クレー展 2/27
パウル・クレーは、ぼくが理屈抜きで心惹かれてしまう画家の一人。土曜日(25日)、大丸ミュージアムへクレー展を見に行きました。28日で終わってしまうのを思い出してあわてて行ったのですが、会期の終わりごろということもあって、混雑を覚悟して出かけました。
でも幸い予想したほどの混み具合ではなく、何とか見られました。子どもからお年寄りまで幅広い年齢層だったのが印象的でした。
で、ぼくの近くに若いカップルがいたのですが、男の方が、ひっきりなしにしゃべっていました。どうでもいいことを、片時も黙ることなく。クレーの絵が語りかけてくる静かな言葉や音楽をかき消す雑音。あんまり耳障りなのでぼくはその場を離れ、少し前に戻ってもう一度見始めたのですが、しばらくすると、タラタラうろついている二人とまた合流という、悲惨な展開でした。展覧会っていうのは、まず作品を鑑賞し作品と対話するのが先だろう、おしゃべりだけなら公園にでも行け、と言いたくなるのだけど、通じないでしょうね。
ひと月ほど前だったか、新聞にこんなことが書いてありました。最近の若い人は展覧会を一つのイベントとして考えて、ディズニーランドにでも行くような感じで足を運ぶ、と。あのカップルもそういうことなのかなあ。
イナバウアーの金うさぎ 2/24
スポーツは生放送で見るのが一番ですね。フィギュアスケートの場合は、ジャンプが失敗しないかどうかがハラハラするところ。オリンピックのレベルだと、上位の人たちは実力差など全くなくて、ミスをするかしないかだけが勝負の分かれ目になりますからね。
ぼくは今朝6時に起きて、最終グループの演技を見ていました。コーエン選手がすべり始める前に緊張しているのがよくわかりました。そしたら案の定、最初に2度もジャンプミス。次 の荒川静香選手は、リンクに現れた時から冷静だというのが伝わってきました。ジャンプは全然こけなかったし、滑りの良さは素人にもわかりましたよ。
何日も何日も前から日本のメディアはフィギュアの3人だけによりすがって報道してきたから、今度の金メダルは、まるで皇室に男の赤ちゃんが生まれるくらいの価値があったのではないでしょうか。おそらくこれ1枚で終わるだろうけど、でも光り輝く金で良かったね。
イナバウアーの白うさぎ
健康診断 2/23
フリーはいろんなことを自分でやらなくてはいけないのですが、その一つが健康診断。中年を過ぎると年に1回は人間ドックに入った方がいいと言われますけどね。わかっちゃいるけど、なかなかできない。。
東京練馬区では毎年、45歳とか50歳といった、5の倍数の年齢の人たちを対象に節目検診というのを実施しています(まるで広報係のような口調)。今年ぼくの所にも案内が来ました。無料なので、ぼくのような人間にはありがたい。ゆうべから飲まず食わずで、今朝検診に行きました。
初めの方で血圧測定があります。機械に腕を入れて自分で測るのですが、なぜかぼくは緊張してしまい、いつもより高い数値が出てしまいました。それでも正常値内ではあったのだけど、機械の使用説明に「リラックスしましょう」と書いてあるのを見たらますますドキドキして、最悪。脈拍も75。若い頃に比べると、なぜかドキドキが増えたような気がします。
もしかするとドキドキが原因で、そのあとの胃や肺の写真、あるいは血液の成分にも異常が表れたりするんじゃないかなと心配です。……と、こんなことを言ってると、「あなたはノミの心臓です」という結果が出るでしょう、きっと。
禁じられた遊び 2/22
おとといNHKのBS2で「禁じられた遊び」を見ました。若い頃に1、2度見たことがあるのですが、久しぶりに見て、新たな驚きがありました。と言っても、結構どうでもいいことに目がいってたのですが。
主演のブリジット・フォッセーはほんとうに天才子役ですね。映画の中のポーレットという少女を生ききっています。ルネ・クレマン監督はどんなふうに演技指導したんでしょうか?
びっくりしたことのひとつ。男の子ミシェルと、お墓の十字架につける名札を書いている場面があるのですが、その中で、目の前をゴキブリが通るんです。当時ですから、当然CGではなく、本物が歩いているはず。それをポーレットが手で捕まえちゃうんですよ!ミシェルはそれをペンで突き刺して殺します。
それから、お墓づくりのきっかけになった犬の死骸。これもポーレットは持ち歩いていたのですが、結構本物っぽかった。今のアメリカ映画だったら精巧な人形を作るのだろうけど、この時はどうやったんでしょうね。
死骸は他にもモグラやヒヨコが出てきました。生きた動物ではフクロウやネズミがいい演技をしていたし、登場人物の顔にたかる蠅は人々の貧しさをよく表していました。そんな視点から見ると、この映画のまた別の楽しみ方ができます。
茨木のり子さんと言葉 2/20
詩人の茨木のり子さんが亡くなったと、今朝新聞で知りました。ちょっとショックです。ぼくの大好きな詩人の一人だったから。詩集『倚りかからず』をひと月前に買ったばかり。たとえお目にかかるチャンスはなかったとしても、どこかでこのような人が生きていてくれると言うことが、ぼくには励みだったのです。
凛としながらも、人の弱さや無様さを否定せず、まっすぐに世の中や生きることを見つめた人だと思います。詩の言葉は生活からかけ離れて存在するものではなく、むしろ日々の生活の中で生まれ、人を励ましたり勇気づけてくれるものなのだと言うことを知ったのは、この人の詩を通じてです。また、『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)からは、詩のすばらしさ・言葉の大切さを教えてもらいました。
「汲む」という詩で、茨木さんは女優の山本安英さんから聞いた言葉を書き留めています。
初々しさが大切なの/人に対しても世の中に対しても/人を人とも思わなくなったとき/堕落が始まるのね/堕ちてゆくのを/隠そうとしても/隠せなくなった人を何人も見ました
その言葉は茨木さんを通して、ぼくの心にも届きました。
共有する記憶 2/19
トリノ・オリンピックが日本では盛り上がりません。だからマスメディアは残された期待の種目、フィギュア・スケートのことばかり報道しています。乏しい材料で無理やり話題づくりをしているところが涙ぐましい。
冬季オリンピックを見ると、ぼくは今でもトワ・エ・モワの「雪と虹のバラード」を思い出します。いい歌でしたね。インターネットで検索して、改めて歌詞を見てみました。やっぱり名曲です。今はこういう「まともな」歌が出せなくなった時代です。さびしいなあ。
さて、日本人が世代を越えて共有する記憶をもはやもっていないことは、多くの人が指摘しています。オリンピックのテーマ曲も、今はどこのチャンネルで見ているかで、思い出に残る曲が違ってきます。アテネ五輪ではサザンの曲が一番人気があったそうですが、ぼくは全く知りません。
おそらく共通の思い出を持つことができたのは、1970年前半が最後だったのでしょう。万博('70)やら札幌冬季オリンピック('72)があった時代です。どちらも歌と行事がセットになって、みんなの記憶に残っています。……と、ここまで書いていて、2002年のサッカーW杯日本対ロシア戦のテレビ放映が視聴率66%を超えていたことを思い出しました。ここから判断すると、あのイベントは久々の国民共有の思い出なのかなとも思います。
このままでは最も日本人の記憶に残らなくなるかも知れないトリノですが(いやその方がかえって記憶されるかも)、何とか、フィギュアスケートで最後の花が咲きますように。
クオリア 2/17
めまぐるしい気温の変化のせいか、すっかり体調を崩し、風邪がぶり返してしまいました。息子の喘息がようやく治りかけたというのに、今度はぼくがゴホゴホと咳をして、昨日からバイオリズムは最低レベル。
今日はほとんど一日中寝ていたのですが、昨日からふとんの中で読んでいるのが、『脳と仮想』(茂木健一郎著、新潮社、2004)。図書館で去年の夏か秋に予約していたものがようやく回ってきたのです。
最近この人はテレビによく出るようになってきましたが、「世界一受けたい授業」ではいつもA-HA映像ばかりだし、NHK「プロフェッショナル」の案内役もどうも食い足りないところがありました。でもこの本は面白い。
この本で扱っているクオリアというのは、感覚質、質感などと訳されていて、思い描くものや感じるものといった、今まで科学が切り捨ててきた「計量できないもの」が、脳科学で近年盛んに研究されているようです。文学や音楽や美術などのカテゴリーとクロスオーバーしているわけです。去年の秋に読んだ池谷裕二さんの『進化しすぎた脳』でも、このクオリアは取り上げられていました。
よくわからなかったところもあるのだけど、それは風邪のせいということにしておこう。
蝶が飛んでいた! 2/15
今日、東京の気温は20度。4月下旬の暖かさでした。朝、ベランダで花の水やりをしていても、空気が違うのを感じました。こんな日にうちに閉じこもっていては良くない。ということで、午後、図書館へ行くついでに公園をほんの少しだけ散歩しました。コートなどもちろん着ません。
池のカモたちを見てから、エノキの根元へゴマダラチョウの幼虫を探しに行くことにしました。ベンチに座っている老人や遊んでいる子どもたちを眺めながらのんびりと歩いていると、ふと、なにやら左前方をヒラリヒラリと黒っぽいものが飛んでいるのが目に入りました。
えっ、と思って飛んでいるものを目で追いかけたのですが、あっと言う間に視界から消えました。もしかして蝶?……間違いない。どう考えても蝶だ、あれは。大きさはモンシロくらいで、黒アゲハのような色。風に吹かれる落ち葉でも、木々を渡る小鳥でもなかった。
夕方、帰宅した息子に聞いてみたら、越冬していたタテハ類かもしれないよ、との返事でした。春の陽気に誘われて、どこかの葉っぱの裏から出てきたのでしょうか。今年最初に目撃した蝶です。
確実に春が近づいていますね。
待合室で 2/14
息子が今年に入ってから風邪を引き、なかなか全快しないうちに喘息に移り、毎日ゴホゴホ咳き込んでいます。昨日も学校を休ませ(1月からもう何度目だろう)近所のクリニックに連れていきました。
そこはわが家の子どもたちが小さい頃からお世話になっている小児科で、いつも幼児と親たちでごった返しています。
ぼくのそばに、ぼくと同じくらいの年齢らしい男性がすわっていました。近くにいた女の人と軽く言葉を交わしていて、今日は風邪で自分が診てもらうのだと言っていました。内科でもあるので大人も診てもらえるのです。
小児科というのは、子どもたちの不安を少しでも和らげるよう、あの手この手の工夫をしています。ドラえもんの絵があちこちに貼ってあったり、子ども向けのビデオが流れていたり。絵本もおもちゃもマンガも子ども向け。そして看護師のアナウンスも「○○くーん、××ちゃーん、中待合室にお入りくださーい」と、子ども向け。
しばらくして看護師のアナウンス「△△ひであきくーん」。するとその男性が立ち上がって中待合室へ入っていきました。
受診者が何歳でも、ここでは子ども向け呼びかけが貫かれているのでした。
テレビ格闘記 おまけ編 2/11
というわけで、新しいテレビが木曜日の午前中にやってきました。色や画像が突然消える心配がなくなったのが本当に嬉しい。病気から回復した時、健康のありがたさを再認識するような、妙な感覚。でも今でも何かの瞬間に色が消えちゃうんじゃないかとドキドキしてたりします。まあそんな後遺症も、日が経てばなくなるのだろうけど。
そういえばトリノ・オリンピックが始まるんでしたね。そんなことちっとも考えていなかったから、ああ、タイミング良かったなあと、家族一同、喜んでいます。以前にサッカーの試合を見ていて、ゴールの瞬間にブツッと画面が暗くなったという嘘のような本当の事件があり ましたからね、ほんと、脳出血やら心臓麻痺をおこしそう。
電気店には大画面のテレビが並んでいて、しかも画像がやたら鮮明だから、スポーツの試合や映画をこれで見たら確かに迫力あるだろうなとは思うのですが、ぼくたちは家にテレビがでかい顔してのさばるのは嫌いなので、今回も前と同じ28型。……とか何とか言ってるけど、要するに家にスペースとお金がないだけのことですが。
ところで右の写真が、テレビとのサバイバル競争に勝ったカマキリです。
テレビ格闘記その3(完結編) 2/8
今やテレビは液晶が主流。しかも2011年には地上派デジタル放送に完全に移行することになっていて、電気店に行くとブラウン管アナログテレビには脅迫まがいのシールが貼られています。ああ、日本人の経済成長なんて、望みもしない需要を強いられることで何とか保たれているんですね。そんなもの本当の豊かさとは結びつくわけじゃないのに、と負け組の遠吠え。わが家ではDVDレコーダーだってまだないけど、これも世の中の趨勢にじわじわと寄り切られようとしています。
先週の土曜日にぼくたち家族はK電気店へ行きました(テレビの選択は家族全員の問題なのです)。このお店がもし安い欠陥品を売るようになったら、オジマっていう名前になっちゃったりして、とどうでもいいオヤジギャグを考えながら見て回ったのですが、ブラウン管で安くていいのがない。BSはどうしても見たいし、予算は4万円内に納めたい。次にY店へ行きました。で、意外にこちらの方が品数は多いということを発見。結局ここで注文して、今週の木曜日に配達される運びとなり、一件落着。
さて、新しいテレビを注文してからわが家のテレビは、なぜか毎日毎日とても優等生になっています。どんな心境なんだろう。そしてテレビの前では、体力の衰えと格闘するカマキリが、こちらも力を振り絞り、久々にケースのふたにぶら下がって、健在ぶりを誇示しているのでありました。(完)
テレビ格闘記その2
2/7
わが家のカマキリは年を越しただけでも驚異的な記録でしたが、1月も無事に乗り切りました。触覚や右後ろ足の先が少し切れてしまいましたが、まだまだ健在。一方テレビの方は衰えが目立つようになってきました。映像が映らなくなるたびにボカスカ殴っている様子はまさに虐待。「やっぱりもうそろそろだめだな」と、テレビを見ながら話していました。
ところが、テレビも家族の会話を聞いていて危機感を持ったのでしょうか、1月の末に突然映りが良くなって、数日間すばらしい仕事をしていました。Good
Job! しかしここでエライエライとなでてやってはだめなのです。そのとたんにジャーッと乱れるんだから。誉めてやるとすぐに気を抜いて、また戻ってしまいます。
画像が前触れなく乱れることで受けるストレスは相当なものです。今ではすっかりトラウマになり、ぼくは、夢の中の映像でさえ突然白黒に変わってしまうようになりました。先日は娘がNHKの「プロフェッショナル」という番組でデザイナーの話を見ていましたが、またまた白黒に。デザインや美術の番組で色がなくなったらおしまいですよ。娘は怒り狂って、途中で見るのをやめました。
どうやらカマキリより先に寿命が来そうだと思いました。(またまたつづく)
テレビ格闘記その1
2/6
わが家でテレビをついに買い換えることになりました。今のはまる11年使ったことになります。画像が正常に映らなくなったのです。
まず色が抜けて白黒になります。それから画面が暗くなって、斜めの幾何学模様がザーッと流れます(ちなみに、画面が砂嵐状態になることを福井弁では「ジャミジャミになる」と言います。ちょっと前に「世界一受けたい授業」でも取り上げられていました)。正常な状態が続く時間は日によって違いますが、最近では15分持たないこともしょっちゅう。
兆候が現れたのは1年以上前。初期の頃は、ほんの少し色が薄くなったかなという程度で、後ろのケーブルをいじるだけですぐに元に戻っていました。しかし、やがて新たな不具合が表れ、直し方も症状の変化によって変わってきました。で、去年のある時、めちゃくちゃ原始的な方法なのですが、テレビをボカッ!と殴りました。これで直ったのです。これで直っちゃうのもすごいのだけど、テレビを見ていてこんなことをやっている家庭は今時うちぐらいのものでしょう。
年末には、わが家で飼っているカマキリとこのテレビとどちらが長生きするか、と家族で話し合っていました。(このお話、つづく)
オタクもどき
2/4
幼女殺害事件の宮崎被告の死刑が確定しました。裁判に16年もかかっている。作家の高村薫さんが新聞で書いていましたが、この事件で注目されたオタクという現象が今や市民権を得て、欲望も異常さも日常化しています。
オタクという言葉からはあの頃の差別的なニュアンスもすっかり消え、定義が変化して、今では大人も子どもも誇らしげに使っているようですね。ぼくの子どもたちの間にも、アニメオタクだとか何とかオタクという友達がいるようです。
でも数年前から感じてきたのだけど、今のオタクはまるでディズニーランドのアドベンチャーアトラクションですね。つまり情報も目標もスタイルもすべてが計算づくであらかじめ用意されていて、本来の意味での未知なる領域も危険性もない。だれでも一定のお金さえ払えば、オタクになれるわけです。若干まがい物をつかまされていたりして。それはオタクもどきというものでしょう。
オタクという言葉はあの事件から有名になったのかも知れないけど、そんな言葉が出てくるはるか以前から、芸術家にしろ学者にしろすごい人たちは自覚せずにオタクをやっていたわけです。市民権を得ることができない生き方、それが本当のオタクです。
ミーハー的モーツァルト
2/2
今年は
モーツァルト生誕250周年で、ぼくのちょうど200歳上です。クラシック音楽界はいろいろ盛り上げようとしてますね。
ぼくも大学の頃、後輩から薦められてモーツァルトの音楽を聴くようになりました。その後輩はもともと小林秀雄のファンで、小林秀雄の有名な著作からモーツァルトに入っていったのです。ぼくもピアノ協奏曲、交響曲などいろいろ聴いて、結構好きですが、ミーハーのレベルを出ていません。まあ楽しめればいいと言う感じで。
あまり好きじゃない聴き方が「脳にいいから」というやつ。効能がどれだけあるかで聴くなんて貧しいじゃありませんか。この食材はこれこれの栄養があるから体にいい、と言われて食べるのと似たような所があります。そんな動機じゃおいしくないのですよ。まず楽しむのが一番では?
若い頃聴いていたのはみんなLPレコードだから、今は聴けません。これが残念でしょうがない。CDで買い直そうにもお金がないし。
ところでモーツァルトと言えば、劇「アマデウス」の再演はないのでしょうかね? ぼくが見たのは松本幸四郎と江守徹の公演。最高でした。あれ見ちゃうと映画の方は大したことないってのがわかりますよ。またやるのならぜひ見たいものです。
1月の「ごあいさつごあいさつ」
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