シラジクボより小持山への登りから武甲山を振り返る

武甲山

武甲山は山そのものがご神体として崇められてきたという。かつては文字通り兜のような丸い山容だったのが、いまでは志賀坂峠あたりから見ると平頂丘のうえに中央火口丘が噴出した二重火山のような姿になっている。もちろん武甲山は火山ではない。その北面に品質優良な石灰岩を多く擁していたがため、大正時代から続く採掘により今に見る山容改変を被ることになったのだった。山頂部はざっくり削られて頂上にあった神社社殿は移築の憂き目に遭い、山体西方の稜線もあちこちを切り刻まれて文字通り骨のように白い山肌を晒している。「神の山」と呼ばれてきたことが信じられないほど惨憺たる状態だ。
この山は気にはなりつつなかなか足が向かないでいた。どのような理由であれ信仰の対象が破壊されつつあるのを見るのは楽しいものではない。登るにしても本来達するべき山頂はもはやない。だが武甲山の南面には自然林が残っているらしく、次々と閉鎖されてわずかに二本残った登山道はいずれにせよこの南面を通る。ならば不満ばかりが残るものでもあるまいと訪れてみることにした。ダンプ街道と評される車道を経ての表参道は敬遠して、秩父鉄道浦山口駅からの長くて静かな林道経由で山頂を目指し、滞頂後シラジクボに下り、大持山を踏んで鳥首峠から名郷に下山した。


もうすぐ朝の8時だというのに2月の浦山口駅はまだ寒かった。掲示されている張り紙によると新築されたトイレは駅員出勤時間帯外では施錠されるとのことで、使えるまでにはまだ時間がある。これはとくに女性にとってはいい迷惑だろう。
無人の改札を出ると自動販売機があるきりだった。水筒の水とは別に温かい飲み物を買ってテルモスに入れていければと思っていたが、売っているのはコーヒーなど糖類が豊富なものばかりで、暖かいお茶というものはなかった。まぁこの先になにかあるだろうと道なりに下り、線路をくぐる。まず目指すのは行程途中にある秩父28番札所橋立堂だ。
ガード下の湧水汲み場は見送り、民家のなかに続く細い道に入るとすぐ左手に石灰岩岩壁を見上げるようになる。これは橋立鍾乳洞という珍しくも2/3が竪穴というもので、なかなかの観光地らしい。しかし自動販売機大国の日本としては珍しく、ざっとみたところあたりにはなにもなかった。このあと家はなく、林道ばかりが続く。本日の行程は長い。暖かいのはもうあきらめた。ともかく水を調達しておかないといけない。脇を流れる橋立川は底まで見える清冽さだが、さすがに汲む気は起こらない。見上げる対岸の稜線を朝日が照らし、本日の晴天を保証してくれているのも慰めにはならない。冷えた谷間の空気を乱してバイクに犬を乗せた男性が挨拶しながら登っていく。買い物を頼めればなぁと思いつつ後ろ姿を追う。今朝は風がなく、エンジン音が去った後には自分の足音しか響くものはない。
朝日の当たる林道沿いの山腹
朝日の当たる林道沿いの山腹
見渡す山腹には冬枯れの木々ばかりがうっすらと枝を伸ばしている。新緑や紅葉の季節はさぞ素晴らしい眺めになることだろう。一ノ沢を分ける手前で林道が川を渡り、流れを離れるところで、先ほどのバイクが停まっているのを目にする。そのバイクを見下ろすようにカーブを描いて登っていくと、前方から持ち主の男性が犬を連れて下ってきた。カゴのなかにおとなしく鎮座していた犬は土の道を嬉しそうに歩いている。おそらく飼い主はこのあたりを散歩場にしているのだろう。挨拶を交わして山影の落ちる道を行くと、未舗装の路面に水が流れている。視線を上げれば、斜面に設置されたパイプから湧き水が豊富に出ているのだった。喉を潤し、不足気味の水を補給してようやく一安心した。
林道終点先にある滝
林道終点先にある滝
駅から約一時間で林道は終点となり、ようやく細い山道に入る。左手下に見事な滝を眺めて沢沿いに上がり、右岸の斜面に取り付く。植林された壁のような斜面を細かくジグザグを切って上がっていくので単調このうえないが、踏拝路のためか山道の斜度はほどよく、さほど疲れることはない。林道歩きがよい準備運動となっていて、脚が妙に痛むこともない。


頭上が明るくなると、長者屋敷の頭に続く笹原の明るい尾根の上に出た。疎林のあいまに周囲の尾根を見通せて開放された気分だ。しかし谷を隔てた北側の尾根では祝日だというのに石灰岩採掘が行われていて、ここまで重機の音が響いてくる。それでもやはり雑木林のなかは心地く、前方左手に武甲山頂上方面、右手に小持山を仰ぎ見るのも楽しい。少し進んだ右手に開けたところがあり、向かいの高ワラビ尾根から落ち込む谷間が見下ろせる。ここで小休止とし、背後からの音は極力無視して深山の雰囲気を味わった。
長者屋敷ノ頭に続く尾根より小持山を見上げる
長者屋敷ノ頭に続く尾根より小持山を見上げる
長者屋敷ノ頭の平坦部
長者屋敷ノ頭の平坦部
長者屋敷の頭はちょっとした肩の広場というところで、名前とは異なりピークではない。ここから山頂への西参道が延びていたようだが、現在は閉鎖されている旨の看板が立っている。水場を経てシラジクボ方面に向かう踏み跡を右に分け、ふたたび細くなった山道を登っていく。尾根筋道は斜面をからむようなものとなり、見晴らしもよくなる。振り返る彼方には頂稜が丸い両神山が目を惹く。赤久縄山の向こうには雪をまとった浅間山も眺められた。
長者屋敷の頭から45分ほどで表参道との合流点に着いた。ここは十字路になっており、ベンチもあってハイカーが休んでいた。隣の大持山方面の眺めがよいので一息つきたくもなるのだろう。山頂へと左折するとゆったりとした広い斜面で、右手に真新しい建物のトイレ(冬季は閉鎖される)、正面に立派な御嶽神社が見えてくる。驚くほど大きな社殿の左脇を通り、背後の展望台に出た。
ここは採掘現場側に鉄柵の立つ味気ない場所だが、眺めはすこぶるよい。秩父盆地が左手手前から彼方に延び、周囲の丘陵地帯に囲まれた市街地は湖のようだ。昨日は武川岳の稜線に続く焼山から盆地を越えた山並みの眺めを堪能したが、ここからの眺望の主役はこの盆地そのものだろう。本日もまた西上州の山や榛名山、赤城山が見えるが、ことに目を惹くのは盆地北東部に立つ簑山の美しい山容だ。”美の山”と呼ばれるのも納得できる。しかしこれらの眺めは山頂を削られた今の武甲山だからこそ得られるもの、いわば人工的なものであるわけで、眺望などなくても昔の山頂に立てた方がよほどよかったことだろう。足下に展開する真っ白な採掘現場が現実であるとはいえ。
社殿左手裏の展望台より秩父盆地を俯瞰する
社殿左手裏の展望台より秩父盆地を俯瞰する。左上奥に東御荷鉾山と西御荷鉾山が見える。手前は石灰岩採掘現場。
社殿右手裏の展望台より二子山方面
社殿右手裏の展望台より二子山(左中央)方面を望む。正面の小さなコブが焼山(と思う)
鉄柵に沿って社殿の裏手を東に移動するともう一つの展望台がある。こちらは二子山方面の眺めがよいが、先ほどのものに比べれば眺望は狭い。採掘現場からすぐ近くに車が上がってこられるようになっており、予想外に大きな社殿の資材はここから運び込んだのだろうと合点がいく。現時点の武甲山最高点はこの二つの展望台の間にあるようだが、なにせ採掘現場側が事実上の絶壁になっており鉄柵で立ち入りが制限されているうえに、そもそも本来の山頂でないので無理に行く気は起こらない。代わりに宙を見上げ、あのあたりに本来の山頂があったのだろうと思いを巡らす。展望台を下りていくと小振りの鐘が下がっていて木槌が添えられている。一打ちすると予想以上に大きな音が響いた。


社殿前に広がる山頂部は広いが、疎林が広がり眺めはあまりよくない。それでも日の光は幹の合間を巡って心地よい。グラウンドシートを広げて食事休憩とし、林道で汲んだ湧き水を沸かして茶を余分に作り、このあとの大持山縦走に備えてテルモスに満たした。この水は武甲山から取ったものだが、水にしても機械力にまかせて取りすぎれば枯渇するかもしれず、地盤沈下を引き起こすかもしれない。ものごとが複雑に絡み合った現代にあっては、すべての基盤である環境に対しては配慮と節度が必要と思う。
武甲山は人気のある山で、ひとの訪れはわりとあった。だが木漏れ日のなかでお茶を飲むあいだ、採掘工事の音は届かず、かつての山はこうだったのだろうと思わせる静かなものなのだった。
2007/2/12

大持山を踏んでの下山


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