”・・・先生・・・?”
息を呑んで彼を見つめた。眩しい夕日の光の中に、ボートに乗る庸介の姿があった。
倫子は思わず目を疑った。今まで川の中で何度か彼に似た人をボートの上で見かけた倫子だった。庸介を慕い、彼のことを一途に想いつづける気持がそうさせていたのだろうか。
静かに浮かぶ白いボートは、光の波の色に溶けて重なり、まるで幻のように見えたが、コートを身に付けた庸介の黒いシルエットは光の中に鮮やかに映え、倫子の瞳にはっきりと映った。
眩しい夕日を背に、庸介はまっすぐに自分を見つめている・・・。
心の中の驚きと戸惑いが、込み上げてくる溢れるような喜びに変わった瞬間、倫子は弾かれるように庸介に向かって叫んでいた。
『先生!すごいんです・・・ここ!春みたいなんです・・・!』
冬の中でやっと見つけた春。そして庸介と出逢った喜び・・・。その想いを彼に伝えたくて、倫子は精一杯に庸介に向かって呼びかけた。
『先生・・・!』
溢れる喜びをこらえきれず、倫子は庸介に向かって駆けていた。
その熱い想いは間違いなく彼に届いたのだろうか。静かに倫子を見つめていた庸介が、やがてオールを手に力強くボートを漕ぎ出す姿が遠く倫子の瞳に映った。
そして光の波の中をボートとともに、まっすぐ自分に向かって近づいてくる。
”先生・・・先生がここに・・・!”
頬が熱く紅潮してくるのがわかる。胸に広がるときめきさえも鮮やかに・・・。
凍りつくほど身体に感じていた寒さも、吹きすさぶ風の冷たさも忘れて倫子は庸介のもとに駆けていった。
川のさざなみに揺られながら、庸介の乗る白いボートはゆっくりと桟橋に近づいてくる。
やがてボートは川の緩やかな波に打ち上げられるようにして桟橋にたどり着いた。
”先生・・・”
わずかに肩で息をする庸介は、ボートの上から眩しいように目を細めて、じっと倫子を見つめている。どちらからともなく手を差し伸べた。
倫子は誇らしげな思いを胸に、タンポポの咲く岸辺に彼を導いて行った。
『先生・・・、すごいでしょ・・・こんなにたくさん・・・。』
冷たい冬の岸辺にそこだけに暖かい春が訪れたかのように、可憐なタンポポの花達は溢れる生気に満ち溢れ、冬の空に向かって鮮やかな花を咲かせている。
それは金色に輝く春の使者が冬の大地に舞い降りて、新しい命の生まれる季節、春の息吹を伝えている。
庸介はしばらく動かなかった。静かにじっと立ちつくし、倫子が見つけた小さな春を見つめていた。
やがて、ゆっくりと振り返った庸介は夢見るように囁いた。
『君は不思議な人だな・・・』 かすかな微笑を浮かべて・・・。
一瞬、言葉の意味が倫子には解らなかった。
透明な光に包まれて二人の視線が重なり合った時、庸介の影がゆっくりと倫子に傾いていった。
眩しい夕日の光が倫子の視界を遮ぎるのと同時に、倫子は庸介の腕に抱かれていた。
時が止まり、光が弾け、倫子の思考のすべてが空白になった。
かすかな水鳥の鳴き声が、遠く耳をかすめてゆく・・・。
”先・・生・・・”
戸惑いが一瞬思考に変わった時、驚くほど近くで庸介の声が響いた。
『こんな冬に・・・春を見つけて・・・』
庸介の低い吐息のような声が、川のさざなみの音色とともに倫子の耳に溶けるように熱く響いた。
さらに優しい力で抱きしめられる。倫子は彼の予期しない抱擁に心がふるえた。
しかし真冬の夕暮れ、冷え切った身体も、凍てつくような寒さも、氷が溶解していくようなぬくもりに変わってゆき、そのまま庸介の胸の暖かさに倫子は自然と身をゆだねていった。