『いい風だな・・。川の風は・・・冷たい冬でも・・』
目を細めながら庸介がつぶやいた。
水面に揺れて流れる波の向こう側に、白いボートがかすかに見えている。光の波に照らされて、白くぼんやりと浮かび上がるボートを見つめながら、倫子は庸介と交わしたあの約束を思い浮かべた。
”ボートに乗せてくれるんですか?”
”宇佐美 繭子が無事退院したら・・・”
あの時の庸介の言葉は今もはっきりと心に残っている。
あの日、今夜と同じように、レストランで食事を終えた後、桟橋で二人が交わした約束・・・。忘れないでいて欲しい。いつか乗せてくれると言ったあの約束を・・・。
夕日を背にボートに乗って漂っていた庸介の姿が倫子の脳裏に浮かんできた。
”先生はあの時、何を思って一人でボートに・・”その時の庸介の気持が知りたい・・・。
『先生・・・あの・・・』
『ん・・・?』
『・・・先生はいつからボートに・・・乗っていたんですか?』
庸介が倫子を見た。
『あの時・・・』
倫子は河原で庸介に抱かれた時のことを思い出してわずかに頬を染めた。
『あの・・先生の頬が・・・とても冷たくて・・・それから・・それから手も。私よりも先生のほうがずっと凍えた感じだった・・・。だから、先生・・いつからボートに・・・?』
庸介は倫子から視線をはずした。
そして無言のまま思いめぐらすように暗い川面に視線を向けた。
漆黒に染る水面には無数の光が優しく溶け込み、淡く幻想的な情景を見せている。
『さあ・・いつからだったか・・・』
流れる光の波を目で追いながら、庸介は夢見るように口を開いた。
『七瀬先生を見送った後・・・ずっと一人で飲んでた。無性にボートに乗りたくて・・・いつの間にか川へ来ていた・・・ずっとボートに乗って流れていきたくて・・・いろんなことが浮かんではきては消えて・・・』
『流れて?先生、どこへ・・・。どこへゆこうとしていたんですか?』
『さあ・・・どこだろうな・・・ゆけるところまで・・・か』
『ゆけるところ・・・?』
庸介は口元にかすかな笑みを浮かべて倫子を見つめた。
『ああ・・・少し飲み過ぎたんだ。君と・・あの岸辺で出逢ったのは不思議な偶然だったな・・・』
『・・・先生』
気持を変えるように庸介は風に背を向けてゆっくりと歩き始めた。
黒いコートがその背中で揺れていた。
庸介の後姿と交差し、ボートの上からまっすぐに自分を見つめていた庸介の姿が倫子の瞳に浮かんで見えた。
たしかに不思議な偶然だった。あの場所で庸介と出逢ったことは。
恩師を見送った後、庸介は酒を飲み、ひとりボートに乗って川を流れていたのか・・。自分がタンポポを夢中で探していたときもずっとひとりで・・・?
穏やかな庸介の言葉とはうらはらに、倫子の心になぜか言いようのない寂しさが込み上げてきた。庸介に心の想いを打ち明けたあの日・・・。
倫子も庸介への想いからボートに乗った。
無性にボートに乗りたくてひとり川を流れていった。その時、倫子の心を占めることは庸介へのつのる想いとともに、染み入るような不安と寂しさだった。
初めて心に感じた震えるような孤独・・。
あんなに哀しい孤独を意識に感じたのは初めてだった。