庸介が目覚めるのを待っていたかのように、そこに倫子はいた。
光の中に染まる倫子の春のような笑顔を見た時、自分が求めていたものが何だったのか、初めて庸介は気付いたのだった。自分が本当に求めていたものは、死の安息でもなく、死の平穏でもなかったのだ。
今まで自分が抑えてきた感情の奥底で、冷たく渇いてゆく心が欲してやまなかったものは、死に殉ずるものではなく、純粋な愛情から初めて得られる春のように暖かい安らぎだった。
偽りの愛情からは決して得ることの出来なかったそれは、倫子の春のような笑顔が満たしてくれる。
その新鮮な感動は、庸介が遠く記憶の彼方に忘れ去っていた、久しく感じる熱い喜びだった。
彼女のあの眩しい笑顔に初めて惹かれたのはいつだったろうか・・・。
いつしか自分は心の奥底でこれほど彼女を欲していたのだ。
不思議な運命の導きなのか・・・。あの時、倫子と出逢ったことは、決して偶然では無かったのかもしれない・・・。
倫子の身体のぬくもりを身に感じながら、自分の生涯にこれほど燃えるような至福の時を持てたことを、庸介は何よりも感謝したかった。
同時に、やがて間違いなくおとずれる冷たい足音も庸介は静かにその身に感じていた。
どんなに倫子を愛し、愛されたとしても、その愛に安住することの出来ない自分の運命が哀しかった。
どんなにあがいても、この運命から逃れることは出来ないのだ。
もう・・・フロノスを打つ間隔も短くなってきている。癌の転移はとどまるところを知らず、身体の激痛も以前よりさらに増し、フロノスでさえ抑えることは出来なくなる。
そうなればもうモルヒネに頼るしか無く、極度の貧血とそれにともなう疲労感が互いに襲ってくるだろう。
そして骨はボロボロになり、手足の麻痺とともに歩くことさえ出来なくなる。
そしてその後は・・・。
”もうよせ・・・”
庸介は思考を打ち消すように心の中でつぶやいた。
”わかっていたはずだ・・・そうなることは・・・”
発病してから、いつかそういう時期が来ることはわかっていた。もう自分はMMの末期の段階に達しているのだ。
庸介は腕の中で眠る倫子を見つめた。淡い光を背にやや上を向いた倫子の顔が白い闇に浮かんでいる。
ほっそりとやわらかい身体は、庸介の身体にすっぽりとおさまって動かず、かすかな息だけが甘く庸介の頬に伝わってくる。わずかに微笑を浮かべているような倫子は、庸介にすべてをゆだねて、まさに安心しきって眠っているようだった。倫子の堅く閉じられた瞼の奥に、今映っているものは何だろうか・・・?
庸介は愛しさを込めて倫子を見つめ続ける。
罪なことだと思う・・・。
倫子にあたえる哀しみを思う時、奈落に底に突き落とされる程の良心の呵責に庸介自身、責めさいなまれる。
何も知らず、幸福な想いに満ち足りている倫子を抱きしめながら、庸介は自分自身の罪の深さを痛感していた。
触れてはならないはずだった。諦めるべきだと・・・何度も自分に言い聞かせていた。
倫子の手を取ってしまったら、もしも彼女を受け入れてしまったら、罪と苦悩と後悔と、悲しみを生むだけではないかと・・・。
男も女もすべてを捧げる愛は、結ばれてこそ本物の成熟の時を迎える。その後にあたえる哀しみはより深く残酷であることも・・・・。
それがわかっているからこそ、倫子に背を向け、その時がくれば、自分の身の始末は自分の思うようにつけるつもりだった。自分の目的さえ達成すれば、そこに待っているものは”死”・・・。
そして死への旅立ちはもうすぐそこまできている・・・。
なのに・・・それまでの束の間の日々を、まさかこの”愛”の中で過ごすことが、自分には許されているとでも・・・。
彼女の想いと、そして自分の中に芽生えはじめた愛情に気づいた時から、そのことだけがずっと心の中で揺れ続けていた。