自分をいつでも殺せる状況の――を見つめていた。
それを理解して、その先にいる人間を知って、実隆は愕然としていた。
だがその邂逅などほんの僅かな時間だけだった。
「兄貴!」
実隆がそう声を上げたのは、もう既に彼が地面を蹴り、視界の外へと消えてからだった。
焦る彼は体を弾けさせて強引に立ち上がる。
ぞわり
何故、気がつかなかったのだろうか。
鼻を突く刺激臭は、自分の知っている限りもっともっと嫌なものだったはずなのに。
血の臭い
一瞬だけ捕らわれかけたが、彼は頭を振ってすぐに隆弥を追うことにした。
どうせ言う程も被害はないはず――だ。
地面を蹴る。
今は隆弥を追い、今のこの全てを理解させてもらわなければならない。
――それが、最優先だ
かちりとはまったパズルのピースみたいに、全てがクリアになる。
同時に彼は体が軽くなったみたいに動き始めた。
◇次回予告
「第一愛想良くする必要はないだろう?」
衝突する青年二人。
「飯山巡査部長!栗木巡査!急いで車で連絡を!」
荒れ果てる駅裏。
Holocaust Chapter 3: 隆弥 第4話
……あれは、やはりミノルか
進み続ける時計の針
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