ドキュメンタリーふたつ  10/30
 先週から今週にかけて面白いテレビ番組をふたつ見ました。
 ひとつは22日(月)夜10時のNHKスペシャル「100年の難問はなぜ解けたのか?」。これは百年前のフランスの数学者ポアンカレの予想という数学の問題をついに今世紀に入って解いた人がいるというお話です。その人は、この難問を解いたあと世間から身を隠してしまったそうで、ミステリーめいた事実を追求する過程で、数学の世界の奥深さと狂気が次第に明らかにされていくのです。
 もうひとつは28日(日)夜10時のNTV特集「里山保育が子どもを変える」。木更津市にある私立の保育園の様子を1年間にわたって取材したもの。ここの教育方針は自然の中で子どもたちを過ごさせるものですが、それがハンパじゃないんです。見ていて、ほんとに大丈夫かとハラハラするのですが、でも子どもたちの体や心のぶつかり合いなども丁寧に描かれていて、最後には感動しましたね。
 まったく分野の違う番組でしたが、事実の持つ迫力や本物の生命力を感じさせました。今やぼくが価値を見出すことのできる数少ないテレビ番組は、こういう種類のノンフィクションなわけです。

国語はどうなってる?  10/27
 NOVAが経営破綻に陥っているようです。英会話学校も近年だいぶ下火になってきているようですが、いい傾向ではないでしょうか。英語学習イコール英会話というのは貧しい気がするし、かけている費用と時間の割には効果があまり上がっていないのではないかと思うから。
 文部科学省は今以上に英語教育に力を入れようとしていますが、英語の時だけコミュニケーションと言うことを唱えるくせに、国語教育ではそれほど重視しないのはどうしてでしょう? 相手と理解し合うための、また自分の考えをより深めたり正確に表したりするための、日本語による文章訓練や話し方訓練にもっと力を入れたほうがいい。要するに論理性を養うということですが、どうも日本語教育は、気分に流されていることが多いんですよね。
 それでもって、コミュニケーションがちょっと手に負えなくなると「大事なのは言葉じゃないよ」と逃げてしまったりする。そういう安易な言葉不信感で終わるのではなく、もうちょっと突っ込んでみると新しい視野が開けてくるのです。英語をどうこう言う前に母国語でそういう姿勢を身につければ、外国語学習ももっと中身のあるものになっていくと思うのですが。

ゼロシン  10/25
 文具は日常使用するものだから、いいものを使いたいと思います。高級品である必要はないけど。ぼくは絵を描くときは昔ながらの鉛筆を使いますが、文字を書くときはシャープペンシル。芯は太さ0.5mmで2Bと決まっています。2年ほど前まではドクターグリップを使っていたのですが、今はゼロシン(プラチナ製品)で、これがなかなかいい。どこがいいかというと、芯がかなり最後のほうまで使えるという点。
 普通のシャープペンシル(ドクターグリップも)だと、芯の残りが7、8ミリくらいになると書いているときクルクル回り始めます。これがわずらわしい。後ろから新しい芯で押し出しても回るのだけは防げない。だから結局捨ててしまうのです。でもゼロシンだと残り2ミリまでは間違いなく使えて、しかも回らない。これで字を書くことに集中できます。パイロットでも、別の名称で同じような構造のものが出ているようですが、ぼくは価格の安さでゼロシンを買いました。
 最近はシャープでもボールペンでも、グリップ部分が樹脂製のものが主流のようで、確かに握りやすいのですが、使い込んでいるとフニャフニャベタベタになるのがちょっと気になりますね。

大江戸線が止まった  10/23
 今朝、地下鉄大江戸線が止まりました。通勤通学時間直撃でしたよ。わが家でこのあおりをまともに食らったのが、娘とぼく。
 何も知らないぼくは、いつものように家族を送り出して家事を済ませ、いつものようにコーヒーを入れて、メールチェックをして、そうだ、トイレにも行かなくちゃ、と思っていたところへ娘から電話が。大江戸線が止まっていて復旧のめどが立たず、まだ光が丘にいる、と。何やとー?
 で、急遽ぼくはアッシー君になって、娘を学校に送らなければならなくなったのでした。学校に電話を入れ(学校によれば、遅刻や欠席は本人だけでなく保護者からの連絡も必要とのこと)、9時前に家を出発しました。通勤時間だから道は結構混んでいました。
 何とか9時半頃には学校に送り届けることができたのですが、大変なのはむしろ帰りでした。娘の学校へ車で行くのは初めてだったので、狭い住宅街を抜けるのに苦労して、大通りに出たのはいいけれど、右折と左折を間違って、家とは反対の方向に進んでしまったのです。
 ラッシュ時の環七は車線変更もままならず、かなり進んだところでやっと別の道に入ることができましたが、帰りの方が行きの1.5倍も時間がかかり、ようやく帰宅したのは10時半過ぎでした。まあ、たまのドライブを楽しんだのだ、と考えることにしましたが、地下鉄故障のとんだとばっちりでした。ほーんとにもう。

言葉がない  10/22
 前回の続き。Psiko(ポプラ社)という雑誌の新聞広告に特集が「女のことばは災いのもと?」とあったので、興味を持って図書館で見てみたら、でっかい文字で組まれたリード文と見出しだけで見開きを使っていたものだから、絶句してしまいました。そのあとも似たようなレイアウトで、言ってることも他の女性雑誌と大差がない。言葉の特集なのに、言葉というものに深く入っているわけでもない。日本人が文字びっしりの紙面をいやがるのはわかるけど、ここにはレイアウト上だけでなく、本当の意味でも言葉がないと感じました。
 欧米の文章は、小さな記事でも構造がもっとがっちりしていて、多くを語っているのです。それが日本人にはよけい取っつきにくくて、内容の理解をさらに困難になるわけですが、そういう言語訓練はもう少しやった方がいいような気がしますね。
 ところで、シュルツの伝記書評ですが、それによると、シュルツは鬱気味で暗い性格の人だったとか。えっと驚くかも知れませんが、でもそれはありそうなことです。彼の作品に登場する人物はすべて作者の性格を反映しているという分析は、ドストエフスキーの作品に共通するものがあるようです。

言葉の圧倒的な質量の差  10/19
 先日、New York Times 電子版でシュルツ(あのピーナッツシリーズの作者)の伝記に関する記事が出ていて、気になったので読んでみました。最近ぼくは英語からちょっと遠ざかってしまっていますが、たまに読んだり聞いたりすると、さび付いた脳の部位を動かして、いい刺激になります。ギシギシ。
 英語の記事を読んで改めて驚かされるのは、その情報量の多さです。日本のインターネットニュースとは圧倒的に文章量が違います。ただでさえ日本語と英語では読解速度に差があるのに、加えて文字の量が違っていたら読み通すだけで重労働です。
 最近は、情報はインターネットから仕入れれば充分と言う人が多いけれど、日本の場合はインターネットでは印刷物に比べてはるかに字数が少なく、ヘッドライン程度しか書かれていません。これじゃ物事の表層しかとらえられません。新聞や本に取って代わるものでないことは多くの人たちが指摘するとおりですが、日本と欧米では言葉への姿勢が根本的に違っていて、それはインターネット上でも同様なんだなと、改めて思ったのでした。

暴走老人  10/17
 昨日ここで、「暴走老人」という言葉を使いましたが、これは最近出版された本のタイトルです。ぼくはまだ読んでいませんが(3日前に書評は読んだ)、実はこの本のことを知ったのには、偶然の面白いきっかけがありました。
 先月、本屋にいたとき、70代と思われる男性が店の人に本を注文しようとしているのだけれど、自分の探しているのが何なのか明確にわからないのに、とにかく探せと言っているのです。しばらくのやりとりのあといったん店を出た男性は、戻ってきたとき店員に「あんたの名前は何?聞いておかないと、今度来たときに、誰のことかわかりません、なんて責任逃れされるからね」と言ってました。自分のいい加減さを棚に上げて何を偉そうに、と思いました。 そのあと帰宅したら、新聞でこの本の広告を目にしたのです。さっきのおじさんはその予備軍だなと、笑えもしない感想を抱きました。
 今朝の朝日新聞にキレる大人たちの記事が出ています。30代、50代の暴行が増えていると言うから、老人だけじゃなく、一億総暴走時代のようです。日本の国語教育をもう一度見直した方がいいのでは?言葉遣いの問題じゃなく、一人一人の言葉が恐ろしく貧困になっているということだから。

オヤジを貫く 10/16
 オヤジになるとは、要するに世の中につい文句を言いたくなることなわけですが、近ごろ気になること。言葉ではまず、テレビに出てくる人たちが自分の親のことを「お父さん」「お母さん」と平気で話している。どうして「父」「母」って言えないんでしょうね。
 それから「真逆」(まぎゃく、と読む)。これ、普通に「正反対」って言えば済むことなんじゃない?ほとんど無意味な流行り言葉に思えるのですが。
 「ぼく的には、わたし的には」という表現については今さらコメントする気がありません。
 コメントする気がないと言えば、エリカ様騒動、朝青龍から始まった大相撲のスキャンダル、ボクシングの亀田一家。こういうのに対してはもうオヤジを貫くしかないな、と思っているんですが、文句ばっかり言っていると、そのうち「おまえは『暴走老人』だ」と言われること間違いなし。
 ところで、10月8日以降に掲載した作品画像が、モード設定の手違いで表示できなかったようです。知人の指摘でようやく気がつきました。せっかくここを訪れてくださった方々、もし見られなかったのでしたら、申し訳ありませんでした。ご指摘くださったYさん、ありがとうございました。

陣内大蔵コンサート  10/13
 ゆうべ、陣内大蔵さんのコンサートに行って来ました。日本海側で最近起こった3つの大地震災害復興のチャリティーとご自分の本『僕んちは教会だった』出版記念を兼ねたものです。1時間半ほど楽しい時を過ごし、心が日常生活から解き放たれました。
 当たり前のことですが、プロだから場の雰囲気作りがとても上手です。最初はソロでピアノの弾き語り(1曲はギターで)をしながら、聴衆を自分の世界にどんどん引き込んでいって、後半に共演者を二人、さらに二人と増やし、次第に盛り上げていくのです。ピアノ、ギター、パーカッション、ヴァイオリン、ヴィオラの音が会場を包み、「空よ」のサビを一緒に歌うころには、陣内さんが言わなくても、みんなで手拍子を打っていました。会場の空気がどれほど変わったかは、冒頭に歌ったAmazing Grace をもう一度最後に歌ったときの聴衆のノリの違いがよく表していました。
 ぼくは音楽のコンサートにはあまり出かけないのですが、行くたびにつくづく美術とは違うなあと思うのです。その時その場でそこにいる人たちと味わえる体感――これが音楽のいいところですね。

オリヲン座からの招待状  10/10
 映画「オリヲン座からの招待状」が11月3日に封切りになるそうです。これは見に行くつもりです。理由はきわめて単純。主役が宮沢りえ(「たそがれ清兵衛」「父と暮せば」)加瀬亮(「硫黄島からの手紙」「それでもボクはやってない」)だからです。
 監督は三枝健起。この監督の作品は見たことがないので、力量は知りません。それでもいくつもりなのだから、ぼくは多分にミーハーなのですが、とにかくこの二人の役者だけでぼくは大満足なのだ。
 でもそれだけじゃなくて、原作が浅田次郎なのでいいに違いないと推測しているのです。集英社文庫の「鉄道員(ぽっぽや)」に入っている短編だそうです。「鉄道員(ぽっぽや)」をぼくは数年前にビデオで見ましたが、お話は良かった。でも広末がちょっと……。それと、あのお話は映像にしない方がいいと思いましたね。あくまで小説として読んでこそ、お話の良さが味わえる。映像化することで小説の肝心な構造を壊してしまうと思いました。
 「オリヲン座〜」は、昭和30年代の京都を舞台に、閉鎖される映画館を守る二人の男女のお話と言うことですが、ちょっと期待しているのです。

秋の装い  10/8
 金木犀の香りがあちこちでいっせいに広がっています。おととい土曜日にはまだ白っぽかった花が、翌日にはもうオレンジ色に色づき始めていました。これからしばらく外に出かけるたびに、この香りを楽しめそうです。
 わが家のベランダ園芸は、水やりは毎日欠かしませんが、全くの素人なので正しい手入れができていなくて、ほとんど無政府状態です。園芸に少し詳しい娘が花を買ってくることもあるけど、本人は半分ほったらかしで、水をやるのが僕だから、いつの間にか枯れたりする。
 そんなベランダに、風が運ぶのか、虫が運ぶのか、エノコログサやらカタバミがもとの住人(花)と入れ替わって、いつの間にか幅を利かせています。最近の新顔はフユシラズ。2年ほど前にも繁殖していました。
 マーガレットに似た、黄色くて小さな花はなかなか可憐なのですが、見かけによらず繁殖力があります。花屋さんで売ってるそうで、こんな雑草をお金を出してまでほしい人がいるの?と思うのです。でも、家に来たものをむげに引っこ抜こうとは思いません。かわいく見せているのは、生き延びるための戦略なのかな?

 戸口より 香の届きたり 金木犀

沖縄の心  10/5
 第二次大戦での沖縄の集団自決に軍の関与があったかどうかを巡る教科書記述について、政府は検定を見直す動きを始めたようです。これも参院選における自民党の敗北がもたらした収穫の一つですね。ゴリ押しができなくなって、ちょっと低姿勢になった。安倍さんが声高に叫んでいた憲法改正は、さらに遠ざかりました。
 もう21年も昔のぼくと妻の新婚旅行先は、沖縄でした。その時印象に残ったことの一つが、バスガイドの案内に、必ず戦争に関する話題が取り上げられていたことです。それほど各地に「戦争」が刻み込まれ、それは過去のものではなく、今なお続いているものです。
 乗客のほとんどはぼくたちみたいな新婚夫婦や若い女性たちで、戦争なんて遠い話という感じで、聴いているのかいないのか、無関心風な顔をしていたのですが、若いガイドさんの話にぼくは、自分たちの体験を決して風化させてはならない、という沖縄の人たちの強い意志を感じたのでした。
 今度の教科書検定問題で、テレビニュースを通して見た11万人の抗議集会の、ほんとうの熱気や思いは、実際に沖縄の空気に触れてみなければわからないことだろうとぼくは思ったのでした。 .

漱石の『道草』  10/2
 先週、母親の介護のために2泊3日で帰省していたのですが、切符を予約した3週間前には時間的に余裕があって日程を組んだはずなのに、帰省のころは仕事がたて込んでしまい、納品に遅れが出て取引先に謝りながら出発する始末でした。
 母は母で、たった3日しか息子が故郷に滞在できないことが不満のようです(いつもながら)。あっちを立てればこっちが立たず……。それでも短い日数の中で予定していたことがほぼ片づいたので、自分としては少しほっとして戻ってきたのですが。
 母の介護にしても自分の仕事にしても、これで万全という見通しが立っているわけではありません。その時その時で何とかやって行くしかない。
 福井に帰る新幹線の中で、漱石の『道草』を読み終えました。時間をかけて少しずつ読み進めていた本です。その最後の場面で、主人公が語る次のような有名なセリフがあります。
「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こったことは何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他(ひと)にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
 ぼくはこの歳になってやっと、この言葉の意味がしみじみとわかるのでした。げに漱石は偉大なり。

月の「ごあいさつごあいさつ」