岩戸山尾根末端から湯河原城山 湯河原城山

熱海の裏にあたる岩戸山の尾根末端から見ると、湯河原の城山は標高のわりに図体が大きいのがよくわかる。少しは高い隣の幕山や南郷山が貧弱に見えるほどだ。下から登る道を実際に歩いてみても山頂までは意外と時間がかかる。駅から直接登る道はほとんどが舗装道で面白いとは言えないが、頂上を越え、源頼朝ゆかりの史跡「しとどの窟(いわや)」を尋ね、幕山梅林に下る周遊ルートは全体としてみると変化があって楽しめる。一度は辿ってみてもいいのではないかと思う。


この山は名の通りかつての山城で、源氏や平家の時代に湯河原一帯を勢力下においていた土肥氏のものだという。山城とは一般に有事の際に籠もるもので、ふだんは麓の居館で生活したらしい。土肥氏の館は今回の出発点の湯河原駅あたりにあったそうである。
蜜柑の無人販売がそこここにある急傾斜の車道を上がる。途中には城願寺という寺があり、ここに土肥一族の墓所が残っている。神奈川県指定史跡になっていて、説明板には「六六墓の墓石があり嘉元二年(一三0四年)七月の銘のある五層の鎌倉様式の重層塔や、永和元年(一三七五年)六月の銘のある宝筺印塔(ほうきょういんとう)をはじめ、塔身が球形をした五輪塔などの各種の墓型がそろっています。」とある。これだけの種類の墓が一ヶ所に揃っているのは関東地方では珍しいのだそうだ。
たしかにわずか十坪程度の敷地にこれでもかとばかり数百年を経た墓石が所狭しと並んでいる様は壮観である。一人で相対していると昼間でも静謐な気分になる。いや、賑やかな静謐さというべきだろう。ところで個々の墓石はあまりに長いこと置かれているせいか、自重で傾いているのが多い。じっとみているとこちらの水平感覚が歪んでくる。空間が波打ってくる。こういうものに影響されやすいひとは見えるはずのないものを見てしまうかもしれない。
土肥一族の墓石群の一部
土肥一族の墓石群の一部
寺の敷地からは湯河原の街とその向こうに広がる明るい相模灘を見渡せてとてもすがすがしい。このあたりに住んでいる人たちは毎日こんな風景が見られてうらやましいものだ。その景色に背を向け、ふたたび山頂近くまで長々と続く舗装道に戻る。


登っていくと、右手に見え隠れする大きな山が異様に明るいのに気づく。幕山である。背後の山々が常緑樹で黒々としているのに、この山だけがほとんど全山冬枯れしたカヤトのため、不気味なまでに浮き上がって見える。箱根火山の裾に噴出した単成の寄生火山だそうだが、あらためて見るとけっこう奇異だ。クライミングのゲレンデとなっている幕岩は見慣れているが、じつは裾野というものがないことに気がつく。この釣り鐘型の形状は、かなり粘りけの強い、固い溶岩が地表を突き破って盛り上がった結果なのだろう。
さて、寺から一時間強ほど急な道をたどり、やや平坦となってから少し歩くと山頂となる。やたらと大きな「土肥城跡」の石碑が目立つが、たしか文字は「小早川男爵」なる人の筆と記憶している。土肥氏の後胤が小早川氏だそうなので、揮毫者はきっと土肥実平の子孫にあたるひとに違いない。
記念碑のまわり一帯は芝生の広場になっている。海側が上下左右に大きく開け、城願寺で見るよりさすがに眺めが雄大だ。登ってくるあいだでも伊豆大島や初島、真鶴半島が交互に見えたが、ここからはその全てを障害物なしに見渡すことができる。登りの無味乾燥さを補って余りあるほど気持ちよい。それに何より静かだ。あとからやってきたハイカーによれば、隣の幕山はそうとう騒がしかったそうだ。芝生に寝ころぶと暖かく、明るいものの冷たい冬の空気を忘れられる。寝そべったままおにぎりを頬張り、伊豆半島の火山地形の山々に視線を漂わす。
城山の山頂にて
城山の山頂にて 
右手に初島と大島
帰りは来た道を戻らずに幕山の麓の梅林に出ることにし、椿平という地点に続く稜線を歩く。ようやく山を歩いている気になったのも束の間、立派な石畳道になってしまって車道に下ろされる。ここからいま下った稜線を車道のトンネルでくぐって反対側に出れば、右手に下りていく道がある。源頼朝が平家との石橋山合戦に敗れて隠れたという「しとどの窟(いわや)」への入り口である。
石灯籠がえんえんと続く階段道で下り着く「しとどの窟」は予想以上に大きな岩屋で、天井となる岩盤の中央のへりがくぼみ、そこから水が盛んに滴り落ちている。ここに頼朝は城願寺を創建した土肥実平と七人の従者とともに潜んでいたということだが、平地からは展望できない狭い谷間の奧にあり、見つかる恐れもなく、一息くらいはつけたものだろう。頼朝が隠れなかったとしても、後世に隠遁者の一人くらいは住んだかもしれない。


少し戻って幕山の麓へと下る分岐に出る。じつは岩屋に寄る前から驚いていたのだが、その分岐には立て札があって「工事中につき迂回をお願いする」旨が書かれていたのだった。いきなりここで自分の足しか頼れないハイカーに他のルートを探せと言われても困るわけで、回り道をさせるなら城山山頂に札を立てておくべきだろう。昼過ぎに歩き出したのでもう4時前、余計な大回りをすると安全なところに着くまでに暗くなってしまう恐れがある。下って下れないこともないだろうと緊急避難の意味を込めて進むことにした。
通行禁止は山道を下りきって飛び出した先の林道工事が理由であって、山道に問題があったわけではなかった。このルートだが、南郷山・幕山およびこの城山という湯河原の山々でもっとも深い山の雰囲気の感じられる道である。これを林道工事を理由に通行止めにするのはあまりにもったいない。城山ハイキングコースを宣伝している地元はもう少し考えてほしいものである。
この日は休日なので工事も休みであり、造成中の道を平気で歩いていった。先には幕山が残照を受けて最後の輝きを見せている。そのせいか、まだ幕岩のゲレンデに取り付いたままのクライマーがいる。日の陰ったころに幕山の麓に出ると、そこには何本もの梅が控えめに、親しげに、咲いているのだった。
2002/2/11

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