ということば……(53) わたしはあきらめない 10/18
NHKでこの言葉をタイトルにした番組があり、ぼくも時々見ます。内容はやや玉石混淆という印象もありますが、感銘を受けることがありますね。
拉致被害者の曽我ひとみさんは詩人だと、4/16の Toshi Greets の中でぼくは言いましたが、先日、帰国1周年での記者会見で
も、聞く者の胸を打つコメントを述べていました。曽我さんは会見の最後の方で「私はあきらめません」と語っていました。
確かにこの一年、被害者の家族を帰国させることには何の進展もなかったわけですから、不安やいらだちは、まわりの人たちの想像も及ばないようなものだったに違いありません。曽我さんの「私はあきらめません」という言葉は、重く、深く、力強いものでした。
もうひとつ、全く異なった世界ですが、昨日(17日)行われたメジャー・リーグ、ヤンキース対レッドソックスの試合も「あきらめない」をヤンキースが身をもって示してくれたすばらしいゲームでした。試合の途中でテレビをつけてみたら、8回表が終わって3点差。こりゃだめだな、とぼくは思いました。相手チームのピッチャー、マルチネスはすごいし。ところがところが、そのあとヤンキースは全員一丸となって、
奇跡的な逆転勝利をおさめたのです。ぼくはタイミング良く終盤の劇的な場面を目にすることができました。
ほとんどだめかと思われるような状況の中で、どうやって人はあきらめずにやっていけるのだろう。「あきらめない」……それは今の時代、ぼくたちみんなにとっての合言葉、スローガンではないかと思うのです。その言葉は「希望を持ち続ける」と同義語です。
は「男はあきらめが肝心」なんて文句がイディオムとして使われ、それが美徳とされてきたわけですよね。そうじゃないと、いつまでも何をうじうじしているんだとか、往生際が悪いとか、白い目で見られるわけです。それに利害関係も働いて、何とかあきらめさせようという力が外から働いたりする。ましてや女性の場合、あきらめるあきらめない以前に、欲することや意志することが一般概念の外にあったのでは。そんな空気に合わせて、ぼくたちは人に言われなくても自分からたやすくあきらめてしまいがちなのです。その方が楽なこともある。「あきらめないこと」はエネルギーがいりますから。
でも今、少しずつ市民権を得てきた「あきらめない」態度。何歳になっても、持っていたいですね。
いや、ちょっと待てよ。男女関係で「あきらめない」精神を異常に発揮すると、ストーカーになっちゃいますね。今、ストーカーが流行っているのって、そのせいなの?そりゃまずいよな。やっぱりものごとにはバランス感覚が大切。となると、どの辺で線を引くかが問題になって、これが難しいんです。ありゃ、この話、単純に終わらなくなっちゃった。

ということば……(52) フィクションとリアリティー 9/19
ぼくの読書傾向が、気がついたらフィクション離れになってきていました。「この本がおもしろい」のコーナーでも、紹介しているのは『坊っちゃん』以外すべてノンフィクションです。意識的にそうしているのではなく、たまたまそういう結果になっているのです。
いわゆる「純
文学」が売れなくなって久しいことはみなさんご承知のとおり。フィクションも今やファンタジーやミステリーなどのエンタテインメント系が売れ筋です。
ぼくは別にそのような社会の潮流に合わせているつもりはありません。気になる作品はいくつかあるけれど、気になりつつ実際に読むのはノンフィクションばかり。ぼくの場合、評論、歴史、科学、芸術分野への傾斜がますますはっきりしてきました。そっちの方がずっとおもしろいのです。子供の本に関しては同じとらえ方はできませんが、ここでもノンフィクションの本がどんなふうに作られているかということが最近の関心事です。
最近ぼくはどんなフィクションを読んだのだろう? しばらく考えてやっと
思い出しました。先月、娘が友達から借りていた『世界の中心で愛を叫ぶ』(片山恭一/作)。それくらい印象が薄い。しかもほとんど斜め読み。
『世界の〜』はぼくの趣味ではありません。この本の作者、40代なのだけど、よくこんな青春文学を書けるな、と思ってしまう。ある意味、職人だと思いますが、テレビドラマと共通する、リアリティーのなさやら底の浅さが目について、ぼくにとってはフィクション離れを加速させる要因にしかなりません。
読む気になるかならないかは、リアリティーの問題なのです。いかにもありそうな、というリアリティーではなく、世界や人生の真実をついている、本質に迫っていると思わせるもの。それがほしい。あるいは逆に、言葉や映像のおもしろさをひたすら追求したようなフィクションなら価値があるでしょう。今はどうも読者(テレビドラマなら視聴者)に媚びたような、しかし結果的には馬鹿にしているものが多くて、とてもそんなものに時間を割く気にはなれない。それよりもノンフィクションの方がはるかに楽しいし、同時に知的好奇心も満たしてくれるから、そっちの方に力を注ぐわけです。
こんなふうに、ぼくはますますフィクションへの興味を失っているわけですが、先月の朝日新聞読書欄に保坂和志の『カンバセイション・ピース』が紹介されていて、その中にちょっと印象に残ったコメントがありました。評者は高橋源一郎(ぼくはどちらの作家の作品も読んだことがありません)。
書評によると、この小説にはいわゆる劇的な要素がまったくないのだそうです。しかし「ここには、いまぼくたちが読むことができるどんな小説(やそれ以外の本)より遙かにたくさんのことが書いてあるような気がする」と高橋さんは言います。「「生きる」ことの大半は「情熱や溌剌としたもの」の反対側、僕たちがふだん無視しがちなものの中にあるのではないかと。そして家や時間を巡る徹底した思索を通して、いつの間にかぼくたちの心と体にしみついてしまった固定観念を少しずつ解きほぐしていく。」
この本は、ちょっと読んでみたいな、と思いましたね。そこには、ぼくがここ数年感じ、考えていることとの共通部分が見いだせるからです。作者の保坂さんは1956年生まれ。ぼくと同い年です。もしかすると、この年代にこんな発見をする人は、ぼくが想像する以上に多いのかもしれません。
今度図書館で探してみよう(買おうと言わないところが、我ながらセコい)。

ということば……(51) 命は地球より重い? 7/12
長崎の幼児誘拐殺人事件で補導された少年の通う中学校校長が、緊急の全校集会で「命は地球よりい」と言ったそうです。先生たちは今たいへんな状況にあるのだろうと察しつつも、正直、空疎に響きました。今まで何度この言葉を耳にしたことでしょう。深刻な事態の中で、こんな紋切り型の言葉しか言えないところに、精神の鈍さを感じてしまいます。
先生たちはほんとうにそう思っているのか? 自分の体験から引き出した実感としてこの言葉を見つけたのか? あるいは自分が最初に言った言葉ではなくても、どこかで出会ったときに、ほんとうに共感したのか? そんなふうに言葉を血肉化した上で使っているのか? 報道だけでは真相は分かりませんが、少なくとも、この状況で使う表現として最上とは言えなかったように思う。
まるで『すぐに役立つ学校長スピーチ集』というマニュアルがあって、その中の「事故や事件が発生したときのスピーチ例」の一つを読み上げているような感じです。青少年による似たような事件が繰り返され、そのたびに教育者による似たようなスピーチが繰り返される。このことを象徴する皮肉な表現が「二度とこのようなことがあってはならない」です。みんなこう言うけれど、結局全国で見れば、何度も繰り返されている。
中1の生徒はこの学校にまだ3か月しか通っていなかったのだから、この中学校が事件について全面的に責任を負う必要はないでしょうが、それにしても、どれくらい事件を真剣に受け止めているのか、疑問を持ってしまう。どこか言葉が上すべりになっているような気がします。自分の言葉が生徒の心にどこまで届いているか、考えているのだろうか? 駿くんの幼稚園園長や教師の言葉の方が、はるかに聴く者の心に訴えかけていました。
空疎、と最初に言いましたが、「命は地球よりい」という言葉そのものが空疎なのではありません。使う人間の精神が惰性に陥るとき、言葉を空疎にするのです。適当にこれ使っときゃいいや、みたいな怠慢さは、容易に感づかれてしまうものです。
ま、精神の怠慢という点では、若者たちも似たり寄ったりですけど。流行りの歌なんてどれもこれも金太郎飴みたいな文句ばかりだし(そんな歌が自分たちの心を代弁していると思っているのだったら、それは大きな錯覚)、貧困なボキャブラリーでメールのやりとりをしているだけというのは容易に想像がつきます。だから言葉に敏感かどうかに関する世代間の批判は、目クソ鼻クソのレベルと言っていいでしょう。
ひとつひとつの命がほんとうに重さをもつのなら、語りかける言葉も、教師やおとなたちの心から重さをもって発せられるように、吟味すべきだと思うのです。自分たちの真意が少しでも確かに伝わるように、小手先の工夫ではなく、別の言葉を真剣にさがす努力をしてみてはどうでしょうか。
そしてそこでは、おとなたちの日ごろの姿勢が問われるのですね。日ごろこういうことを考えていなかったら、事件が起きたときだけあわてふためいて、まるで一夜漬けの試験勉強みたいにどこかから言葉を引っ張ってきても、子どもたちには届かないのです。

ということば……(50) 科学離れは自然離れ 6/5
Toshi Greetsでお伝えしている『本づくりの舞台裏』で、2回にわたって聴いた科学絵本・図鑑絵本の話は、刺激満載の内容でした。世界はほんとうにたくさんの不思議に満ちている。恥ずかしながらこの年になっても、ぼくの知らないことはまだまだあるから、それを発見したり学んでいくことは、ある意味、生きていく楽しみでもあるのです。
そんなふうに、個人的には最近、改めて科学への関心が高まってきています。ダ・ヴィンチを見習って。しかしちまたで聞かれるのは、若い人たちの科学離れ。今朝の朝日新聞に、「若者層離れて…科学雑誌ピンチ」という見出しで記事が出ていました。
それによれば、80年代に始まった一般向け科学雑誌ブームは83年の1262万部をピークに徐々に減り続け、2001年にはに415万部にまで落ち込んだそうです。読者層は、87年を境に20代、30代の科学技術への関心が低下している、と報告しています。
4月の講演で福音館書店の大和氏は、それについて大変印象深い言葉をおっしゃっていました。「科学離れは自然離れによるものです」。的確な指摘だと思いました。幼少のころに自然の不思議に接することがなかったら、科学への興味はわかないだろうし、研究意欲が生まれることもないでしょう。あのノーベル賞の田中さんも「自然に恵まれた富山県の環境が、私の好奇心と探求心を養ってくれた」とおっしゃっていました。科学する心は、間違いなく自然の中で培われるものですね。抽象と論理の世界である数学も、天体や自然を観察してきた先人たちが発見し築き上げてきた学問です。机の上から生まれたわけではない。
日本人は人をすぐに文科系、理科系に分けて決めつけたがるものだから、ぼくなんかも高校のころに持った数学への苦手意識が高じて、自分を文科系と限定してしまい、「理科系」でくくられるあらゆる分野――生物、物理、地学、化学――を遠ざけるようになってしまったのです。あれはよくないなあ、とこの年になって反省。
しかし、受験だの成績だのと直接には縁の切れた今、素直な気持ちで虫や花を観察したり、博物館で鉱石を見たりすると、驚きや好奇心でいっぱいになりますね。そしていろんなことを勉強したくなってくる。それに、ほんの少しでも科学的態度を身につけることは、いろんなところで役に立ちます。
大げさなことをしたり、遠出をする必要などありません。身近な自然で十分なのです。お金をかけて得る人間の作った楽しみ(テレビやコンピュータゲームetc.)よりも、よほど面白いと思うんだけど。

ということば……(49) Spread the Joy 5/27
2週間ほど前だったか、TVニュースのスポーツコーナーでイチローや松井選手たちの活躍するメジャー・リーグの試合を報じている中で、観客席がチラリと映りました。スポーツを観戦する人々の様子はなかなか楽しいものです。客席で若い人たちが気持ちよさそうに踊っていて、彼らの掲げる大きなボードには、絵と一緒に Spread the Joy と書かれていました。ああ、いいなと思いました。ちょっと覚えておきたい表現です。
何しろ日本の広告などでよく聞く(目にする)英語はほとんどが和製英語で、文法的に間違っていなくても手垢がついた感じのものが多いのです。日本語ではどうしようもないつまらない言葉を、英語に訳しさえすればましに聞こえると勘違いしているものも結構あります。日本語でも外国語でも、生き生きとした言葉がいいに決まってます。そしてそれはたいがい訳しづらい。

さて、このSpread the Joy ですが、テレビでは「盛り上がろうぜ」という字幕が出ていました。でもちょっと訳としては苦しいですよね。かといって「喜びを広げよう」ではあまりにも直訳ふうで、野球場の雰囲気には合わないから、担当者としては苦肉の訳だったんでしょう。
喜びを広げよう――こういう訳だと、いかにも宗教っぽいな。そう気づきませんか?こんなちょっとした表現にも聖書的発想が見出されます。もちろんこれを書いた人たちはそんなことを意識してはいないでしょう。おそらくごく普通の言い回しだろうから。でももともとは伝道の発想です(言葉の文化的背景は、以前にもサイモンとガーファンクルの歌を例に挙げてお話ししたことがあります。これについては、ビートルズのLet It Be もぜひ取り上げたいところです)。

話を戻します。Spread the Joy これを横(伝達)の方向性ととらえるなら、日本語の「盛り上がろう」は、縦(昂揚)の方向性が強い表現ですその場にいる仲間内で盛り上がるわけで、多くの人たちに伝えていくという発想はありません(まったくないというわけではないけど)。やや閉鎖的なイメージを受けるのですが、どうでしょうか。盛り上がっている人たちと、まわりで冷ややかに見ている人たちとの、流行り言葉で言えば「温度差」が感じられませんか?
でも、ちょっと前までならぼくも単純に、Spread the Joy という表現に感動して終わっていたのでしょうが、最近のアメリカのやり方を見ると、おれたちのやり方をおまえたちも同じようにやればみんな幸せになるんだ、という強引さが垣間見えるものだから、素直に受け取れないんですよねえ。ベースボールを楽しむ分には、ぼくも大いに賛成なんだけれど。
相手も心から喜べるような形で喜びを伝えるって、むずかしい。

ということば……(48) 死ぬほど退屈な男 5/10
ずいぶん前のことですが、故伊丹十三氏が何の新聞だったか、コラムを連載していて、その中で『何もない空間』(ピーター・ブルック著、高橋康也・喜志哲雄訳、昌文社刊、1968)という本を紹介していました。著者は世界的なイギリスの演出家。この本で刺激に満ちた演劇論を展開していますが、世界や人間に関する深く鋭い洞察は、
演劇に直接かかわっていない人が読んでも十分に面白い。こういう本をEye-opener (目を開かせるもの)といいます。
この中で忘れられない言葉があり、それを確かめるためにぼくは先日、久しぶりに本棚からこの本を取り出しました。その箇所にしおりが挟んでありましたよ。当時よほど印象深かったらしい。ちょっと引用しますね。
「〈
退廃演劇の問題は、つきあって死ぬほど退屈な男の問題と似ている。つきあって我慢ならぬほど退屈な男といえども、例外なく頭があり心があり腕があり脚がある。ふつうは家族も友達もある。いや、ときには彼の崇拝者さえある。だが、彼に出くわすと、わたしたちはやっぱりため息をついてしまう。ため息とは、彼が自分の可能性の絶頂ではなく、どん底に位置しているのを惜しめばこそのため息である。。死ぬほど退屈とは死んでしまっているということと同義ではない。むしろうんざりするほど活発なのだ。」
ここでは退廃演劇というものを論じるために、退屈な男のことを比喩として用いているのですが、退屈であることの定義が本質をついていて、同時にリアリティーがあります。

見るからに退屈でしょぼくれているのであれば疑問がわくことはないのですが、ぼくたちは時に、話そのものは一見まともだし、仕事(勉強)もできるし、明るくて、賢くて、元気な人なのに、何かつまらない、どうしてこんなに気持ちが沈んでしまうのだろう、という人に出会うことがあります。沈むとまで行かなくても、心が浮き立つことがない。
もちろん相性の問題として片づけることも可能でしょう。でも少し注意深く分析してみると、こちらの心が萎える原因の一つは、その人が可能性のどん底にいる=死ぬほど退屈な男〉だからだと気づくのです。それは学歴や社会的地位や収入とはまったく関係ありません。そういう人は、語る言葉とは裏腹に、自分やまわりの人、さまざまなものの生命力、可能性、希望をことごとくつぶします。
でもこれは他人事ではありません。ちょっと油断すると、人はいつだってたやすく〈死ぬほど退屈な男(あるいは女)になってしまうのです。ぼくも過去に誰かに対しては退屈な男だったかも知れないし、今もひょっとするとそうかも知れない。そうならないために何をしたらいいのだろう。ここ数年心がけているのは、学び・考え・感じ・表現し・動きつづけることをやめない……そんなところでしょうか。
ピーター・ブルックはこの本の別のところで、こんなことも言っています。
「紅顔の老人はいくらでもいる。その中には、驚くほどの体力を持っているが大きな赤ん坊にすぎない人々がいる。彼らは顔にも性質にもしわがなく、快活ではあるが大人になっていない。これに対して、いじけてもおらず、衰えてもいないが、しわがよって、歳月を経てきたことを思わせる老人が、再生によって生き生きとしている場合もある。若さと老いさえも、重複しうるものなのだ。」
いやあ、人間を見る目が深い。

ということば……(47) シンプルであること 3/22
やっぱりアメリカは戦争を始めました。9.11テロからあと、世界は確実に不安な方向に歩んでいるように見えます。フセインもフセインだけど、ブッシュもブッシュ。
ものごとを変なふうに単純化して、突き進んでいる。あいつは悪で、俺は正義という単純な善悪二元論
困るのはまわりみんなが巻き込まれていくことです。ぼくもシンプルであることは好きなのですが、考えることを停止するシンプルさはとても危険です。
「よい戦争、悪い平和のあったためしなし(There never was a good war or a bad peace.) と言ったのは、ベンジャミン・フランクリンです。こんなシンプルさこそ大切にすべきでしょう。ぼくたちの身近なところでも、遠いところでも、ほんとうの智恵や勇気や忍耐力がますます衰えてきているような気がします。
戦争が始まった日に、アナン国連事務総長が演説の中で、Let us hope that the future will be much brighter than the recent past. (将来が近い過去より明るくなることを願いましょう)
と言っていました。その言葉を心からの祈りにしたいと思います。戦争が一刻も早く終わりますように。

ということば……(46) ミリ・ダ・ヴィンチ 3/8/03
ミリ・ダ・ヴィンチというのはぼくの造語。今日思いついたものです。
ダ・ヴィンチにも前々から興味を持っているのですが、脳への興味と連動して、少し本格的に研究してみようか、という気になっています。 図書館で何冊か本を借りてきました。小学館の『レオナルド・ダ・ヴィンチ 復活「最後の晩餐」』(片桐頼継/著)には、最近修復された「最後の晩餐」が、興味深い解説つきで紹介されています。こう言うのを読むと、今さらながらこれは、汲めど尽きせぬ豊かな内容を持った名画なのだということがわかります。数年前にNHKでこの絵の謎解きをした番組がありました。ビデオに録画してありますが、読み解き方がまるでミステリーみたいで、刺激的な名画鑑賞法を見せてくれていました。
それから創元社「知の再発見双書」のひとつ『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(アレッサンドロ・ヴェッツォシ著)では、ダ・ヴィンチの生涯と業績が豊富な写真入りでコンパクトにまとめられています。以前「この本が面白い」で紹介した講談社「絵とき美術館シリーズ」の『レオナルド・ダ・ヴィンチ』もスグレモノですが、この本にはさらに多くの内容が詰め込まれています。知れば知るほど、驚嘆するばかり。
はっきり言って、ここまでの天才になると、理解とか鑑賞にもものすごいエネルギーが必要で、 ぼくみたいなチョー凡才には雲の上の存在。初めからちょっと敬遠したくなっちゃうわけです。ミケランジェロでもピカソでもベートーヴェンでもバッハでもシェークスピアでもドストエフスキーでも葛飾北斎でも宮澤賢治でもそうです。
しかし、しかし、ぼくは少し考えを変えたのです。ぼくの理解をはるかに超えていて、ぼくなど足元にも及ばないにしても、天才たちのスピリットのほんのわずかをお裾分けしてもらうだけでも何かの足しにはなるんじゃないか、と。で、凡才なりに、探求心と好奇心をもってダ・ヴィンチになってみよう。
千分の一でいいんです。爪の垢をせんじて飲む、というような感覚。スローガンとして、最初「千分の一ダ・ヴィンチ」という言葉を思いついたのですが、ちょっと長い。英語に直訳すると、One Thousandth da Vinci。うーん、発音しづらいし語感がいまいち。何かいい表現はないかな、と皿洗いをしながら考えていたら、突然ミリという単語を思い出した。ミリというのはご存じのように、1000分の1を表します。Milli da Vinci, ミリ・ダ・ヴィンチ。これで決まり。
ちなみに、ぼくには順一という名前の兄がいますが、ダ・ヴィンチの499年後の同じ日(4月15日)に生まれたので、自分のことをレオナルド・ダ・ジュンイチと呼んでいます。思考も行動も一般人とかなり異なっているのは自他共に認めるところで、その点は確かに天才と共通しています。 

ということば……A(1〜15) B(16〜29) C(30〜45)

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