箱根・千条の滝から浅間山赤みの出たススキのなびく湯坂道

残暑の日々が続いていた9月にあって、秋分の日の振り替え休日は曇りがちのやや肌寒い日だった。朝方、連れとふたりで日帰りの山に行こうと考えたときに、半日行程のルートと温泉がある山域として浮かんだのが箱根だった。連れは箱根の山を歩いたことがないので、いわば入門編を考えてみた。朝遅く家を出るのなら箱根登山鉄道の駅を結んで歩くのが妥当だろう。小涌谷から浅間山に登って湯坂道を箱根湯本まで下るというのがよさそうだ。湯坂道はだいぶ前の冬に歩いたときは一部が凍結して滑りやすかったが、今は秋なので問題はない。
出かけてみると午後から歩き出したせいか人が少なく、とくに浅間山山頂近くは箱根のただなかにいるとは思えないほど静謐だった。湯坂道ではススキが穂を出し始めていた。仙石原や明神ヶ岳付近の稜線など、すぐに銀波があちこちを覆うことだろう。


小田原の手前で東海道線下り右手の車窓に立ち現れてくる箱根の山々は低いながらも屏風のようだ。それらはみな外輪山で、本日の曇天の下にありながら稜線部までよく見えている。相模平野が高曇りでも箱根の山中はガスが渦巻くことがあるが、本日のところは中央火口丘の山頂に雲がかかるくらいで、低いところを歩く分には問題がなさそうだ。
連休の最終日、昼前に箱根湯本を出る箱根登山鉄道は立ち客がそこそこいるほどの混みようだった。3度のスイッチバックを繰り返して着く小涌谷駅は昼間だと有人駅だが、駅前は閑散としていて、かつて二軒あった旅館案内所も一軒は廃業したのか開いていなかった。軒先にベンチがあり、早々に空腹になっていたので地元で用意してきたお弁当を連れとふたりで座って食べる。戻り気味に歩くと交差点があって小売店が目にはいるのだが、かつては軽食も出していたらしいが今はお菓子などを売っているくらいになっている。登る前から持参の食料を食べ尽くしてしまったためパンを二人分買い、強羅へと続く往来の激しい道を尻目に民家の立ち並ぶ脇道へと入る。
観光施設ばかりが目につくが箱根にも人は住んでいるわけで、軒先に湯ノ花を並べて「無人販売」を謳っている家もあれば、竹の盆笊に色紙を貼って花の見頃を知らせるお宅もある。風流な告知に惹かれて立ち寄ってみれば、玄関に続く通路脇に薄青のイワシャジンが小さな首を揺らしている。しばらく眺めるうちに連れは先に行ってしまっており、追いつこうと敷地を出るとすぐ近くの丁字路で立ち止まっている。見ればなんの変哲もない家の脇にコンクリ製の貯水槽のようなものがあり、そこから湯気と共ににじみ出しているのはどうも温泉のようなのだった。もしかしてこのあたりは各家庭にマイ温泉があるのだろうか。その先では猫が何匹も路上に出ている。聞けば最初一匹だったのが声をかけてみたところぞろぞろと出てきたのだという。観光客二名のお出迎えご苦労様なのだが、しかし残念ながら手みやげはないのだった。
千条の滝
千条(ちすじ)の滝
旅館か保養所かの脇を通り過ぎるとようやく舗装は終わって林道のようになる。幅は広いもののぬかるみもあって都会の足回りだとかなり汚れを気にしなければならないだろう。竜頭の滝のような沢を右手に見るとすぐ現れるのが千条(ちすじ)の滝というもので、富士山麓の白糸の滝のミニチュアセットのようなものである。以前から名前は知っていたものの本当にミニチュアだろうと思ってこの日まで寄らなかったのだが、意外と悪くない。予想よりは水量があって幅も広く、これはこれで可憐で涼しげなよい滝だと思える。なにより水流の一筋一筋のすぐ手前まで行けることが珍しい。滝壺というものがないので、滝に打たれることさえ可能だろう。
滝の前には蛇骨(じゃこつ)川にかかる幅広の木橋があり、渡ると山道が二分している。右手へ、川沿いに歩くらしい鷹ノ巣山へのものを見送り、浅間山に向かう登り勾配の細い山道に入る。海に近く植物の繁茂が盛んな山の常で眺めはほとんどなく、かつ湿度が高い。火山性の土壌が相当に歩き込まれて露出してしまっているのか滑りやすい場所も多いようだ。登りだして15分ほどもすると周囲が明るくなり、先ほどまで聞こえていたエンジン音も耳に入らなくなる。誰も下ってこないだろうと思っていると前方から声がして、見上げてみると町中の格好をした若い男女が下ってくる。男性のジーンズにTシャツはよいとして、女性のスカートという出で立ちはさすがに体裁が悪そうだった。


ハコネザサが左右に卓越してふたたび眺めが悪くなるうち、じめついた感のある三叉路の宮ノ下分岐に着く。ここから右手へ5分ほど行くと突如として爽快な空間が開ける。切り開かれた防火帯の草地の広がりはすでに山頂部で、正面に駒ヶ岳、二子山が高い。これらを仰ぎ見て腰を下ろせるベンチがすぐそこにあるが、初老のご夫婦が先着で、テーブルを前にしてお茶を飲んでいる。特等席は埋まるのがはやい。
浅間山山頂は左手へと防火帯を少々登ったところで、千条の滝から半時しか経っていないのに里の喧噪は全く聞こえなかった。往路を振り返れば木立の上に神山が大きい。さすがに秋の色づきにはかなり早いが、盛期はさぞ素晴らしい眺めだろう。箱根の紅葉について聞かされているのは、全山が染まるというのはないが、場所を選べば長く愉しめるというものだ。ここにもテーブルとベンチがあり、荷を下ろして湯を沸かし、コーヒーを飲んだ。僅かな登りだったとはいえくたびれはした。風はないが暑くもなく寝るにはちょうどよい気候だったので、二人してベンチに横になり、少々眠った。浅間山山頂は紅葉時にまた来てみたいところの一つだが、そういうときはこの日のようにゆっくりはできないだろう。
浅間山山頂から神山を仰ぐ
浅間山山頂から神山を仰ぐ
1時間ほど休憩して下りだした。防火帯が続く道のりは穏やかで、盛んに揺れているススキの穂が清涼感を演出している。木立の合間からはこんもりとした二子山が望見できる。静かでじつに快適だ。連れも愉しそうに歩いていく。しかし15分も下るとエンジン音が聞こえだし、30分も下ると山腹を行く急な坂道になったりする。全体に下りなので体力を消耗するものではないが、登りに比べて距離があるので長く感じる。この道のりは湯坂道という名の古道で、のちの東海道に先駆けて鎌倉時代に開かれたものだが、今ではところどころ道幅が狭まり、傾斜も強まる。人間が通ったのはともかく、荷馬なり荷牛なりは通行できたのだろうかと訝しむのだが、時が経って多かれ少なかれ荒廃した結果なのかもしれない。
山頂から1時間ほどで湯坂城跡という地点に着くのだが、ここがそうだと言われてもなにが痕跡として残っているのかわからないのだった。尾根筋は痩せてきており、左右の麓から湯本近郊の喧噪が響いてくる。昔の旅人であればもうすぐ荒れた山道から開放されるのだと嬉しくなったことだろう。城跡の前後に石畳の道が続くが、場所によっては傾斜が急なので滑りやすい。この石畳自体は湯坂道の名残だそうで、そう思って見ればありがたいのだが、ところによっては乾いていてさえ滑りやすいものもあり、山道の保存としてはよいのだが歩く分には気疲れもするのだった。初めて訪れたときは真冬だったせいでさらにスリップしやすかった覚えがある。ともあれどんな山でも慎重に下ることが肝要だろう。


山頂から1時間半で交通量の多い箱根湯本の車道に出た。すぐ脇に日帰り入浴施設があるが今回はここには寄らず、湯本の温泉街に入って古いながらも洒落た外装の木造宿に日帰り入浴を頼んだ。帰りしな、よくよく思い出してみれば前回同じコースを歩いたときも同じ宿の暖簾をくぐっていた。湯は掛け流しということで、肌にやさしいよい湯だった。
小田原に出て食事し、あらためて東海道線の上りに乗ったのは日没後だった。適度な疲労に適度な飲食のせいか、列車が動き出してすぐ二人とも眠りこんでいた。
2007/09/24

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