月山御田原供養場より頂上を望む

月山は夏に登った。山頂は月山神社の境内になっており、正確な最高点はどこだかわからなかった。きっと社殿の建っているところだろう。


山頂に登る前日、一泊二日単独行の鳥海山下山途中に車道で地元の方に車で拾われ、送っていただいた坂田駅前から田麦俣集落までバスで移動する。ここは月山登山口でもある湯殿山に向かう途中の集落で、停留所からすぐの兜造り多層民家の民宿には共に登る友人たちが集まる予定だ。しかしまだ日も傾かない時刻だったので誰も来ておらず、外に出て貴重な民家の造りを眺め、あたりを散歩しながら到着を待つ。
翌朝7時、宿を出て六十里越の旧道を湯殿山に向かう。ここ田麦俣から湯殿山まではバスがあるのだが、このときは旧街道跡を歩くことにしていた。集落を外れ、そのときは入口も判然としない山道を舗装林道の脇に探し求め、ようやく幅広の道筋を見いだす。誰も歩いていないだろうわりには、夏だというのに草にも覆われておらず歩きやすい。だが昨日までの鳥海山登降の疲労が出たのか、ゆるやかな道筋なのに歩みは捗らない。ひょっとしたら湯殿山を見学するだけで帰宅する羽目になるかと気弱なことを考えつつ、途中の水たまりで初めてイモリを見るなど、楽しみ事にも出会いながら自分たちだけの雑木林のなかを進んだ。
喧噪の湯殿山には田麦俣を出てから4時間かかって着いた。口にしてはならないご神体を眺め、昼食を摂ったのち、いよいよ月山の登りにかかる。出だしから”月山坂”の急な登りで、金梯子が連続することから「金月光」とも呼ばれる難所だ。コースタイム上は1時間だが、昼過ぎの暑い時間帯でもあったので自分も含めてこの急坂に脱落寸前のものが続出し、連続するハシゴは一本登って休むを繰り返す有様だった。「月山はなだらかな山」とのイメージが体感的に崩れた。
それでも登り切り、施薬小屋というお助け小屋に着く。ひどく喉が渇いており、水筒の水はすでに心細い量しか残っていないので、小屋で供される薬湯をお椀で三杯も飲んでしまう。当時は何杯飲もうと200円だった。ここからはゆるやかな稜線を辿る道のりとなり、右手斜面に残雪など眺めつつ、本日の宿泊場所である鍛冶小屋を目指す。小屋直下は鍛冶月光というやや斜度のある登りなのだが、もうここで足が前に出ない。月光坂同様に何度も休憩しつつ、ようやく16時頃になって小屋の玄関にたどり着いた。


8月上旬にもかかわらずなのか、だからなのか、小屋は空いていた。夕食を摂っていると小屋主のかたが出てこられて、月山にまつわる無謀登山の話など出た。ルートを選べば簡単に稜線に出られてしまう山なので、山頂往復にかかる時間配分も装備も不十分な人が多く訪れるらしい。我々にしても稜線上のリフトで上がってこられる場所の先、そう小さくはない雪渓を渡るところで、通勤用の革靴を履いた人とお年寄りを含む家族連れに出会った。時刻はもう3時。聞けば山頂往復して、リフトの最終運転時刻に間に合うように帰るつもりだそうだが、雪渓の真ん中でみんなして立ち往生しているようでは難しいだろう。登山靴であれば軽アイゼンを持ち出すまでもなく渡れる雪渓なのにだ。引き返すように忠告したが、どうも先に行きたそうだった。
鳥海山を正面に下る 鳥海山を正面に下る
翌朝早くに山頂に登り、境内を囲む石造りの柵にもたれて周囲の遙かな山々を眺めていると、信仰登山の団体が賑やかにやってきた。社殿に向かって何事か唱えていたかと思うと、参詣者がいっせいに屋根めがけて多数の小銭をばらまく。冷気漂う空に貨幣がきらめいたかと思うと、雹が降るような音が響き渡った。山の神様も、熟睡していたとしても否応なしに目が覚めただろう。なんとも盛大な光景だった。
山頂からの下りは”月山八合目”へ向かう。前後左右とも広闊ななかを緩やかに歩く快適な道のりで、正面には鳥海山が眺められて気分はとてもよい。八合目からはバスで羽黒山に出て参詣し、近くに多数ある宿坊の一つに泊まり、翌日帰宅した。
1993/08/07-09(鳥海山&出羽三山全行程08/05-10)

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