倫理学5

第5回(5月16/17日)

 

今回から、いよいよ、カントの義務倫理に入ります。

すべし」という命令の形式をとるので、義務倫理/義務論(deontology)と呼ばれますが、

その本質は、「自由」の倫理です。

キーワードは、「自律(自己決定/普遍化可能性)」と「目的(尊厳)」。

背景にあるのは、キリスト教的な自由の概念と、ストア派的な理性の法則です。

自己決定権が認められている代表的な事例として、生命倫理のICにも触れます。

 

1)自律の法則

「汝の意志の格律が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ」

ゆっくり、三回くらい読みましょう。

『実践理性批判』における、道徳行為の根本形式がこの命題。

命令文だから「命法」といい、

「しなさい」という無条件の命令文だから、「定言命法」といいます。

(「定言」というのは、「もしなら、」という仮言(条件)ではなく、

「無条件の」という意味。論理学の用語です。)

古い訳で書きましたが、現代語に訳すと

「君がある行動をとろうと意志するとき、そのポリシーが、

道徳法則を立てる場合の一般的な原則として通用するようにしなさい」

ということです。

「挌率/格律」は「マキシム」の訳、数学の「確率」とは無関係、

個人的な行動のルールを意味します。「ポリシー」って言いませんか?

「普遍的立法」の立法とは、法律ではなく道徳法則を立てること、

「普遍的」は「一般的」とほぼ同じ意味。

(ただし、「普遍的」と「一般的」は意味が違う、と後述するヘアは言います。)

「法律に従う」という意味では、全く、ありません。

この短い文章の中には、

自己決定と普遍化可能性という二つの重要な内容が含まれています。

 

(1)

行為はルールに従って行われる

ヤンキーと言うと本来はニューヨークに住んでいる米国人のことですから、

あまり違う意味で使うのは、ニューヨーク在住の人に失礼だと思いますが、

ここではケンカが好きな不良の人たちを指すことにします。

ヤ「お前、いまガンつけただろ」

現代語訳「知らない人を理由もなく、じろじろ見つめるのは失礼ですよ。」

ヤ「知らねえ顔してんじゃねよ」

現代語訳「人から話しかけられたら、ていねいな対応するのが礼儀というものです。」

ヤ「ちょっと、電車賃貸してくれ。」

現代語訳「人からお金を奪うのは犯罪ですけど、借りるのはOKですよね。」

ヤ「殺されたいのか、ゴラア」

現代語訳「人から暴力を振るわれたり、殺されたりしたいという人はいませんよね。」

ヤ「てめえが、先に手ぇ出してきたんだろ、ゴラア」

現代語訳「自己防衛でなければ、人に暴力をふるうのは悪いことですよね。」

 

習慣という事ではありませんが、人のたいていの行動にはルールがあります。

世の中の争い事は、ルールとルールの戦いです。

暴力や犯罪さえ、ルールに従っています。

「オレは金がないときにはカツアゲする」というマイ・ルールが「格律」です。

「ヤ」さんが、そういう意志を持つのは、自由です。

 

(2)

自己決定のルール

自分の行動を自分で決める、これを自由と言います。

自分の行動のルールを自分で決めることを「自律autonomy」と言います。

autoが自分、nomy←ノモスnomos が法則=ルール、「律」が法則のこと)

この「自律」という言葉は、

元来は自由都市が法律を自分で作ることができるという自治権を意味しましたが、

それを個人の道徳的行為の意味に転用して使ったのがカントです。

道徳的行為は各人が自分で決めるもので、人から押し付けられるものではない。

逆に、他人から自分の行動を決められる奴隷状態を「他律 heteronomy」と言います。

これはカントが作った言葉です。

自分の行動を最終的に決めることができるのは、自分です。

キリスト教の考え方では、あらゆる欲望は自然法則ですから、善でも悪でもありません。

例えば、いま金がないから、金が欲しい、そういう欲望は自然です。

でもそれを意志的に選択し、行動に移すときに、自由な意志が関与します。

そこに善と悪の問題が入ってきます。

意志というものの本質は自由です。

「殺すな」「盗むな」といった、神の命令に逆らうこともできる。

金がなくても我慢するか、誰かから金を巻き上げるか、決めるのは自分です。

だから、金がないからカツアゲする、という決断は一見、自由に見えます。

しかし、カント的には、それは金が欲しい、楽して金が欲しい、という欲望の奴隷です。

(金じゃなくて、俺は強い、誰でも支配できる、

という欲望なのかもしれませんが。)

キリスト教なら、神との契約に反するから、でしょうが、

カント的には、「カツアゲする」は普遍化不可能だから

理性はこれを選択できないのに、

欲望に負けて行動しているからです。

 

(3)

普遍化可能性

上に書いたカントの言葉で、よくある誤解は、次の二つ。

「自分で決めたのだから何でもいい」

「法律に一致する行動をとれ」

後者は、法律の奴隷ですから、自由=自己決定の原則に反します。

(イエス=キリストが律法の奴隷になることを嫌ったのと同じ。)

前者は、普遍化可能性の誤解。

自分で決めたことなら何をやってもいい、などということが通用するはずがない。

自由は、全てに先立つ第一原則ですが、例えば、「人を殺していい自由」などありません。

自分が自由なら、他の人も自由であることを認めなければなりませんから、

他人の自由を否定する自由というのは、自己矛盾です。

では、各人の自由な自己決定をどう調停するか、

そのための唯一の条件が、

「普遍的立法の原理として妥当しうる」

という普遍化可能性の条件なのです。

 

カントの例1

「ヤンキーから金を貸してくれと言われたらどうするか?」

逆に言うと「返すつもりがなくて、借金をしてもよいか?」

もちろんダメです。

問題は、その理由。

普遍化可能ではないからですよね。

「借金を返さない」という命題は、自己矛盾だ、とカントは言います。

主語の「借金」は、「借りた」お金のことです。

「借りる」という行為は「返す」ことが前提になっています。

「返さないでいい」というお金なら、それはもう「借金」ではありません。

「贈与」とか「お小遣い」とか「電車賃」という別のものです。

「貰ったものは返さなくてよい」その通り。

「借りたものを返さないでよい」AAではない」という論理的な矛盾。

自己矛盾を含むような行為を意志することはできません。

(余談ですが、前の都知事だった猪瀬さんが、都知事を辞めた理由の一つがこれでした。

ある組織から無利子・無期限のお金を借りたのです。

「無利子・無期限(いつまでも返さなくてよい)」というのは借金ではなく贈与でしょう。

政治家が支援者から選挙資金などを貰うのは、制限はありますがOKです。

でもちゃんと申告しなければなりません。)

この命題の逆、「借りたお金はちゃんと返す」

これは普遍化可能です。

何の不都合も生じません。

したがって、こちらの行動をとるべきです。

カントの例2

「やられたらやり返す」

なめられたら終わりですから、

ヤンキーの皆さんにとっては、当然のルールでしょう。

「目には目を、歯には歯を」

ハムラビ法典にも『旧約聖書』にも書いてあります。

「倍返しだ」

と半沢直樹も言いました。

普遍化可能性のいちばん分かりやすいテストは、

その行動をすべての人が行ったらどうなるか、考えることです。

それにしたがって、

自分だけじゃなくて相手も同じことをすると考えたら、

「倍返しだ」とか言ってる場合じゃありません。

自分が倍返ししたら、相手も倍返ししてくる。

さらに、それに倍返しすると、また倍返しされて

みんな死にます。

だから、これも、矛盾。

普遍化不可能です。

そしてこの場合も、逆の「やられても、やり返さない」

というルールは、普遍化可能です。

採用するなら、こっちの方だということになります。

(イエス=キリストは正しかった、ということです。)

 

カントの例3

「君の友達が、君に助けを求めてきました。『助けてくれ!頭のおかしいヤンキーに追いかけられてる。捕まったら殺される。』 君は彼を自分の家に匿いました。すぐにヤンキーが来て、『ホントのこと言えよ、嘘つくんじゃねえぞ!』と君に迫ってきました。『駅の方に逃げて行った』と嘘を言って友人を助けることも可能です。でも嘘をつくことは不道徳です。どうするべきですか?」

 

嘘をついてはならない、という点に関しては、

まず「嘘をついてもよい」という格律は普遍化不可能です。

なぜなら、誰でも嘘をついてよいとすると、

そもそも言葉というものの意味がなくなってしまうから、

とカントは言ってます。

さらにカントは、嘘は絶対に言ってはならないから、

この場合も本当のことを言うべきだ、

(嘘をついても友人が助かるとは限らないし、

本当のことを言っても友人が殺されると決まったわけでもないから)

とも言っています。

でも、さすがに、それは説得力がない。

では、どうすればよいか?

困っている友人を助けるこれは義務

嘘をついてはならないこれも義務

どこかの国の総理大臣のように、平気で嘘をつく?

それとも、黙っている?

「何、シカトしてんだよ!殺すよ」と言われても、黙っている?

あるいは昔の高貴な女性のように、気を失う?

子供のように、泣きだす?

この矛盾は、カントの立場だけでは、解決できない気がします。

 

普通に考えれば、この場合は、嘘をついて友人を助けるべきでしょう。

その理由を、君は、こう言うかもしれない。

「普遍化って一般化ってことでしょう。

一般的って、あくまで原則は、ってことで、例外もありますよね。

「例外のないルールはない」って言いますし、

この場合は、例外として、嘘をついてもいいんじゃないですか」と。

私がカントなら、こう言い返します。

「例外のないルールはない」というルールは矛盾するから普遍化可能ではない。

なぜなら、「例外のないルールはない」というルールが正しいと仮定すると、

その「例外のないルールはない」というルールにも例外があることになる。

ということは、「例外のないルールがある」ということになる。

これを矛盾と呼ぶ。普遍化不可能。証明終わり。

(典型的な自己言及のパラドックス)

 

今回は、普遍性と一般性を区別する、R.M.ヘアの解決を紹介します。

(「普遍化可能性」という言葉自体が、ヘアの言葉です。

ヘアについては、私のホームページのR.M.ヘアの頁を見てください。)

要約すると

カントは普遍性と一般性を混同している。

一般性(general)は、特殊(specific)に対立する概念で、

「より多くのものに適用される」ことを意味する。

「罪のない人を殺すな」よりも

「人を殺すな」の方が、

より多くの人に適用されるという意味で、より一般的な命令。

「人を殺すな」よりも

「動物を殺すな」の方が、やはりより一般的。

普遍化可能性は、そういう意味での「一般化可能性」ではない。

なぜなら、普遍性(universal)は、個別(individual)に対立する概念。

同じ状況だったら、誰でも同じことをする」ことを意味する。

我々の毎日の行為には同じものはない。すべて個別的だ。

混んだ電車で座っていると、お婆さんが乗ってきた、と言う場合、

乗っているのは違う電車で、乗ってきたのは違うお婆さんで、

君の体調もこれからの予定も、すべて違う。状況は常に、個別的。

しかし君は「ふつう、席、譲るっしょ」と考えて席を譲るだろう。

これが普遍化可能性の意味だ。

理性を持つ存在ならば、誰でも、自分で判断して、そういう行動を選ぶ。

このカントの第三の例でも、嘘をつくことは悪いことで避けなければならないけど、

理性的に考慮すると、友人を助けるべき、という命令が

緊急だし命にかかわるし、優先する。

「嘘をついてでも、友人を助ける」という行為は、特殊なものだが、

誰でも同じことをするという意味で、普遍的だ。

(第二次世界大戦中のドイツ、ナチスの手によって、

ユダヤ人を捕まえて強制収容所に送るという蛮行が行われました。

君はドイツ人で、家の二階に友人のユダヤ人を匿っているとします。

ナチスが来て、本当のことを言え、と君に迫ったとき、

もし本当のことを言えば彼は収容所で死んでしまうでしょうから、

君は「知りませんねぇ」と嘘をついて友人を助けるでしょう。

だって、理性的には他の人も同じことをするだろうから。)

 

人間の心の働きには、感性、知性、理性、という三つの能力があります。

感性は見たり聞いたりする感覚、知性は感性の素材を判断する能力、

そして理性は、知性の判断を総合する推論の能力です。

理性の推論は、究極に於いて、一致します。

カントの場合には、ストア派のように、個人と宇宙に共通する法則として、

理性というものが考えられているような気がします。

だからカントにとっては、理性の推論は、すべての人にとって、一致するのです。

しかし、「神は死んだ」(ニーチェ)後の時代に生きている我々にとって、

そうした理性というものを素直に受け入れるのは、かなり難しいでしょう。

例えば、尖閣諸島の領土問題で、中国と日本で一致する合意が可能だと思いますか?

神が存在し、真理というものが保証され、正しい結論があるというのなら、

いつかはそこに到達できるでしょう。

でも中国と日本では、そもそもの立場が違います。

正しい答えが、もともと違うのです。共通の理性は存在しない。

ですから、ヘアの言うように、理性の一致という目標は、

他者の立場に立って議論すれば、互いに合意できる結論がきっとある、

と想定して、努力するべき目標なのでしょう。

 

覚えている人も多いでしょうが、数年前に日大のアメフト部で、

「相手チームのQBを潰せ」という監督の指令を試合で実行して

相手選手にケガをさせ、問題になった事件がありました。

監督の言う通りやっていれば勝てる、とみんなが信じて、

監督が、その指示には誰も逆らえない、絶対的な存在になってしまった。

しかしそれでは、チームは監督の奴隷のようなものです。

相手にケガをさせた選手も、本当はそんなこと、したくなかったそうです。

それがスポーツですか?

スポーツは本来、選手がルールに従って自由にプレイしてよいものです。

「私はこういうプレイがしたい」という選手どうしが意志疎通して合意して

チームの戦略を決めていく、というのが本来の姿でしょう。

出発点にあるのは、選手の意思とルールで、次に選手間の合意。

それが、カントの言う、自由意志と理性そして普遍化可能性だと考えてください。

日大のアメフト部も、そういう方向で出直しているようです。

 

義務倫理という言葉は誤解を招きやすいのですが、

道徳的行為は、誰かから命令されてやるものではありません。

道徳的行為もスポーツも、それぞれの人が、その人の意思で行うもの。

各人が理性に従って自由にプレイし、

勝つために合意する、その条件が普遍化可能性。

そういう共同性を、カントは「目的の国」と言います。

2)尊厳の法則

「汝の人格の中にも、他のどの人格の中にもある人間性を、

常に同時に目的として扱い、決して単なる手段としてのみ扱わない、というように行為せよ」

どんな人間でも、一人しかいない唯一の存在ですし、理性を持った存在です。

それを尊厳と呼びます。

コロナ騒動で、社員の解雇とか、派遣やパートの雇止めとか、

アルバイトで生計を支えている学生の生活が苦しくなったとか、

いろいろありましたが、

もし会社が従業員を利益を得るための単なる手段として利用しているなら、

このカントの原則に反することになります。

(「単なるのみ」という部分は重要ですし微妙です。

万一のために、お父さんに生命保険をかけるのはOK

保険を掛けた後、死んでもらうのは、アウト。当たり前。

お金があるから結婚するはOKでしょうが、

お金のためだけに結婚するはアウト。

線引きは微妙ですが、区別はできます。)

 

カントによれば、人間は独特な存在です。

人間以外の動物は、理性を持ちません。

(神が「自分に似せて」人を造ったとき、似ているのは

「自由」とか「理性」を与えたからだと考えられていました。)

動物の行動は、自然法則に従って行われます。

猫がネズミを襲っても、それは本能であって、

そこに善悪はありません。

この目に見える世界を感性界といいます。感覚の世界です。

一方、神とか天使とか、

肉体は持たない(=物質的ではない)、理性的存在があります。

彼らは単純に理性に従って行動するでしょう。

この目に見えない世界を知性界と言います。理性の世界です。

そして、神に似せて造られた人間だけが、肉体と理性の両方を持ち、

自然と精神という二つの世界に同時に住んでいる特殊な存在です。

それゆえ、その矛盾に苦しむ(ことができる)存在です。

もし我々が自分の欲望にだけ従って生きていれば、動物レベルの存在です。

感性界の住人。

しかし、もし我々が自分で法則を立て、

普遍化可能な法則に従って行動するなら、

我々は理性の世界の住人になります。

君が立てた法則には、神も天使も、

もしいるなら理性を備えた宇宙人も、従うでしょう。

君が理性にしたがって自分で法則を立て行動するとき

君は神の国の立法者でありその一員になります。

目に見えるこの世界のなかに、神の国が実現されることになります。

 

これを「目的の国」とカントは呼びます。

ちょっと原文を読んでみましょう。

「国とは、相異なる理性的存在者が共通の法則により体系的に結合されたものであると、私は解する。
理性的存在者は全て、その各々が自己自身と他の全ての者を、決して単に手段として取り扱わず、常に同時に目的それ自体として扱うべし、という法則にしたがっている。
一理性的存在者が目的の国において、普遍的に立法するものでありながら、彼自身それらの法則に服従してもいる場合、その理性的存在者は、目的の国に成員として所属する。それが立法者であり、しかも他のどの存在者の意志にも服従していない場合、それは目的の国に元首として所属する。」

 

最後に、カントの厳しい面についても触れておきます。

目的の国においては、行為の目的が問題になります。

ただ単に、道徳的だと人に見られる行動をとるだけではダメです。

問題は、その行為の動機(=目的)です。

溺れている子供がいるとき、それを助けるのは道徳的な行動です。

でも、あるフランスの大統領のように、テレビカメラを呼んでから

子供を助けるというのでは、道徳的行動とは言えません。

もっと分かりやすい例なら、大きな災害があったとき、

ボランティアで救援活動に行くのは道徳的行為です。

でも、芸能人がテレビカメラを引き連れて、ボランティアに行くとか、

内申書の評価が高まり、入試に有利になるから行くとか、

その目的は自分の利益です。

自己愛と私利私欲が目的であるような行為、

それを道徳的と言うことには無理があります。

むしろ偽善という不道徳な行為と言うべきかもしれません。

ここが、カント義務倫理の厳しい点です。

 

さらにカントはこう言います。

正しいことは、しなければならないから、しなければならない。

「することが出来るから、する」ではない。

「しなければならないから、出来るはずだ」と考えるのが正しい。

(「汝、為すべし、ゆえに為し能う」が古い訳。)

「困っている友人を助けよ」と理性が命じる。

「田中は君の友人である」という現実がくる。

そこから、「君は田中を助けなければならない」という義務が導かれる。

さらに、その際、

「田中が困っているから助けたい」と君が思ったとき、

君は普通は田中が好きだから助けたいと思うのだろうが、

カントに言わせれば、「好きだから」助けるという行為は、不道徳です。

「好き」「嫌い」といった感情は、

理性ではなく感性界に属するものだから、

道徳的行為の原因であってはならないのです。

これも厳しい。

 

カントの友人だった、詩人シラーは、こういう詩を書いて、皮肉を言いました。

「僕は進んで友人に尽くしているのだが、悲しいことに好きでそうしているのだ。
 そこで僕はしばしば思い悩む、自分は有徳な人間ではないのだと。」
 「そうだ。他に方法はない。君は努めて友人を軽蔑し、
 しかる後に義務の命ずることを嫌々ながら行うことだ。」

 

このシラーの批判は、表面的で、あまり当たっていないかもしれません。

カントが言っているのは、好きでも嫌いでも関係ない、

助けるべきだから助けなさい、という意味であって、

友人とケンカして嫌いになっていても、助けろ、ということです。

「好き」が原因なら、自己愛に基づく利己的行為になる、とカントは見るのです。

でも、感情と理性を完全に分けてしまうのも、問題があります。

感性と理性は、一致できるはずのものです。

(そういう立場から倫理を考えたのは、カントの後継者ヘーゲル。

それから、得の倫理の源泉、アリストテレス。)

 

 

生命倫理

生命倫理は、自己決定や人間の尊厳のよい例なので、ここで見ておきます。

今回は、インフォームド・コンセント(Informed Consent)、

略して、IC

歴史的背景とか具体的内容は、私のホームページを見て下さい。

昔は、「説明と同意」とも訳されましたが、

それだと「医者が説明して医者が患者に同意してもらう」という悪い意味が入ってきます。

「情報を与えられた上での同意」、その主語は患者です。

医者と患者には、知識や立場に違いがあります。

だから、病気や治療のことをよく説明してもらった上で、患者が治療に同意する。

そうでなければ医者は治療をしてはならない、という意味です。

患者の自己決定権を表わす言葉だと言えます。

その背後にあるのが、今回見てきた、カントの「自律」です。

 

皆さんは、テレビの医療ドラマ、見ますか?

私は、アメリカの医療ドラマはなるべく見るようにしています。

いまでは古典的な「ER(緊急救命室)」から初めて

「グレイズ・アナトミー」「ドクター・ハウス」などを経て、

最近は「シカゴ・メッド」辺り。

事実をもとに作られているドラマが多いですし、倫理問題の宝庫だからです。

そこでよく出てくるのが、命が危険な状態で運び込まれてきた患者が

「治療しないでくれ」と言うので、医者が何もできない、というシーンです。

この場合に、治療しないと死ぬのだから、仕方ない、

患者の言葉を無視して治療しよう、という選択肢はありません。

ICには、治療拒否権というものが認められています。

患者には知識がないので、必要な情報を与えてもらうことが必要ですが、

そのうえで自分にとって一番よいことを決めるのは患者です。

自分のことは自分が決めてよい。

それが、ICの精神です。

もし患者の意思を無視したら、医者は、裁判にかけられたり、

医師免許を剥奪されたりします。

これは、少なくともアメリカでは、常識です。

日本でも30年くらい前から、徐々に浸透してきました。

 

ちょっと昔は、病気のことなどろくに説明しない医者もいましたが、

現在は、病気や治療について丁寧に説明してくれる医者が増えました。

今回、私がお世話になった先生たちも、だいたい、そうでした。

4月のことですが、大学病院で目の手術(白内障です)を受けることになっていました。

普通の町の眼科だと、日帰りで手術できるのですが、

その大学病院では、入院しないと手術はできない、というルールなので、

仕方なく、入院することになりました。

(別に大学病院に行きたかったのではありません。面倒な事情があったのです。)

明後日から入院して手術という日の朝、電話がかかってきました。、

コロナの病人のために、病床を確保しなくてはならなくなった。

おまえを入院させるベッドなど、ない。

たかが白内障ごときで入院なんて、ふてえ野郎だ。

えぇい、とっとと、どっかへ行っちめぇ!

という内容でした。

幸い、大学病院の先生が、紹介状を書いてくれて、

町の眼科医に行って、そこで入院せずに手術を受けることができました。

コロナ、悪いことばっかりですが、

コロナのおかげで、大学業院に入院せずに済んだのです。

奴隷の家から解放されたのです。よかった、よかった。

(ちなみに、白内障には誰でも、なります。

これを読んでいる皆さんのうち、80%は、なります。

残りの20%の人は、残念ですが、白内障になる前に死ぬでしょう。

したがって、生きていれば100%白内障になるのです。)

 

 

次回は、功利主義。

安楽死/尊厳死、臓器移植についても、次回ふれます。

 

 

課題

次のテーマについて、400字程度で、述べなさい。

Uber Eats の配達を自転車でやってるんですが、急いでるんで、赤信号でも車が来てないのを確認して渡ってます」という学生さんに、カントの義務倫理の立場から、アドバイスをしなさい。」

 

前回の課題のコメント

「前回と同じ、煙草が止められないという、友人のお父さんに、

エピクロス派の立場から、何か言ってあげなさい。」

 

エピクテトスの快楽主義は、目先の快楽に溺れるのではなく、よい快楽を追求するものでした。

肉体の快楽は、しばしば、快楽と共に、より多くの苦痛をもたらす、とも言っていました。

「お父さん、あなたが喫煙から快楽を得ていること、それ自体は善いことです。

でも、そのせいでこれから多くの苦痛が生じるだろうということも容易に予想できますよね。

その苦痛は、あなたがいま得ている快楽を上回るでしょう。

快楽より苦痛が多いのなら、それは善い快楽ではありませんよ。」

そういう回答が、予想される普通の回答です。

内田百閧フ戦時中の日記『東京焼尽』には、

煙草が手に入らなくて辛いという記述がよくありますが、

煙草は吸うと気持ちがよいのではなく、吸わないと気持ちが悪くなる

というようなことも書いています。それが麻薬の特徴です。

煙草は立派なドラッグで、依存症を生みます。

「お父さん、あなたは煙草を吸って、本当に快楽を得ているのですか?

本当は、煙草を吸わない時間が続くと、不快が生じるのではないですか?

煙草を吸うと、不快が消えて、やっと普通の状態に戻るだけではないのですか?

それは麻薬への依存症で、病気です。

だったら禁煙して、煙草を吸わなくても不快ではないという

健康な状態に戻る方が、よりよいのではないですか?」

というのが、もう一歩進んだ回答でしょう。


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