吾嬬山夕暮れの吾嬬山。右側のピークが山頂

吾妻(あがつま)郡の吾妻線沿線にあって漢字表記も似たこの山、「あがつまやま」と呼びたくなるが実際には「かづまやま」という。岩櫃山の山頂から北西方向を眺めると、手前の薬師岳の向こうに形のよい三角形を広げていて静かな佇まいだ。
1982年頃の紀行文に依れば、吾妻線岩島駅から吾嬬山と薬師岳の鞍部まで沢沿いに踏み跡をたどり、そこから両山を往復するとある。その後、この鞍部を越える林道が出来たため、駅から鞍部までほとんど山道を歩かないコースが地元新聞社のガイドブックに紹介されている。だが行ってみると、地元でのコース整備が進んでいて、考えていたよりは多く山道を歩くことができた。


駅舎を出たところから吾嬬山への標識が立ち、山道にはいるまで要所要所を案内してくれる。15分ほどで右手に山里を見晴らし、左手前方に山腹にある一軒家を眺めるころ、山道に入るよう促される。この時点ですでに市販のガイドとは異なるルートだが、道幅は広く、山仕事によく使われた道だったようだ。季節柄たくさんの栗が落ちていて、そのまま食べられそうなのも散見される。ただ、あまり歩かれていないことも明らかで、道の真ん中にキノコが生えていたりもする。
五分ほどで右に分かれる分岐が現れる。ここには送電線巡視路を示す「西群馬幹線」の標識があり、右へは13号鉄塔、直進すれば14号鉄塔、と教えている。盛んに案内標識があったわりにはこういうところにないのが片手落ちだが、送電線鉄塔は若番が稜線を越えているのをガイドで確認していたので右手の道に入る。いったん林道を渡って細い山道に入り直し、13号鉄塔の脇を通ると舗装林道に飛び出す。市販ガイドでは、ここまで山里から林道を歩いてくるように書かれている。
舗装林道を渡って再び山道に入り、かたわらに赤松の木が一本見えるところで、またまた林道に出る。ここまで駅から休憩込みで一時間ほど。ここにも立派な標識があり、林道の左右どちらに行っても山頂に達するとある。左へのコースはガイドにない。これもまた最近整備されたものだろう。右に行けば、送電線12号鉄塔をかすめて吾嬬山と薬師岳との鞍部に達する。
薬師岳(左)と岩櫃山
薬師岳(左)と岩櫃山(右奥)
ガイドに依れば、その鉄塔の上に続く尾根を辿っても山頂に行けるとあり、登りで林道歩きを長々とするのもいやなのでそこを通ることにしていた。右手前方に薬師岳、さらにその右奥には岩櫃山を眺めつつ鉄塔の下まで歩き、上に出てみたが、巡視路が途切れたあとはかなりのヤブで、行けそうではあるが快適にはほど遠い。蜘蛛の巣と枝を払いながら五メートルほど進んでみて、挫折した。


山頂からは林道の通る鞍部まで下ってくるという周遊登山をするつもりだったので、残された案としては、どういうものだかわからない「左のコース」で山頂まで行くことになる。林道を戻って標識のある地点を少々過ぎたところで、山側に山道の入り口を示す案内板があった。取り付きは背の高い草が覆っていて「まるで歩かれていないのでは」と気が引けたが、入ってみれば最初だけで、すぐによく踏まれた道型が現れた。枯れた木の枝などが盛んに落ちているが、ヤブはまったくなく、迷いようもない。
この吾嬬山、知名度があまりなく、しかもガイドに載っていないコースを歩いているというのに、幅の広い、しかも大きな溝のようになった道がよく現れる。峠道かとも思ったが、今歩いているのは山頂をめざすもので稜線の最低点を越えようとする合理性が感じられない。山頂近くには上妻(かずま)神社の奥の宮があるとのことで、これへの登拝路だったのかもしれない。
麓近くはともかく、最後の林道から山頂に向かって登っている道の左右はそれは素晴らしい自然林だ。斜度もほどほどのもので、しかも山頂近くになると手前のコブとのあいだにある小広い窪地の林間をそぞろ歩きさせてくれる。頂に着く前から、吾嬬山にはいい意味で驚かされ続けた。
山頂の木々
山頂の木々
林道から山道に入って、一時間弱で山頂に着いた。眺めはそれほど広くなく、正面に隣の薬師岳、その右手に榛名山が見えるくらいだが、あたりの木々は登路同様に気分のよい空間を構成している。訪れる人が少ないのか、三角点近くの地面は草が繁茂しているが、かえって自然な感じで好ましい。
すでに時刻は13時になろうとしている。じつは吾嬬山に加えて薬師岳も往復する予定だったのだが、それにはすぐにでも出発しなければならない。だがそのときは、あわただしく山頂を去る気分ではなかった。薬師岳は次の機会にまわし、腰を下ろしてお茶を淹れ、ゆっくりくつろぐほうを選んだ。


半時ほど休んでから、山頂を辞した。林道が稜線を越えている峠までは、暗い植林のなかを急な下りで始まり、短いヤブを過ぎて11号送電線の脇に出ると、あとは歩きやすい幅の広い巡視路で達する。そこから赤松の木のある山道の入り口まで、ゆるやかな未舗装道を歩く。紫色したキク科の花が咲き乱れる道ばたには湧き水もあるが、水場用にしつらえたパイプは砂で詰まっている。ストックで掻き出すと、とつぜん迸るように流れ出した。顔を洗い、喉を潤す。谷を隔てて薬師岳が名残惜しげだ。次にはあの山から岩櫃山への踏み跡を探ってみよう。
舗装林道に出てからは、山道に入らないまま秋の里を下っていった。斜めになった光の中、荷籠を背負って歩いていくおばあさんたちに何度か出会った。足は速くはないがしっかりしている。道ばたでは流水が溜まっては流れ出す水槽に、ネギの切れ端が浮かんで回っていた。
山里の秋
山里の秋
駅には列車が出たばかりのところで着いた。時刻表を見ると、あと一時間半ほど来ないので、暇つぶしを兼ねて隣駅まで歩くことにした。吾妻川左岸の国道の喧噪を避け、右岸にある比較的静かな道に出て振り返ると、夕暮れの中に吾嬬山がきれいな姿を見せていた。
2002/10/13

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