上松ルートからの中央アルプス稜線

中央アルプス

木曽駒ヶ岳から越百山まで

1997年夏のある日。
「今年の秋から一年間、掛け替え工事で千畳敷ロープウェイが止まるんだってさ。木曽駒周辺はかなり静かだぞ」
「では来年の夏山の行き先は決まりだな」
こうして1998年の夏、中央アルプスの北部を歩いたのだった。ウェストンも辿ったという上松ルートを登りにとる計画の大筋は一緒に行った仲間によるもので、木曽駒に登った後は空木岳(うつぎだけ)まで行ってそこから伊那谷に下るという予定だったが、私は南駒ヶ岳に行って空木岳を南側から見てみたかったので、木曽殿山荘で皆と別れて南駒に行き、そのまま越百山まで歩いて木曽側に下った。
稜線への取り付きの登りは雨に祟られたが、縦走時は天気に恵まれ、木曽谷からの涼風を受けながら奥秩父に北アルプス、白山まで展望できた快適な山行だった。


1.初日
木曜日の午後に中央本線上松駅に降り立った登山客は我々だけだった。名勝「寝覚ノ床」を観光するためにバス移動し、木曽川のほとりから今夜の宿であるアルプス山荘に向かって登り出す。車道を歩くこと一時間、林間の宿は先着の客もなくひっそりとしていた。

自分たちしかいない夕食時には例のごとく下ネタ話で盛り上がり、部屋に戻って酒を飲み、廊下にさまよい出てきた宿の飼い猫を室内に呼び込んでみんなしてじゃらけて遊びもする。子猫なので好奇心旺盛だからどちらが遊ばれていたのか判然としない。廊下に出してもまた戻ってきてしまうのだった。
2.二日目
明けた翌日は朝から雨。それもかなり強く降っている。予報では昼から晴れるそうだが、まさかそれまで待つわけにもいかない。沈鬱な気分で朝食を平らげ雨具を着込んで中央アルプス稜線目指し標高差2000メートルを登り出す。雨なので眺望は開けず、樹林の中、ただ高度を稼ぐ。雨具を着ているせいもあってとにかく蒸し暑く、顔から文字通り滝のように汗が出る。首や頭に巻いているタオルやバンダナを絞って出てくるのは雨なのか汗なのかわからない。だいたい30分ごとに多かれ少なかれ休憩をいれながらじわじわと登る。予報の通り午後になると雨が上がり、八合目の森林限界を抜けた辺りで全員が程度に応じて岩の上でトカゲ状態になる。「乾いた岩の上は気持ちいいねー」。
ここからは木曽駒ガ岳頂上まで一息の登りだが、朝の6時半に出発してすでに9時間くらいを費やして登っているので登頂時には全員が元気いっぱい、というわけにはいかなかった。山頂到着時は既に4時近くで、しかも山頂付近まで日没前のガスが山肌を這い登ってきていたが、それでも鋸岳・甲斐駒ヶ岳から白峰三山を経て赤石・聖・光以南の南アルプスが富士山を背後にして屏風のように広がっている様には圧倒され、思わず歓声を上げる。「北岳はいやに平らに見えるな」とか言っていた人もいたが、よくよく聞いてみると南アルプスを首都圏とは反対の側より見ていることに気付かず、農鳥岳あたりを見ていたのだった。
「日本アルプスの登山と探検」でウォルター・ウェストンは、木曽駒ヶ岳を本州中部での最高峰である、と書いている。まだ南北アルプスの山々の標高が正しく測量されていなかったし、それに南北アルプスと異なり幅の狭い山稜が谷から急激に立ち上がる中央アルプスは当時の人たちには実際の標高以上に高く見えたというのもあるのだろう。
「最高峰」の当時にしても山頂からの眺めは絶賛ものだったようだが、我々はガスのせいでそれほどの視野を得られなかった。なんと言っても北アルプスの大観を望めなかったのが心残りではある。ところでウェストン一行は明治二十四年の日本で、上松を朝七時に発って木曽駒を乗っ越し、十二時間後に伊那谷の伊那部と言う集落に着いている。大した健脚だ。翌日は木曽川の川下りを一日がかりでして尾張に出たそうである。当時としてはこれが最も早く東海道に出る手段だったようだ。
夕照の宝剣岳
夕照の宝剣岳
さて我々は山頂の祠をバックに集合写真を撮ってからガスに閉ざされた砂礫地の稜線をたどり、二晩目の宿である宝剣山荘に向かう。背後に宝剣岳の岩塔を背負って建っている小屋は収容人員350名のところ本日は宿泊32名で、なんと通常の十分の一。おかげで夕食時も部屋でも余裕があった。ロープウェイ運行がいかに人間を呼び寄せるかがよくわかる。


3.三日目
この日は朝から雲ひとつない好天で、宝剣山荘前からでも稜線の東側に南アルプス、奥秩父八ヶ岳、霧ヶ峰に美ヶ原が一望できる。振り返った西側には木曽御岳が独立王国の風格でいかつい姿を見せている。
昨日同様6時半に小屋を出発してさっそく目前の宝剣岳に取り付く。花崗岩のざらざらな表面とあちこちに生じている岩の割れ目のせいで手がかり足がかりは豊富にあるが、20分で登れるというコースタイムをキープ出来る人はかなり慣れた人だろう。大岩が積み重なるだけの山頂からの眺めは圧巻。木曽御岳の右には小屋近くでは見えなかった乗鞍岳が三ツ頭を覗かせ、木曽駒の肩口からは槍や穂高も顔を出している。美ヶ原の遠方には浅間山さえ見える。これから縦走する側を見ると、空木岳と南駒ヶ岳がガレた急斜面をこちら側に見せて威嚇している。その奧には舟を伏せたような恵那山が霞んでいる。
狭い山頂なのでそうゆっくりもできず、早々に岩塔部から下る。仕事の都合で本日下山する一名とはここでお別れだ。別れの記念に、とか言いながら鎖に頼って往路を懸命に下りているところをこっち向けーとかいいながら上から皆して写真に撮るのだった 。
木曽駒からずっと岩場とハイマツ帯が交互に現れるような縦走路だが、ここ宝剣の南側は岩場の連続で気が抜けない。ルートを少し外れるが、立ってみたら岩が宙に突き出しているだけで下には何もないというところがある。左右が切り立ったナイフリッジの通過もある。
当然ながら見晴らしは終始よく、本日の行程の終点である木曽殿山荘まで四周すべての眺望を満喫できるので緊張しつつも気分はよい。東側では稜線近くまで樹木が茂っているが西側では森林限界はかなり低いとか、片側は砂礫地だが反対側はハイマツが一面を覆っているとか、アルペン的景観と言われるものでも場所によっては微妙に異なる。あちこちで見事なカール地形が見られるし、檜尾岳と熊沢岳のあいだの大滝山では稜線部が東側に滑り落ちて形成されたとおぼしき二重山稜のような地形が観察できる。
風を遮る樹木がないため木曽側から涼風が常に吹き上げてきて火照った身体に心地よい。遥か谷底からは急傾斜の沢の水音が稜線まで聞こえてくる。10時半をまわると、伊奈谷側から熱気を帯びた気流がガスと共に上がってきた。
濁沢大峰付近から桧尾岳・熊沢岳 奧に空木岳と南駒ヶ岳
濁沢大峰付近から桧尾岳・熊沢岳 奧に空木岳と南駒ヶ岳
このルートは一本道のため後になり先になりして複数のグループがついて歩くことになる。それが木曽殿山荘手前の最後のピークである東川岳で集結してしまい、団子になって鞍部に建つ山荘に下る。反対側の空木岳の斜面を見ると、同じようにたくさんの登山者が下ってくる。今夜の山小屋は混みそうだな、と覚悟しつつ小屋に着いた。
小屋は改築してそう日が経っていないらしく内装はかなりきれいだ。受付を済ますとトウモロコシの輪切りとお茶を勧められ、ありがたく頂く。今夜の宿泊者数は70名ちょっとでこの夏一番らしかったが、8月最初の土曜の晩だから当然の数字なのだろう。ロープウェイが動いていても昨年の最大で100名ちょっとだそうだから、ロープウェイ運行の有無はここではあまり変わらないようだ。ともあれ、夜はとりあえず両手を揃えて上を向いて寝ることはできた。宿は小屋主を筆頭に家族総出で接客していた。みな控えめで好感が持てた。


4.四日目
縦走最終日、私は皆と別れて一人空木から越百山までの稜線を辿り、木曽の須原側に下る。
長丁場なので一人早く朝の4時に目覚めて静かに身支度し、木曽殿山荘二階の寝場所から下りる。あらかじめ前夜のうちに玄関脇に置いておいたザックを背負って小屋を出ると、目の前にはまだ踏み跡さえはっきりしない薄明の中に空木岳が黒々と聳えている。ヘッドランプを点けて急な道を登り出す。
15分くらいで登れるだろうと思ったピークは実は第一ピークで50分くらいかかった。5時45分、登り着いた山頂からの眺めは期待に違わない。今日は木曽御岳の左肩に白山まで見える。反対側には奥秩父も見えていることを考えると、中央アルプス稜線の展望は豪勢この上ない。眼下の駒峰ヒュッテでは泊まり客があったのか、人が出入りしている。木曽殿山荘では皆今頃食事をしているのだろうな、と思いながらそのまま荷も下ろさず先に進む。
昨夜ストレッチをさぼったせいか、全身が痛くてだるい。歩程はいつも以上に捗らず、これはひょっとしたら今日は中央本線で名古屋に出るのがせいいっぱいかも、とさえ思う。
縦走初日の夕食時、自分の子供に「越百(こすも)」とか「皇海(すかい)」とかつける親がいるという話が出たが、何かの雑誌で読んだ記憶ではこの空木もかなり人気があるようだった。木曽駒から続く稜線から眺めると、山頂直下までナギを幾筋も走らせた三角形の姿は近寄りがたい神々しさがあり、しかも実際に登って見ればわかるが木曽殿越からの登路は急登と岩場の連続でかなり手応えがある。そこから赤薙岳、南駒ヶ岳、仙涯嶺に越百山と峰は続くのだが、赤薙岳から見る空木岳は日本髪を長く垂らして側机にもたれる女性のように見える。娘にその名を付けたくなる登山者の気持ちが分かるような気がする。
南駒ヶ岳山頂直下 奧は仙崖嶺
南駒ヶ岳山頂直下 奧は仙崖嶺
南駒ヶ岳は空木同様に頭の回りに花崗岩を点々と張り付け、東西にまっすぐの尾根を長く伸ばした美しい三角錐の堂々とした押し出しだ。ここで初めて仙涯嶺から越百山への稜線を目にすることができる。朝の8時前から30分くらい山頂に長居をして木曽駒・宝剣から目の前の空木まで伸びる山並みを眺める。これもここで見納めだ。木曽殿山荘で分かれた他のメンバーはもう空木に登り着いただろうかと思いつつ山菜おにぎりを食べ始める。かなり茸が入っている。そういえば3000メートル近い稜線なのに大きいきのこが何種類も生えていた。こんな自然条件でも分解者は機能するのだろうか。気色悪いと思う以上に偉いものだと感心してしまった。
南駒ヶ岳付近より仙崖嶺・越百山・安平路山
南駒ヶ岳付近より仙崖嶺・越百山・安平路山
仙涯嶺は小さい岩峰ながら通過に手間取る。岩峰そのものの通過はたいしたことはないが、南駒ヶ岳との間の鞍部で草いきれの蒸し暑い中をかなり急降下させられるのがこたえた。仙涯嶺山頂からの越百山は少々遠く見えるが、実際に歩いてみると思ったより遠くはなく、ハイマツに覆われたなだらかな三角形のピークは木曽駒ヶ岳から続いてきた岩だらけの頂を見慣れた目には愛らしい姿に見える。しかし須原側に下って振り返るとガレを幾条も走らせた荒れた姿に変貌してしまう。


縦走最後のピークとなった越百山山頂で中央アルプス南部を眺めて休んでいると、写真を撮ってあげようと言ってくれる方がある。下から越百山を往復しに来た人で、聞くと越百山から安平路山に向かう人もいたそうだ。そういえば私を追い抜いていった木曽殿山荘宿泊客にも、軽く「今日は安平路避難小屋泊まり」と言っていた人がいた。ササダニが充満するという背丈までのササヤブが続き、小屋まではテントを張る場所さえなく、越百小屋から避難小屋まで8時間かかるというルートを行くのは、よほど山慣れている人たちなのに違いない。そうでない私にとっては、安平路山を越えて大平宿に出るという行程が魅力的に思えるものの、実行は難しい。さてもう12時半だ、というわけで下山にかかることにする。うまくすれば今日中に家に帰れるかもしれない。
仙崖嶺との中間地点から越百山
仙崖嶺との中間地点から越百山
越百山からは越百山荘を経て須原方面に下る。ここまでずっとお花畑の砂礫地とハイマツと岩場の連続で眺めも風通しもよかったのだが、下り始めると樹林帯の中の道になり、開放感が失われる。だがこれが本来の日本の山なのだろう。山頂から半時ほどで着く越百山荘は小さいながら快適そうだ。中で炒め物を作っている音が聞こえ、案内を乞うと人の好さそうな中年の女性が出てきた。ジュースを買って麓のタクシーの予約をお願いする。この方は仙台の方で、このあたりの山域が好きでこの季節になると小屋に泊まり込むのだと帰りのタクシーの中で聞いた。物書きの方だそうだ。ちなみに小屋主は元気な男性で、籠を担いだ姿と下山中にすれ違った。上り優先の原則を通してこちらが立ち止まっていると、勢いよく通りしなに「はいありがとさんー」。
結構気合いを入れないと昭文社の地図に記入されている下山コースタイムは維持できなかった。頭が雲に隠れてしまった南駒ヶ岳の尾根を樹林越しに眺めながらほどほどに急な道を普段よりペースアップして下るが、それでもほぼコースタイム通りだった。林道終点に出てさらにこれまた早足を要する林道歩きを小一時間で地図上に駐車場とある場所に着いたのが夕方4時頃。予約したタクシーが早めに来たのとちょうど鉢合わせというタイミングのよさだった。
中央本線塩尻駅近くにあると越百小屋で聞いた温泉施設に運んでもらい、三日ぶりに全身を洗ってさっぱりする。そこから20分強の塩尻駅から名古屋に出て新幹線に乗り、自宅には夜の11時過ぎに着いた。とりあえず当日中には帰ってきたわけだが、いや疲れた。


5.追記
木曽殿山荘の水場で仲間と一緒のときに中年のご夫婦から「みなさん学生さんですか?」と聞かれたが、越百山からの下山途中でも中高年4人組の方から同じことを言われた。社会人になって10年以上経ちます、と言うとかなり驚かれた。「若く見えると言うことは素晴らしいことですよ。財産ですよ」と女性の方に言われ、そうかもしれない、と初めて思う。
越百山から下って乗ったタクシーの運転手さんから聞いた話だが、今年はタクシーに乗る登山者にはロープウェイが止まっているから来たという人がかなり多いらしい。やはり喧噪を避けて静かな山にひたりたいと思う人は少なくないのだな、と安心した幕切れだった。
1998/8/5-9

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