町営奥多摩小屋上より石尾根を望む

雲取山から雁坂峠へ

鴨沢から雲取山に上がり、西へ奥秩父主稜線を五泊六日で縦走する予定が、二日目の膝周りの故障が尾を引きだしたので三泊四日目に雁坂峠から甲州側に下った。せめて甲武信岳には、と思ったが、そこは単独行の身、無理をしないという原則を通した次第だ。初日は雨、二日目は終日ガスの中、まさに奥秩父の森を見に行ったという感じの山行であった。稜線では紅葉や黄葉がまっさかり。とはいえ北関東以北の山とは異なり針葉樹が多くて渋い印象だった。


泊まった小屋は、順に町営奥多摩小屋、将堅小屋、雁峠山荘。将堅小屋は平日なので管理人不在。寝具は僅少。雁峠山荘は今年3月から埼玉営林署管轄の避難小屋。寝具はどこかしら壊れている寄贈されたシュラフが4つに毛布が20枚強。どちらも泊まりは私一人。奥多摩小屋では岡部仙人と二人きり。仙人にはギターまで弾いてもらった。
この時期の山小屋はやはり火が焚かれているのが何より有り難い。各小屋では登山者が勝手に焚き火をしたり小屋設置の薪ストーブを使用することは防火のため禁止事項となっているので、夕方6時になって日が沈むともう寒くてしょうがない。これで雨に降られた山歩きのあとだったら、と考えると冗談では済まない。初日がちょうどその状況で、雨中の登りの末、日の入りの時刻きっかりに辿り着いた奥多摩小屋で、火が焚かれていることのなんとありがたいと思えたこと!その他の小屋は無人だったので寒くてしょうがなかった。次にこの時期に来るときは羽毛のシュラフとエアーマットが必要だ。
初日は青梅まで行くともう車外は雨。奥多摩駅で西鴨沢行きのバスに乗り、鴨沢で下車。バス停前の比較的きれいな水洗の公衆トイレ前で雨具に着替える。ここは中に入ってしばらくすると自動的に暖房が入るという親切なシステムになっている。ただし狭い。ここから雲取山へはまず山裾を絡むように車道を上がっていく。
道は平坦で基本的に歩きよいが、何せ雨なので精神的に疲れる。腰を下ろして休めないのがつらい。歩き出したのが昼なので空腹感が襲い、前夜は四時間しか寝ていないので足が重く、さらに歩いて一時間半くらいで防水の利いていない登山靴が中まで水浸しになってしまい、最低の状態。空腹は食べれば何とかなるが、その他はどうしようもない。加えてヤッケの防水がないことに気付いて居らず、上半身が冷えるいっぽうだ(発汗のせいだと思っていた)。結局コースタイムからどんどん遅れ、七つ石小屋との最初の分岐を過ぎたあたりから当初予定の雲取山荘を諦め、素泊まりを承知の上で町営奥多摩小屋までで今日は終わることに目標を変更する。
雲取山から飛龍山への稜線で
雲取山から飛龍山への稜線で
石尾根に出るとようやく安心。だが夕闇は容赦なく迫ってくる。五時ちょっと前に奥多摩小屋に到着。10年ぶりの小屋の戸を開けると、ちょっと雰囲気が丸くなった感じのする岡部仙人が入り口近くのストーブの横に立っている。「すいません、泊まらせてもらいませんか」と言ってみて初めて、自分が声もろくに出ないほど疲れていることに気付く。「ここは素泊まりで、食事はありませんよ」「ええ、知っています。結構です」「では3000円になります」こうしてようやくびしょぬれの靴と雨具を脱ぐことが出来た。後で小屋のラジオの気象情報を聞いていてわかったのだが、日の入りとほぼ同じ時刻に小屋に着いたらしい。本日の自分の行動は装備から何から遭難寸前の行動である。岡部仙人にも、三時くらいに着かないと夕食とかの用意に余裕がなくなる、とやんわりとたしなめられた。
以前に周りに座った部屋中央のストーブは客が私一人なので焚かれず、仙人専用のストーブのそばに座るよう言われる。濡れたものを干し、ますはとにかく暖かいものが飲みたい、とばかりに湯を沸かし、砂糖入りの粉末紅茶を溶かして飲む。おいしい。岡部氏に新聞紙を頂いて湿気取りのために靴の中に詰め込み、それから食事をする。その間、全身は湿ったまま。ストーブの熱で乾かそうと柱にもたれていると疲れのせいでうつらうつらとし、どうやら眠ってしまったらしい。「靴はそんなので来ちゃダメだな」と突然言われ目を覚ます。「こういう皮の靴でこないと」
それからいろいろなことを聞いた。常連の話、前に来たときに聞いたバイクやMTBで来る連中はまだ来るのかどうか、奥多摩小屋に泊まる人は最近どれくらいの数か、主脈を縦走する人はどれくらいいるのか等。仙人の脇にギターが置いてあり、フレットがうまくはさまるような台に乗せてあったので感心すると、リュートの曲らしいのからフラメンコギターまで弾いて聞かせてくれた。 7時半に「もう寝ましょう」と言われ、寝についた。


翌朝は雨も止み、コーヒーをいれて携行食を食べ、仙人から「稜線上の桟道の横すべりにだけは気を付ければ、あとは大丈夫」との注意を受けて小屋を出た。
霜が下りた雁峠山荘前の笹
霜が下りた雁峠山荘前の笹
昨夜は「最近は稜線を縦走するパーティなんて500組に1組くらいだ。明日は平日だし、笠取小屋まで誰にも会わないだろう」と言われたが、実際誰にも会わなかった。もっとも笠取小屋まで行き着かず、将堅小屋で時間切れになった。というのもこの二日目の歩行で膝を痛めたのと、山腹や沢の源頭に設置された桟道が前日の雨で濡れて滑りやすく、中には「ここで横滑りしたら死ぬな」というのもいくつかあって、コースタイムでは歩けなかったということがある。
その日泊まった将堅小屋では夜8時にいったん寝ついたが二時間後に目覚めてしまい、寒さのあまりそのまま深夜2時過ぎまで目が冴えた状態。山小屋まで来てなんで不眠に陥るかな、と思い悩むうちトイレに行きたくなり外に出てみると、思わず恐怖を覚えるほどの満天の星。都会の夜空では大きく見えるオリオン座が小さく見え、天頂にはプレアデス星団。将堅峠方面から天空近くを横切って反対側に延びているのは、何年か前に上州武尊山で見て以来久しぶりの天の川だ。星座早見盤を持って行かなかったのが残念。とはいえあまりに寒くて戸外にそう長居はできなかっただろう。
三日目になると、無理して行程を稼ぐ気もしなくなり、のんびり歩くことにする。笠取峠付近からは南側に大菩薩がピラミッド型の秀麗な姿を見せ、東側には和名倉山が茫洋として掴み所のない「巨鯨のような」図体を晒し、前方には国師岳が君臨していた。やはり奥秩父の盟主は金峰でも甲武信でもなく国師だと思える。
最後に泊まった雁峠山荘には少々感傷的な思い入れもあった。というのも白山書房「山の本」に載った当小屋の記事や同じ出版社から出ている著書の『雁峠だより』などで元管理人の加藤司郎氏の「自然と人間をどこまでも信じた小屋を造りたい」という思いに接していたからだ。現存していて泊まれるものなら泊まりたいと思っていたが、さいわいにしてまだきれいなままで残されており、気持ちよく泊まることが出来た。宿泊者の思い入れがいまだに続いていることは、山荘内に置かれたノートに綴られた今年4月以降の登山者達の思いを読めばわかる。(加藤氏は仲間達と共にこの小屋を廃屋から立派な小屋に修復した週末小屋番であったが、地元の政争の犠牲となったらしく僅か5年で一方的に小屋の管理契約の非更新を通知されたとのことだ。)
朝の笠取山
朝の笠取山
最終日、雁峠山荘を発って雁坂峠から下り着いた西沢渓谷入口は雁坂トンネルに続くループ橋と大駐車場とドライブインが出来ていて、いったい自分はどこに出たんだ、と思うような場所だった。見慣れた東沢山荘を見て初めてどこにいるのかわかったくらいの変わりようだった。
1996/10/14-17

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