陣馬尾根から小河内峠・月夜見山陣馬尾根にて

9月上旬の日曜日の朝、自宅上空を覆っていた雲は、武蔵五日市駅に来てみると市街地の背後にある低い山並みにかかるほど下がってきていた。久しぶりに奥多摩に足を向け、御前山と三頭山とをつなぐ稜線を歩きに来てみたが、眺めは期待できなさそうだ。だが静かなことは間違いない。以前から訪ねてみたかった月夜見山の山頂を踏むには、お誂え向きとも言えるだろう。なぜならこの山のまわりには奥多摩周遊道路という車道が通っていて、好天時は落ち着かないくらいに騒がしいだろうからだ。


駅前から出るバスは町並みを抜け、秋川に沿って走る。こんな天気でも水遊びに集ってくるひとたちが目立ち、川縁は華やかな雰囲気だ。だが両側から迫ってくる山肌が角度を増し、谷間が狭まってくるにつれてあたりは山深い様相を呈し始め、バスの乗客も一人減り二人減りしていく。稜線のありかもわからない谷の奥を蛇行しながら登っていくころになると車内は私一人になっていた。
終点の藤倉では密度の濃い霧雨が漂うように降っていた。五日市に買い物にでも出かけるのか、集落のお年寄りを何人か乗せたバスが入れ違いに山を下っていく。雨具の身支度をして陣馬尾根への登り口を探し、霧が漂うなか尾根沿いの車道を登っていった。
車道が途切れたところからは道幅の狭い簡易舗装となった。山腹を行く見晴らしのないもので、右手に灌木で遮られた谷筋を見下ろすようになっても舗装はなくならない。尾根に登る分岐があり、その脇の石仏を見送ってしばらくして再び高みへの分岐が現れる。陣馬尾根路は稜線通しを行くはずだったが、すでにかなり低いところを歩くようになっていたので、この分岐に入ってみた。
陣馬尾根にて
陣馬尾根にて (1)
その先にあったのは、道幅には似つかわしくないほど大きな昔ながらの家だった。手前には差し掛け小屋が造られていて、風呂の薪にするのか、たくさんの木ぎれが積んである。玄関までの道筋には雑草もなく、今も住まう方がいるのだろう。安易に近づいては失礼に当たる。分岐からの道はこの家で行き止まりになるとみなして、引き返すことにした。
簡易舗装の道はさらに山奥に続いていたが、その先にも似たような家があるに違いない。こういうところでの生活はどういうものだろうか。静かなことは静かで、耳目に映る季節の移り変わりも豊かだろうが、心細くはないものだろうか。やはり暮らしているのはお年寄りだけになっているのではないだろうか。軽自動車も入らない山道で資材を運ぶことを考えれば、家を改修するのも一苦労だろう。荷揚げはトラクターのようなものを使われるのかもしれないが…
石仏のあった分岐まで戻って尾根側に登っていくと、そこにも立派な家があった。簡単な標識があって、小河内峠へを示していた。さらに二軒ほどの家を見送って、ようやく尾根筋に出た。


陣馬尾根にて
陣馬尾根にて (2)
陣馬尾根は、登り初めこそやや急なところもあったが、そもそもは小河内峠を越えて小河内側、つまり今の奥多摩湖側に出る生活道路であったことから、ぜんたいにはなだらかでよく踏まれた歩きやすい道だった。登りよりは下りにとった方がよいように思える。
標高を上げれば上げるほど霧は濃くなってきていた。道ばたでは蛙が人間の出現に驚いて保護色で隠れたふりをしようとする。今日は鳥の声は聞こえないが、広葉樹林のなかは広い葉が水分を集めて滴り落とすのが雨音のように響いて賑やかですらある。しかし針葉樹である植林帯にさしかかると、雫の音ははたりと止む。林の奥は白く霞み、幽玄の趣だ。このような天気では杉林のなかも快適とわかった。
陣馬尾根にて
陣馬尾根にて (3)
山腹を巻くように付けられたやや崩れやすい踏み跡をたどるようになると、小河内峠だった。2年前の同じころに訪れたときは雨が降り出してきたが、それでも眺められた石尾根が今日はまったく見えない。本日は展望の点では得るものはないが、陣馬尾根の穏やかさに満足していたのでそれほど残念ではなかった。


峠からは月夜見山へ向かう。ほどほどにアップダウンがある幅広の道を行くと山頂手前の駐車場で、なぜか一台も停まっていない。ここから右手へしばし奥多摩周遊道路の車道を行くのだが、やはり車がまったく来ない。なかば信じがたいが、エンジン音に心乱されずに済むのはとてもありがたい。代わりに舗装路上を走ってくるのは、来月の10月下旬に開催される山岳耐久レースに備えて訓練中の人たちだ。ウェットスーツのようなタイツを履き、足取りが軽そうだった。
周遊道路の脇から登って5分で達する月夜見山は、樹林のなかのちょっとした高まり、という風情だった。たとえ晴れていたとしても眺めはまるでなく、予想はしていたものの、美しい名に見合わないの感があった。しかしよく見れば周囲の木々の枝振りは悪くなく、なかなか落ち着いた雰囲気だ。夜間登山でもして中天に丸い月が皓々と輝くのを仰ぎ見るなどすれば、月読ノ尊の降臨を幻視した気になれるかもしれない。肌寒い空気のなかでつくった熱いコーヒーを飲みながら、そんなことを考えていた。
霧のなかの月夜見山山頂
月夜見山 山頂


ここから三頭山方面に向かい、鞘口峠から都民の森に出てバスに乗った。稜線上では奥多摩周遊道路に一度ならず出させられたものの、往来がないので苦にならなかった。見通しが悪いため本日のところは閉鎖されたのだろう。相変わらず濃い霧が車道上を流れるのを見送って、誰もいない奥多摩三山縦走路の山道を歩いていったのだった。
2003/9/7

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