仲秋の名月 9/25
仲秋の名月が美しく輝いています。この日が必ずしも満月ではないということを、この歳になって初めて知りました(ちなみに満月はあさって27日)。またまた勉強不足。旧暦の暦で、秋のちょうど中間の日なのだそうです。天気が心配でしたが、いま、空には雲一つなく、澄んだ空気を突き抜けて、光を届けてくれています。
中3の息子が、小学生のころサンタさんからプレゼントしてもらって今はほこりをかぶっている天体望遠鏡を久しぶりに出してきて、ベランダから月を観察することになりました。
レンズを通して見る画像にはいくつものクレーターやら何とかの海やらの模様がくっきりと浮かび上がり、家族みんな感嘆の声を上げました。縁をかたどるクレーターの凸凹が月の立体感を伝えます。
しかし次に別の誰かが見ようとすると、ちょっと目を離している間に、月は画面からはずれてしまうのでした。望遠鏡の傾きを調整して画像を画面内に戻すのが結構たいへんで、こんなとき改めてぼくたちは、天体がものすごいスピードで動いているのだと知るのです。
息子は、部活から帰ってくる夕方には雲が月にかかっていて、もっときれいだったと言いました。そこでみんなが思いだしたのが次の歌です。
秋風にたなびく雲のたえまより もれ出づる月のかげのさやけさ(左京大夫顕輔)
虫の声も凛と響きます。こんな夜は思いっきり日本人しましょう。
ああ、「バーチャル」 9/22
きのう、仕事の詰めの段階でコンピュータのメールソフトが突然起動しなくなりました。データが送れなくなり、修復に1時間以上もかかってしまいました。気がせいているときに限って、こういうことが起こります。
数週間前には、ハードディスクの中でメールソフトがやたらメモリーを食っていることを発見し、整理しようとあれこれいじっていたら、過去のメールが破損してしまいました。またもや一瞬にして記録が失われたのです。体から血の気が失せていく、あのぞっとする感覚をまた味わいました。
これが手紙だったらどうだったろう。火事で焼けるにしても、そこには壊れていく時間や熱さや匂い、痛みが生じます。それは、誰かの手になったものが確かな終わりを迎えることを感じさせるでしょう。
ITの便利さは、むなしさと隣り合わせです。昨日まで必死で作っていたイラストも、9割以上はコンピュータの中で造り上げられた信号の組み合わせでしかありません。制作も修正も手作りよりずっと効率的である反面、キーの押し間違いやディスクの気まぐれで、瞬時に消えてしまう危険性も併せ持つのだと覚悟しておかなければいけないのです。
面倒であることが生きている実感なのだということを、今日もまた思うのでした。
和楽器と現代音楽 9/19
おとといは連休でしたが、ぼくは一日中仕事でした。仕事をしながらラジオをつけているとき、ぼくはだいたいNHK-FMを聴くのですが、よく祭日は一日ぶっ通しの番組が組まれます。この日は敬老の日ということもあったのでしょうか、「今日は一日箏曲ざんまい」でした。9時間まとめて箏曲ばかりを流すのです。しかしこれは決して老人向けの音楽ではないと思いましたね。若い人が聴いても価値のある内容でした。
ぼくはことさら箏曲に関心を寄せたことがなかったし、知識もまったくないのですが、この日ずっと聴いていて、お琴の良さがわかりましたよ。特にぼくの好みは琴による現代音楽。
実のところぼくは数年前から邦楽が耳に心地よいことは感じていました。邦楽番組を1時間聴いていても、音楽が体の中にすーっと入ってくるのです。この頃は、薄っぺらいポップスは耳障りでしょうがない(これを歳のせいばかりにしてしまってはいけません)。音量の問題ではなさそう。旋律やリズムが体に障るような感触です。そこへいくと尺八やら三味線やらお琴ってなんて新鮮なんだと思います。
さらにそれが西洋音楽とのコラボレーションによる曲だったりすると、たとえば去年の秋にはたまたまラジオで一噌幸弘(いっそうゆきひろ)という能管奏者がバイオリンやパーカッション、ギターなどと組んだバンドの演奏を聴いた時には、いっぺんに引き込まれ、すぐにCDを買ってしまったほどです。
邦楽は古くて新しい。
美しくない国 9/12
安倍首相が突然辞意を表明したというニュースを、お昼過ぎにインターネットで知り、一瞬目を疑いました。ほんとか? なんでこんな時に?
まったくこの人は、他人についても自分についても引き際をちっとも心得ていない人のようです。やることなすこと、タイミングがずれている。先日、KYという女子高生用語の話をしましたが、この言葉は安倍さんのために作られたんじゃないの、と言っていいくらい、あの人はKY代表選手でしたね。KYという言葉とともに早くどこかにお隠れいただきたいと願うばかりです。
あ、ついでに、何とかの一つ覚えで連呼していた「美しい国」という言葉もどこかに飛んでいっていただきたい。むしろ日本社会は、正反対の「美しくない」方向へ(何よりも人の心が)どんどん進んでいるじゃありませんか。
藤原正彦さんが『祖国とは国語』の中で、「不況が一世紀続いても何のことはないが、国家としての品格を失ってはそれまでである」と言っています。品格からほど遠いリーダーばかりが目につく日本、いったいどうなってるんだろう?
「天国と地獄」リメイク 9/10
ドラマはこのごろほとんど見なくなりましたが、土曜日に「天国と地獄」は興味があって見ました。言わずと知れた黒澤明の名作をリメイクしたものです。どんな風に料理されているか? これだけの名作だと、リメイクは最初から比較されることを運命づけられていて、おそらく制作者・監督・俳優たちはみな、それを承知の上でやっているのだろうと思います。
ここで素人が二つを比較してあれこれ言うのは、飲み屋談義のレベルなのでやめましょう。ぼくの場合、比較と言うより、テレビドラマを見ながら、もうほとんど黒澤明の映画を思い出していたようなものです。DVDでもう一度黒澤の作品を見てみよう。
民放ドラマの最大のデメリットは、CMが入ってしまうこと。どう頑張ってもサスペンスになりません。だめ押しは、ドラマに登場する俳優をCMに起用している企業がスポンサーになること。ドラマで苦悩している人が、CMで気持ちよさそうにビールを飲んでいたり、ケータイで犯罪を冷淡に実行する犯人が、CMでは楽しげにケータイで戯れていたり。そのうちぼくは興味が別の方向に移っていって、東京電力の鈴木京香さんはいつ出て来るんだろう、と期待し始めてしまうのでした。
台風でラッキー 9/8
今年何個めかの台風が上陸し、各地で被害をもたらしたようですが、わが家に一人、台風のおかげで幸運を拾った者がいます。高3の娘です。 夏休みの課題提出が昨日(7日)だったのですが、台風のため休校になって1日延びたのです。
課題は、B1判(728mm×1030mm) のデザイン制作です。夏休み前からこれは手強いからしっかりやった方がいいよ、と言っていたのですが、本人は受験用の画塾通いでエネルギーを費やし、ほとんど手がつけられないまま夏休みを終えようとしていました。時折、大丈夫かと聞くと、「アイデアが出ない、アイデアが出ない」と言うのですが、あまり呻吟している様子はなく、9月に入ってものんびりと本を読んでいたりする。
9割かた間に合わないころになって、娘はようやく取りかかりました。それでもぼくは、ギリギリ完成せずに終わるだろうと予想していたのですが、そこへ台風の来襲。これが思わぬ天の助けになったのです。
嵐も収まり、おまけに土曜日だから通勤ラッシュにも会わずに、無事仕上げた大きな作品を携え、今朝7時過ぎ、眠そうな顔で娘は登校したのでした。
KYって何や? 9/5
女子高生の間で「KY」という表現が流行っているのだとか。「空気が読めない」という意味だそうで。コミュニケーションなどさらさら考えず、かと言って孤独にもなれず、同類の仲間とだけひたすら閉じこもろうとする人たちの幼児的隠語。そんな言葉がイナゴの大群のように増殖し、飛び交っているわけですね。さらに、メディアがまた嬉しそうにそれを広めるという図式が繰り返され、幼児人種はますます図に乗るという仕組み。
「空気を読め」という暴力的な考え方が、最近どうしてこうも急速に広まっているのでしょう? 判断や行動の基準が「空気」ってのは、問答無用だから始末に負えない。日本人は個の確立ができない、とは昔からよく言われていますが、その一因は日本語の特徴にあるのでしょう。他者との対等なコミュニケーションよりも、相手との相対的関係や仲間意識の確認を優先する言語であるという特徴です。
先日のわが家での会話。
ぼく 「KYって知ってる?」
妻 「あたしのイニシャルじゃない(旧姓時代の)」
子どもたち 「お母さんにぴったりのイニシャルだよ」
渡辺華山の肖像画 9/3
昨日の「新日曜美術館」でドナルド・キーンさんが渡辺華山のことを語っていました。またしてもぼくにしてみれば、名前は知っていても詳しいことはまったくわからない画家の登場。
今まで、ぼんやりと見過ごしてきた画家でした。ああ、この絵、知ってる知ってる。しかしちょっと注意を払って見てみると、江戸時代にに肖像画がこのような明暗の表現でリアルに描かれたのは驚くべきことだと言うことに気づきます。
彼の絵の特徴は、幕末の時代に入ってきた西洋文化を積極的に学んで取り入れた、陰翳による立体的な人物表現です。そしてそれが、日本画の筆の輪郭線と見事に調和しています。
また、モデルをリアルにとらえながらも、決して批判的になっていないのは、対象に迫る華山自身の人柄によるところが大きいのだろうと、見ていて思いました。
華山の持つ、外国文化への旺盛な知識欲に、キーンさんは自分との共通性を見る、と言っていました。しかし、華山の学習欲は幕府にとって好ましくない行動と見なされ、晩年は投獄された上、自らの命を絶って、49年の生涯を終えてしまったそうです。ああ、こんなところにも時代に翻弄された有能な人物の悲劇があったのですね。
孤独な人々 9/1
「クラッシュ」(ポール・ハギス監督・共同脚本、2006年アカデミー賞作品賞など受賞)をDVDで見ました。ポール・ハギスは「硫黄島からの手紙」や「ミリオンダラーベイビー」などの脚本も書いている実力派で、確かにストーリーは良くできていました。
広告では「ぶつかりあって、ぼくたちはわかりあっていく」とか「衝撃と感動のヒューマンドラマ」とか言ってたけれど、中身とは全然違う、客寄せの安易な文句だと思いましたね。この中で描かれている世界は、ひたすら暗くなるばかりのもの(ミリオンダラーもそうだったなあ)。
もちろん、これがL.A. を舞台にしたフィクションであることを考慮した方がいいのでしょうが、それでもなお、ぼくはこの歳になって、こういう殺伐とした世界はごめんこうむりたいという気持が強くなる自分を発見するのでした。何が殺伐としているのか。それは、銃による犯罪もそうですが、それ以前のコミュニケーションのあり方です。自己主張ばかりがあって(そうせざるを得ない環境も一因)、相手から返ってくるものを受け止められない貧しさが、ぼくの心を寒くさせるのでした。日本人の「寂しさ」とはまた違う「孤独」を改めて見せられた思いです。
8月の「ごあいさつごあいさつ」 |