小河内峠小河内峠から御前山

秋雨が降るようなので、前に行ったことのある山に出かけることにした。
よくない天気を承知の山でも、できれば昼ご飯は雨宿りして食べたい。下山して一風呂浴びられればなおのことよい。奥多摩の御前山などどうだろう。山頂近くに避難小屋があり、下山先を奥多摩駅にすれば風呂もある。
今回は登るルートを変えてみた。三頭山から続く稜線は雨中でも気持ちがよさそうなので、奥多摩湖から小河内峠に上がった。湖から峠までは一般にガイドが出ていないので静かな上にも静かだった。出発が遅く山中での雨も強まったため、山頂からは境橋に下山した。


ダムサイトの脇でバスを降りると鼠色の雲が空一面で、いまにも降ってきそうだ。でも予報では朝から雨のはずだったのでまだ雨具を着ないですむのはありがたい。ダムの上を渡り、紅葉したら気持ちよいはずの湖岸沿いを入り江の奥まで辿っていくと、林道が行き止まりになって山道に入った。
分岐に立てられた角材のような木ぎれにマジックで書かれたような行き先表示、ここではそんな道標が頼りになる。湖岸一周の遊歩道から離れ、沢の左岸を行く細道をたどる。さらに右手へ、直登する踏みあとに入ってしばらくで、折り返しながら高さを稼ぐようになった。
電光型の振幅が小さくなり、優しげな小ぶりの木々が道ばたに目立つようになると、幅広く草木が刈られた防火帯に出た。錆びかけた案内板がいま登ってきた道筋を指して「ダムサイトへ」と教えている。ここは広い尾根の上で、斜度のないところは都会の公園を思わせる。
防火帯の尾根筋に出る
防火帯の尾根筋に出る
しかしこれは山登り、尾根の傾きは徐々に強まり、ふたたび細かくジグザグを切って登っていく。左手の梢越しに御前山の頂が近く見えてくるころ、道筋は尾根を右に外す。両側の木々に張られたロープのすきまをくぐり抜ければ小河内峠はすぐそこだった。封鎖箇所を振り返ってみると、看板が下がっていて「この先行き止まり」とあった。
この峠は奥多摩周遊道路脇の駐車場から始まって御前山に向かう登山道の途中でもあるので、ふだんはかなり賑やからしい。しかし今日は誰もいない。足下はよく踏まれているせいかきれいな草地になっている。峠の向こう側にあたる秋川方面は杉の植林で眺めがまったくなく、林間を透かしてみても奥はほとんど暗闇のようだ。振り返る奥多摩湖側は樹林でいくぶん遮られているものの、広葉樹が多いのでこんな天気でも明るさが漂っている。ダム湖を足下にした石尾根も望める。
暗い植林のなかを秋川側に下っていく道筋がある。この峠はいまでこそ生活道路でないだろうが、湖のできる前の昔には小河内と檜原との交通路として使われていたらしい。戦時下の1944年に出版された『奥多摩』という本のなかで、著者宮内敏雄氏が綴る文章と手書きでつくられた地図によれば、多摩川からであれば川沿いの熱海の部落から清八新道を登って峠に達し、いったん山腹を巻いて陣馬尾根に乗り、そこから秋川へと下っていったようだ。本日辿った防火帯の道がその清八新道にあたるらしい。「小河内峠」とは檜原での呼び名で、小河内側では「檜原峠」と呼んでいたが、急坂が続いて「のめって」歩くことから、峠そのものはノメダワ、「布ダワ峠」とも呼ばれていた、と書かれてもある。
山を歩く身にしても、青梅線が御嶽駅止まりの時代は、バスで---きっとボンネットバスだろう---鳩ノ巣、氷川と越えて熱海まで揺られ、笹原橋という橋で多摩川を渡って峠に向かったようだ。御前山山頂へはヤブこぎしなければ到達できなかった時代のこと。今は昔の物語である。


湖とその向こうの石尾根を眺めて休んでいるあいだ、雨は雲の上で出発を待っていてくれた。降り始めたなかを峠から一時間、しとしとと落ちる雨のなかの山頂に着いた。誰もいない、ぽっかりと開いた小さな広場だ。半世紀ほど前はヤブこぎしただなんて想像もつかないが、日本中の山がかつてはそうだったはずだ。灌木が育ったせいか夏草が枯れていないせいか、以前来たときより眺めがないのは、昔を今に返すよすがになるだろう。
避難小屋のある反対側に下っていくと、何人かが登ってきた。小屋は以前のものを取り壊して新築されたようで、なかには一夜を山中に過ごそうとする初老の男性が一人いるだけだった。その軒先に雨宿りして湯を沸かし、食事した。コーヒーも飲んだ。暖かい飲み物がとてもおいしかった。
下山は終始、雨の中だった。山裾を雲が這い上がっていた。
雨の山里
雨の山里
2002/9/22

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