黒滝山再訪黒滝山・九十九谷

いつもは11月の下旬に訪れる西上州の南牧村だが、今年は都合により初旬に来ることになった。湿度がいまだ吹き払われずに残っているのだろう、予想以上に暖かく、日陰に入っても乾燥した冷ややかさがない。御堂山でヤブと格闘したのち、本日の宿に入った。
夕食時に流れる天気予報によれば、明日は雨模様らしい。当初の予定は荒船山から毛無岩を経て黒滝山に出ようというもので、高い稜線を行くコースは降らないまでも雲で見通しが悪いだろうから、また改めて計画するものとした。前年も毛無岩を訪れるつもりが中止としており、この山とはどうも相性が悪い。
一夜を過ごす宿は南牧村中心地にあたる雨沢の集落にあり、ここから歩いていくことのできる山はいくつかある。このあたりは山と同様に山村の佇まいを見るのが楽しい。雨沢から山を隔てた裏には下底瀬という集落があるが、さらに山奥に上底瀬という場所もある。一帯は黒滝山と総称される山域で、以前に下底瀬から稜線に上がったことはあるが上底瀬の集落は目にすることなく下っている。ここを訪ねつつ山を越え、不動寺に出る予定とした。


翌朝、予報通り芳しくない空模様を見上げながら宿を出た。勧能へ下る通りを離れて南牧川を渡り、黒滝山・大屋山への脇道に入る。沢沿いに辿ると黒滝山への車道が右手に分岐する。角に一軒の商店があり、いつものように清涼飲料水を買い求めて一休みした。
道を隔ててゲートボール場があり、今朝は休日のせいかすでに10人あまりが集まって試合中だった。そのときの競技者は動きの軽快なおばさんで、次々と相手方のボールを場外に叩きだしていた。自ボールを相手ボールに接触させて置き、自ボールを打撃して相手ボールを弾き出す迫力は怖いくらいだ。あとでこれはスパーク打撃と呼ばれることを知った。名称まで侮りがたい。
商店の縁の下にはすでに今年の蒟蒻芋が天日干しにされていた。家の脇では例年通り柿の木がいくつも実をつけており、その手前の扉から洗濯物を抱えて比較的若い主婦の方が現れ、こちらを認めて挨拶をしてくれる。会釈を返し、黒滝山の鷹巣岩を正面にして上がっていく。左手の沢沿いには秋の彩りが広がり、ことになぜか一群を成しているイチョウの輝くような黄葉が目を惹く。朝も遅いせいか、谷間の奥に続く遠景は白く霞んでいた。
上底瀬にて
上底瀬にて
富士浅間山への登路でもある下底瀬からの黒滝山登山口を見送ると谷間は徐々に狭まり、辿っている車道は右手前方の鷹巣岩の基部を巻くように左手に湾曲する。末端が垂直に落ちる岩壁を右手に見送ると、再び視界が開けて上底瀬の集落が広がる。落ち葉でも焚くのか、高いところの畑地で煙が白くたなびく。はぜる音は届いてこない。
この道筋で最奥となる集落では、時間帯のせいなのか、屋外の仕事をするひとの姿が目についた。そのせいか南を向いた斜面に寄り添って立つ家々はどことなく明るい雰囲気だ。バイクの修理をしている男性がいる。冬野菜を庭先に並べたり、畑で白菜や大根の取込みをしているひとたちがいる。軽トラックが上の畑へと走っていく。エンジン音が遠ざかると、背後には風の音さえ残らない。自分の足取りだけを聞きながら谷あいを詰めていく。
南牧村では初めて見る養豚場を見送ると人家は絶え、最後の畑を過ぎると谷筋の先に灰色の稜線が見え始める。黒滝山の馬の背だ。さえずる鳥の声がこだまするくらい谷間は狭まってきている。頭上から人声もさかんに降ってくるので下ってくるひとがいるのかと首を巡らせてみると、出所は馬の背の稜線そのものだった。おおむね注意を呼びかけたり弱音を漏らしたりしている。林道から左手に山道が別れ、山腹をわずかに絡むと平坦な道となって、馬の背に続く峠状の三叉路に着いた。


当初の予定であればここから不動寺に下り、そのまま小沢橋まで歩ききってしまうつもりだったのだが、やはり馬の背の稜線を見ないで済ますのはもったいない。重たかった雲もいくらか晴れて日も差してきている。山道の表面や木の幹が輝くのに惹かれて、核心部に続く道に入った。
黒滝山の馬の背を登る
黒滝山の馬の背を登る
ほんの少しで、手すりを埋め込まれた細い岩稜が見えてくる。下ったことはあるが登ったことはなく、眺望の佳さと爽快感を求めて足を踏み出す。先行する夫婦の夫君が細君に「下を見ないで登ったよ、帰りはこの道は通れないよ」と言っているのを聞きつつ、その「下」を眺めて天然の橋梁の途中に立ち止まる。周囲は風もなく穏やかな日和だ。そこここに紅黄葉が散らばって灰白色の岩壁に映え、右手下方には上底瀬から辿ってきた里道が青みを残した草木のなかに延び、左手を見れば不動寺の屋根が岩肌を背に明るい。すぐに渡りきってしまうのは惜しいところで、追いつくひとも下ってくるひともいないのをよいことに、清澄な浮遊感をしばらくのあいだ楽しんだ。
手すりや階段のおかげで楽に行けるが、最後の難関、抱えるほどの幅しかない垂直の岩にかかる梯子登りには気が引き締まる。この5メートルほどの梯子がなかった昔、どうやってここを登り、下ったのだろうと思う。手がかり足がかりにしたらしい窪みはあるが、簡単に手を滑らし足を踏み外しそうなものばかりだ。きっと往時はロープか鎖が垂れていたのだろう。
こうして、見るだけだったはずがけっきょく渡ってしまった。戻って不動寺に下り、車道を歩いていくのも気が進まない。できればもう少し落ち葉の散り敷かれた踏み跡を歩きたくもあり、ひとの訪れのないだろう鷹巣岩あたりまで足を延ばして休憩し、そこから下底瀬の集落に下ることにした。


鷹巣岩からの下りは速かった。途中、涸れ沢に出たところで植林の倒木に道をふさがれ、多少道がわかりにくかったが、その下の植林帯に出てしまえば迷いようもなかった。昨年も一昨年も歩いた集会所奥の沢筋に沿った山道を下り、今朝たどった道に出た。
鷹巣岩の手前にて
鷹巣岩の手前にて
ゲートボール場に向かって歩いていると、荷籠を背負ったおばさんが上がってきた。「泊まりかね?」「ええ」「だれもおらんかっただろう」「はい」「主人と娘しか」。…ここでおばさんが宿泊もできる不動寺のことを言っていることに気づく。「いえ、寺ではなくて雨沢の民宿に泊まったんです」「ああ、どちらかね」「”おかしら”さんです」。この宿に泊まるのは二回目で、とくに単独行で静かに山里に浸りたい向きには最適な宿と思う。うるさく構われないのも、客相互を隣り合わせの部屋に宿泊させないところも気に入っている。なかにはひそひそ話さえ向こう三軒両隣に筒抜けの宿もあるが、ここでは気兼ねなくくつろげる。
別れ際に「南牧村には毎年来てますので、来年も来ますよ」と言うと、荷籠のおばさんは嬉しそうに笑って坂道を上がっていった。二年連続で登り損なった毛無岩や、南牧村側から登れるようになった三岩岳や烏帽子岩など、来村する理由はいくつもある。村の佇まいを見るためだけに再訪することもあるだろう。結果的にはそうなった今回の黒滝山のように。
2003/11/ 3

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