”そうか・・・” 庸介は小さなガラスのボートを見つめながら、息のようにつぶやいた。
”君だったのか・・・”
彼方の岸辺で眩しい光の中に溶け込んで、無心に花を摘む倫子の姿を見つめながら、庸介は熱い感動が心をゆっくりと満たしていくのを感じていた。彷彿とした冷たい夢の中で、死の巡礼者のように彷徨いつづけていた自分を、現実に連れ戻したのは倫子だった。
彼女の声に導かれて、自分は還ってこれたのか・・・。
今、目の前に映る倫子の春のような笑顔を見て、自分が求めていたものが何だったのか、初めて庸介は気付いた。
自分が本当に求めていたものは、死の安息でもない、死の静寂でもなかったのか・・・。
今まで自分が抑えてきた感情の奥底で、冷たく乾いてゆく心が欲してやまなかったものは、死に殉ずるものではなく、純粋な愛情から初めて得られる、春のように暖かい安らぎだったのだ。
偽りの愛情からは決して得ることの出来なかったそれは、倫子の春のような笑顔が満たしてくれる・・・。
その新鮮な感動は、庸介が遠く記憶の彼方に忘れ去っていた、久しく感じる熱い喜びだった。
無意識に握り締めた右手の手の中に、倫子が庸介にたくしたガラスのボートがある。
”気付いてくれ・・・。” 心の声が倫子を呼んだ。
”僕はここにいる・・・。” 庸介の心の声が無意識に、倫子を求めて呼びかけた。
その時、冷たく澄んだ静寂と凍おりつく真冬の冷気を裂くように、強く流れた風の動きに川の水面はさざなみ立ち、無数の水鳥達が一斉に空に向かって羽ばたいた。
遠く対岸の岸辺で倫子は、水鳥の声に驚き、弾かれるように立ち上がって空を見上げた。
夕日に光る空が白く染まるほどの水鳥達の数に、圧倒されるように目を見張る倫子の姿が、庸介の瞳にはっきりと浮かんで見えた。
眩しそうに目を細めて空を仰ぐ倫子の瞳は、飛び交う水鳥達の姿を追いながら、やがて水面の波の輝きの中で庸介の視線と交差した。
庸介の目に、自分を見つけて、目を大きく見開いて立ち竦む倫子の顔が、水面の光の彼方ではっきりと浮かんで見えた。
そして彼女の驚きの表情は、やがて光の中で弾けるような笑顔へと変わっていった・・・。
満面に輝く笑みを浮かべ、自分に向かって呼びかける。
それは倫子が見つけた春の知らせ。冬の中で彼女が見つけた小さな春の・・・・。
その熱い喜びは純粋な愛情とともに、自分に向かってまっすぐに伝わってくる。
春のような笑顔とともに・・・。
その笑顔を見つめながら、庸介はずっと自分の手の中にあったガラスのボートを想う。
今ほど彼女を愛しいと想ったことはない。
彼女のあの眩しい笑顔に、初めて惹かれたのはいつだったろうか。
いつしか自分は心の奥底で、これほど彼女を欲していたのか。
自分自身で心の奥底に、硬く封印してしまっていた感情が解き放たれるような熱い想いに庸介の心はふるえた。
庸介はゆっくりと振り返り、遠く沈んでゆく夕日を仰ぎ見た。
”・・・君を・・・受け入れてもいいか・・・・?”
”・・・それが罪だとわかっていても・・・。”
庸介は心の声で倫子に向かって語りかける。
”そうだ・・・君なら・・・きっと・・・”
今、光の中を春の岸辺から自分に向かってまっすぐに駆けてくる倫子・・・。
その姿は新しい命の生まれる季節、春の息吹を伝え、躍動感に溢れて輝く生命力に満ちている。そんな彼女の姿に魅せられながら、庸介は心に広がってくる熱い幸福な感動を噛み締めていた・・・。
Part2に続く