偽装だらけさ世の中は  1/30
 製紙会社の再生紙偽装が明るみに出て、紙の販売中止が発生しているそうですが、まさか廃棄処分にしているんじゃないでしょうね。虚偽表示の紙で健康を損ねるわけじゃないんだから、表示を訂正して、販売そのものは続ければいいのです。廃棄されたら消費者が困るし、それこそ環境問題になります。
 何もしないのでは世間がうるさいから、とりあえず見えないところに隠しておこうというおざなりの手段のように見えるのですが、環境省も、それで懲罰のポーズをとっておくということでしょうか。
 でも今の日本は、どんな事件や問題が生じても、実は道理よりも、騒いでいる当事者たちにとって金になるかならないかを最優先にして決着しているような気がします。ぼくたちは、お金と権力だけはあって心のない人たちの茶番劇に丸め込まれているのでは?
 最近の大相撲にそんな日本社会のありようが凝縮されていますね。病死と片づけようとしたリンチ事件、ほんとうに病気だったのかどうかもわからない朝青龍事件。みんな偽装が絡んでいて、でもそのうちうやむやになり、千秋楽が終わってみれば、盛り上がって良かったなあ、なんて。ちょっとちょっと、ですよねえ。

会話では損していい  1/25
 
おとといの「ためしてガッテン」は会話をテーマに取り上げていましたが、上手になるためのポイントのひとつは、相手にとって話しやすい人になることだそうです。具体的には表情が豊かであること、特に笑顔が大切だとのこと。そうありたいものです。
 最近はテレビのお笑いブームのおかげで、ギャグを飛ばすことに腐心している人が多いような気がします。でも、そのとき心に留めておきたいのは、受けねらいのギャグばかりねらっていると、まるで自分は舞台の上の芸人、まわりにいる人は観客、みたいな意識になってしまい、それは一見面白そうで、実際にはコミュニケーションとしての会話は成り立っていないということです。
 昔、自分がギャグを言うときは笑っているくせに、他の人たちの談笑にはニコリともしない男がいました。ある時ぼくはその癖に気づいて、ああ、この人はそんな風にして常に他の人の優位に立っていたいのだなと納得しました。
 笑顔は友好の意思表示でもあるけれど、政治の世界と違って日常生活の会話は、自分が得をしなくてもいいという気持が持てるかどうか、がカギではないでしょうかね。そう言う気持ちから生まれる笑いがユーモアで、だからユーモアは意外に難しい。

ぶったくり出張費  1/22
 
今月の10日、浴槽を換えたついでに壊れかかっていた排水口の目皿も交換することにしました。その日さっそく電話をしたら、在庫を調べるのでお待ちくださいという返事。ところが1週間待っても何の音沙汰もないので、もう一度電話をすると、どうも忘れていたみたいで、やっと動き出して、翌週の月曜日にお届けします、という連絡がほどなくありました。
 さてお届け日である昨日の午後、水道屋さんがやって来ました。たまたま運悪く生協の配達も重なり、玄関が混み、「あ、生協さん、ちょっと待ってくださいね。えと、目皿おいくらですか。4300円?」目皿ごときがなんでそんなに高いんだろう……といぶかりながらもあわただしく支払いと生協を片づけました。一段落ついて改めて領収書を見ると、代金の内訳が「修理費2300円、出張費2000円」となっていました。
 出張費?何これ?届けに来ただけじゃないか。ぼくはすぐに担当の会社に電話をしました。応対した人は「事前にご説明をしませんでしたか?」と釈明してきましたが、事前の説明はなかったし、わけのわからない出張費なんていう物があるのだったら、宅急便で届けてもらうか、あるいはぼくが事務所まで受け取りに行った方がはるかに安いと言うことを冷静に指摘しました。
 結局、今朝「出張費」の2000円を返してもらったのでした。

本の広告  1/15
 本の中には、目次で中身がほとんど言い尽くされているものがあります。実用書や最近の新書に
そう言うのが多い。ぼくはこの頃、新書や文庫はよほど今すぐに読みたいというものでない限り、新刊では買わず、ブックオフに降りてくるのを待つことにしています。もちろん図書館利用も常套手段。
 先週、新聞に阿川弘之著『大人の見識』(新潮新書)の広告が出ていました。全5段の比較的大きなサイズ。中央の大きな書名がまず目を引きますが、その両側に30余りの升目があり、そこに目次と思われる言葉が 並んでいるのです。ざっと次のようなもの。
 自国の歴史を振り返るべし。なぜ日本人は賞賛されたか。理詰めで人を責めるな。急ぎの用はゆっくりとやる。大和魂とは大人の思慮分別。静かに過ごすことを習え。……
 いい言葉が並んでいますね。皮肉ではなく、ぼくはここに書かれている言葉に共感します。藤原正彦さんの『国家の品格』と同じ中高年の読者層をねらっているのでしょう。共感しつつ、しかしぼくにはここに出ている言葉で充分に思えて、この広告を切り取って取っておくことにしました。ことわざ集を見るようにときどきこの広告を眺めていれば、読んだ気になれるのです。

浴槽が新しく  1/12
 わが家の浴槽を交換しました。前のホーロー製のものはまだ使えたのですが、去年あたりから縁の部分がボロボロと錆びて
、崩れてきていました。お湯を入れる内側の部分が崩れるのも時間の問題だというわけで、公団住宅の管理事務所に電話をしました。
 すると、まず点検をしてから交換かどうか決めますということで、その点検日がおととい(10日)だったのです。ところが担当者が、家に来る前に電話で「新しい浴槽を持っていくので、玄関から風呂場にかけて荷物があるようでしたら、どかしておいてくれますか」と言うのです。なんだ、最初から取り替えるつもりだったのか。担当者も2度来るのは面倒なのだな。でもその方がぼくたちも助かります。
 狭いところになぜか荷物だけは多いわが家。一人でせっせと移動しました。浴槽の設置は1時間ほどで終わりましたが、今度のはホーローではなく、プラスティック製とのこと。新しい材質で保温性は大丈夫かなとか、これまでのより少しだけ大きくなったけれど風呂場の壁にびっしりはまっているおかげで動かしづらくなって、年末の掃除が大変だなあというようなことが、あれこれ頭をよぎります。
 さて、役目を終えた古い浴槽はこのあとどうなるのでしょう。答えは……ホーロー(放浪)の旅に出るのさ……。

冬来たりなば、春遠からじ  1/9
 寒い日が続きます。皆さんお元気ですか?
 表題の有名な言葉は
英国ロマン派詩人の一人、P. B. シェリーの詩の一行だそうです。原語では次のようになっています。
 If Winter comes,
 Can Spring be far behind?
 ぼくはこの詩人の作品を読んだことはありませんが、この言葉だけは知っています。
 つらいときがあってもじっと待っていれば必ず春がやってくる、というような意味に解されるようですが(ぼくもそんなふうに考えていました)、先日、公園を歩いているとき、この言葉が別の相を見せてくれました。
 葉っぱを落としてすっかり裸になってしまった枝も、近づいてよく見ると、たくさんのつぼみがついていて、芽吹く準備をしています。その準備は冬に入ったときすでに始まっているのですね。季節が巡るたびに目にしていた当たり前のことなんだけど、今までそのことを思い巡らすことがあまりなかったようです。
 冬はただ通り過ぎるのを待つだけの季節なのではなく、その中に初めから春をはらんでいる豊かな準備のときなのです。それに気づくとき、シェリーの言葉もまた新しい意味を帯びて現れてくるのでした。春と一緒に冬を慈しむことができるのだと。

玉村豊男さんの本  1/6
 年末から年始にかけて読んでいた本の中に、玉村豊男さんの著書が2冊あります。『田舎暮らしができる人できない人』と『絵を描く日常』です。前者は間もなく定年で第2の人生をスタートする団塊の世代の人たちを対象にした田舎暮らしについての案内書。後者は、40歳を過ぎて再開した絵画制作のあれこれを綴ったエッセイ。
 『田舎暮らし〜』は面白かったけれど、ちょっと食い足りなかった気もします。ぼく個人は『絵を描く日常』の方が断然刺激的で、興味深く読むことができました。玉村さんが絵を描いているのは知っていたけれど、ここまで本格的だとは
想像していませんでした。水彩による草花の写実画をおもに描いていて、個展もよく開いているらしいのですが、みごとなものです。この方は文章もうまいし、料理もできて、レストランも経営しています(ワイン農場も持っている)。それでなおかつ絵もこんなにうまいなんて、すごいもんだと思っていたら、この方のお父さんが日本画家だったんですね。絵描きのDNAが受け継がれたというわけか。
 自然とともに暮らして、素敵な絵を描いている玉村さんのような生き方に、ぼくはひそかにあこがれています。

「考」の年  1/1/08
 あけましておめでとうございます。健康だけは守られて新年を迎えることができました。今年もよろしくおつきあいください。
 さて、去年の世相を表す
漢字として「偽」が選ばれたことに対して、ぼくはこのコーナーで「疑」という文字を挙げてみました。相も変わらずへそ曲がりな(と人からは見える)発想なのですが、へそ曲がりついでに正月早々「今年の漢字」を一つ選ぶことにしました。年初だと当然それは、願いか目標ということになるでしょうが、そこまで深く考えずに。
 選んだ文字は「考」です。今までもそうだったけれど、自分の基本姿勢としてこれからもいろいろ考えていきたいなということで。
 でも選んでみて思いました。この文字は意外に日本人には受け入れられにくいのではないかと。「考えてばっかりいたってだめだよ」「実行が伴わなきゃあね」というふうに、どこかしら敬遠や誤解や軽蔑を受けているのではないかと言うことです。その証拠に、書き初めで「考」の文字を書く人はほとんどいないような気がします。

 うん、それならますます面白い。その違和感をきっかけにして、ぼくは積極的に「考える」ことを今年もやっていこうと思っています。

12月の「ごあいさつごあいさつ」