モンゴル力士と日本語 5/30
ついに白鵬が横綱になりました。ファンとしてはうれしいですね。横綱が二人ともモンゴル人というのも、ぼくが子どもの頃には想像すらできなかったことです。日本人の横綱も欲しいという声がありますが、おおむねモンゴル人力士は受け入れられているのではないでしょうか。朝青龍が嫌われているのはモンゴル人だからではなく、勝ち過ぎなのと素行の悪さ(笑)。ぼくはちょっと前まで好きだったんだけど、最近の言動は感心しません。
日本人が彼らに違和感を持たない理由の一つは、顔のつくりが日本人と同じであること。そしてもう一つは、彼らの流ちょうな日本語だとぼくは推測しています。まるっきりネイティヴじゃありませんか。どうしてあんなに自然に話せちゃうのかと、驚きます。ぼくの教会に韓国人の伝道師がいますが、この人もごく普通に日本語を話します。日本に来てまだ10年に満たないのに。そう言う人たちを見ると、日本語は外国人には難しいだろうと思うのは錯覚に過ぎないことがよくわかりますね。翻って、ぼくたちの英語力は……?
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はしか流行 5/24
あちこちではしかが流行していて、娘の学校でも5人感染者が出ました。おかげで中間テストの日程が4日ずれて、「デザインの課題もあるのに!」と娘は怒っています。こんな時代にはしかが流行るとは、想像もしていませんでした。1、2年前だったか、子どもたちの髪の毛にシラミが発生しているというニュースがありましたが、それと同じような奇妙な時代錯誤感を持ちます。
はしかと聞くと、実はぼく自身もあまり安心していられないのです。というのは、ぼくが子どもの頃にはしかにかかったという確証をついに親から得ることなく、この年齢に至ってしまったから。たびたび親にそのことを確かめたのだけれど、「兄貴はまちがいなくなったけど、あんたはようわからんのや。そんな感じになったこともあったで、あれやったんかなあ」と心許ない返事が返って来るばかりでした。今さら新しい証言が出てくるとも思えず……。
すれ違うだけで感染するというから、注意していても防ぎようのない部分もありますが、それでもとにかく皆さん、ご用心。
絵は孤独な作業 5/17
おととい、ダ・ヴィンチ展を一人で見に行ったとお話ししましたが、考えてみれば絵という作業は、見るのも作るのも孤独な作業です。そのことは誰かもある本で指摘していました。音楽のような連帯感や同時性がない、と。制作も一人だし、できあがって見せるときには作品は自分の手を離れ、することはなくなってしまうのです。
スケッチ旅行をするならおそらく一人旅が一番いいのでしょうね。誰かと(絵に特別な関心がない人ならなおさら)と出かけると、絵を描く時間はほとんどとれません。左に掲載した絵(峠の茶屋)だって、ハガキ1枚の大きさに輪郭を描くだけでも20分はかかってますからね。人を待たせるのは、何となく心苦しい。そしてその間に観察し味わう美は、どこまでも自分一人のもの、ということになるのです。絵を描く人同士でも状況は同じ。だから同じものを描いても、みんな全く違う絵になるのですよ。
でもね、ぼくはピカソのこんな言葉が好きなのです。「孤独なしには何ごともなしえない」
ダ・ヴィンチ展 5/14
先週ダ・ヴィンチ展(東京国立博物館)へ行って来ました。そのことを報告したいと思っていたのですが、まともに書けないまま1週間が過ぎてしまいました。
会期が始まる前の3月に入場券を家族分買ってあったのですが、家族で見るとなると連休中しかありませんでした。で、4日に一度トライしたのです。まあ、しかし恐ろしい混雑は最初から予想されていました。案の定、朝10時に着いたときには(開場は9時半)すでに「受胎告知」展示会場の待ち時間が1時間。長蛇の列と、次々に門をくぐってくる人たちを見てぼくはとたんに意欲喪失。家族と別れて、そのまま帰宅しました。
常日ごろ展覧会は自分のペースで見たいと考えていて、特にダ・ヴィンチのように、ある程度関心を持っているものについては、ただ「見ましたよ」というのではなく、自分なりにじっくりと鑑賞したいわけです。
連休明けの8日、待ち時間なしの会場で、たっぷり3時間かけてダ・ヴィンチを堪能することができました。感想は後日書きます。
峠の茶屋 5/7
週末に妻と息子と3人で秩父へハイキングに出かけました(娘は友達とアニメ展へ)。天気も良くて、心身リフレッシュの一日になりました。蝶も捕まえましたよ。
下山の途中、吾野駅へあと2kmほどという所に茶屋があり、息子がうどんを食べたいと言うので休憩しました。親子3代で経営しているようなのですが、山の風景と調和する素朴な建物と、手作りのおいしい料理とで、なかなかいい茶屋だったのです。お店のお孫さんらしき4〜6歳くらいの3人のお嬢ちゃんたちが、お手伝いでお客さんに割り箸を配ったり話しかけたりしているのが、とてもほほえましかった。
うどんは注文を聞いてから作り始めるので30分以上かかります。待つ間、ところてんや味噌田楽などを食べ(どれもおいしかった)、それからやっぱり、ここはひとつスケッチだよなと思い、少し離れたところに場所を見つけて、ハガキ大の紙にお店を描き始めました。
すると、近くで遊んでいたお嬢ちゃんたちが、「ねえ、何描いてるの?」とそばに寄ってきました。「うん? このお店だよ」と答えたら「見せて、見せて」とのぞき込んで、まだ描き始めたばかりなのに、絵を見るなり「わあ、じょうず! すご〜い、本物みたい」とまあ、大げさに……。さすがにお客の扱いには慣れていらっしゃる。
「別に上手じゃないよ、描いてるだけだよ」と言いながらスケッチを続けたのですが、そのうち女の子たちは「ねえ、みんなに知らせてこよう」とか「お母さんにも見せよう」と言って、人を呼びに行きました。ちょっとちょっと、やめてくれえ、それは恥さらしになるだけだよ。横で休んでいるおじさんが
ニコニコ笑って見ています。なおも彼女たちはぼくのまわりでじゃれながら「色は塗らないの?」「今度は何を描くの?」と次々に質問を浴びせ、着彩のためにぼくがお店の写真を撮るときには「はい、もっててあげる」と絵をもってくれて、おまけにしっかり噛みしめて歯形まで残してくれました。
ほんとに人なつこくて、かわいいお嬢ちゃんたちで、20分ほどの間、楽しく過ごせました。絵は着彩が済んだら掲載します。
峠の茶屋。また今度この山を歩くときにはぜひ寄りたいものです。
アラン・ドロンの冒険者たち 5/3
昨日、FMラジオで映画音楽特集をやっていて、ゲストの久石譲さんが「冒険者たち」を紹介していました。テーマ曲が流れたのだけれど、またまたあの映画を思い出して、切ない気持になりました。やっぱりいいですねえ。
今の若い人はあまり知らないでしょうが、一時期日本でも絶大な人気を誇ったアラン・ドロンの映画(ロベール・アンリコ監督、1967、フランス)です。でも、アラン・ドロンだけじゃなくて、共演者たち(リノ・ヴァンチュラ、ジョアンナ・シムカス他)も演出も音楽も物語も映像も、すべてが美しく輝き、ヨーロッパの香りをいっぱい放っている名作。アメリカ映画では見出せない質です。
これを最初に見たのは高校生の時、フジテレビの「ゴールデン洋画劇場」で。ラストシーンでは胸が詰まってしまい、涙が出そうになるのを必死にこらえました。以来、映画館で2度ほど、テレビでも3度ほど見ています。何度見てもいい。DVDも出ているから、買う価値は充分にあります(ぼくは録画したビデオを持っている)。
男二人と女一人の物語ですが(この組み合わせは古今東西、たくさんありますね)、三角関係と友情がドロドロにならずに美しく描かれています。でもウソっぽいきれいごとに感じさせないところがまた見事なのです。
この作品の素晴らしさを分析したことはないのですが、ふと思いつくものの一つは「腹八分の美しさ」でしょうか。恋心にしても友情にしても、すべてをさらけ出すのではない、言い切ってしまわない、抑えた美しさ。相手へのさりげない思いやりもある。演出もくどくない。そんな美学が底に流れているのです。おやおや、これは日本人の美徳だったんじゃありませんか。そう、ヨーロッパ文化と日本文化は意外にこんな共通項をもっているということか。それがアメリカにはない……と決めつけてはいけませんが、基本的には感じられませんね。
今、そういう精神が日本では急速に失われつつあることを、この映画を見ると改めて痛感します。なんだかんだ言いながら、行動と思考の裏に結局は打算が見える、そんな人ばかりがはびこる世の中になってしまったように思います。
でも、なんて寂しいご時世なんだろうと嘆く必要はない。あの哀愁を帯びた口笛のテーマ曲を吹けば、少しは自分の心も洗われて、まだまだ人を信じることはできると勇気づけられるのです。
4月の「ごあいさつごあいさつ」
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