倫理学

第四回(5月10/11日)

前回の課題のコメント

「コロナでも喫煙者は重症化してるし、煙草が身体に悪いことは、知ってる。よ〜く分かってるのよ。

でも、止められないのよ。」という友人のお父さんに、、ソクラテス的に、意見しなさい。

 

これは、「徳は知であり、教えられる」というソクラテスの逆説の問題点です。

わかっちゃいるけど、止められない」というのが、世間の人情。

あなたは意志薄弱のダメ人間です、という決めつけは、冷たいと思います。

お父さん、あなたは「知ってる」と仰っていますが、本当ですか?

喫煙者が、最も苦しいガンだといわれる肺ガンになって、

俺は馬鹿だった、煙草なんて吸わなきゃよかった、と、どんなに苦しむか、知ってますか?

本当に、煙草を吸ったら死ぬと分かっていたら、それでも吸いますか?

あなたは「知ってる」と思っているだけで、本当は知らないのです。

このパターンが、私が想定していた回答です。

 

前回、「本当に善いもの、美しいものについて知らない」という

ソクラテスの「無知の知」について触れましたが、

「不正なことをしてでも利益を得ることは善くないことだ」とか

「生きているよりも死ぬ方が善いことかもしれない」などと、

一方で、ソクラテスは善悪の判断を色々しています。

「何も知らない」という主張は、誇張ではないか、と思った人、いませんか?

これについては、諸説ありますが、一番普通の解釈は、

「善さそのもの」「美そのもの」を知らない、と理解することでしょう。

そこから、プラトンのイデア論が生まれます。

この問題の場合だと、煙草の害について、多少は知ってるが、

煙草の害そのもの、そのすべてを隈なく知ってる訳ではないということでしょうか。

そして、煙草とは何であるか、という煙草のイデアを知っていなければ、

それが善いものか、悪いものか、判断できないはずです。

逆に言うと、悪の巣窟のように近年言われ続けている喫煙ですが、

善い面もあるかもしれませんよね。薬の働きがあるとか。

現に、多くの麻薬が、麻酔薬や鎮痛薬として医療で使われています。

我々が、煙草の害を言い立てるとき、その根拠は、

本当の知ではなく、思い込みである可能性も高いのです。

 

ギリシャ哲学における徳の探求

ストア派とエピクロス派

 

何が善であるか、という問いには、伝統的には三つの答えがある、とデカルトは書いています。

快楽が善であるという快楽主義、その代表が、エピクロス派と功利主義

理性に従って欲望を支配するべしという、ストア派

(ソクラテスとプラトンは、欲望を理性によってコントロールする方向に、

善い生き方を求めたという点で、ストア派とカント義務倫理の出発点です。

この流れが、倫理学説のメイン・ストリームでしょう。)

もう一つは、徳の完成と自己実現というアリストテレスの理論です。

アリストテレスは徳の倫理の源泉ですから、後で余裕があったら解説します。

今回は、禁欲主義のストア派と、快楽主義のエピクロス派。

 

ストア派

ストアという名前は、ギリシャ語で「彩られた柱」。

広場の前にある柱(その後ろの壁に派手な絵が描いてあった)の辺りに集まって

議論をしたから、この名がついたと言われています。

始めたのは、ゼノン(333/2-261B.C.)

「アキレスはカメに追いつけない」という逆説で有名なゼノンとは別人。

 

キュプロス島出身なので、キュプロスのゼノンと呼ばれることもあります。

「ピレモンもまた『哲学者たち』という劇の中で、次のように述べているからである。

   一片のパンと、おかずは乾し無花果、それに水を飲むだけのこと。

   この人は新しい哲学を創り出し、

   飢えることを教えているが、それでも弟子たちは集まってくるのだから。」

「というのも、彼は、九十八歳まで生きて世を去ったのであるが、生涯の最後まで病気にかかることもなく健康を保っていたからである。

ところで、彼の最期の模様は次のようなものであった。すなわち、彼は学園から出かけて行くこうとしたとき、つまずいて倒れ、足の指を折った。それで彼は、大地を拳で叩いて、『ニオベ』の中から、

   いま行くところだ、どうしてそう、わたしを呼び立てるのか。

という一行を口にした。そしてその場で、自分の息の根をとめて死んだのであった。」

 

ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者たちの生涯と学説』という本があります。

(岩波文庫で翻訳が出ています。全3冊。)

全体的に、噂話みたいな記述が多く、あまり信用のおけない本なのですが、

散逸した文献を多く引用しているので、

ストア派とエピクロス派に関しては、非常に重要な典拠になっています。

今回、引用している文章の大半は、この本から。

(「98歳まで生きた」と書いてありますが、本当は71/2歳です。)

 

しかし、文献があまり残っていないギリシャ時代の初期ストア派よりも、

ストア派で有名なのは、むしろ、ローマ時代の後期ストア派でしょう。

セネカ『人生の短さについて』『幸福な人生について』

マルクス・アウレリウス『自省録』

エピクテトス『語録』

辺りは有名だし、よく読まれています。

 

A宇宙論

ストア派の倫理説の根本は、「自然に従って生きる」ことにあります。

(後で、下の付録1を読んでみてください。)

前回もちょっと出ていましたが、「自然(ピュシス)」というギリシャ語には、

「人為(ノモス)」に対する、「本当に存在するもの」というニュアンスがあります。

(因みに、私は、自然の法則とは進化論だと考えていますから、

「自然に従って生きる」とは進化倫理に従って行動することではなかろうか、

と思います。弱肉強食という意味ではありません。

むしろ、用心しながら友好的にふるまう、という意味です。)

ストア派によると、宇宙は神の法則によって動いています。

宇宙は物質の運動によって動いているのですが、物質には神が宿っています。

その法則は神の理性です、

ストア派はこれを自然法/自然法則(英語なら natural law)と呼びました。

(「自然法」というと理性によって自然から命じられる法、例えば生存権や所有権、

「自然法則」というと、物理法則を連想しますが、同じ言葉です。

これを初めて使ったのが、ストア派。)

宇宙のことをギリシャ語で「コスモス」と言いますが、これにもニュアンスとして

「美しく飾られた、秩序ある宇宙」という意味が含まれています。

英語の「化粧品」=コズメ(cosmetics)という言葉の起源も、これです。

そして、宇宙が「マクロコスモス」(大宇宙)なら、人体は「ミクロコスモス」(小宇宙)です。

両方には同じ「理性の法則」が存在します。

この法則は必然的ですから、この世界で起こる出来事は、すべて必然、つまり運命です。

正しい生き方とは、この理性に従って生きることです。

 

B倫理説

1)したがって、人間の優れた生き方とは、理性に従って、

無用な情念に打ち勝って、行動すること、ということになります。

感情や肉体を支配し、理性的に行動すること、

まさにストア主義が禁欲主義と呼ばれる所以です。

(私は、情念も自然に起こるのだから、運命の一部であって、

簡単に否定してはならない、とも思いますが、どうでしょうか。

まあ、これは、仏教の考え方ですが。

西洋哲学の伝統的考え方は、情念は個人的なもので、偶然です。)

 

2)アパテイア

アパ・ホテルに泊まっている人のことではない。

アは否定詞、パトスが情念、パトスが無いこと、普通、「無情念」と訳されます。

どんな時でも、情念に支配されたりせず、

冷静に理性的に対処するという、ストア派の理想を示す言葉です。

日本でも、武士は、たとえ自分の子供が死んだ時でも、泣いてはならず、

「左様か」と冷静に受け止めなければなかったそうですが、そんな感じでしょうか。

()ル・アドミラリ

という言葉もあります。これもラテン語で「何ものにも驚かされない」という意味。

「無感動」と訳されることもあります。

医者、警官、スポーツ選手、プロと呼ばれる人ならば、ストイックであってほしい。

プロが、特に自分の専門の仕事においては、ストイックでないのは困りものです。

賭けマージャンのあの人とか、話にならないと思います。

やたら太ってるお医者さんとか、あまりお世話になりたくないと思うのは私だけですか?

Uberの宅配の自転車、町でよく見かけますが、一応プロなんだから、交通ルールを守れ!

 

3)世界市民主義

コスモポリタンです。

コスモスは宇宙、ポリスは国(都市国家)、宇宙が自分の国だ、という意味です。

理性に従って生きるのなら、正しい行動は一つ。

日本人だとか、アメリカ人だとか、中国人だとか、

男だとか女だとか、若いとか年寄りだとか、関係ない。

後に、カントが、理性に従って行動することを善とするとき、

ストア派的な、宇宙と人間の両方に内在する理性の概念が

背後にあるような気がします。いや、あります。

 

ストア派の中では、私が一番面白いと思う、

エピクテトス (55?-135?)の『語録』を読んでみましょう。

 

「世には我々の力の及ぶものと、及ばないものとがある。

我々の力の及ぶものは、判断、努力、欲望、嫌悪など、

一言でいえば、我々の意志の所産の一切である。

我々の力の及ばないものは、我々の肉体、財産、名誉、官職など、

我々の所為(せい)ではない一切のものである。

我々の力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されこともない。

が、我々の力の及ばないものは、無力で、隷属的で、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである。」

 

「人を不安にするものは、事柄そのものではなく、むしろそれに関する人の考えである。

だから、死は本来、それ自体として恐ろしいものではない、

そうでなかったら、ソクラテスもまた死を恐れたはずである。

死が恐ろしいものだという先入的な考えがむしろ恐ろしいのである。

それゆえ、我々は、何者かによって妨げられ、不安にされ、あるいは悩まされたなら、

決して他人を咎めてはならない。

むしろ責むべきものは、我々自身、ことにそれに関する我々の考えである。

自分の不幸のために、他人を責めるのは、無教養者の仕方であり、

自分を責めるのは、初学者の仕方であり、

自分もを他人をも責めないのが、教養者の、完全に教育された者の、仕方である。」

 

「忘れてならないことは、君は人生において、饗宴の席におけるように振る舞わなければならぬことである。

馳走の皿が君の前に回ってきたなら、手を差し伸べてその中から控えめに少しの分量をとれ。

君の好むものが、しばらく回ってこなかったからといって、強いてそれを求めてはならぬ。

むしろそれが君のところに回ってくるまで待っていよ。

妻子や身分や富に関しても同様に振舞うが良い。

そうすれば君は、いつかは神々の客人となるであろう。」

 

「君が知恵の正しい進歩を欲するならば、次のような誤った考えをまず取り除かねばならぬ、

「自分の財産を不注意に取り扱うならば、やがて生計の道を失うだろう。

自分の息子を罰しなければ彼は悪人になるであろう。」

不安の心を抱いて贅沢三昧に暮らすよりも、恐れと憂いなしに死んだ方が勝っている。

自分が不幸になるよりも、息子が悪人になる方が勝っている。」

(以上の引用は、ヒルティ『幸福論』「エピクテトス」(草間平作訳)より)

 

最後の文章には、さすがに、注が必要でしょう。

息子の将来を心配して心を煩わせるより、放っておいて、自分の心を穏やかに保て。

これを引用した、ヒルティも、さすがにこれでは愛がないと文句を言ってます。

ストア派の人は、偉いけど、ちょっと冷たい。

現代の訳では、「息子」ではなく「奴隷」とか「召使い」とか、ややマイルドになっています。

 

ストア派は、自分に厳しいのはよいのですが、自分の中で完結して、

他人や社会を積極的に自分から変えていこうという発想がありません。

運命を信じることから、悪い意味で現実肯定の理論になっているような気がします。

そこが、前回見た、ソクラテス/プラトン辺りと全然違う点です。

 

 

エピクロス派

エピクロス派を始めたのは、エピクロスその人(342/1-271/0B.C.)

35歳のとき、アテネに出てきて、小さな庭付きの家(エピクロスの園)を買い、

そこで仲間たちと質素に楽しく暮らしたと言われています。

言うことが正反対ですから、ストア派とは、非常に仲が悪かった。

文献もほぼ残っていません。

 

A宇宙論

1)原子論

この世界は空虚と原子からできている。原子の運動は偶然である。

だからこの世に起こることは偶然であり、

ストア派が言うような必然性とか運命とか、存在しない。

無限に多くの原子の運動が存在し、

そして、恐らく、無限に多くの宇宙が存在する。

(なんて現代の宇宙論に近いのでしょう!)

 

2)無「神」論

神は存在しない。ただし、いま「神」と呼んでいるのは、

世間の人が恐れている「神」のことで、

本当に存在する神のことではない。

世間の人は、神が人間を見張っていて、

悪いことをすれば不運で罰し、願い事があれば、かなえてやる、

そういう神が存在すると思っている。

もしそんな神がいるなら「この世はとっくに滅びているだろう」

とエピクロスは言います。

その理由は、ちょっと考えれば分かるはずです。

本当の神々は、人間とは関わりなく、天上で自分たちの満ち足りた生活を送っている。

人々が恐れている「神」など存在しないのです。

 

3)無「死」論

「死は存在しない。」

これはエピクロスの言葉としては一番有名なものでしょう。

「死は存在しない。

なぜなら、我々が存在しているとき、死は存在せず、

死が存在するとき、我々が存在しない。」

(これと同じようなことは、ストア派も言っています。

「君は自分が死んでいることを知っている」をAとします。

知っているというのはそれが真であることを知っているという意味ですから、

「君は死んでいる」をBとすると、AならばB

一方で、知っているなら意識がある訳ですから、死んでいません。

ゆえに、AならばBではない。

Bであり、Bではない、これを矛盾と言います。

Aであると仮定すると、矛盾が生じる。ゆえにAではない。

これは論理的にまったく正しい推論です。

(ストア派は、こういう命題論理の研究もしました。)

ゆえに、「君は自分が死んでいることを知らない。」(笑)

私が昔読んだ本には、こう訳してあったのですが、この文(命題)の正しい訳は、

「君は自分が死んでいることを知ることはない。」でしょう。

A⊃B, A⊃¬B  ¬A

これは100%正しい推論です。)

生きている間は、死んでいない。

死んだ瞬間には、もう意識がない。

人は誰も、自分の死を経験することはできないのです。

では、なぜ人は死を恐れるのか?

それは他人の死を見て、想像力によって、恐れるからでしょう。

多くの人は、事故や病気で、しばしば苦しんで死にます。

それを見ると、死とは恐ろしいものだという想像が生まれます。

でも、恐ろしいのは、事故や病気の苦しみであって、死ではないのではないですか。

事故や死は、苦しみをもたらすから、悪です。

でももし死が訪れないなら、苦しみが終わることもありません。

エピクロスの原子論によると、死は原子の解体、感覚の消滅です。

死それ自体は、恐れるべきものではない。

死を恐れるのは、非理性的な想像力が生み出す幻想に捕らわれているからです。

「神」を恐れるのと同じように。

 

B倫理説

1)快楽主義

世間の多くの人が恐れている二つのもの、神と死、が存在せず、

何が起ころうとも、それは偶然で、深い意味はないのですから、

人は楽しいことをして、その限られた人生を過ごせばよい。

快楽こそが善であり人生の目的である、この立場を快楽主義と言います。

エピクロスこそ、快楽主義者です。

 

でも、普通の意味での、「快楽主義」ではないかもしれません。

快楽とは何か、エピクロスは追求します。

肉体の快楽と、精神の快楽は、少し違う。

肉体の快楽、そのほとんどは、欠乏から生じます。

これは当時のギリシャ人の常識でした。

例えば、胃袋の快、食欲ですが、これは空腹という欠如から生まれる。

喉が渇いてないのに、飲め、と言われるのは、むしろ苦痛です。

逆に、喉がカラカラな夏、一杯の冷たい水が、最上の快楽をもたらす。

(内田百閧ニいう頑固な作家がいます。百閧ヘ、間食を嫌いました。

夕飯が台無しになる、というのがその理由です。

食べたくない時に食べると、美味しくないだけでなく、夕食の楽しみを損ねる。

この意味では、内田百閧ヘ快楽主義者です。)

快楽が人生の目的なら、快楽を大事にしなければなりません。

また、空腹でないのに飲食をすれば、身体が太って苦しくなったりします。

快楽自体はどれもよいものですが、ある快楽は多くの苦痛をもたらします。

肉体の快楽には、そういうものが少なくない。

したがって、エピクロスによれば、肉体の快楽の理想は、

健康で空腹でないこと、です。

「少しのパンと水だけで十分だ。」(ストア派ですか?)

「快が現に存在しないために苦しんでいるときこそ、我々は快を必要とするのであり、

苦しんでいないときには、我々はもはや快を必要としない。」

 

2)心の平静

精神の快、これは肉体の快と種類が違います。

音楽を楽しんだり、議論をして楽しんだり、学問の研究に励んだり

欠乏から生じるわけでもなく、多くの苦しみをもたらすわけでもありません。

静かな喜びがあるだけです。

「それゆえ、快が目的である、と我々が言うとき、

我々の意味する快は、道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、

じつに、肉体において苦しみのないことと

魂において乱されないこと〔平静である〕ことに他ならない。」

ギリシャ語で、アタラキシア(心の平安)といいます。

ストア派のアパテイアとどこが違う、という疑問もあるでしょうが、

あっちは苦しんで努力してる感じですが、こっちは喜んで楽しんでる感じ、です。

 

私も酒を飲みすぎて、翌日、体調が悪いというようなことは、あります。

そういう時のことを、冷静に分析すると、

確かに、暑い夏の日の仕事終わりに飲む一杯のビールは美味しい。

だから、つい二杯目、三杯目と飲んでしまう。

でも冷静に振り返ると、二杯目、三杯目は、味などもうよく覚えていません。

というか、たいして美味しくはないのです。

本当はもう美味しくないのに、最初の一口が美味しかったから次も同じように美味しいはずだ

と思う想像力によって二日酔いが生じます。

今日は一杯で十分だ。これ以上は美味しくない。
幻想を排する「素面の思考(=思慮)」こそが真の快楽をもたらす、

とエピクテトスは言います。

 

3)「隠れて生きよ。」

最後に、社会生活。

「我々は、日常の私事や国事の牢獄から、我々自身を開放するべきである。」

エピクロスは、人間嫌いでもなく、アテネのことも気にかけていましたが、

国事に参加することはありませんでした。

「多くの人があちこちから彼のもとに集まり、彼の庭園で生活を共にし、

極めて節約した極めて質素な生活を送った。」

 

 

さて、最後に、ヘレニズム時代の倫理の特徴ですが、

極めて個人主義的、と言うことができます。

ソクラテス、その弟子のプラトン、更にその弟子のアリストテレス

彼らの倫理説は、社会生活と深く結びついていました。

アリストテレスの『倫理学』は『政治学(ポリスの学)』とワンセットです。

一つの学問の、前半が「倫理学」、後半が「政治学」。

個人の善い生き方は、共同体における善い活動と分けられるものではありませんでした。

ところが、その後に続くヘレニズム時代には、もはやポリスは有名無実です。

自分が共感を持って参加できる共同体であるはずのポリスは、もう存在しなかったのです。

だから、宇宙が国だ、とか、政治には関わるな、という主張が出てきます。

ストア派とエピクロス派が、まったく正反対の前提から出発し、

いろんな点で、正反対の主張をしたのに、

行きついた倫理には、驚くほど共通点がありました。

それは、結局、「個人の幸福」が目的になるからです。

共同体に依存しない、自由な個人の生活。

それは、現代の我々の状況と、よく似た点があるように思えます。

私個人は、エピクロスの哲学に、強い親近感を持ちますが、

その理由の一つとして、国や共同体を信用していないという共通点があります。

エピクロスの言葉は、素直に受け入れられるものが多い。

(「敵が君に求めるとき、その要求に背を向けるべきではない、

だが、用心を怠ってはならない、

なぜなら、敵は、すこしも犬と違わないものだから。」

この方が、「敵を愛せ」より、受け入れやすいでしょう。面白いし。)

しかし、それが本当に幸せなことなのか、考えてみるべき問題でしょう。

 

 

課題

次のテーマについて、400字程度で、述べなさい。

「前回と同じ、煙草が止められないという、友人のお父さんに、

エピクロス派の立場から、何か言ってあげなさい。」

 

 

付録1

「このゆえに、ゼノンが最初に、『人間の自然本性について』の中で、(人生の)目的は「自然と一致和合して(ホモログーメノース)生きること」であると言ったのであるが、そのことは、「徳に従って生きること」に他ならなかったのである。なぜなら、自然はわれわれを導いて徳へ向かわせるからである。‥‥しかしまた、クリュシッポスが『目的ついて』第一巻の中で述べているように、「徳に従って生きる」ことは、「自然によって生ずる事柄の経験に即して生きる」ことに等しいのである。なぜなら、われわれの自然(本性)は、宇宙万有の自然の部分だからである。

それゆえに、自然に随従して(アコルートース)生きることが(人生の)目的となるわけであり。すなわちそれは、各人が自分自身の自然(本性)にも、また宇宙万有の自然にも従っているということであり、そしてその場合には、共通の法(コイノス・ノモス)が――この共通の法とは、万物に遍くゆきわたっている正しい理法(オルトス・ロゴス)であり、それはまた、存在するものすべてを秩序づけるにあたっての指導者である、あのゼウスと同一のものなのであるが――通常禁止していることは何ひとつ行わないのということなのである。そしてまさにそのことが、幸福の人が身につけている徳であり、かれの生の淀みなき流れなのであるが、それは各人の傍らにつきそっているダイモーン(守護霊)と、万有の統括者の意志との間の一致協和にもとづいて、全てのことが行われる場合に生ずることなのである。」

(ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者たちの生涯と学説』第七巻 加来彰俊訳)

 

 

付録2

1)「メノイケウス宛の手紙」(岩崎允胤訳)より

「また、死はわれわれにとって何物でもない、と考えることに慣れるべきである。というのは、善いものと悪いものはすべて感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである。それゆえ、死がわれわれにとって何物でもないことを正しく認識すれば、この認識はこの可死的な生を、かえって楽しいものとしてくれるのである。というのは、その認識は、この生に対し限りない時間を付け加えるのではなく、不死への空しい願いを取り除いてくれるからである。なぜなら、生のないところには何ら恐ろしいものがないことを本当に理解した人にとっては、生きることにも何ら恐ろしいものがないからである。それゆえに、「死は恐ろしい」と言い、「死は、それが現に存するときわれわれを悩ますであろうからではなく、むしろ、やがて来るものとして今われわれを悩ましているが故に、恐ろしいのである」と言う人は、愚かである。なぜなら、現に存するとき煩わすことのないものは、予期されることによってわれわれを悩ますとしても、何の根拠もなしに悩ましているにすぎないからである。それゆえに、死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、実はわれわれにとって何物でもないのである。なぜかといえば、われわれが存する限り、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きている者にも、すでに死んだ者にも、かかわりがない。なぜなら、生きているもの所には、死は現に存しないのであり、他方を死んだ者はもはや存しないからである。」

 

2)「メノイケウス宛の手紙」(岩崎允胤訳)より

「快が現に存在しないために苦しんでいるときこそ、われわれは快を必要とするのであり、苦しんでいないときには、われわれはもはや快を必要としない。」

「贅沢を最も必要としない人こそが最も快く贅沢を楽しむ。」

「それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと魂において乱されないこと〔平静である〕ことに他ならない。」

「一切の選択と忌避の原因を探し出し、魂を捉える極度の動揺の生ずるもととなるさまざまな臆見を追い払うところの素面の思考こそが、快の生活を生み出す。」

 

3)「主要教説」(岩崎允胤訳)より

「正義は、それ自体で存するあるものではない。それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通の際に、互いに加害したり加害されたりしないことに関して結ばれる一種の契約である。」

「不正は、それ自体では悪ではない。むしろそれは、そうした行為を処罰する任にある人々によって発覚されはしないかという気掛かりから生じる恐怖の結果として、悪なのである。」 

 

4)「断片」(岩崎允胤訳)より

「肉体の衝動がますます募って性愛の交わりを求めている、と君は語る。ところで、もし君が法律を破りもせず、良風を乱しもせず、隣人の誰かを悩ませもせず、また、君の肉体を損ねもせず、生活に必要なものを浪費しもしないならば、欲するがままに、君自身の選択に身を委ねるがよい。だが、君は、結局、これら障害のうちのすくなくともどれかひとつに行きあたらないわけにはいかない。というのは、性愛がたれかの利益になったためしはないからであって、もしそれがたれかの害にならなかったならば、その人は、それだけで(害にならないというだけで)満足しなければならない。」


→資料集

→村の広場に帰る