名前の読み方
1/31
ヒューザーの社長が最初にニュースで出てきた時、「おじま」という名前を聞いて、ぼくは「尾島」を連想していました。「小嶋」を「おじま」と読ませるのは珍しいですね。
名前の読み方は、誰がどう決めるのでしょうね。ぼくの名前「峯田」は「みねだ」と昔から自分では読んでいますが、同じ字で「みねた」と読む人もいます。似たような例は他の名前でもたくさんあります。
去年亡くなった父はいろんなことでいい加減な人で、名前の読み方や書き方など、いっこうに気にかけていませんでした。銀行の口座名義や判子もバラバラ。つい先日も帰省の際に銀行の用事があり、名義の訂正作業をしなければならなくなりました。そういえば去年の夏お墓の掃除に行った時、「峰田家」の文字が
石に深々と刻まれていたのを見て、唖然。
文字は戸籍を見ればわかることだけれど、さて、読み方はどうなのだろう? どこの馬の骨かわからない家柄だから史料が全くない。戸籍にふりがなは打ってない。正しい読み方なんてものを証明するものがあるのだろうか? ただの慣習のような気もします。で、最近考えました。読み方が慣習でしかないのなら、ぼくが自分でこれからも「みねだ」で通すと決めればいいことなのかなと。
同じになりたがる
1/29
最近の若い人たちはみんな眉を描いています。時代遅れで縄文顔のぼくは星飛雄馬のような眉ですが、これを今流行りの眉にしたら、きっと自分でも笑っちゃうだろうなあ。
それにしても、どうしてみんな同じ形の眉を描くのでしょう? 似たり寄ったりのヘアスタイルとメイク。姿も持ち物も考え方も趣味も。結局、彼らや彼女らは、まわりと同じになることが美しくなることだと勘違いをしているのでは? 自分の良さを引き出す知恵がない。
先日、中学時代の友達と会った福井の居酒屋の女将さんは、ぼくの中学時代の2年先輩(ちなみに妹は同級生)。当時から美人の誉れ高かったのですが、今も美しさは変わりません。そして店には娘さんが一緒に働いていました。その人がお母さんに生き写しで、思わず、今度絵に描かせてくださいと頼んでしまいました。
で、なんでそんなに心惹かれたか、あとで考えたんですが、目鼻立ちもさることながら、和服と割烹着を着ていたからなんですね。そしてそれに合うヘアスタイル。クローンのごとき若者が溢れる中、ハッとするほど新鮮でした。
でももしかするとその娘さんも、仕事が引けると同世代の女の子と同じような格好になって人込みに紛れるのだったりして。
ゴットフリートおじさん
1/27
母方の伯父が亡くなり、4日間帰省していました。83歳でした。ぼくは小さい頃からお世話になっていいました。葬儀の中で、生前のいろんなことを思い返し、改めてその生き方を心に刻んでおこうと思いました。
今の世の中は、テレビのようなマスメディアのせいで、目立つことや派手なことばかりがいいように錯覚しているところがありますが、市井の目立たないところで良い生き方を示してくれる人が、実はいるのです。みなさんのまわりにもそんな人が必ずいるのではないかと思います。鈍いわたしたちは(いや、ぼくは)、なかなかそれに気づかない。
中学生の頃読んだ(実は途中で挫折していますが)ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』という小説に、ゴットフリート伯父さんという、優しくて深い愛情を持った人物が出てきます。記憶では、確か行商をしていて、時々主人公を訪れて、慰めたり励ましたりしてくれるのです。ぼくはこれを読んでいて、自分の伯父を重ね合わせていました。
葬儀の時、たった一人の孫、小学5年のTちゃん(男の子)が泣き崩れていました。そんなに悲しめるほど、伯父の生き方はしっかりとこの子の中に伝わったのだなと思いました。
雪で遊ぶ
1/23
土曜日、東京に降った雪は、翌朝サラサラになっていてちっとも固まりませんでした。積もった雪をすくい上げて空中に放り投げると、青空の中で細かく砕け、日光をキラキラ反射させながら降ります。その様は、ちょっとしたダイアモンドダストでした。
最近子どもたちから、年をとるごとに精神年齢が幼くなっていくとバカにされているぼくは、東京のこんなわずかの雪にも、どこか心ときめかせてしまうのでした。
福井出身のぼくに雪の思い出はいくらでもあるけれど、そのひとつが中3の時のこと。ぼくたちの校舎は校門に面していました。ある朝、前の晩から降った雪が登校する生徒に踏み固められて、門の前はすべりやすくなっていました。教室に着くと、窓から外の様子を眺めながらみんなでその話をしていました。そのうち、友達が歩いてくるのを見つけると大声で名前を呼んで「遅刻やぞー!走れー!」それを聞いて、みんな焦って走り始め、例外なくこけていたのです。
まんまと罠に引っかかった犠牲者たちは教室に入ってくると仲間に加わって、あとから来た連中を同じ目に遭わせるという、いかにも男子中学生がやりそうな遊び。アホですね。もちろんぼくも参加していました。
メール伝言だけど
1/21
わが家でケータイが2台になったものだから、使用頻度が増えました。AUになって初めての請求書が先日来たけど、見たらびっくり。娘には、自分で払えよ、と言いました。
おとといの夕方、娘が帰ってきた時間にぼくは外に出かけようとしていました。すると娘も出かける用事があると言います。しかし間もなく母さんが帰ってくるから、何も言わないで出るのは良くありません。いつもだったら置き手紙をテーブルの上に置いて出かけます。
ところがこの時、娘が、母さんのケータイにメールを入れておこう、と言い出しました。家族間のCメールは無料なのですね。以前にはなかったことです。しかし、母さんがメールを見るかどうかはわからない。で結局、ぼくがメモ用紙に「メールを見てね」と書いて、テーブルの上に置いて、出かけました。
これでぼくは思い出しました。数年前、学校に勤務していた時、職場内のメールシステムが整備されました。職員たちは最初の頃、Eメールを送ってから、わざわざ本人の所へ行って、「メール送ったから見てね」と言い合っていたんです。Eメールがもの珍しくて、いい年した大人が無邪気に楽しんでいた時代。今わが家は、何年も遅れてその時代を迎えているのです。
ジャイブドアJive
Door
1/19
ライブドアが近日中に緊急記者会見を行うそうです。年内に社名をライブドアからジャイブドア(Jive=ぺてん、たわごと)に変更するとのこと。……もちろんジョークです。これは今朝、思いついたもの。欧米のメディアで、誰かこんなシャレ言ってるんじゃないかな。
でもホリエモンに関する外国メディアの見方も、ぼくにはピンボケとしか思えません。どこかの国では、今回の事件をホリエモンつぶしの政治的策略と見ているそうだし、イタリアではホリエモンを「米国風の手法で日本の既成権力に挑戦した」人物と伝えたとか。なーに言ってんだ。ホリエモンは日本の伝統的やり方をぶちこわす人間じゃなく、戦後政治や教育から必然的に現れた典型的現代日本人でしょうが。その辺がちっともわかっていない。
つまり日本は今も昔も、外国人にまるっきり正しく理解されていないのですよ。コミュニケーションが下手なのは日本人の致命的欠陥。英語教育は相変わらずのブームですが、英語を勉強するのなら、ラジオのDJみたいなおしゃべりをするためじゃなくて、日本を正しく伝えるために勉強した方がいいんじゃありませんか。
なーんて、身のほど顧みず偉そうなこと言ってるけど、これは、かなりのハイレベル。ぼくももっと勉強しなくては。
個人情報の保護
1/17
日曜日(15日)に東京都中学校の吹奏楽部アンサンブルコンテストが府中で開催されました。これは金管、木管、打楽器などの少人数グループで演奏するコンテストです。吹奏楽部の息子が、打楽器担当3人でこのコンテストに参加して、銀賞を受賞しました。
わが中学校の吹奏楽部では歴代最高の賞だったそうです。いつもどちらかといえば、参加することに意義を見出している学校ですからね。聴きに来なくていいよ、と息子は遠慮していましたが、妻が聴きに行きました。
さて、息子がもって帰ったプログラムには、出場校や出演生徒の名前が出ているのですが、生徒名の欄が空白になっている学校がいくつかありました。そして、リストの終わりにはこんな注が:「出演生徒名の全部または一部を記載していない学校は、個人情報保護条例による申し出があった学校です」
ふーん、どいういうことなんだろう。よくわからない。ここに名前を記載するとどんな被害が想定されるのだろう? それなりに正当な理由があるのでしょうが、なんだかこんなところでも、窮屈な世の中になっちゃったんだな、とため息をついてしまいました。名前がある方が嬉しいはずじゃないかなと思うのは、ぼくが脳天気なだけ?
歩く姿勢
1/13
寒い日が続きます。歩いていても、つい肩をすぼめてしまいます。先日も出かけた時、なるべく胸を張ってと思いつつ、気がつくと猫背になっていました。
歩く姿勢にも個性があって、ぼくはどちらかというと前かがみになって歩くようです。自分じゃよくわからないけど。日本人はもともと農耕民族だから、田植えの姿勢が原型なのだそうです。すり足で、がに股で。
ユル・ブリンナーという往年の俳優をご存じですか? 「荒野の七人」などに出ていたスキンヘッドの人。あの人の歩き方が美しい。高校の頃だったか、テレビで見ていて、真似していました。腰を前に押し出すようにして歩くのです。デューク更家さんが説く美しい歩き方は、まさにあの俳優の歩き方です。でも、ぼくの資質に限界があるから、あんなふうにはなれません。そこで、全く別の方法。
アニメ「思ひ出ぽろぽろ」の中で、主人公の女の子が落ち込んでいて、お母さんと商店街を歩く時に「ひょっこりひょうたん島」の歌が流れてくる。その歌を口ずさんでいるうちに勇気づけられて、主人公が少しずつ顔を上げて、堂々とした姿勢で歩くようになるシーンがあるのです。あれがいい。寒い日には「ひょっこりひょうたん島」を歌いながら歩きましょう。
ブックオフで本を
1/11
おととい、ブックオフで単行本500円セールをやっていたので、行って来ました。貧乏人にはありがたい。ぼくのマイナーな趣味に合うものがたまに見つかるのです。今回買ったのは、夏目漱石全集の第11巻『明暗』(岩波書店)と、茨木のり子詩集『倚りかからず』、そして『生協の白石さん』(これはマイナーではないな)。
『倚りかからず』は前から欲しかった本。でも詩集って高いから、ずっとためらっていたのです。『生協の白石さん』は軽く読めて、結構面白い。著者の受け答えは学ぶところあり。さて『明暗』ですが、もともと3600円。こういうのが置いてあるなんて、ちょっとびっくりしました。文庫より安い値段で、こんな豪華な本が手にはいるなんて、うれしいなあ。読んだ形跡はほとんどありません。全集の中のこの1冊だけというのも不思議。どんな人が売りに来たんだろうと考えてしまいます。
古書店を経営している作家の出久根さんが、年末に新聞の短期連載エッセイで、いま古書店は厳しい経営を強いられていると書いていました。往年の全集を二束三文で売らなければいけないような時代だそうです。本に対する消費者の意識は変わっているし、きっとブックオフの存在も驚異の一つなのでしょうね。
光ヶ丘と光が丘
1/9
仙台市で連れ去られた赤ちゃんが、無事保護されました。よかった、よかった。昨年末の栃木今市市での悲惨な事件が、未解決のまま年を越していますから。心痛める事件で新年を始めるというのは、だれも望まないでしょう。
連れ去られた病院の名前が光ヶ丘スペルマン病院という名前で、ぼくにはまるで地元で事件が起こっているような感じがあります。でも病院の方は文字が「光ヶ丘」
、東京練馬区の方は「光が丘」です。
この「光ヶ丘」 という地名や名称は全国各地にたくさんあります。何年も前、帰省の途中に愛知県小牧市で、光ヶ丘の地名を見かけました。また石川県にもあって、これも通りかかってたまたま発見しました。その他、広島や千葉の柏市などいろんな所にあるようです。そういう所はきっと、歴史的に新しい地域や施設なんじゃないかなと思います。日本の伝統の文化から生まれるような言葉ではありませんから。
事件が起きた病院は、スペルマンというカトリック枢機卿によって1956年に建てられたものだそうです。ホームページには「光ケ丘」とは、聖書の中の「闇の中を歩む民は大いなる光を見る」
の言葉からつけられたことが書かれていました。へえ〜。ぼくの地域はどういう由来なんだろう?
豪雪と子どもと大人
1/7
雪を楽しめなくなったとき、人は子どもの心の一部を失うのだろうか、と思ったことがあります。一般に、雪は豪雪になったとき、楽しみの限界点を超えてしまいます。でも子どもにとっては、どうなんだろう。
日本各地で大雪が続いています。ぼくの故郷福井でもかなりの積雪になっています。ぼくが経験した豪雪は2回ありますが、忘れられないのは三八豪雪。小学1年の冬でした。世界が一変してしまったのです。玄関や1階の窓が全部雪で埋まり、薄暗い朝を迎えたこと。2階から出入りして、町を屋根の高さで眺めながら歩いたこと。休校が続いたのも子どもにとっては天国。どこまでも別世界でした。
もちろん大変なことも多く、町内を挙げて大人も子どもも雪下ろし・雪かきをしなければいけませんでした。でも、それすらも心地よい労働。ぼくにとっては、祝祭の日々として今も記憶に刻まれているのです。
豪雪の厳しさの中でも楽しみを見つけることができるのが、子どもなのでしょう。無責任でいられる特権ゆえに。しかし子どもが減り、お年寄りが増えている現代の日本では、不安と苦しみばかりが、雪とともに重くのしかかっていることが案じられます。一日も早く平常の生活に戻れることを祈ります。
イチロー、なかなか役者
1/6
『古畑任三郎FINAL』の中で、イチローが登場した第二話を見ました。出演のニュースを聞いたときから楽しみにしていたのですが、これは面白かった。
イチローが冷やかしではなく、本格的な演技をするところに興味がありました。本人を演ずるのだったら地でいけばいいからやりやすいのでは、とも思いましたが、犯人役ということだとそれなりの演技力が必要になる。田村正和をはじめプロの俳優たちを相手にするわけだし。ミステリーの本筋でハラハラするのはいいけれど、ちゃんと演じられるかどうかでハラハラするのは、ギャグにもなりません。ところが、彼の演技は予想以上にうまかったのです。
報道によれば、イチローは撮影2時間前には現場に来ていて、NGは一度もなかったとか。本番への集中力は野球でもドラマ撮影でも同じと言うことなのでしょうね。さすがです。あ、ここは古畑さんの言葉に従って、イチローさんと呼ばなくては。
今までぼくは古畑シリーズは見たことがありませんでした。三谷幸喜さんの脚本は、事実とフィクションをうまく混ぜ合わせてよくできあがっているなあ、と感心。ユーモアも随所にあって笑えたし。
ボウリング
1/4
昨日、電車で1時間ぐらいの所に住む妹夫婦のお宅に、家族みんながお呼ばれをしました。お正月のおいしいお節料理から始まって楽しく過ごしました。食事が終わってからしばらくして、ボウリングをすることに。
何年ぶりだろう。最後にやったのは子どもが生まれる前だから、おそらく17、8年前。ボウリング施設もハイテク化が進んでいるんですね。投げたあとの残りピンの画像がモニターに映し出されるし、点数は機械が自動的にやってくれます。様変わりしたもんだと思いながらゲームを始めました。しかも終わったあとには成績表がプリントアウトされて来るんですよ。
さて、結果は? 144!……ただし2ゲームの合計点数。いやあ、さんざん。子どもたちより成績悪くて、参加者中最低でした。ガターは少なくとも7回はやったし。球がことごとく右にそれちゃったからね。それでも途中連続でストライクを決めたこともあったりして、どうしようもない荒れ球。まあ、ちょっと酒が入っていたからなあ(と必死で言い訳を考える)。
久しぶりだったので楽しかったし、酔いざましには良かったけど、次にやるのがまた数年後だったら、いつまで経っても腕は上達しないだろうなあ。
みんな励まされたい
1/2
紅白の視聴率が去年より上がったみたいですね。ぼくは例年のごとく、適当にパラパラとのぞいている程度でした。
中でちょっと記憶に残ったのが、Def Tech という男性デュオのMy Way という歌でした。横浜タイヤのCMソングにもなっているようで、ぼくも聞き覚えがありました。ぼくはラップにはあまり興味がありませんが、彼らの歌は流れるようなリズムとメロディーがあり、日本語と英語が韻を踏んでいたのも面白いと思いました(前に前に前に、とMy
way, my way, my way)。ぼくが若かったら、好きになっていたかも知れません。
数年前にぼくは気がつきました。世代に関係なく、人を慰めたり励ましたりする歌は世にあふれているのだなあと。詩の説得力については「?」がつくものが多いけれど(今に限らず昔から)、若い世代がドライになっているように見えて、実はみんな、だれかに慰められたり励まされたがっているようです。世代によってほんの少し色合いが違うだけ。
とはいえDef Tech の場合、詩の内容は励ましであっても、その言葉は明瞭さを失ったモノローグになってしまっていて、必ずしも相手に言葉を届けようとしているわけではないように見えます。これも今の若い人たちの精神状況を表しているのかな、と思いました。
ぼくも「一日一絵」精神で
1/1/06
新年あけましておめでとうございます。
12月の中頃に図書館でたまたま見つけた本があります。『一日一絵 第十集 闘病日記730日』(野崎耕二著、JTB)
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この方は1937年生まれで、イラストやデザインの仕事をしてきたのですが、48歳の時に筋ジストロフィー症の診断を受けたそうです。失意の中で、半年後に毎日1枚の水彩画を描くことを決心し実行し始めました。それから一日も休まず、描き上げた絵は2003年末までで7300点を超えました。この計算で行くと、おそらく今は8千点に達しているでしょう。
すごいことです。少しずつ不自由になる体で20年余り、毎日描き続けているのです。あとがきにこんなことを書いていらっしゃいます。「1年は365日。人間だれしも、ひとしく与えられた時間であるが、人びとは時間には限りがあることを、あまり深く問いつめようとしない。健康であったころ、私もそうだった。しかし宣告をうけてからは違う。時間を直視し、「一日一日を大切にしよう、丁寧に生きよう」と誓った。」
頭が下がります。ぼくも絵を今よりもっと、しっかり描いていこうと思います。具体的なルールを作って。そんなぼくの、元旦の計。
12月の「ごあいさつごあいさつ」
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