デジカメ顛末記  9/28 
 どうもここ2か月ほど、コンピュータ関係のトラブルが続いています。以前、ITに詳しい人から「コンピュータは作業6割、メンテ4割ですよ」と言われましたが、改めて実感します。
 つい先日、デジカメのメモリーカード(ぼくの使っているのはコンパクトフラッシュ)が壊れたと言うことをここでお話ししましたが、きのう解決しました。原因はカードリーダー/ライターの不具合でした。
 原因がカードだと思っていたぼくは、翌日新しいカードを買ってきました。確認のためリーダーに入れたところ、ちゃんと画面に正常に表示されたので、よしよし。そして使ってたものを捨ててしまったのです。ところが新しいカードで10枚ほど撮影したあと、おとといコンピュータに取り込もうとしたら、コピーができず、画面はフリーズ。むりやりカードを出して、デジカメに戻しても「異常があります」のメッセージ。データはパー。なんで? 
 いつものように兄の事務所のU君に相談してから、ニコンやらカードリーダーの会社に電話をかけていろいろ質問しました。結局カードリーダーがおかしそうだと推測して(こういう推測がまた危ないのですが)、昨日新しいカードリーダー/ライターを買ってきました。そしたら何の問題もなくコンピュータ(ただし新しい方)にデータを移すことに成功。
 ということは、ぼくの捨てた古いカードはまだ使えたのだ。あー、なんてことを!
 悔やんでもしょうがないけど、こんなものだなあ、人生って。
 こんなジョークを思い出しました。ある科学者がウィスキーを水で割って飲んだところ酔った。次にウオッカを水割りを飲んだらやっぱり酔った。今度はブランデーの水割りで試したらそれでも酔った。科学者はジンやらテキーラやらの水割を試した末、どれも酔っぱらうことを確認し、こう結論づけました。
「間違いない、酔っぱらう原因は水だ」。

伊勢正三、今は昔  9/25 
 つま恋コンサートが31年ぶりに開かれたようです。出演は吉田拓郎とかぐや姫。テレビでその一部を伝えていました。観客のほとんどはぼくと同世代。みんなフォークミュージックで育ったんですからね。
 あの時も今回も、ぼくはつま恋コンサートには行ってませんが、高1の時、中間試験か期末試験の前日に拓郎のコンサート(福井に来たんですよ!)に一人で行った覚えはあります。進学校だったせいか、クラスではそんなぼくだけ浮いていました。話をしようにも誰も相手がいない。寂しかったなあ。
 まあ、そういう程度に拓郎とかぐや姫に夢中になっていましたが、オタク的なはまり方ではありませんでした。だから彼らの歌をそれほど知っているわけではありません。ぼくの「青春時代」を形成していることは間違いないのだけど。
 
歌もマンガなどと同様、年齢によって受け取り方が変わってくるのは面白いことです。若さを唱った歌でしかなくても、今なお輝いている歌もあり、色褪せてしまうものがあります。
 「神田川」などは今聴くと、多少の気恥ずかしさを覚えるのですが、伊勢正三の「なごり雪」と「22才の別れ」はぼくにとってはエバーグリーンの名曲です。私見ですが、この2曲は、若いことに変な風に陶酔していないところがいいのだと思います。若い日を一生懸命に生きる姿が自然に描かれているような気がします。
 でも、今日
テレビを見ていて感じたのは、伊勢正三がひどく衰えていたことです。こんな名曲が、今回のコンサートでは変な歌い方になっていました。そしてキーを低く転調していた。高音が出なくなっていたのでしょう。演奏からはあの頃のような清明さが失われていました。ほんとに残念です。こうせつの声は今なお澄んでいるのに。

ハイテク病院で  9/23
 81歳の母が、先日白内障の手術をしました。付き添いのため、ぼくは昨日まで2泊3日で福井へ帰省していました。白内障は年をとると誰でもかかる病気です。おそらくぼくも数年後か数十年後には発症するだろうから、今回の付き添いは予習みたいなものです。手術そのものは10分程度で済むし、失敗することはほとんどないので、病気のうちに入らないと言われています。
 そうは言っても、手術に伴うさまざまなことが結構たいへん。老人ひとりでやっていくことはできません。ましてやぼくの母のように、認知症が進んでいる人はなおさら。
 入院先の福井県立病院は2年ほど前に改築され、ハイテク技術を駆使した建物に変身しました。先月検査や手続きのためにその新しい建物を初めて訪れ、以前との様変わりにただ驚くばかりでした。それだけでなく、ぼくたちが今まで抱いている病院のイメージを覆すようなものなのです。それとも、ぼくが知らないだけで、今の病院はどこでもこんな風になっているのでしょうか。
  最初に診察券を受付の機械に挿入すると、本人の予約内容が記された紙が出てきて、それを持って各科へ行くようになります。病室も、テレビや冷蔵庫など、最新のものが装備されていました。おそらく治療に関する技術はそれ以上の変化があるのだろうと想像できます。
 医療のハイテク化はもちろん恩恵がいっぱいあるし、病院内のシステムが効率化されるのもいいことなのだろうけど、技術の進化に驚きつつ、ふと思いました。こんな新しいやり方は、お年寄りにとっては何をどうしていいかわからないことだらけなんじゃないだろうかって。ぼくだって戸惑うことが多いんだから。高齢者がますます増えるだろうと予想される病院が、高齢者にとって使いづらいと言うのも、なんだか皮肉な話です。

傷と年齢(敬老の日は過ぎたけど)  9/20
 年をとると傷が癒えるのに時間がかかるのは、心も体も
同じではないかと、ふと思いました。若い人は傷つきやすいと一般に思われているかも知れないが、実は中年や老人の方が傷つきやすくて、直るのに時間がかかる。若者は結構タフだったりして、驚異的な回復力も持っているようです。
 2週間ほど前に NHK「にんげんドキュメント」で、長野県須坂高校の生徒が文化祭で巨大な龍を作る数か月を紹介していました。ぼくも中学と高校時代に文化祭や体育祭で大張りぼてを制作した覚えがあるので、懐かしさを感じながら興味深く見ることができました(規模は須坂高校の方がはるかに大きい)。
 番組の中に出てくる生徒たちの行動を見ていて、自分の中学高校時代とだぶるところがたくさんありました。思い返してみると、若いときの人間関係は、大人になってからの今よりずっとナマだったな、とつくづく感じます。わがままで、率直で、開けっぴろげで、ルーズで、未熟で、ある意味一生懸命で、相手への気遣いをしているようで、実はしていない。でもどこかやさしかったり。そして、お互いに結構衝突したり、傷つけ合ったりしているのだけど、でも回復もするのです。今の年齢で、あんな風にやっていたら人間関係めちゃくちゃだろうなあ、と思ってしまう。
 ぼくたちは大人になって、社会のルールを曲がりなりに身につけ、それなりにまわりの人たちへの配慮もするようになるのですが、それで成長したかというとそうでもなく、あいかわらずひとの言葉に傷ついたり、また自分も相手を傷つけたりしています。そして、おとななんだからここで弱く崩れちゃいけないなんて無理をしようものなら、いつまでも傷が癒えずにいたりするんです。
 そうか、もしかすると世の中の礼儀作法とかエチケットって、傷つきやすい世代である年輩の人たちのために編み出されたものなのかも知れませんね。

デジカメのカードが  9/18
 デジカメのフラッシュカードが壊れました。コンピュータのハードディスクにデータをコピーしようとしたら、「壊れていてコピーできません」のメッセージが。そもそもカードをマウント
した時に、フォルダの名前がふつうならDCIMと100NIKONなのに、それぞれDBIL、100NIJONと表示されたのです(文字の変わり方が笑えますよね)。
 実はちょうど10日前にも同じことが起こりました。突然。カメラに戻して映像を確認しようとしても「撮影画像がありません」のメッセージが出るばかり。データは入っているはずなのに。結局フォーマットするしかありませんでした。おかげで撮影したデータは全部パー。今日はもっと症状が悪化して、カードを戻すとエラーの表示が出続けたのです。どうしてこんなことになったんだろう? 乱暴な使い方は全然していないのに。
 フラッシュカードなんて古〜い、と言われそうですが、ぼくのデジカメはニコンのCoolPix 880。6年ほど使っています。IT業界ではそれはもう「古い」という範疇に入ってしまうのでしょうが、フラッシュカードって、たかだか6年くらいの年数で壊れてしまうのでしょうか。もうしばらく様子を見るけど、普通の使い方で壊れるのだとしたら、あまりにももろいなあ。6年はぼくにとっては決して長い年数ではありません。不便も感じないし。
「より高性能」というのが、世の中を良くしていく訳じゃないのは、もうみなさんじゅうぶんわかっていることですよね。
 それはとにかく、ここで諦めるのも悔しいので、今日何度かフォーマットを試みたところ、何とか直って、撮影とデータ保存に成功。おかげで久しぶりに「生き物ですよ」を更新することができました。でもこれからは、いつ再発するかとおびえながら作業を進めていくことになります。
 新しいカードを買った方がいいか?
えっ、もう売ってなかったりして。

ターシャ・テューダー   9/14
 ターシャ・テューダーという人を知ってますか? 古き良きアメリカを描く、今年91歳の現役
絵本作家です。
 今年の初め頃だったか、NHKで『喜びは創りだすもの』という番組が放映されていました。たまたま見たのですが(ぼくはどうもこの、たまたまというのが多い)、言葉も出ないほど感動してしまいました。
 バーモント州の自然に囲まれた美しい家で過ごすターシャさんの生活を一年かけて記録したものです。四季折々の花や木、そしてターシャさんの素朴で静かな生き方が、美しい映像と音楽と語りで伝えられます。家も庭も全くの手作り、生活すべてが手作り。ターシャさんは、自分の描く絵本の世界をそのまま生きているのです。
 番組はとても好評で、何度も再放送されました。ぼくが見たのはその2回目と3回目の再放送だったのです。うっかりしてどちらも完全な形で録画することができなかったので、DVDが発売されていないかと探していました。
 そしたら、先日たまたま(また、たまたまが出てきました)近所の本屋でこのDVDを発見したのです! NHK出版ではなく、メディアファクトリーという所から出ていました。どうしようかと迷ったのですが、一晩考えて翌日やっぱり買いに行きました。こういうことに躊躇してるなんてアホですよね。
 DVDには20分の未公開映像も収録されていて、これがまた良かった。こんな生き方をしてみたい、と心から思うのです。自然とともにある生活は日本人の感性に深く通じるところがあり、この作家は日本でも絶大な人気を誇っているようです。ターシャさんについては、また機会を改めてお話ししたいと思いますが、現代の、特に都会に暮らす人々に、自然や生き方についての大切なものを思い起こさせてくれます。うーん、こんな陳腐な表現ではそのすばらしさを半減させてしまうなあ。

カネタタキの亡霊  9/11
 夏もほとんど終わりというのに、怪談を。
 わが家にカネタタキとう虫が迷い込んだという話をつい先日しました。捕まえては逃げられ、捕まえては逃げられの繰り返しでしたが(何しろ小さくてすばしこいものですから)、3度目にようやくフィルムケースに確保しました。
 キャベツの切れ端を入れて、飢えを満たしてやると、カネタタキは元気に動き回り、夜には素朴な鳴き声を聞かせてくれました。そのうち放してやろうと思っていたのですが、忙しさにかまけて忘れてしまい、3日ほどして、気がついたときにはケースの中でぐったりいました。
 しまった! 申し訳ないことをしてしまった。あわてて下の草むらの所へ持っていきましたが、時すでに遅し。朝のうちに放しておくべきでした。生き物の世話には気をつけているつもりなのですが、ときどきこんな失敗をやらかすのです。
 ところがそれから数日して、家の中でまたカネタタキの「チッ、チッ、チッ」という声が聞こえてきたのです。え、まさか!? わが家に2匹もカネタタキが来るわけないでしょ。でも、耳を澄ますと確かに聞こえてきます。玄関のあたりか、廊下か……。もしかして、死んだカネタタキの亡霊では?
 結局、2匹目がいたんですよ。息子が捕まえました。今年になってどうして立て続けにこの虫がわが家にやってきたんだろう? 蛾でもコオロギでもなく、カネタタキが。不思議。カネタタキは羽が小さくて、とても空を飛び回ることはできないはず。階段を上ってきたのだろうか。
 それにしても、同じ失敗を繰り返してはいけない。今度は2日後の朝にはすぐに逃がしてやりました。
 さて、その夜、息子がまた言ったのです。
「部屋の中でカネタタキの声がするんだけど……」

介護認定   9/8
 昨日放映されてた「クローズアップ現代」はまさに
今ぼくがかかわっている問題を扱っていました。介護法の改正によって、今までのサービスを受けられない人が出てきているのです。折しも2日前に、ぼくの母が通っている介護センターからメールが届き、先日、母が「要介護1」の認定を受けたので、引き続きサービスを提供できます、と報告をもらいました。ほっとしました。
 5月に帰省したとき、ケアマネジャーさんから、改正の話は聞いていました。しっかり手を打たないと、秋以降今の介護センターではお世話ができなくなってしまうかも知れないということでした。
 81歳になるぼくの母は、認知症が確実に進んでいて、これだけでも充分に要介護だと思うのですが、体は元気です。ちゃんと歩けるし、特別な病気もしていません。この、本来なら喜ぶべきことが、介護認定ではネックになってしまう。
 もし「要支援」(要介護より軽度と判断されたら、市のサービスの方に移されてしまいます。当然、今まで受けていたサービスの継続性がなくなり、時間もぐっと減ってしまいます。認知症が進行している一人暮らしの母が、そんな環境の変化を受けることは大きなストレスだから、去年あたりから改善に向かっている精神状態がまた悪化してしまうかも知れません。もちろんぼくたち家族にとっても状況が厳しくなります。
 確かにまわりを見回せば、寝たっきりの老人が溢れていて、これからますます増えることが予想されます。国としては財政のことを考えると、少しでも要介護度が重い人の方にシフトしていきたいのだろうけれど、ぼくの母のように、自立するほどの元気はなく、でもある程度のことはできる、と言う境界線上にいる人が多いはずです。振り分けられて、おいてかれてしまった人には、残酷な審判です。

展覧会の見方  9/5 
 先週ふたつの展覧会に行って来ました。三井記念美術館の「美術のなかの「写」――技とかたちの継承」展、もう一つは練馬区立美術館の「元永定正の創作の世界」展。どちらも9月3日が最終日だったので、駆け込みでした。
 展覧会でも映画でも、始まった頃にはまだたっぷり日数があると思うのですが、これが甘い考え。少しでも時間があったら、ためらわずに行ってしまった方がいい。幸い、先週行った二つはすいていたのでゆっくり見られましたが、大きな美術館の企画展などは、終わりの1週間は鑑賞どころではありません。それにどういうわけだか、ギリギリだと仕事か何かが入っていて、結局見に行けずに終わったりします。
 さて、ぼくはこの1ヶ月で4つ見たことになります。これは例外としても、月に一つ以上は見るようにしています。ぼくはここ数年意識的に展覧会巡りをしています。学生時代はこれが映画だったんだけど、最近自分の志向が変わってきているのだなあ。
 そして、面白いことに、ある程度頻繁に行くようになると、展覧会の見方がそれなりに身につくようになることがわかりました。偉そうなことは言えませんが、いくらかは作品を見る目が養われるようです。記憶に蓄積された作品がふえればふえるほど、今目の前にする作品が立体的に浮かび上がるような感じになるのです。
 それから、会場で作品に身を浸すという感覚も身につく。混んでるときは難しいのですが、すいている会場などは、美術館という場そのものを味わうことが楽しみになります。作品がおかれる空間は意外に大きな要素です。
 大きな展覧会だと、昔はだんだん疲れてきて途中を飛ばしてしまったこともありましたが、この頃では持久力がついて、じっくり鑑賞できるようになりました。
そうなると、展覧会を楽しむもう一つの大切な要素は、一人で行くか、自分と好みや鑑賞ペースが合う人と行く、ということになります。

言葉が通じる   9/2
 保坂和志という作家の『途方に暮れて、人生論』(草思社、2006)を読みました。共感するところの多いエッセイ集でした。実はこの作家のことは「ということば……」でも話題にしたことがあって(03年9月19日)、ずっと気にかかっていました。でも小説はまだ読んだことがありません。
 『カンバセイション・ピース』という小説を図書館で借りながら、読む時間がとれずに期限切れで返してしまった記憶があります。一気に読むエンタテインメントといった性格の小説ではないのです。
 この作家とは「言葉が通じる」のじゃないか、とぼくは思っていたのですが、今回エッセイ集を読んでみて、その思いは間違っていないとわかりました。たとえば次のような文章。「しかし、一つだけ言えることがある。《今みたいなこんな時代》を楽しく生きられることより、生きにくいと感じられる方が、本当のところ幸せなのではないか。人生としてずっと充実しているんじゃないか」
 これは単なる気慰みの逆説ではありません。ここだけ引用しても意味は伝わりにくいのですが、この本に一貫しているのは(ここからあとはぼくの表現になりますが)、世の中や人間の曖昧さ・複雑さを正しくしっかりと受け止め、解釈していこうと言う姿勢です。世間で流布する価値観を鵜呑みにするのではなく。鵜呑みにしたり流されたりすることで、結局自分が苦しんでいるわけですからね。
 保坂さんはこんなことも言います。「私は小説家だけれど、物語を作るのは得意じゃないし好きでもない。物語を作る人は小説家ではなくて、「物語作家」だ。(中略)小説家というのは言葉を操る人ではなくて、言葉に対して疑問を持つことのできる人、言葉に対して違和感を感じることのできる人のことだからだ」
 うん、『カンバセイション・ピース』、もう一度トライしよう。もう新潮文庫に収められているらしいから、今度は買います。

8月の「ごあいさつごあいさつ」