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由香里さんが書いたサイドストーリー 「白い影−命の輝くとき」


■ 庸介の心 4

今、ボートに疲れきった身体を横たえて、穏やかな川の流れに身をまかせながら庸介は思う。
もう自分の弱さを認めてしまってもいい・・・。病魔に冒され、滅びゆくこの身体は、このまま川にまかせて流してしまえばいい・・・。苦しみも苦痛も、なにもかもすべて・・・。
この川の流れの果てには、自分の求める安息が待っている。
過酷な現実も、孤独も追ってこない、永遠の安息が・・・。
庸介は自分の身に降り積もる雪の感覚を感じながら思う。
今、身体に感じるこの優しい冷たさは、懐かしい故郷の湖の底に似ているのかもしれない。
あの、雪と氷に守られた、枯れた木立の眠る湖に。
庸介の中でわずかに残っていた意識のかけらも、流れる川のさざなみの中に、ゆっくりと溶け込むように消えていった。

庸介の数々の記憶も、複雑な哀しい思いも、懐かしい恩師の面影も・・・川の緩やかな流れと溶け合い、深くゆっくりと沈み、泡となって消えていった。
そんな空白の夢の中で、無数の泡となって消えていった記憶のひとつが、庸介の脳裏にゆっくりと浮かびあがってきた。小さな記憶のそれは、いくつかの泡と1つになって次第に形となって現れはじめた。

それは人の顔のようだった。誰の顔だったろうか・・・? 思い出そうとしてもはっきりと形にならないそれは、青白く寂しい顔になってゆっくりと浮かんできた。
それは庸介の深い記憶の中で、声を殺して泣きながら自分の胸にすがってきた石倉由蔵の顔だった。間もなくこの世を去ろうとしている、あの年老いた哀しい老人の白い顔だった・・・。

”石倉さん・・・?” 庸介は消えた記憶を思い起こそうとしながら、白い顔の老人にむかって呼びかけた。
そんな庸介を由蔵は弱々しい微笑を浮かべて、何も語らず、ただじっと見つめている・・・。
かすかな川の流れの音が聞こえるだけで、いつまで待っても由蔵からの返事は無い。
幻聴すら聞こえてこない。庸介は不安な思いにかられて、由蔵に向かって手を差し伸べた。
しかし、由蔵の痩せ衰えた細い身体は、透明色に染まりつつ、暗い水の渦の奥へと消えてゆこうとしている。

締め付けられるような思いに、庸介はもう一度由蔵の名を呼んだ。
そんな庸介に由蔵は、寂しい微笑みを浮かべて、やがて水の流れの彼方に沈み、そして呑み込まれるように消えていった・・・。
いくら目を凝らして探しても、由蔵の姿はもうどこにも見えない。
”石倉さん・・・” 庸介は心の奥でその名をつぶやいた。
いつだったろうか、あの人と初めて出逢った時のことを思い出そうとした。
今まで彼の手を通り過ぎて死んでいった患者は数多くいたが、あの時、自分と同じ時に重なり、孤独な死を迎えようとしている哀しい老人との出会いは、庸介にとって単なる偶然とは思えなかった。

自分と違って、自らの死期を知らされずにいた老人は今、孤独な病室で一人、忍び寄る冷たい死の影に脅えながら最後の時を迎えようとしている。
”恐かった・・・” そう言って、自分の手を力弱く握りしめて離そうとしなかった、哀しい老人の孤独に思いをはせた。
”あの人をおいて、このまま逝けない・・・。” 由蔵の・・・死に脅える瞳から溢れ出た涙を庸介は思い浮かべた。
”あの哀しい人をあのままにして、自分が逝くことは出来ない。”
自分が側にいて、最後の瞬間が訪れるその時まで、あの人の側に・・・。
自分は臨床医として出来うる限りの手は尽くした。
そして間もなくこの手を通り過ぎて、この世を去ろうとしているあの人に、自分が医師としてできることは。
その思いは徐々に庸介の深い心の奥底を揺さぶるように、鮮やかに蘇ってきた。それがやがて死に逝く自分にこそ見える、自分自身の為の、医師としての信念のはずだった。

”あの人にも、納得した死を迎えさせてあげたい。” 自分がそうであるように。
出来るならたとえわずかであっても、死の恐怖は和らげてやりたい。穏やかに、優しく、安らかな死に導いてやりたい。これだけは、死と直面したものにしかわからない感情だった。
その熱い思いが、ゆっくりと庸介の心を満たしていった。

やはりまだ・・・自分にはまだ・・・死の平穏は与えられないのだろう。
”まだ足りないのかもしれない・・・。” 庸介は誰に聞かせるわけでもなく、遠い意識の中でつぶやいた。
自分自身、耐えがたい苦痛に苦しみ、迫りくる死の影にこれほど脅え、恐怖を押し殺し続けても、なお・・・。
優しい川の流れに身をまかせながら、これほど甘美な死の安らぎと誘惑を実感していても、まだそれに甘える事は許されない。
もっと激しく苦痛に身を焼かれた後でなければ、休む事は許されないのか・・・。

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