”それならそれでいい・・・・。” 庸介は静かにそう思う。
もうすぐだ・・・。もうすぐ・・・自分は何もかもまっとうできるだろう・・・。すべてのことに・・・。医師として、納得して死んで逝ける・・・。
ボートとともに優しい流れに身をまかせて、庸介は静かな気持でそう思った。
”こんな気持は・・・・・久しぶりだ・・・。”
こんなに静かで、穏やかな気持になった事は懐かしいとさえ思う。
白い影に包まれた静寂の中で、わずかに耳に響く、水の流れの音を庸介は心の中で聞いていた。
その音色は、故郷に降りしきる雪の音とどこか似ている。
穏やかに流れゆく川の波音は、静かに降り積もる雪の音色と重なり、庸介の心の奥に染み入るような優しい感覚で響いてくる。
その時、どこかから、遠く水の音に溶けこむようにのって、何かが聞こえてきた・・・。
どこかで・・・川の流れが動きを変えたように、水の音もその音色をかすかに変えたように庸介は感じた。いや・・水の流れの音だろうか・・・?
遠く、川の彼方からかすかに聞こえてくる”それ”は、庸介の耳に馴染んでいる川の流れの音とは違っていた。
夢うつつの意識の中で、不思議な思いにかられて、庸介は凍りついた神経のすべてをそれに集中させようとした。
水の流れの中に溶け込むように、彼方から聞こえてくる”それ”は・・・誰かの声だった。
”誰だったろう・・・これは・・・・?”
庸介のまだ眠っている記憶の彼方に、その声の主はたしかに存在していた。その声の持ち主は・・・。思い出そうとして思い出せない、それは暖かく優しい響きの声。
その声に惹き寄せられ、深い夢から覚めようとするのと同時に、疲れきった精神がそれを止めようとする。
再び、川の流れの音が徐々に庸介の耳に響いてきた・・・。
ずっと耳元で時を刻むように聞こえつづけていたのは、やはり川の水の流れであったことにようやく気付いた。
身に降り積もる雪と感じていた感覚も、吹き付ける真冬の冷たい風だったことを思い出した。
眠っていた遠い意識が・・・、何かに呼び覚まされるように、夢から現実に覚醒してゆくさまを庸介はゆっくりと感じていった。
濃い霧のような白い影に包まれていた庸介の心の視界に、かすかに暖かい光が射した。
身体のどこかの骨に、かすかな痛みを感じる。
真冬の冷気に凍りついていた身体が、硬いボートの底の感触をわずかながら知覚していた。
まだはっきりと覚醒していない、半ば夢うつつの精神の中で、庸介は夢の彼方で聞こえていた声の主を探した。
確かに聞こえてくる・・・。いや、あれは鳥の鳴き声なのか・・・・?
硬く閉じられていた瞼に、ようやく淡い光が差しはじめた・・・。
わずかに息が苦しい・・・。その息苦しさに深く息を吸い込んだ途端、背中から全身へ凍りつくような冷たさが駆け抜けてゆき、庸介は思わず身を硬く震わせた。
庸介は無意識に細い指先を動かした。凍えた指先にわずかに血が通っているのが感じ取れる。今度はそろそろと右腕を動かしてみる。感覚はほとんど感じなかったが、冷え固まった右腕は力なく動いた。
ゆっくり起き上がろうとして身体を動かした時、背中を走った強い骨の痛みが、庸介に夢から現実に戻った感覚を呼び覚ました。その感覚を頼りに、庸介はゆっくりと半身を起こした。
水面の眩しい光を受けて、わずかにかすむ庸介の視線の彼方に声の主はいた。
倫子だった。
倫子は今、歓喜の声を挙げ、川のほとりで数人の子供達とともに光の中で笑っていた。
そのこぼれるような笑顔は、夕日の光を弾く水面の中に映えて、さらに眩しく輝いている。
庸介は一瞬、現実に還った感覚を忘れた。目の前の情景が、まるで幻のように揺れて浮かび、時が止まった。
”これは・・・夢か・・・・?”
自分はまだ夢の中にいるのか・・・?
つき上げてくる熱い胸の思いに我を忘れた。
それは庸介が生まれて初めて経験する、不思議な想いだった。驚きでもあり、言葉であらわすことの出来ない、新鮮な感動だった。
深い眠りから覚醒する中でもう一度確かめるように、庸介は目の前に映る情景のすべてを呑み込むように、倫子を見つめた。
倫子は小さな花達に囲まれ、春のような笑顔を浮かべて光の中にいる。