『先生・・・』
『ん?』
『タンポポに水を。いいですか?』
『ああ・・』
倫子は彼の手からタンポポを受け取ると川のほとりへゆき、そっと川の水をすくってかけた。
『あ・・・?』
倫子は水に濡れた指先を見つめた。もう一度、川の水に指先を浸してみた。
『どうした?』
『あの・・・暖かいんです。川の水が・・・ほんの少し・・・』
冬の夜の冷気のほうが冷たく感じるせいか、川の水にはかすかな暖かさが感じられた。
『水のほうが暖かく感じるなんて・・・何だか不思議・・・』
倫子は濡れた指先を頬にあててつぶやいた。
倫子の言葉に庸介も並んで川のほとりに立ち、遠く暗い水面の向こう側へ視線を移した。
『春が・・・近いせいかもしれないな・・・』
『春が・・・?』
『川は・・・季節をはこんでくるから・・・』
『季節を・・・』
『ああ・・・』川から吹く冷たい風を浴びるように、庸介は瞳を閉じた。
倫子は庸介の言葉に小さくうなずいた。
『そうですね。きっと、もう春がそこまできているんですよね』
倫子はそっとタンポポの花びらに手を触れた
『・・・早く、見せてあげるといいな・・・石倉さんに、春の花・・・』
『はい、そうですね。石倉さん、春を待ち続けているから・・・、今もずっと』
『本当の春がくるまであの人の身体はもたない。延命治療も・・限界にきてる。もう無理だ。もしかしたらあの人はそのことを予感しているかもしれない』
倫子は庸介を見上げた。
『石倉さん、解っているんでしょうか?あ、もしかしたらあの時の発作で・・・?』
『・・・』
無言のまま川を見つめる庸介を見て、倫子の心は複雑な思いに揺れた。
『・・・・見せてあげたいです・・・春の花・・・』
あの哀しい老人は今も孤独な病室で一人、春が訪れる日を待ち焦がれている。庸介の言葉どおり、おそらくもう春の季節を見ることはかなわない。
出来るなら少しでもいい。あの人に暖かい春の安らぎを感じさせてあげたい。
タンポポを見る石倉の幸せそうな笑顔を倫子は思い浮かべる。
しかし、倫子は小さな花を摘みつづける自分の心の中に、いつしか別の感情が芽生えていたことに気づいていた。
『石倉さんに見せてあげたい・・。でも、私・・・本当は・・・』
『ん・・・?』
『・・・・・・・』
『・・・何?』
『あ・・・いいえ、何でも。何でもありません』
倫子はぐらかすようにして立ち上がった。
庸介はコートからハンカチを取り出すと倫子に差し出した。
『あ・・・すみません』
『寒くないのか?』
『いいえ・・・気持いいです。川の風がとっても・・・』
『酔いは?少しは冷めた?』庸介が倫子に聞いた。
『あ?・・・もしかして、ばれてましたか?』
『ん・・』
『やっぱりごまかせないですね、医者の先生は。すみません。じつは・・・少々酔ってました。』
倫子はクスリと小さく笑って首をすくめた。
庸介もそんな倫子を見て、可笑しそうにふっと微笑んだ。